In other words

I really don't know life at all ...

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昔あった有名店の情報がネットで見つからなかった驚き。アナログ力はあって損にはならない。

築地へ行くと思い出すお店がある。

ひとつは以前にメインブログの方で登場したことのある『御菓子司ちとせ』さんという和菓子屋さんだ。
そしてもう一つは、その近くにある洋食屋さんで、名前は確か『蜂の子』さんといった。仲間内では、「白スパ行く?」で通じる人気のお店だった。

そこではメインのお料理にご飯やパンではなく、「白スパ」と呼ばれるシンプルなスパゲティを合わせて食べるのが定番となっていた。
これがクセになる味わいで、当時は週に何度も通ったものだった。

調べてみると『蜂の子』さんは場所をすぐ近くのビルへ移し、いまだ人気店として営業しているけれど、残念ながら『ちとせ』さんはすでに築地の地にない。

90年代の中頃だったろうか、まだ私が日本と海外を行ったりきたりしていたころのことで、思い起こせば通っていたのはほんの一時期だったような気もする。

ちょっと古い話になるけれど、昨年末に新宿ルミネで『築地ちとせ』という文字を見つけ、それがかつてよく行った和菓子屋さんだと知った。

その後、この店にあったシュークリームについて調べようとネットを巡ってみたけれど、そんな情報はまったく見つけることができなかった。
和菓子屋さんだったころの情報すらわずかで、ましてや裏メニュー的なシュークリームともなれば、まるで存在しなかったようにサッパリだ。

この店に限らず、30年以上前のことを調べようと思うと、ほとんど同じ結果に終わる。
社会的に大きな話題になったようなことならある程度の情報を得ることはできるけれど、これが小さなお店やマイナーな(けど、ちょこっと話題になった)お店、人物や出来事ともなると、有益な情報はほとんど見つけることはできない。

「今はなんでもネットで調べることができる便利な時代」

私もよくそんなことを口にするけれど、それは今現在、人々が関心を持つような事柄が中心であり、ほとんどの人が経験していない、また無関心であった大昔のことに対しては、ほぼ調べることができないと言ってもいい。

もちろんネットの便利さは言うまでもない。もはやこれなしでは生活が非常に不便なものとなるだろう。
ただ、ふと思うのは、こんな社会でもアナログの持つ力を駆使できるか否かで、今後はさらに大きな差が出てくる社会になるのではないかということ。





最近、90年代にヒットしたテレビドラマを観た。ほとんど日本を留守にしていたか、外で遊び回っていたかした私は、当時のトレンディドラマとはまったく無縁だった。
そのせいで、同年代の人達との懐かしい話から置いてきぼりをくらうことがよくある。

今度こそは!と、観てみたのだけれど、なるほど面白い。思わず食いつくように観てしまった。そして、当時の生活を思い出した。

今のようにスマホのない時代、家電や公衆電話、Fax、ポケベルを駆使して友達や彼氏と連絡を取り合ったこと。
連絡が取れなければ、突然家に押しかけたり、行きつけの店に電話して「〇〇さんって人、来てませんか?」と尋ねるなんてことも珍しくなかった。
今ではあり得ない。。。

指一本動かせば済むLINEやメールでの連絡が、どれだけ便利かがわかるだろう。

人と嫌でも関わりを持たなければ、社会生活ができない時代だったのだ。

それはリアルでのコミュニケーション能力であったり、自ら体を動かし行動するバイタリティ、想像力、、、
つまりアナログ生活の中には、そうした術を身につける要素が詰まっていたとも言える。
それができなければ、得たいものは得られず、生活を楽しむことができなかったのだ。

これだけ便利になった令和の時代、もうそんな面倒は必要はなさそうだけれど、いま普通に使用している便利ツールがいつも使えるとは限らない。

たとえば、大災害が起きたときなどは、そういったアナログによる経験が役立つだろう。今日が平和でも未来がどうなるかは神のみぞ知るなのだから。

実際に今回の新型コロナだって、去年の今頃はまったく知る由もなかったことだ。
どんな不測の事態が起こるかは誰にもわからないのだ。

そんないざという時だけに限らず、アナログ力の持つ、想像することや行動すること、コミュニケーションをうまくとることなどは、今後ますます生きてくる社会になると思っている。
どんな時代であれ、物事を動かす基本がそこにあるからだ。

