In other words

I really don't know life at all ...

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不愉快になるのがわかっていながら、ついつい見てしまうTwitterでの罵詈雑言。それを見ている自分も同じ穴の狢。

最近、よくTwitterを見るようになった。
自粛生活でいつもよりのんびりした生活をしているせいもあるのだけれど、きっかけは子供達だ。
同じように家にこもっている子供達が、Twitterのおもしろ情報を話題にしては、私にまで「見てくれ、見てくれ」と煩いので、それなら私もと思い見始めたら、これがなかなか中毒性のあるものだと気付いてしまった。

かなり昔からTwitterのアカウントだけは持っていた。ちょうど東日本大震災があった際、メールが機能せず家族間の連絡に困ったことがあった。その時にTwitterが有効であると家族からアカウントを作らされたのだ。

ほとんど使用することはなかったのだけれど、今度は3年前にメインのブログを立ち上げた際に、本格的にTwitterデビューしてやろう!と乗り出した。

しかし、どうも馴染めなかった。そもそもツイートするネタがない。頑張ってなにか呟こうと頑張ってみたことはあるけれど、長続きはしなかった。

数年放置し再トライしているものの、今でもそれは変わらずで、たまに頑張ってツイートしてみるものの、ほとんどはブログ記事をアップした際のお知らせで、あまり機能していないのが現状。
あまりに消極的すぎて、ブログのためというのなら、やってもやらなくても同じといった状況なのだけど。。。

現在、フォローもせず、フォロワーもなく、いつ消えてもいいようなアカウントだけれど、人様のツイートを見るのには役立っている。

とはいえ、情報収集においてTwitterは時として役に立つ。
電車が遅れている時などは、状況を把握するのに割といい仕事をしてくれたりする。

今回の新型コロナ問題でも、ドラッグストアやスーパーに行列ができてる!などといった世間の動きもよくわかる。

ニュースにしても、多くのTwitterユーザーがニュースソースを貼り付けてくれる。個人のオピニオンはともかくとして、スピードという点ではなかなか使えるツールであると、改めて感じている。

この有事に対して、人々がどんな気持ちで過ごしているのか、どんな対策を求めているのか、Twitterから見えてくるものもある。

声の大きな人が右!と言えば、みんな右に流れ、左!と言えば左へ。止まれ!と言えば止まる。そんな日本人のお家芸でもある右へ倣え現象が顕著なのもTwitterで、それもまた面白いなと思う。

その一方で、どうでもいいツイートが多いのも確かだ。何かあれば8割方は文句や愚痴みたいなものばかり。
一億総ご意見番。。。まるでワイドショーのコメンテーターがこぞってツイートしているような感じだ。

しかしそれはそれでよいのだと思う。ちょっと何か言えばスッキリするとなれば、当人にとってはガス抜きのよい場所となる。
ただ黙って不満を内に抱え、上目遣いに世の中を恨んでいるよりはよほど健全かもしれないとさえ思う。

これは実際に自分でやってみるとわかる。身勝手なことを呟くだけで、なんだかスッキリよい気分になったりする。
誰のためにもならないけれど、誰も傷つけることはない。そんな些細な心の声を文字にするだけでガス抜きできるのなら、なかなかいいツールなのではないかと思うのだ。

ただ、唯一不愉快なのは、言葉遣いが酷いツイートを見かけることだ。

まるで自分本位、下から上を見上げて唾を吐くような愚かなツイート。
下品極まりない。。。







個を特定できないという安心感からか、それはそれはひどく醜いものだ。しかし、最近では著名人への誹謗中傷など、度を越したケースでは情報開示請求によって簡単に特定されてしまったという例もある。
憂さ晴らしのために人を傷つけるツールとしてSNSを安易に使うということは、犯罪にもなり得るのだ。

そこまで極端な例でなくても、眉をひそめたくなるようなツイートは至る所で散見される。
同じものを言うのでも、その言葉の選び方、使い方で受け取る方の印象も大きく変わる。

Twitterを積極的に使用しているのは若い人だから仕方ないわね。と一瞬思っていたのだけれど、その人のツイート内容から、明らかに若くない人も少なくない。

「ババァ」「ジジィ」などという言葉を「ババァ」である当人が平気で使用していたりするのだ。
自分はそんな「ババァ」の一人であるという自覚が抜け落ちているのか、まだお若いつもりでいるのかと、おかしくてたまらなくなる。

ババァがババァたる故にそんな言葉を口にするのだろう。お里が知れる。
同じ年齢であっても、その人の品位でババァと呼ばれる人とそうでない人は区別されるということを知らないようだ。

そういいながらも、どこか面白がっている自分も否めない。おかしいのだけれど、同時に酷く不愉快にもなるという訳の分からない世界だ。

なぜこんな酷いことを言う必要がある?

