In other words

I really don't know life at all ...

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新型コロナが去った後の未来を想像し、今ある暮らしを見つめ直すことにした。

最近、我が家の夫は帰宅後も頻繁に社用の携帯電話を握っていて、何やら忙しそうだ。
これまでは家に帰ってきてまでも仕事の話などしたくないと言っていたのに、今はいそいそと電話をとり、その度にリビングから出て行き、別の部屋でなにやら深刻に話をしている。

コロナのストレスから浮気にでも走っているのかもしれない!
と勘ぐる我が家の女3人。。。
しかし、実際はそんな悠長なことをやっていられる場合ではないらしい。
「お前たち、自粛でよほど暇なんだな!」とお叱りを受けた。

昼間はこれまで通り出社しているのだから、会社で済ませられないの?と言うと、電話をしてくる相手は社内の人間ばかりではないという。

リビングでは暇な子供達がいい歳して大騒ぎ。突然ラップバトルなどを始めるものだから、深刻な電話などできるわけもないというわけで、別室へ避難しているそうだ。

電話の用件はどれも同じ。

あなたのところにいいポストが空いていないか?

どこかいい仕事があれば紹介してはくれないか?

最近子供が産まれたのに給料半減で困っている。転職したいんだけどどこか知らない?

そんな話ばかりだという。

外国人といえども20代で初めて来日。その後出たり入ったりしながらも、なんだかんだ20年は日本で暮らしている。アラフィフとなった現在では、それなりに人脈もあり、加えて元来のおばさん気質とでもいうのか、無類の世話好きのためか、頼ってくる人も多いのだ。

ここで一つ。他人から頼られる人の多くは、家族にとっては頼れない存在だ。博愛主義が過ぎて身内は後回しになる傾向がある。
時にイラつくこともあるけれど、結局そんな性格のおかげで仕事の方はうまくいっているのだと思う。私や子供達はなんの心配もなく暮らせるのだから、多少の我慢は必要だと納得するしかない。
私達のことはいいから、どうか人様の役に立って、しっかり稼いできてちょうだいといったところだ。

さて、それはいいとして、東京も緊急事態宣言がまもなく解除されるだろうという段階にきたものの、人々の危機感までは完全に払拭されたわけではない。
今後も更に大きな影響を及ぼすと懸念されている新型コロナに先行きの不安を覚え、多くの人が求職活動をしているという事実。

仕事を探しているということは、これまで働いていた職場から解雇されたということかと思いきや、そんなケースばかりではないという。給料の大幅カット、ボーナスの支給なしといった事態目前で、ダメージを受ける前に少しでも安全な場所へ向かおうという動きもあるという。

SNSなどでは未だに国からの休業補償を訴える声を目にするけれど、当事者ではないからか想像はできても実感までは正直なかった。

「これはまだまだ始まり。業種に限らずこれからもっとそうした人が増えるはずだよ」

夫は言う。





コロナが去った後の世界が、そして日本がどうなってしまうのか、私にはまったく想像がつかない。
今はよくても逆に悪くても、物事は常に変化していく。
(悪くなる想像はできても、良くなるとは思えないが。。。)

その波に飲み込まれずに、うまく乗りこなすには、いま何をするべきか。。。
他人の心配をしている場合ではない。いつ何時、誰が同じような状況に陥るかわからない事態だ。
新型コロナの影響はリーマンショック以上の緊急事態だとも言われている。

自粛だ!と時間を無駄にしていないで、少し先の未来を想像して、いま何をすべきか考えておくべきなのだ。

と、声を大にして威勢よく言いたいところだけれど、50も過ぎればこれから新しいことを始めようという気にはなかなかなれるものではない。
これが30代くらいであったら、あれやこれや知恵を絞って今後の生活の保険となるようなことを始めてみようかと思うけれど、もうそんな体力も気力もない。

ただ、普通に屋根のあるところで眠れて、お腹いっぱいご飯が食べられるという、人並みの生活ができれば十分だ。
バブル期の恩恵を存分に受けたせいか、もう贅沢な生活に対する憧れもない。
心身共に健康で穏やかに暮らせればそれでいい。

そうなると、なにか新しく始めるというよりは、今ある生活を縮小することしかない。
住む場所を変え、支出を控え、質素な生活を今からシュミレーションしておくのだ。

我が家は現在大学生と高校生の子供がいる。高校生も来年には大学生になる(合格すればだけど。。。)。
5年以内に今の生活をガラリと変えることも可能になる。

まだ終の住処を日本に定めたわけではない。希望としてはずっと日本でとは思っているけれど、こればかりはどうなるかわからない。
普通の暮らしができないとなれば、よりよい場所へ行くことになるだろう。

