In other words

I really don't know life at all ...

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東京都知事選挙のこと、レジ袋有料化のコンビニレジでの迷いとか。

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今日は東京都知事選があったので、朝一で投票に行った。選挙権を得てからというもの、日本にいる時はしっかり投票には行くようにしている。
今は亡き父親から「権利を放棄すな」という言葉を聞いて育ったせいだ。

自分の望む社会になるようにとの期待を込めて投票するわけだけれど、必ずしも結果が望んだ通りになるわけではない。たとえ自分の支持者が当選したとしてもだ。
それでも、選ぶ権利が与えられているのなら、しっかり使わせていただく。

若い娘達は当初「誰に入れていいかわからない」といっていた。私も若い頃はそうだったのでそれはわかる。

そこで以前、どこかで聞いて「なるほど」と思った選び方を教えてみた。

今の暮らしや社会に不満がないのなら、現職候補者でいい。

逆に不満があって変わって欲しいのなら、自分が求めるマニフェストを掲げる人を推す。

こう話したところ「なるほど。。。」と、一票を投じる候補者を決めたようだった。




そんな投票の帰り、朝ごはんを抜いていたせいで、とてもお腹が空いていたので、よく行くコンビニへ寄った。
アメリカンドックでもおやつに食べようと思ったのだ。最近、ダイエットをしているせいか、時折ジャンクなものが食べたくなる。
身体が「もっと糖と油をくれ!」と、訴えかけてくるのだろう。身体にくっついた脂肪がもっとお友達が欲しい!と争いがたいほどのメッセージを送ってくる。
そんな時はストレス回避のために甘やかしてあげることにする。

一度甘やかしてあげよう!と決めると、タガが外れたように、あれこれ買いたくなる。特に最近のコンビニはアイスやお菓子、デザート類は種類も豊富な上、かなり短いスパンで新商品が出ているものだから、ついつい試してみたくなる。

今日もアイス数種類とシュークリーム、ナッツなど、おやつに食べられそうなものをあれもこれもと買ってしまった。
お腹が空いていたせいか、見るもの見るもの美味しそうに感じて、普段は買わないパンまでカゴに入れてしまった。。。
デパ地下でもスーパーでもコンビニでも、私はいつも買いすぎる。今日も子供達が「もうこれくらいにしたら?」と止めてくれたからよかったけれど、これがひとりだったら、さらに大暴走していたところだ。




休日の朝という時間、コンビニは空いている。今日もお客は私達だけだった。
そんな気楽さから、顔見知りの店員さんが気軽に話しかけてくる。

「なんか、面倒ですみませんね〜」

最近、こんな風によく店員さんから話しかけられることが多くなった。それは7月からレジ袋が有料となったせいだ。

コンビニへ行くとなんとなくレジ回りでも変化を感じる。慣れないぎこちないやりとりと、遠慮がちな探り合い、どうしたらいいのかという迷いなど。。。

レジ袋は必要か否か、必要なら有料になりますよ。と、きちんと説明する必要があると思っている親切な店員さんにとっては、一仕事増えてしまった感じで、まだまだ慣れない様子が伺える。

そして、客の方はと言えば、レジ袋いります!となれば、それ以降はこれまでと同じプロセスを踏めばいいわけだけれど、これがエコバック持参となると、この品物はどうすればいいのだ⁉︎と、ちょっとした探り合いになる。

エコバッグはあれど、それを誰が詰めるか問題だ。お店の人が詰めてくれるのか、セルフでやってくださいということなのか。。。

スーパーなどは、対応はまちまちのようだ。私がよく行く店では、レジ袋を使用してい頃から店員さんが詰めてくれるところがほとんどだった。

エゴバッグに変わってからも、「こちらでやりますよ」と、声をかけてくれたり、ごく当たり前のようにエコバッグを受け取り、詰めてくれる。
とっても親切な対応でありがたい。

そうでないスーパーもある。レジ袋でもエコバッグでも、カゴに入った品物をサッカー台まで運び、自分で詰めるのだ。
このようなスーパーの場合は、ちゃんと場所も用意されているから問題はない。