あなたはどこぞの何様?

そう思いながらも、ついついその人の過去のツイートを遡り、どんな罵詈雑言を吐いているのかと確認してしまう。

なんとも時間の無駄だ。

無駄だけれども面白い。
不愉快だけど面白いと感じるのはなぜなのだろう?

こんな「ババァ」になってはいけないという反面教師にするためか。

私はこんな「ババァ」達とは違うのよと優越感を持ちたいのか。

よくよく考えてみれば、そんなTwitterを「おもしろ〜い」と見ている自分もまた、なんとお下品なことか。

これからもきっとイライラと不愉快になりながらも、そんなツイートをダラダラ見ては時間を無駄にするのだろう。

自粛で外出を控えているため、わざわざ手のかかる料理を作ってみたりと楽しんでいたのだけれど、ちょっと飽きてきたので、Twitterで時間潰し。

イライラ、ムカムカ、ニヤニヤしながらツイートを見る。。。
こんな使い方もできるんですね、Twitterって(笑)





ブランドショップの白い木綿の手袋とAppleの休業。

少し前のことになるのだけれど、今まで使っていた旅行鞄がかなりくたびれてきたので、そろそろ買い替えようと表参道のとあるブランドショップへ出かけた。

店の入口にはスーツを着た男性が立っていた。にこやかだけれど「なにをしにきた?」という心の声を隠しているようにも見えた。多くのブランドショップでもそうなのだけれど、ちょっと慇懃無礼に見えなくもない。

「旅行用の大きめな鞄を探しているのだけど、どちら?」

声をかけられる前に尋ねると、「2階でごさいますのでどうぞ」と言ったあと、胸元の小さなマイクのようなもので小声で何かを呟いていた。

2階のフロアへ行くと、小柄だけれどとても可愛らしい若い女性店員さんが迎えてくれた。

「旅行にも使えるバッグをお探しですね」

男性の言った通り、沢山の大きなバッグがディスプレイされていた。

一つ一つ見て回るのも楽しいのだろうけれど、あまり沢山あると私は途端に面倒な気持ちになる。

素材、大きさ、色の好みなど、イメージを話し、それに合ったものを幾つか出してもらう。

バッグを手に取る前、女性店員さんがポケットから白い手袋を出してはめた。
「発車オーライ!」と手をかざすバスガイドさんのような白い木綿の手袋だ(ちょっと古いだろうか。。。)。

この手のショップでは当たり前のように目にする光景だけれど、私はいつもこれが気になって仕方がない。

素手で触ってはならぬからの木綿の手袋なのに、客である側の人間は商品をそのまま手にとって見るのだ。

別に素手で手に取ったところで商品を汚してしまうわけではないけれども、それなら店員さんだって、白魚のようにきれいな手だ。理屈からいえば木綿の手袋など必要ないはずだ。

にも関わらずの、木綿の白手袋。。。

毎度のことながら、なんだか素手で触っては申し訳ない気持ちになる。

あの手袋の本当の意味はなんなのだろう?

一度聞いてみるべきと思いながらいつも忘れる。そうそうマメにブランドショップになど出向くものではないから、次に行った時には忘れているのだ。

結局、見せてもらったバッグの中から希望に合ったものを一つ選んで購入した。

出口までお見送りに来てくれた女性店員さんは、すでに手袋はしていなかった。

あれはただそういう「スタイル」なのかも知れないと思った。





もう一軒、寄りたい店があったので、そのまま表参道を歩いていると、いつもたくさんの人で賑わっているApple store がシンと静まり返っていた。

新型コロナウィルスのせいで休業となっているらしい。

ここのジーニアスバーは、私のMaciPhoneが不機嫌になったときの命綱だ。どうにもならない時は、ここのお世話になるのだけれど、休業だなんてどうしましょう。。。

いつになったら開業となる?

これはまだ東京が自粛ムードになる前のこと。ということは、Appleは一早く休業という判断を下したことになる。

やっぱり黒船だな。日本の会社とは違うわ〜、世界の空気を読んでるわね!