いずれにしても、経済的な安定は不可欠だ。「お金など欲しければ稼げばいいだけ」などという傲慢なことは、この歳になるとさすがに言えない。

不本意だけれど、お金を遣う生活から、遣わない生活にシフトしていくべき時期だと思っている。
稼ぐのは若い方々に任せて、自分がいよいよ年寄りの仲間入りしたことを認め、質素な生活を心がけること。

そんな方向でコロナ以降の生活を考え直していこうと思っている。

なんだか悲しいけれど。。。




若い頃、懸命に勉強した英語が夫婦喧嘩でしか通用しなくなった現実と英語なんて話せなくてもいいという結論。


30年以上前に使用していた辞書。もう開くことはないかもしれない。


東京に緊急事態宣言が出てから、外出自粛要請に応えるべく、我が家の面々も大人しくそれに従っている。普段はいつも通り仕事へ行く夫も週末は在宅しているので、ここ2ヶ月ばかりは家族全員が顔を揃えなんともにぎやかだ。

週末はもちろん、平日の夜でも社交生活忙しく、どこぞへふらふらがお決まりの夫と長女が家にいるので、なんだか変な感じがする。
特に夫が長いこと在宅していると、家の中の雰囲気が微妙に変わる。

夫がいても特に都合の悪いことはないのだけれど、どうも調子が狂うのだ。これはなんなのだろう?と考えると、思い当たるのが言語の問題ではないかと思い当たった。
我が家の公用語が日本語から英語に変わるからだ。

夫も日本語を話すことができるけれど、やはり同じ日本人のようにはいかない。少し難しい単語を使えば、「は?」となり、それに対しての説明をしなければならず、子供達はそれを面倒くさがり、最初から英語で話すようにしているらしい。

ここで不利になるのが私だ。
英語が話せるとはいえ、かれこれ30年以上も前に学んだ言語だ。
夫が日本語を理解するようになってからは、ほとんど使わなくなった。

どんなことにも言えることだけれど、使わないものは錆びつく。錆びると思うように動かず、役に立たなくなる。

それでも、外国人の夫と長年連れ添ってきたことで、まったく英語と無縁で暮らしてきたわけではない。

まったく英語を話せない人からすれば、私程度の英語でも「話せる人」となるようだ。
しかし、それで安心してはいられない。家での扱いはといえば、それはそれは酷いものだからだ。





子供達が時折、「おもしろいよ」とYouTube動画などを観せてくることがあるのだけれど、最近ではネイティブのまくし立てるような英語が完全に聴き取れなくなってきている。とりわけアメリカンなアクセントは苦手だし、若者の使うスラングなどが頻繁に出てくると、もうお手上げ。。。

家族で食卓を囲んでいる時、夫と子供達との会話が理解できないなんて時もある。
子供達が幼い頃は問題なかったものが、さすがに大学生と高校生ともなると、大人と同じようなボキャブラリーを有している。

私はそれに気づかずに過ごしてきたようだ。少しずつ少しずつ変わってきたせいで、その変化に気づいたときは、語学力の力関係がいつの間にか逆転していたのだった。。。

発音に関しては、最初から諦めている。産まれた時から、いやお腹にいる時から英語に触れていた子供達と、二十歳を過ぎてから本格的に勉強を始めた人間とでは、そもそもスタート地点は違う。

その辺を差し置いても、もはや自分の英語が錆びつき、なんの役にも立たないようなものに成り下がってしまったと思わされる。

極めつけは海外に点在する夫のファミリー達とのSkype
アメリカやヨーロッパをはじめ、多くに国がロックダウンという状態だったため、暇を持てあましてか、とにかく入れ替わり立ち替わりファミリーがSkypeをしてくる。

夫だけが相手をしていればいいものを、そんな時は必ず家族参加なのだ。
そこで私の錆び付いた英語力が曝け出されることになる。

ゲラゲラと笑いながら、早口で話されると時折ついていけないことがある。
しかし、夫はもちろん子供達は当然のように一緒にゲラゲラと笑っている。
これはヒヤリングの問題だけでなく、ボキャブラリーも関係しているようだ。
スラングはもとより、idiom(イディオム)といわれる2つ以上の単語を組み合わせた熟語、慣用語句に関しても、苦心している。このidiomは単語を組み合われることで、本来の意味とは全く想像のつかないものに変わるため、とにかくそのまま覚えるしかない。
つまり、きちんとお勉強しなければそのボキャブラリーは増えないのだ。