しかし、コンビニはスーパーと違って荷物を詰めるサッカー台がないので、店員さんがやるにしても、客側がやるにしても、レジで詰めることになる。

ここが迷うポイントだ。
手を煩わせては悪いので、最初は自分で詰める方がいいと思っていた。

ただ、商品を袋に詰めるだけの作業でも、それに慣れた店員さんがするのと、不慣れなお客が自身で詰めるのではスピードが違う。買い物の量が多くなれば尚更だ。
後ろで人が並んでいたりすると、ちょっと焦ったりする。

それを見ている店員さんが、「面倒ですみません」という言葉を発するのだ。

そんな時は、店員さんの本音を聞いてみることにしている。

「自分で詰めるのと、お客さんに詰めてもらうのと、正直言ってどっちがいい?」

私が尋ねたことのあるほとんどのコンビニ店員さんは、まず「どちらでも」と当たり障りのないことを言ってくれる。

しかし、よくよく話してみれば、混んでいる時などはエコバッグを預かり、店側で詰めてしまった方が楽なようだ。
しかし、「お客様によっては触られるのを嫌がる人もいるので」とも言っていた。
お客さんによって考えは様々なので、そこが難しいところのようだ。





今日も店員さんとそんなことを話したのだけれど、結論としては「また以前のように普通に無料レジ袋の方がお互い楽よね」という結論だった。

よくよく観察していると、お会計は終わっているけれど、なんとなくレジでもたついている人が少なからずいるのがわかる。頑張ってエコバッグに商品を詰めているのだ。私もその一人。。。

これが重なると、混んだ時間だとさすがに行列になる。そうなると、店員さんもお客さんももどかしい気持ちになるだろうと納得した。

まだ学生さんだろうか、若い店員さんが多い。それと同じくらい外国人の店員さんも。
私が行くコンビニは近所に数軒ある。どこの店員さん達も明るく一生懸命に仕事をしている。
若い人が迷いながらも頑張っている姿を見るのは、とても気持ちがいいものだ。

私のような客側にとってもこの「レジ袋かエコバッグか」また「誰が詰めるか」問題に関しては未だ迷っているところはあるけれど、店員さんの方がより気を遣っていることだろう。

そんな中、世間話がてら、お互いにどうしたいのか確認し合えるのは嬉しいことだ。
こんな風通しのよい気持ちのいいコンビニが、近所に何軒もあるはとてもラッキーなことだ。

まだまだこの新しい取り組みには慣れない。でも、半年も過ぎればきっと迷いもなく、これまでのように当たり前になる日が来るだろう。
それまでは、店員さんと「本当に面倒よね〜」などと笑い話でもしながらお買い物を楽しむことにしよう。

ところで、選挙結果。
小池現職知事、当確とのことだけれど、投票率はいかほどだったのかが気になるところ。。。
もちろん都民としては、今後の都政もしっかりウォッチングだけど。

「お菓子はかすがい」。甘くて美味しいお菓子は怒りをも溶かす。

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歳をとると夫婦喧嘩というものが少なくなる。まったく喧嘩をしないわけではないけれど、若い頃に比べればお互いにずっと辛抱強く(諦めともいえる?)なるせいか、少しくらいのことは知らんふりができるようになるのだ。

それでもたまに耐えかねて喧嘩になることがある。
子供の頃から自分を守るために、いかなることも正当化するのが当たり前と育った外国人をパートナーとしているせいか、一度喧嘩になるとかなりすごいバトルが繰り広げられる。
諦めているとはいえ、こちらも奥ゆかしい性格ではない。そんな相手の態度が許せないと思うと、とことん攻撃をしてギャフンと言わせないと気が済まない。

さすがにお互い手を出したりはしないけれど、子供達が仲裁に入るほどの激しい言い合いになったりすることもある。

お互いに一歩も引くことがないから、結局決着はつかず、いつも険悪な雰囲気のまま、朝を迎えることになる。

そんな朝、私は大人気なくも「おはよう」の挨拶すらせず無視をする。そうそう簡単に怒りは消えないのだ。
そして、夫も何も言わずに仕事に出かけていく。

別に1ヶ月や2ヶ月、口をきかなくても私は困ることはない。
むしろ、夫を気遣うことなく無視しているほうが、生活自体は楽なくらいなのだ。

しかし、夫の方は不都合があるらしい。
外国人であるが故に、あらゆるところで面倒があると、手っ取り早く私に横流しし、肩代わりしてもらってきた人生だ。どんな些細なことでも問題解決に動くことが面倒なのだろう。

