In other words

I really don't know life at all ...

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病院の様子。これまであったものがなくなり、なかったものがあった。

今朝、TVでニュース番組を観ていたら、お世話になっている主治医の先生がチラリとでていた。
つい先日会ったばかりだったので、その時とのギャップにとても驚いた。

ゴールデンウィークに突入する直前、定期的に受診している病院へ行ってきた。
新型コロナウィルスの感染も心配される最中、さすがに病院へ行くことは躊躇われたけれど、病気はコロナだけではない。

ただ、持病はあっても、それに苦しんでいるという状態でもない。これは不要不急に当たるのか?
少しだけ迷った。

以前、東日本大震災の後、予定していた手術が延期されたことがあった。その時は主治医から電話をいただき、人手不足により延期してもらえないかとの相談があったから、もしかしたら今回も連絡があるかもしれないと思っていた。
しかし、病院からの連絡はなかった。

定期的に通っている病院で、もう何ヶ月も前から検査の予約が入っていた。その検査の結果次第では治療の方針が変わったり、薬を飲んだりしなければならないので、やはり行った方がいいのだろうか。

寸前まで迷いながら、結局はいくことにしたのだった。

いつも大勢の人でザワザワとしているロビーは人影もまばらで閑散とした雰囲気だった。

いつものように受付の機械に診察券を通すと、呼び出し機がでてきた。本来ならこの呼び出し機をホルダーに入れるのだけれど、今回はホルダーが撤去されていた。
確かに消毒するのも大変な作業だから、なくていいものは省いてしまおうということなのだろう。

他にも受診票のようなものを収めるファイルもなかった。ウィルスの付着するチャンスを最小限に留めようとする工夫が見られた。

いつもあるものがなくなった一方で、これまでなかったものが登場していた。

まずは検温。それぞれのエリアへ入る手前でおでこにピッとかざして検温してもらう。
徒歩で病院へ行ったものだから、ちょっと暑かった。体温が上がっているかも?と、言っておいたので、結果を見て「低っ!」と看護師さんが笑った。
36度にも程遠い、相変わらず低い体温。

そのまま検査へ。いつもは少し待たされるのだけれど、この日はすぐに名前を呼ばれた。
本当に必要な人以外は検査の予約を入れないという。
私はコロナ流行以前の予約で、定期的に行われている検査なので省かれなかったらしい。

もう一つ、これまでなかったものを目にした。マスクの自販機だ。
お値段は¥100。確認できなかったのだけれど、多分1枚の値段だと思う。予想通り「売り切れ」の表示が出ていた。





待合室はいつもの3分の1くらいの人しかいなかった。みんなベンチに適度の距離を空けて座っても余裕があった。これまではなかったことだ。
どこの総合病院もそうだろうけれど、いつも座る場所を確保するのさえ大変なほどの混雑なのだ。

検査の結果は良好だった。これまでで一番よくて、先生もご機嫌そうだ。

「とくに変わったことした?」

そう尋ねられたので、何も特別なことはしていない。ただ、自粛で引きこもっているだけと答えた。

「あなたはいつも忙しく動いてばかりいるから、静養したことでよくなったのかもね」

そう言って気楽そうに笑っていた。

あの、のんびり笑っていた先生と、今朝TVで観た先生はまるで別人みたいだった。
新型コロナという未知のウィルスを前に、医療現場の最前線に立っている医師の姿は、これまで見てきた気のいい優しいおじさんの姿ではなかった。

そんな切羽詰まった状況でさえ、私たち患者の前では、いつも通りの笑顔で安心感を与えてくれる。

医者という仕事は、半端な気持ちではできないのだろう。確固とした志がなければできない仕事だろう。ずっとそう思っていたけれど、今回は改めてそう感じた。

先生だけでなく、看護師さんをはじめ受付の方など、いつもよりも笑顔が多かったのが意外だった。

こんな時だから、余計に患者である私たちに不安を与えないためか、医療従事者としての士気を上げるためか。
いずれにしても、そこで見た笑顔には心を明るくさせてもらった。

少し距離をとりながらも、「お気をつけて」と、お互いに笑顔で交わし合う一言に、どれだけ救われた気持ちになるか。
こんな時だからこそ身に染みた。






家に帰ると、ポストの中にマスクが入っていた。

あの「アベノマスク」だ。
私と入れ違いに到着したらしい。

その小さなマスクはどれだけの人を救えるのだろうか。どれだけの医療従事者の役に立てるのだろうか。

色々と思うところはあるけれど、貴重なマスクだ。4人家族の家庭にたった2枚しか届かない数量限定品。

まだまだコロナの脅威は続くだろう。いよいよ手持ちのマスクがなくなった。。。という時のために、大切にとっておこう。

どんなに小さな給食当番が使うようなマスクだって、ないよりはずっといい。

今はただ自分が、家族が、感染者とならないよう、徹底して自粛をすることが、自分のため、そして社会のためになると信じている。

緊急事態宣言も1ヶ月の延長が決定した。
それでも世の中には自粛したくてもできない人が沢山いる。病院で働く人達、それ以外にも仕事をしなければいけない人は少なくない。