何十年も取り立てて勉強をしていなかった私は、新しい語彙を得ることもなく、更には昔覚えたものまで忘れてしまっているというお粗末さ。。。





「昔はこうじゃなかったのに」

そう悲観する私に同情をしてくれる家族はいない。

「そう思うなら、この自粛の時こそ、勉強しなおしたらいいじゃないか」

夫はそう言う。

「それもそうね」と思う反面、「なんのために?」とも思う。

今更50を過ぎたおばさんが英語を勉強してなんになるの?
これから英語を使って仕事をしようとか、必要に迫られてならわかるけれど、もう働く気もない。

将来、海外で生活する可能性もゼロではないけれど、普通に生活したりするくらいなら困らない程度の英語力はキープしているつもりだ。
第一、実際に海外で暮らすことになれば、必然的に英語力は戻ってくるだろうから、問題なしだ。

「今更、真面目に英語なんて勉強してどうなるのさ!」

そう言う私を夫は嘲笑う。

「そもそも、自分だけが英語力が低いと言い出したのはそっちだろ?」

「嘆いてなんかいないわよ!そもそもって言うなら、そもそもここは日本なのよ!なんで英語なんか喋らなきゃいけないのよ⁉︎」

「英語を話せて損はないよ」

「損はしなくても、普通の日本人家庭なら得することもないわよ!」

などと、いつ間にか口論に発展するだ。

こんな時、女の方が強い。
何故だかわからないけれど、こんな時は錆び切っていた英語にまるでCRE550でも差したんじゃないか?というくらいに、淀みなく言葉が口から溢れ出す。

そういえば昔からそうだった。
夫との喧嘩のみならず、海外生活で理不尽な目に遭ったときなど、いつもそうだった。

怒りが私の言語を司る脳の一部を激しく刺激しているのだろうか?
意識せずとも言葉が次から次へと出てくるのだ。
なんとも、不思議な現象。。。

夫や子供達も「なんでこういう時だけ流暢になっちゃうわけ?」と、まるでおかしい人を見るような目でみる。。。

しかし、よくよく考えてみれば、口論で使用する言葉など限られている。いわば使い慣れた言葉をリピートしているだけ。鸚鵡のようなものだ。

この先、きっと英語が必要な場面は、夫婦喧嘩か海外旅行の時に嫌な目に遭わないため、それくらいしかないだろう。

鸚鵡でいられれば十分ではないか!
鳴かない鳥にさえならなければ、なんとなくどこでも生きていける。

人生は真面目に考えなければいけないけれど、複雑に考える必要はない。
どんな失敗をしたって、命まで取られるようなことは稀だ。

色々と思うことはあるけれど、なんとかなるよね。。。と、シンプルでいることが幸せに近づくことなんじゃないかと思う。

英語が話せなくなったところで、それは本当に些細なことなのだ。




「マスクありますよ」と声かけされた夜のスーパー。モノがモノを呼ぶ「類は友を呼ぶ」現象と物を大切にするということ。


小さなアベノマスク。大切にいたします。


数日前、夜のウォーキングついでにスーパーへ行った。時間は9時を過ぎていて、店内には買い物をするカップルが3組ほどいるだけで、とても静かだった。

あまり外には出ないので、どんな状況がわからなかったけれど、夜は案外狙い目なのかもと思った。

翌日の営業に備えてか、生鮮食品以外の物はちょうど品出しをしている時間だったのか、いつもは切れている商品も沢山並んでいた。

それでも最近品切れが騒がれている小麦粉は一つもなくて、「本当にないんだな」と少し驚いた。

それにしても何故に小麦粉か?

どうやら長引く自粛にお家でベーキングする人が増えているせいらしい。

確かに小麦粉を練り練りするのは楽しい。小さな子供なら粘土遊びのようで、親子で楽しめるだろう。

小麦粉だけでなくドライイースといったものまで不足しているので、お菓子作りのみならずパン作りをする人も増えているだろう。

普段から小麦粉いじりが大好きで、パンを焼いたり、クッキーやケーキを作ったりもする家庭なので、これらの品物は我が家にはなくてはならないものだ。
本来ならこの状況に焦りを覚えるところだけれど、幸いにして緊急事態宣言が発令されるずっと前に、ある程度の買い置きをしておいた。

あれは、そろそろ自粛が始まろうかというころだったか、我が家では恒例の「山を張る」ということをした。

なにか「普通ではない事態」という空気が漂うと、決まって今後何が不足するか「山を張る」のだ。

「山を張る」とは、リスクのある賭けをする。
山は鉱山のことであり、どの山に金鉱が隠れているかを予想して、そこに投資するという山師の所業だ。

それはただ感に頼っての予想ではない。山の周りで起こっていることなど、その周辺の様子を探りながら張る対象を選ばねばならない。

食材や雑貨を備蓄することは、本来の意味のように大きなリスクがあるわけではないけれど、外れれば相応の備蓄を抱えることになるから、我が家ではあえて「山を張る」などという言い方をしている。