夫の心のうちはわからないけれど、想像するに、このまま私の機嫌を損ねたままだと、自分に不利益があると思うのかもしれない。
仕事から戻ると昨夜の喧嘩などまるでなかったように、普通に世間話をしてくるのだ。

しかし、私はそう簡単には割り切ることができない。言われたことは忘れない執念深い性格なのだ。
たとえ何十年経っても忘れない。忘れた振りをしているだけで、心ない言葉の数々はしっかりと、いつでも容易に取り出せるところにしまってある。

丸々一日、夫に対しては一言も言葉を発しないまま、私はさっさと床につく。





翌朝、「行ってきまーす!」と、わざとらしいくらいに明るい声を上げながら仕事へ行く夫を無視して、私は朝ドラの画面を見つめたままホッと息を漏らす。

人と争うのは大きなエネルギーを必要とするものだ。たとえ無視しているだけでもネガティブな思考は精神を消耗させる。

さすがにこの頃になると、疲労も手伝ってか、正直喧嘩をした時の煮えたぎったような怒りは消えている。
どちらかといえば、氷のように冷え冷えとした感情に心が固まってしまっている状態だ。

とはいえ、夫が不在の間はそんなことに思い悩むことはない。正直言って一人でいる時は一人時間を楽しんでいる。

夫のことなど考える時間さえもったいない。。。

そんな中、メールがいくつか入ってくる。

英文のありきたりな言葉の羅列。

How are you feeling ?

Enjoy your day !

Please rest ,don't worry about the house work

などなど、ご機嫌伺いのようなメールをよこす。

返信するのも面倒だ。というか、まだ例の喧嘩の決着はついていない。
何もなかったかのような態度が余計に腹立たしいから返信はもちろんしない。

そして、夜になり夫が仕事から帰ってくる。その手には紙袋が提げられられている。

それを見た途端、苦々しい気持ちになる。
この喧嘩もまた、有耶無耶なまま幕を閉じるのだと。。。

なぜかといえば、その中には必ず甘くて美味しいお菓子が入っているからだ。

「そんなものいらないわよ!」

そう無視できたらどんなにスッキリするだろう。。。そう思いながらも、私は小さな声で「Thank you .....」と、お菓子の包みを受け取ってしまうのだ。

そして、その甘いお菓子をひと口食べると、まるで砂糖が溶けるように、怒りも優しく溶けて消えていく。

不思議だ。なぜ甘くて美味しいお菓子を食べると、すべてがどうでもよくなってしまうのか。

私としては複雑な理由をつけたいところだけれど、きっと夫の方は「単純なやつだな」と裏でほくそ笑んでいるだろう。

しかし、それさえどうでもいいと思うほど、お菓子は美味しい。





今では娘までもが同じことをする。
ちょっとしたことで口論になったり、こちらがお説教をしたりなど、私の機嫌が直らないと、必ずお菓子を抱えて帰ってくるのだ。

しかし、娘はまだ可愛い。

「これ、お詫びの貢物です」

そんなふうに、きちんと自分の非を認め、謝罪とともに差し出してくるからだ。

夫の場合は違う。謝罪はなく、ただ「どうぞ」とお菓子を渡してくるだけだ。

私がそれを無視できないことを知っての確信犯。そして、それを食べてしまう私も、結果的に夫を許すことになる。

なんという節操のなさかと、自分でちょっと情けなくなるのだけれど、美味しい誘惑には完敗だ。
これくらいのことで、美味しいものを食べる機会を逃すのも馬鹿げているとさえ思う。

こんな風に私たちの夫婦喧嘩は幕を下ろす。

「子は鎹(かすがい)」ということわざがあるけれど、我が家の場合は「甘いお菓子がかすがい」になっているようだ。

辛抱のきかない外国人同士、20年以上も共に暮らしてこられたのは、もしかしたら甘くて美味しいお菓子のおかげかもしれない。。。

紫陽花の季節に思い出すこと。痛みはなくなれど、消えない記憶に心揺れる。

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梅雨が明けるくらいまでは、なるべく外出を控えようと決めていたけれど、実際に社会が動き始めると、自分だけが止まっているわけにもいかなくなる。