と、なんだか妙な関心をしてしまった。

そこでふと、思う。これってブランディングにかなり影響するのでは?と。

お膝元であるアメリカのコロナ対策に沿っての措置だろうけれど、周りのお店が当たり前のようにオープンしている横で、完全休業しているアップルの姿は、やっぱり海外のブランドなんだわという特別感をプンプンと醸し出していた。

この「スタイル」こそが、その会社のイメージ作りに大きく影響するのだ。

変な関連付けだけれど、件のブランドショップの手袋も、Apple Storeの一早い休業も、天邪鬼な考えからすると、ある種のブランディングなんじゃないかなどと、その時は思ったものだ。

さすがに新型コロナがここまで深刻な状況にると、Appleはやるべきことをただいち早くやっただけとわかり、それもまた先見の明があったのね。と、見方は変われど感心したのだけどれど。。。

どちらにしろ、さすがだわ。
Apple。。。

最近、長年使用している私のMacBookがなんだか様子がおかしい。
こんな状況だから騙し騙し、なんとか稼働させてはいるけれど、できればジーニアスバーに連れて行きたい。

新型コロナの影響は私のパソコンにまで及んでいるのだった。。。





お国に期待できないのなら、自己防衛しかない。新型コロナの恐怖は感染だけでなく、その後に続く生活もまたしかり。

緊急事態宣言が発令され、今日から皆さん自粛と相成るかといえば、そんなわけでもない。
我が家の夫もいつも通り出勤。ほとんどの社員がリモートワークになったものの、立場上それができないとのことで、関連会社とのあれこれ、今後の運営、調整やら社内でやらねばならぬことてんこ盛りらしい。

幸い勤務先も至近で満員電車に揺られることもなく、おまけにほとんどの社員は在宅ワークなので、広々としたスペースを独占状態で「3つの密」はかろうじて避けることができているという。

こんな時でも仕事ができること、きちんとお給料がいただけることに感謝とばかりに頑張ってくれているので、せめてしっかりと体力をつけてもらおうと、朝から大きなお弁当をつくり持たせている。

それでも、やはり通常通りに仕事をするというのは感染のリスクもある。できれば休んでほしいと思うところだけれど、現在の社会の状況を考えれば、夫の言うように変わらず仕事があるなら、お給料がいただけるなら、働いていた方が自己防衛にはなりそうだというのも頷ける。
いつ終わるとも知れない新型コロナを思えば、一寸先は闇と言ってもいいからだ。

我が家の夫は外国人なので、たとえ永住権を持っていて、日本人と同じように納税しても選挙権などはないし、今回のような有事に際してもきっと保証など得られないだろうと思っている。

だからこそ来日して以来20年、頑張って働いてきた。万が一の事態になっても、国はおろか誰にも頼ることができないという前提でやってきた。
下世話なことをいえば、頼れるのはお金だけということ。






これは私も同じ考えだ。
私の父は生前、いくつかの会社を経営していたのだけれど、バブル崩壊後はかなり資金繰りに苦労していたのを見ている。
これまで猫撫で声で金を借りてくれと日参してきた銀行も、途端に背中を向けた。国からの救済もなく、頼れるものはなにもなかった。
それは父の会社に限ったことではなく、見知った会社経営者や個人商店主、フリーランスといった人達は、非常に苦しい状態においやられ、ホームレスにまで落ちた人、中には自死を選んだ人すらいた。

そんな様子を見てきたおかげて、この日本は弱者が救済される社会ではないという現実がすっかり刷り込まれたのだ。

今回の新型コロナ問題も同じだ。個人事業を営む人、非正規雇用者などから悲痛な叫びが上がっているけれど、政府の答えはまるでピント外れだ。

私は当事者ではないけれど、政府からの発表があるたびに、官僚並び政府関係者はきっと頭の良い方ばかりなのに、出てくる案がこれ?とギョッとする。
もしかしたらもっと裏の裏の裏あたりまで見通した上での、政策か?国民を煙に巻くつもり?などと、考えれば考えるほどわからなくなる。まさに出口のない迷路にでも放り込まれたような気にさせられる。







まずは声を上げなければ届かない。だからこそ、「こうしてほしい!」と声を上げることは大切なのだろうと思う。
しかし、そんな思いが報われる事ばかりではないのが現実だ。ほとんどの場合は切り捨てられると思った方がいい。

Twitterなどを見ていると、やはり子育て世代の若い方々は、少なからず政府からの救済に望みをかけている感がある。
みんな自分の立ち位置、都合で考えるから、全てが共感できるものではないけれど、不満がどこからきているのかはわかる。