今回の新型コロナでは張った山がことごとく的中した。
水やトイレットペーパーなどは普段から十分に備蓄しているものだけれど、マスクや小麦粉は備蓄してあると言っても消耗品だ。ある程度の量を確保していても、使用してしまえば確実になくなっていく。

中国武漢がコロナでワサワサし始めた頃「次は日本か?」と当然思った。
チャイニーズニューイヤーを前に、国内へのコロナ流入は予想できたことで、これはちょっと大変なことになるかもねと、夫と話していた。

武漢でマスクだらけの様子を見て、まずマスクを買った。私は季節に関係なく日常的にマスクを使用しているので、なくなっては困ると思ったのだ。
その頃は50枚入り¥500程度の品が山積みされていた頃だったので、数箱買っておいた。

その次に買ったものの一つが小麦粉だった。自粛生活中のお菓子作りが目的ではない。
地震などの災害時も視野に入れてのことで、いよいよ食べるものがなくなったら、自分でパンを焼いたりピザやうどんなど、小麦粉さえあればなんでも作れると思ったからだ。

さすがに小麦粉の品切れがここまで来るとは予想もしなかったし、我が家の子供達までがまさかのお菓子作りフィーバーするとは想定外だった。
今となってはもっと買っておけばよかったという結論になったのだけれど、スーパーの棚はすっからかんだ。

「まぁ、仕方ない。小麦粉がなくなっても生きていけるし」と、執着することなく小麦粉のことは忘れることにした。

しかし、買い物へ行ったついでに寄ったコンビニにたまたま小麦粉が大量に並んでいたのを見つけたのだ。どこのスーパーにもないのに、偶然にもあったという運のよいお話だ。
毎日どんどん減っていく小麦粉に危機感があったため、この時は一つだけ買ってかえった。

これはとても運がよかった。しかしコロナに関する品不足に関して運がいいのは小麦粉だけでない。マスクに関しても同じく運があるようだ。





件のスーパーへ行ったときのこと。
タイミングなのだろうけれど、そこに普段はないトイレットペーパーやマスクが適正価格で普通に並んでいた。

どちらの品物も我が家には十分な備蓄があるので、野菜や肉など生鮮食品だけを持ってレジへ行った。

夜にもかかわらずとても元気な店員さんが、「マスクは大丈夫ですか?今ならありますよ。消耗品なのでもし必要ならどうぞ」
そうご親切に声をかけていただいた。

とてもありがたいことだったけれど、我が家にはまだまだたくさんあるのでご遠慮させていただいた。

さて、こんな声かけをされたのは、これが初めてではない。これまで過去に3回、ドラッグストアやコンビニでも「今ならありますよ!」と声をかけて頂いたことがある。
声かけをされる前に、マスクが販売されているところに遭遇したことも何度かあった。
しかも、どれも7枚で¥260程度の良心的なお値段のものだった。

今は少し普及しているようなのでそんなこともあるだろうけれど、マスク争奪戦が激しかった3月、4月頃の話だから、マスクは遭遇率はかなり高かったと言えよう。

ニュースでは連日開店前からドラッグストアに行列ができているとかなり騒がれていたので、なんだか皮肉なものだなと思った。

雨の日に早朝から並ぶほどマスクを必要としている人の元にはなかなか来ないのに、私のように備蓄があり買う必要のない人間は、求めずとも出会えるという不思議。

ここで思い出したのが、以前富豪の友人が言っていた言葉だ。

「お金はね、お金が大好きなの。だから、よりお友達の沢山いるところに集まるのよ。類は友を呼ぶと同じに」

「確かに、そうかもしれない。だからあなたはところは、いつも有り余るほどあるのね〜」

などとふざけて言っていたものだけれど、これはお金だけに当てはまることではないのかもしれない。

どんな「物」でも、お友達と集いたいといった同質のものを引き寄せる原理といったものがあるのではないだろうか。

自分が好きにならなければ、相手も好きになってはくれないとも言える。
誰だって自分のことが好きで必要としてくれる人に心が傾いていくものだ。

それは人だけでなく「物」にも言えることなのかもしれない。
マスクも小麦粉も私にとってはなくてはならない物で、普段から頼りにしていたり、楽しませてもらったり、常にそばにあって欲しいものなのだ。

だからこそ、出会う運が巡ってくるのかもしれない。
もしも「物」に心があるのだとしたら、お友達がたくさんいて、それを大切に思ってくれる人のもとへ行きたいと願っているのだろう。

昔から「ものは大切に」と言われ育った。それにはこんな意味もあったのかと、なんとなく思った。。。