自分の用事といえば近所での買い物と、定期的に通っている病院くらい。

しかし、最近では子供に関することでも外出しなければならないことが多々出てきている。
そうなると、嫌でも電車やバスに乗って出かけることになる。
そして出かけたら出かけたで、せっかくだからついでに買い物をしていこうとなる。

これが気の緩みというものだとわかっていながら、ちゃんとマスクをして気をつけていれば大丈夫かなと思ってしまう。

先日も病院へ行くために、久しぶりに電車に乗って少し離れた街へ行った。
外へ出たついでにと、帰りに銀座へ寄ってみると、百貨店の入口には行列ができ、4丁目の交差点も信号待ちをする人で、何気に「密」。。。

電車の中も街もすっかりかつての混雑を取り戻していたのだった。
少し困惑しながらも大急ぎで買い物を済ませ、家路を急いだ。

帰る道すがら、道端に咲く紫陽花がとても綺麗で、やっぱり外出はいいものだと思った。





外へ出れば出るほどに、警戒心はどんどん薄れていく。
梅雨が明けるくらいまでは家にこもるつもりでいたけれど、そろそろ少しずつ外に向かう生活を取り戻してもいいのでないかと、気持ちが揺れ始めた。

そこで百貨店へいってみようと思い立った。前回は人の多さに怯んでゆっくりと買い物をすることができなかったからリベンジだ。

コロナ以前と同じように買い物をしている人々を見ていると、怖いウィルスなど存在しないかのようだ。買い物をしている時はとても楽しい。
けれど、ふとした時に不安が過ぎる。

見えるものなら怖がる必要はない。見えないからこそ怖いのだ。。。

結局のところ、まだまだ以前のように素直には楽しめないのだなと思った。

それならと、今度は晴れた日にちょっと足を延ばして街歩きをしようと出かけてみた。
以前、ウォーキングを日課にしていた頃、よく歩いていたところを選んだ。

ちょっとした思い出のある街だから、以前はよく足を運んだものだったけれど、決してよい思い出ばかりの街ではなかった。

ただ、そこには青い紫陽花が盛大に咲いている場所があって、それ見たさについつい足が向いてしまうのだ。





去年この季節に少し悲しい気持ちで同じ紫陽花を見ていたっけと、ふと思い出した。

その頃、なんとなく自分に自信が持てないと感じていた頃だった。自覚できるほど急速に失われていく若さに、抗いようもなく失望していた。

そんな弱気な心に悲しい思い出が重なったのかもしれない。

心が弱っている時というのは、とても感受性が豊かになるのか、木々の緑や花の色にやたら心を揺さぶられる。
寂しさや悲しさを癒すみたいに、その美しさが心に沁みるのだ。

どんなことがあっても、時間が解決してくれるということはこれまでの経験からよくわかっている。転んで作った擦り傷が少しづつ治癒していくように、心の傷もだんだんと薄れていく。
それでも、その時に見ていたのと同じ風景を目にすると、その時の痛みが思いだされる。どんな痛みかは忘れてしまっても、確かに痛みがあったことを思い出すのだ。
なんだかお産の痛みのようだ。。。





何年も前の古傷が、突然ふと脳裏に過ぎることがある。
そんな時、不思議とそれを忘れたくないと思う。忘れなければいけないことなのに、忘れてしまったらなにか大切にしたいものまで失ってしまうような気がするのだ。本当は失うものなど一つもありはしない躓きの一つであるにも関わらずだ。

これは思い出さなくてもいいこと。そう言い聞かせて、記憶を完全に遠ざけていると、自然とその古傷は消えていく。

それでも、青い紫陽花を見た時のように何かの拍子にまたそれが顔を出す。
花のように美しい思い出であればいいけれど、美しいものを見た時に限って、なぜかそんな辛い記憶ばかりを思い出すのだった。

辛いならその場所へ行かなければいいと思いつつ、綺麗な紫陽花が見たくて、知らず知らずに足が向く。

なにはともあれ、花の命は短い。

新型コロナや過ぎてしまった記憶に心を揺さぶられているうちに、あっという間にその美しさを失うだろう。

もっと単純に、ただ綺麗な紫陽花の花を見るためだけに外へ出てもいいのかな。。。

そんな風に思ったりしたのだった。