私にできることは、家にこもり、感染者の一人にならないことだと思っている。

コロナによるフードロス商品にポチリの良し悪し。ついつい狂う金銭感覚。。。

先日、ネギを買いにスーパーへ行った。
ほとんどの食材は我が家にある2台の冷蔵、冷凍庫にストックがあるのだけれど、さすがに新鮮な野菜はちょこちょこ買い足さねばならない。いつもは仕事帰りの夫に必要なものがあればお願いするところを、ついうっかり忘れてしまうこともある。

この日も、前日頼み忘れたのか、「ネギがない!」と気づき、渋々買い物へ出たのだ。

久しぶりに街へ出て驚いた。
行きつけのお店は片っ端から休業。中には暖簾をたたんだ店もあった。大きなモールでさえ飲食店をはじめブティックもすべて休業。かろうじてスーパーとドラッグストアだけが営業していた。

コロナの影響はこんなところまできていたのかと、気持ちがズドンと暗くなった。

さして人通りも少なくなっていない通りを歩き、庶民的なスーパーへ行ってみると、平日の真昼間だというのに結構な人出で、ニュースで観ていたようにレジには長蛇の列ができていた。そろそろ落ち着いた頃だろうと思ったのだけれど、まだまだ状況は変わっていないのか。

目には見えないコロナウィルスが浮遊している図を想像すると、そこへ入っていく勇気はなかった。
仕方なく少し離れた高級スーパーへ行ってみると、こちらはガラガラ。ネギが100円高くても、コロナ感染のリスクに晒されるよりはマシだとそちらでお買い物をした。

街のスーパーがまだこんな状態なら、もはやネット通販に頼るべきか?
そう思い、ちょっと見ていたら、「フードロス」「食品ロス」という言葉が目についた。

コロナの影響で行き場を失った食品が山ほどあると言う。相次ぐ飲食店の休業、物産展の中止、観光客の減少などで在庫を抱えて困っているところがたくさんあるのだ。

どうせ同じものを買うのなら、そうしたところで買い物をすればWIN-WINじゃないの!と、その日からせっせとネットショッピング。

ネットショッピングというのは不思議なもので、一度始めると「ポチリ」とするハードルがグッと下がる。

数十年前、私もその沼にハマっていたことがある。ちょっと「いいなぁ」と思うものがあればポチリ。ついでにこれもとポチリ。一日にいくつもの商品をポチリまくるのだ。

そのうち忙しくなり、ゆっくりとネットショッピングなどしていられなくなったことで、自然とポチリ沼からは抜け出していた。

ちなみに、危険な時間帯というのがあって、特に夜中の2時、3時あたりは要注意だと、ネットショッピング中毒のお友達がよく言っていた。理性がいつも以上に働かなくなる時間なのだそうだ。

ポチリ沼から這い出してからは、もっぱら実店舗でのお買い物専門だった。
とりわけ百貨店は、行けばなんでも揃うので便利だ。
週に2回は銀座だ、日本橋だ、新宿だ、渋谷だと、あちこちの百貨店でお買い物を楽しんでいた。

しかし、この自粛でそれも叶わなくなった。最後に出向いたのは、確か3月の20日頃だろうか。
すでに1ヶ月近くも長年の習慣をストップさせていることになる。

そこでネットショッピング熱の再来だ。
お菓子から雑貨、部屋着などここのところ毎日のようにポチリ、ポチリしている。

ポチリ沼に再び足を踏み入れただけでなく、今回は柄にもなく、人様のお役に立てるのかしらなどと思ってしまったから始末が悪い。
ただでさえこの自粛でネットでのお買い物に拍車がかかっている状態なのに、お買い物とセットで社会貢献できるのね!と、つい調子にのってしまったのだ。。。

お菓子、チーズ、お肉、普段家でもデイリーに食べているものがたくさん並んでいる。ところが、欲しいと思うものに限って売切れの表示が出ている。
買おうと思うお得な価格帯の物は誰もが一緒で、そういったものはいち早くなくなるのだ。

ここでやめておけばいいのに、どうせだからと、他にもなにかないかとさらに探すと、本来なら買わないようなものでも、「あら、美味しそう!」とポチリとしてしまう。

好きなお菓子に至っては、ついでにと本星以外のお菓子もポチリポチリ。当初の予算を大幅に上回っているにも関わらず、本人はいい気分だ。

もちろん届いたものはきちんと消費するけれど、普段なら決して手を出さない価格帯のものにまで手を出しているのは問題だ。
別にセール価格になっているわけでもない。たとえ少しばかり安くなっていても、通販には送料がかかる。これが遠方からのクール便なんかだと、トータルは結構な額になる。

普段はあまり気にしない食費だけれど、ちょっと遣いすぎてはいないかと、溜めていた家計簿の集計をしてみたところ、ビックリした。
買い物へ出かけないからいつもの半分くらいかと思いきや、まだ4月は終わっていないのに、すでにいつも以上の出費になっていた。

ふと、これはどういうことだ?と思った。

普段なら特別の時に買うようなものを、当たり前に買ってしまうのは何故だ?