自分の子供達を見ていても思うことだけれども「ネットは万能」であると錯覚しているようなところがある。
スマホ一つあればなんでも済むといった感じだ。
しかし、一度回線から外れたり電源が切れてしまえばそれで終わりなのだ。それがわかっていながら、ネットに依存しアナログ力を軽視している。

災害時など不測の事態に陥ったときのことを考えても、アナログ力を鍛えておくことは決して損にはならない。

そんな事態にならなくても、自分の欲しい情報がネットで得られないということも実際にあるのは、今回の和菓子屋さんの件でも明らかだ。
ネットがダメなのであれば、結局は自分の足で欲しい情報を集めるしかない。

ネットは決して万能ではない。自分も含め、とかく今は誰もが何から何までネットに頼りがちだけれど、それだけに依存していては見逃してしまうこともたくさんある。

ネットの中にある情報だけでなく、人の心、またその記憶にあるようなことにも目を向けなければと思うと同時に、ネットがなくても難なく生きていけるくらいの知恵とアナログ力も持ち続けていきたいと思うのだった。




その店の世界観が苦手で仕方ないのに、作るものはたまらなく好きという矛盾。

ものすごく好きなお菓子がある。
そう頻繁には出会えないのだけれど、見つけたらありったけ買って、なくなるまで毎日少しずつ楽しむ。

とくにオリジナリティ溢れているというのでもなく、もしかしたら東京に無数にあるお菓子屋さんの中には同じようなものはあるかもしれない。

特別な材料で作られた希少なお菓子というでもない。ちょっとお菓子作りが得意な人であれば、味の方はともかく家にあるもので作れてしまうようなグリーディエンスのものだ。

強いていうなら、ビジュアル的にはかなりセンスがいい。シンプルながらお洒落な印象で、こだわりのある個性派の若い女性なんかが喜びそうな雰囲気がある。

しかし、私にとってはそこがちょっと問題だったりする。
その店は店主のこだわりが強い。自分の好きな世界の中で創作しているのが見てとれる。それはただのこだわりではなく、自分の生活を根こそぎ変えてでもというほどのこだわりだ。

それゆえに、時に手に入れることが難しかったりする。勝手な心配をするならば、ビジネスとして成り立つのかしら?というくらいのこだわりに見えるが、それは心配なさそうだ。そこは店主の世界観に共感した人との強い結びつきによって相互扶助的なビジネス関係があるようだから。

自分の好きな世界だけで生きている人は幸せそうだ。人間だからそれは生きていればいろいろあるだろう。
しかし、同じ世界観を持つ人とその世界の中だけで生きている姿は、やはり幸せなのだろうなと思う。

アイボリーの真綿に寝転び、入道雲を眺めながら、世間の喧騒とはまるで無関係な場所にいるような、ある種のコミ ューンでのみ生きているように見える。

私は正直言えば、その店主のこだわりや世界観が苦手だ。
そしてビジネスパートナーもその店のファンともいえる典型的な人達も、全てが苦手だ。

素敵だとは思うけれど、共感できない。

それなのに、困ったことに私はそこのお菓子がとても好きなのだ。
どこが好きかと言えば、その味も形も匂いも、お菓子としての存在が好きだと言える。



今はお菓子に限らず野菜でも果物でもお肉でもお米でも、消費者は作り手の顔を見れば安心するとばかりに、作り手がこだわりの品々とともに姿を見せることも珍しくない。

それ自体はどちらでもいい。顔が見えても見えなくても、その物がよければそれでいい。

ただ、あまりにこだわりが強いと、なぜかその世界観まで受け入れなければいけないような気持ちになってくる。

本当は苦手なのに、そのお菓子だけが好きという気持ちは受け入れられないのでは?などと、自分で勝手に思ってしまうのだ。

その店のお菓子を買う時に、それを強く感じる。
そのお菓子を売る人もまた、その世界観に強く共鳴し、お菓子のことよりも背景の話しを好む。
どんな場所でどんな思いで作られたものか。そこにどんな願いがあるか。。。