しかし子供のいる家庭と、独身子なしとでは求めるものも違う。それぞれの立場になれば、理解はできるけれど、一方の立場になれば、それはそれは大きな不公平感を覚えたりと、一人一人のニーズに応えることなど不可能であろうとも思う。

自分自身の立場で言えば、子供は私学へ通う大学生と高校生。学費がマックスに近い年代の子供を2人抱えている。
子供手当は貰える年齢ではなく医療費も自己負担。学費免除も所得制限で満額自己負担。
頑張って働けば働くほど税金で持っていかれる。

そんな立場から言えば、子供が幼く学費もかからず、医療費なども負担してもらえる上に子供手当も貰える。
それだけで御の字では?などと思うのが正直なところだ。

とはいえ、我が家だって子供が小さな頃は、同じだったから、これは権利だとそんな恩恵を享受するのもよくわかる。

しかし、独身の人であれば、また立場も違う。育休を始め、子供を理由に仕事ができない人のしわ寄せを全身で受け、なんの恩恵もないどころか、自分たちの納めた税金がそうした家庭に流れていく。。。
そんな不満はあらゆるところで目に、耳にする。

つまり、人々の不平不満の元はこの不公平感なのだ。

この不公平感をなんとかしない限り、不満の声は止まないだろうと思う。







ただ、立場が違えば考え方も求めるものも異なる。こっちを立てればあちらが立たずと、万人にとって満足できる社会というのもまた難しいものだ。

そもそもなにもかも欲しいといっても得られるものではない。それほど世の中は都合よく回っているものではないのだ。
現実的に考えれば、どこかで妥協や諦めが必要ということになる。

我が家の場合、自分達が社会の中では決して優遇される側ではないからこそ、期待せずに自助努力だけを無理やり見つめて生きてきたとも言える。
そのおかげで、これまでたいした不満もなく人並みの生活ができていたのだろうと思う。

ただ、それは我が家の場合だ。
もしも助けてくれる人がいるのなら、遠慮なく甘えていいと思うし、国からの援助が受けられるのなら、遠慮なく受けるべきだ。

しかし、それが無理な人は?
他所からの援助が期待できなければ?

結局自分でどうにかするしかない。

期待しないで自己防衛。それしか選択肢はない。

これはある種の諦めだ。諦めずに声を上げろ!という人もいるだろうけれど、正直言ってそんな暇はない。

子供は日々成長しているし、私だってお腹は空く。お金を出すことに関しては、恐ろしく動きの鈍い政府など誰が待っていられようか。そもそも出してもらえるかどうかさえわからない。まさに一か八かの賭けだ。こんな有事にそんな賭け事などする勇気はない。

危機が訪れたときには、自分たちでどうにかしよう。。。それを前提としてきたからこそ、これまでの有事でもダメージは少なくて済んだのだと思っている。

今回もまた同じ。新型コロナウィルスは怖いけれど、国に頼ることなく生きるために、夫はこんな時でも変わらず仕事へ行くのだ。
今の仕事ができなくなったら、また別の仕事を見つけてきて、働き続けるだろう。これまでもずっとそうしてきた。

こんな時まで仕事をしていたら、感染が拡大するという懸念もあるが、自粛していたら路頭に迷う。
そんな時、誰が助けてくれるというのだろう?いるわけがない。。。

恐るべきは新型コロナウィルスだけではなく、終息したその後だ。経済は氷のように冷え込み動かなくなっているだろう。
コロナからは逃れられても、不況からは逃れることはできない。

今は安定した職がある人だって、その時にどうなっているかはわからない。なんの保証もないのだから。

そんな中でも私達は生きていかなければならない。そのために出来ることは、こんな時でもお金を作り続けることだ。

日本ではあからさまにお金の話をすると下品だとか浅ましいだとか言われたりする。けれど、お金がなければ生きていけない。そして、お金から救われることは数知れない。

専業主婦でも、自宅にいながらしてお金を稼ぐことは可能だ。ただ、夫は役割分担だと言う。自分が2人分以上稼ぐかわりに、家のことは丸投げするぞと(笑)

お金を稼ぐことよりも、自分が心置きなく働ける環境を整えて欲しいということだ。

これがいいのか悪いのかはわからない。ただ、人のロールモデルになろうなどとも思わない。
これが自分たちの決めた、最も合理的なやり方たいうだけだ。

現在、仕事をしていない私や子供達は完全自粛生活をしている。そして外で働らかなければいけない夫が帰宅した時、ゆっくりとくつろぎ笑って過ごせる環境を作ることを第一に生活している。

これが我が家の新型コロナ対策なのだ。