これはまさしくコロナのせいではないか⁉︎
いや、コロナのせいというよりも、コロナを理由に適当に好き放題しているということなのだ。

コロナだから仕方ない。。。

コロナだからこれくらいはいいだろう。。

コロナだから栄養つけなきゃ。。。

コロナだからストレス溜まるから。。。

もう理由はなんでもいい。「コロナ」さえつければなんでもOK。
まさに水戸黄門さまの印籠の如しコロナだ。

夫は私がどうお金を遣おうが文句を言ったことはない。破綻さえしなければお好きにどーぞ。というお金に対しては非常に寛大な考えをもった人だ。

しかし、今回はどうも野生の感のようなものがあるらしい。

もしも収入が途絶えた時のことも考えておいた方がいいと口にするようになった。

今は大丈夫でも、3ヶ月後、半年後、どうなっているのかはわからないからと。

余力あるうちに、しっかり対策をしておけと言うことなのだろう。

国が国民一人につき10万円を支給するそうだけど、非課税と言いながらも年末には税金として吸い上げられないともら限らない。なんでもコロコロと変わる風見鶏のようなガバメントだ。

もし運よく、全額懐に収めることができたとしても、1人10万円など子供の教育費にしかならない。それもたった1ヶ月分だ。

つまり、お取り寄せで社会貢献するわよ!と、人様を助けるのもいいことだけれど、来年の今頃に今と同じ生活があるかどうか、よく考えた方がいいということだ。

人を助けたいと思えば思うほど、自分の首を締めることになっているような気がしてきた。。。

こんな非常時くらいは、心のきれいな人間の真似事をしたい。マザーテレサみたいに、自分のことを犠牲にしてでも他人に尽くす、そんな生き方ができるってどんなに素敵だろうとずっと思ってきたけれど、結局のところ私はネット上で多く見かける「正義の味方」みたいな人間にはなれないし、人を救う前に「まずは自分」というスタンスは変えられないのがわかった。

良い人になりたくて、ポチリ、ポチリを繰り返し、数ヶ月後にそのポチリの数々を悔やむことにならないとは限らない。
身近なところでも、倒産、解雇という話が耳に入ってきている。

一寸先は闇と、いつも心に留めているけれど、コロナのせいで私は冷静さを欠いているのかもしれない。

ネットショッピングをする前に、万が一の時のシュミレーションをする方が先だ。
私達家族を助けてくれる人は誰もいないのだから。

というわけで、本日よりしっかり節約しようと思う。

生きているという実感を得るための「育てる」という行為。

お題「#おうち時間


ずっと家の中にいると、充実感のようなものが感じられにくくなる。

普段、毎日のように人と会い、外を歩き回っていた人にとっては、よけいにどこか時間を無駄にしているような気になり、妙な焦りを覚えたりもする。

もちろん、私は家庭の主婦なので、この自粛生活が始まってからは、家族のお世話などでいつも以上に忙しい。家事をしなければならないから。

朝からいつもの掃除や洗濯に加え、一日3食しっかり食べる家族4人分の食事とおやつやデザートを用意しなければならない。

ただ、これはいつもやっている主婦として「仕事」のようなもの。好きとか嫌いとか、得意とか苦手とか、まったく関係なく「やるべきこと」だ。
そこに充実感などというものはない。ただ、やる必要があるからやっているという当たり前のことで、それがどれだけ忙しかろうが、仕事量が増えただけで、特別に心を揺さぶられるようなことはない。

ほとんどの主婦にとって、家事はおうち時間を充実させる事柄にはならない。

そんな充実感に乏しいこの自粛生活で、私が思わずハマってしまったのが「育てる」という行為だ。

我が家の子供ももう大学生に高校生だから、私の子育てはほぼ終了しているといってもいい。
では、何を育てるかといえば、動物が植物といったところで、私の場合は植物だ。

以前からちょこっとベランダにプランターを置いて、花を植えたりしていた。でも、それはなんとなく植えていただけで、日々の水やりくらいはしていたけれど、毎日それを愛でることには熱心ではなかった。