私は俗物的な人間だから、それは知らないくてもいいことだ。むしろどんな材料が使われているか、賞味期限だとか、なぜそんな値段設定になるのか、そんなことの方に興味がある。

しかし、それは決して口にできない。


その店を後にする時、いつも思う。
本当なら私などが食べるようなお菓子ではないのかもしれないと。。。
もっともっと全てを理解して、店主の世界に寄り添えるような消費者でなければいけないのではないか。。。

必ずしも客が店を選ぶことばかりでない。店が客を選ぶこともある。
もしも、その店主が自分のこだわりだけでそのお菓子を作り続けているのだとしたら、私のような客は客として認めたくはないだろう。

そう思うと、ちょっと申し訳ない気持ちにもなる。

苦手だと感じるのはもしかしたら羨望の裏返しなのかもとも思わないでもない。

何百年と続く和菓子屋さん何代目ともなれば、自分とはまるで別世界の人という安心感を持つことができるけれども、自分一人で求める世界を作り上げている人を前にすると、自分でもできることを放棄して生きてきたように感じさせられる。

その店主の描く世界観が自分の好みではないというのは明らかなのだけれど、もっと掘り下げてみれば、そこには羨望や嫉妬という気持ちが隠れているのかも知れない。。。



ブランド品はもういらない。今の自分が生きる上で必要なもの。

少し前、同年輩の方が書いてるブログで、掃除中に懐かしい物が出てきたという記事を読ませていただいた。
そこにあったブランド物のスカーフが写った写真を見て、とても懐かしい気持ちになった。

アラフィフの我々年代はまさにブランド最盛期だった。誰も彼もがVUITTONだ、GUCCIだ、Diorだと、むしろブランド品を身につけていない人の方が少なかったのではないかというほどだった。
私もよく、今は亡き父におねだりしては買ってもらっていた。

今振り返ると、あの熱はなんであったのだろうかと思う。
若さゆえに「物」よりも「ブランド」にとらわれて、それを持つことによって自尊心を満足させていたのかもしれない。

しかし、そんなブランドへの熱も歳を経るごとに冷め、いつの間にか大した意味を持たないものになっていったようだった。

特に40代半ばで大病を経験したのを機に、そうしたマテリアルに対する関心はさらに薄れていった。大袈裟に言えば人生観が変わったのだと思う。

同じお金を出すのなら、旅をしたり、美味しいものを食べたり、誰かにプレゼントを買ったりした方が気持ちいい。

手に入れたときの刹那の喜びよりも、心に残る幸福感の方に価値を見出すようになったのだ。




そう思う一方で、それなりのお金を出して買ったものは、何十年経っても状態の良いものが多い。つまり上質であるのが長年所有しているとわかる。
今思えば、父が買ってくれたブランドの品々は、長きに渡って使えるようなものばかりだったから、きっと大人にはわかっていたことなのだろう。

若い頃に買ったブランド品は、劣化が見えるものは処分したものの、いくら使わないからといって、何十万も出して手に入れたもの、ましてやまだ綺麗なものまで断捨離する勇気はない。かといって、とっておいても使うこともない。

そこで大学生の長女に「これいる?」と聞いてみたところ、大喜びして全て欲しいという。
デザインも今のものとは違っているから、てっきりお古など要らないと言うかと思いきや、全て自室へ引き取っていった。

若い子にとっては、古くてもなんでもブランドというだけで価値があるだなと思った。

とくに今はブランド品の価格が当時に比べてかなり高くなっている。たまに百貨店などで目にするのだけれど、あまりの高額にビックリすることがあるくらいだ。
これでは若い子たちにはなかなか手に入れるのは大変だろうなと思う。

まぁ、そもそもは若い子が持つようなものではないのだけれど。。。
昔、ヨーロッパで暮らしていた頃、パリやロンドンで日本でそうしていたように、当たり前の顔をしてブランドショップへ入ると、店員さんから冷たい一瞥を投げかけられるなどということがよくあった。

日本人の成金娘が何をしにきたの?