それが、少し前に気まぐれに買ってみたビオラが思いもよらず、わさわさと色とりどりの花を咲かせ始めると、その成長のスピードに思わず目を奪われてしまったのだ。

特別なことは何もしていない。ただ水をあげているだけなのに、なんということか。

そして次によくわからない花の苗をまた買ってきた。
名前も知らないのだけれど、花屋さんの女の子が「自然交配の珍しい花ですよ」などというものだから、どんな花が咲くのかとまた植えてみた。

すると、その苗も目覚ましい成長を見せてくれ、あっという間にいくつも蕾をつけて花開いた。

調べたけれど、未だに名前がわからない花だ。多分スミレとかその辺の種類だろう。

これに気をよくして、次に買った苗はマリーゴールドだ。
あいみょんの唄う「麦わらの帽子の君」のような花だ。

これもまたあっという間に、見事な花を咲かせた。

素晴らしい!なんという生命力だろうか。
私のように肉や野菜をたらふく食べ、おまけに甘いものまでたっぷり食べているわけでもないのに、毎日グングンと大きくなる。そして小さな蕾をつけたと思ったら、あっという間に美しい花を咲かせるのだ。

そして、また新しい苗を通販で買った。
種から育てようかとも思ったが、それだと時間がかかる。
早くベランダを花だらけにしたいと、あえて苗にしてみた。

これまた「あいみょん」だ。
色と種類は前のものとはちがうマリーゴールド

このように、次々と苗を買っては育てることに夢中になっている自分を、ふと客観視してみると、色々な要因が考えられる。

まず、私が歳をとったということだ。
人は人生をスローダウンするようになると、土いじりをするようになるという。
これは身近の諸先輩方をみていても否定できない。

私も若い頃には、花などにまったく興味はなかった。夫に花束などをもらっても「これ、食べられないわよね?どうせならお腹いっぱいになるものにお金遣ったら?」などと、平気で失礼なことを言う女であった。

それが今は「見て見て!!また新しい花が咲いたわ!」と、毎日ひつこいくらいに家族にお花をお披露目している。
人間は変わるものだ。。。

しかし、理由はそれだけではない。
私がここまで夢中になったのは、まさに「生きてる」という生命の強さを実感できるせいなのだ。

人が自分は生きている!と実感できるのは、まさに己の人生を謳歌し、充実した生活を送っている時だろう。

私の場合は、毎日お友達と会ったり、美味しいものを食べに行ったり、お買い物をしたりと、自分の好きな時に行きたいところへ行き、会いたい人に会い、欲しいものを手に入れる。
一般的な専業主婦が充実感を覚えるのは、きっとこんなことなのだ。

とても些細なことだけれど、私はそんな毎日が楽しかったし、そんな生活に十分満足していた。
しかし今回のコロナで、そんな楽しみの全ては奪い去られたのだ。

このおうち時間で、勉強したり、趣味を極めたり、何かしら自分のためになることをしよう!などという声も聞こえてくるけれど、やりたいことしかしたくない。

特別に勉強したいことや、好きな趣味でもあればいいのだろうけれど、私にはないのだ。

おうち時間でやることといえば家事だけ。。。そんな生活の中では生きているという実感すら乏しくなってくる。

そんな気持ちに光をさしてくれるのが、ベランダでぐんぐんと成長している花たちなのだ。

毎朝、起きるとベランダに出て、プランターの脇に座り込む。
昨日よりも蕾が増えてるぞ!
昨日蕾だったのが花開いた!

そんな成長を見るのが楽しい。
自分自身の成長ではないけれど、少なからず自分が手をかけたものが応えてくれるのだ。
自分のしたことが目の前で形となって現れる。それも一日単位で変化を見せてくれるというスピード感。

まるで止まった時間の中にいるような自粛生活で、花達だけはコロナなどものともせずに、成長していく。それを見ていると、まさに生きているという実感が得られるのだ。

何も趣味がなく、なにもすることがないと退屈で死にそうになっている人がいたら、「育てる」ことをしたらいいと思う。
花じゃなくてもいい。チェリートマトやハーブなど、食べらるものならなお楽しいかも知れない。

とにかく、「生きているもの」を育てるという行為は、自身も「生きている」ことを実感できるのは間違いない。

心が荒んでいる人、寂しい思いを抱えている人なんかも、育てることをしたらいい。

ちょっと自己満足と思わないこともないけれど、試してみる価値はあるだろう。

ちなみに、私の大切にしている「金のなる木」という植物も、次々と新芽を出している。

これはとってもお金持ちの知人から「大切に育てると、たくさんお金が入ってくるわよ」と、もらった鉢だ。

もちろんたくさんお金が入ってきて欲しいので、大切に育てている。

無数にニョキニョキと出てくる新芽を見ていると、下世話だけれどそれがお金に見えてきて、なんともいい気分になる。

コロナのせいで経済は停滞し、先行きが不安視されるところだけれど、こんな些細なことで、ちょっと明るい気分にさせてくれる植物というものは、やはりいいものだと思うのだ。