そんな心の声が聞こえるようだった。

確かにヨーロッパでブランド品を身につけているのは、それなりの年齢のマダム達だ。若い子ならセレブなお嬢様といった具合で、庶民の若い子がブランド物を持っていることは普通ではなかった。

そんなことを経験してからは、さすがにブランド品にこだわるようなことはなくなったけれど、日本にいればまた抵抗もなくなる。

しかし、今は大金を払ってまでも欲しいとは思わない。ブランド品に限らずいつの頃からか、物欲そのものがなくなった。
皮肉なものだ。それを持つにふさわしい年齢になったときには、自分には必要のないものとなっているのだから。。。

そうはいっても、この年齢になると、さすがにそれなりの場に行く時はそれなりのものを身につける必要がある。

なんだかんだ言っても、人は見た目で判断される。たかが見た目で、得られるものが変わるのも経験からわかっている。

とりあえず腕時計と靴さえ良いものを身につけていれば、それなりに見えるので、その辺りだけは気をつけるようにはしている。
そこでちょっと見栄えのする指輪などがあればなおいい。よくおばさんが大きな指輪をしているのを見るけれど、あれは手の老化を隠すことの目眩しという役割があるのだ。
大きな宝石に視線を集め、シワやシミの浮き出たおばさんの「手」を隠すためのアイテムになるのだ。

腕時計は定番デザインの良い物を買えば、半永久的に使用できる。時計によってはオーバーホールついでにパーツ交換でデザインを少し変えることも可能だ。

私は30年来、3本の時計を未だに使いまわしている。現在でも販売されている定番デザインに加え、きちんとオーバーホールしているので、それが古い物だと気づく人もいない。

靴も時計ほどではないけれど、きちんと日々手入れをしたり、お直しに出したりすれば、長く使用することができる。

ブランドかどうかではなく、質の良い物は長い目で見れば非常にコスパがいいともいえるのだけれど、そういったものがブランド物に多いのも否めない。

そうしたことからブランド品が悪い物だとは決して思わない。若い子がブランド品のバッグが欲しいとバイトを頑張るのも愚かなことだとは思わない。
むしろ、自分の欲しい物を手に入れようと行動するその行為は素晴らしいとさえ思う。
手に入れたい物があれば、なんとしてでも手に入れる。そんな気概こそ若い人にはあって欲しいものだ。

我が家の娘もバイト代はそうしたものに消えていっているけれど、私はそれでいいと思っている。
堅実な親であれば、少しは貯金しなさいとでも言うのだと思うけれど、私は贅沢を知ることも必要だと思っている。

部屋にズラリと並ぶブランドコスメ、バスルームには彼女専用のヘアケアグッズ、どれも「あー、こんなのにお金遣ってもったいない」と思うようなものばかり(笑)

それでも、女の子が一番美しい時に、思い切り身を飾るのは、まさにその時にしかできないことだ。
50を過ぎてからやっても、美容効果が劣化スピードに負けて惨めになるだけ。

若さというのはその時だけのもの。歳を取ればどんなにお金をかけようが手間をかけようが、若い子のような美しさは手に入らない。

きっと私が「もう欲しくない」と思うようなものは、今の自分には必要のなくなったものなのだろう。

ブランド品もその一つで、高価なものを所有するよりも、残り半分の人生でより楽しく幸せな日々を過ごすことの方が必要な時期に来たのだと思う。

私はミニマリストではないけれど、「物」は快適に暮らせる程度にあればそれでいい。
高価なものを所有し、人から羨望の眼差しを向けられたところで、多少の自己満足が得られる程度のことだ。
それよりも自身の健康や、食生活などそれに関連すること、また自分も含め周りの大切な人達を喜ばせることにお金を遣いたい。

今回の新型コロナによる自粛生活で、さらにそんな思いは強くなった。
しっかり食べて、しっかり睡眠をとって、適度に体を動かして、あとはのんびり暮らす。それでも十分に幸せだ。

生きる上で必要なものは、それほど多くはないということなのかもしれない。