In other words

I really don't know life at all ...

Sponsored Link

Googleのアップデートと読書熱の再燃〈前編〉苦肉のデジタルデトックス。

f:id:frankie17:20200830155846j:plain

最近、受験生の娘がしきりに肩こりを訴えてくるので、ちょっと困っている。

私自身、肩こりとは無縁の人生。美容院などで軽いマッサージをしてもらう際、「ちょっと凝ってますね」などと言わることはあるものの、本人は自覚症状なし。
痛くも痒くもない。
そんな肩こり知らずのため、娘から訴えられても、どう対処していいのかわからない。

毎日長時間同じような姿勢をしているのか、予備校から帰宅すると肩がパンパンになっていて、肩揉みなどをしてあげても、私のやり方がよくないのか、あまり効果はないようだ。

そこで、どこかマッサージを受けられるよいところはないかとネットで調べてみたものの、どうも望んでいるような検索結果が得られない。

検索上位に出てくる情報は、どれも似たり寄ったりの情報満載の企業サイト。それに加えて広告のようなものばかり。
「マッサージ」「整体」「カイロプラクティック」などというカテゴリーのせいだろうか。

悶々とする。。。





人によって求める情報は様々だ。一概に「Googleの検索はダメね!」とはいえない。

企業サイトならその情報に信憑性もあり、例えば位置情報、問い合わせ先などを調べたい時は、こうしたサイトが一番信頼できるから、検索の上位に表示されていても納得する。

ただ、問題はそんなサイト一色に画面が染められていることだ。
まるで定規で書いたような四角形が無限に連なっているように、歪なものは一つとして入り込む余地がないような構成になっている。

しかし、私が知りたいのは時として一般ユーザーの意見であり、その体験であったりする。
大手が手がけるキュレーションサイトにある似たり寄ったりの記事も、企業サイトも、お店や商品の宣伝を目的とした記事も、その中に私の欲しい情報は出てこない。
一体どこにユーザー個々の感想なりがあるのか、さっぱりわからないのだ。

ネットの情報は全てが真実だけを語っているわけではないのはご承知の通りで、それはどんなサイトでも多かれ少なかれ同じことが言えるのだけれど、そんな中から自分なりに有益と思える情報を探すのはやぶさかではない。

しかし、私の検索の仕方が悪いのか、辛抱がきかないせいなのか、昨今ますますチョイスが減っていると思わざるを得ない。

今年に入ってからそんな兆候はあったものの、Googleさんの実施した5月あたりのアップデートで、それは顕著に現れる結果となった。

検索すればそんな一般人の意見を拾うことができたのは、いまは昔というように。
かつてはたとえ弱小個人ブログなどでも、しっかりと書き込まれた良記事であれば検索上位にあった。

個人ブログなどは信憑性が疑われるという意見もあるけれど、それは個々が判断すればいいことだ。

企業サイトなどが発信する信頼できる記事に加え、個々の意見なり見解が垣間見られる個人サイトの両方が見られ、情報の取捨選択ができるのが理想だ。
しかし、今はその使い分けが容易にはできなくなっている。

アナログ時代を長く生きてきたアラフィフ専業主婦だからだろうか。。。





私もブログをやっているので、このGoogleによるアップデートで個人ブログが根こそぎ干されたのは承知している。
まさにアクセス半減というのを身をもって経験してた。

現在のGoogleは「より確かなもの」という方向に向かっているのだろうと想像する。
どこの誰か素性の知れない素人が、あーだこーだと感想を語るような、確証のない情報は全て弾くべし!という方向にシフトしたといってもいい。

確かに不確かな、ひどい時はガセという情報が飛び交うネットの世界だ。
でき得る限り「正しい情報」を表示しようと努力するのは当然のことだ。

それをわかった上で、申し上げるなら、私はやはり「人の声」が聞きたい。

世の中にはたくさんの人がいて、その一人一人が違ったバッグラウンドや個性を持って違った人生を生きている。当然のことながら、物事に対する感じ方も千差万別だ。

しかし、だからこそ、違うからこそ面白い。

ただの情報だけでなく、人がどう感じたのか、それによって心がどう動いたのか。
私はそんなものが読みたい。

ところが現在はちょこっと検索したくらいでは、そのような記事にはなかなか辿り着くことができない。

上位に表示されていた自分のブログ記事が、後方へと脱落させられたから、悔し紛れに言っているわけでは、決してない!
書き手としては素直に評価に従いますという謙虚さは持っている。

ただ、読み手としては、もう少し読んでいて楽しいと思えるような、人間味のある記事が評価されないものかと思うのだ。

今後、Googleがどんな判断を下し、どのような方向性によってアップデートしていくか、それはわからない。
もしかしたら、このまま企業サイト優位路線を加速させるかもしれない。
逆にその反対もなきしもあらずと、若干の希望は残しているけれど。。。





自分のブログのことを思えば、その辺りは気になるところだけれど、あまり欲はかかないことにしている。
元々、自己満足で始めたブログだ。それが数年するうちに結構なアクセス数が集まるようになり、おや?おや?っと、少しだけ欲が出ただけ。
ブログを生業をしているわけでもなし、それが半減したくらいで、どうということはない。

ただ、自己満足とはいえ、たくさんの人が読んでくれているのだから、一生懸命に書いている。
自己満足に加え、少しだけ人様のお役に立つようなことも盛り込めたら。。。などと、殊勝なことを考えながらブログを継続している。

書き手としての立場から言えば、Googleさんの思惑には心掻き乱されることはなく、淡々とブログを書き続けていますよと言ったところだけれど、読み手としては違う。

ざっと検索しても企業サイトや広告ばかりの結果にはいささかうんざりしている。

ついでに言わせていただけば、Googleの表示してくる「おすすめ記事」はほとんどが興味のないものばかり。AI(人工知能)がどんなに賢くとも、海千山千のアラフィフ専業主婦の心に潜む欲求を読み切ることはできないのだ!

結局、なにかを知りたいと検索をかけるときは、「知りたい」のはもちろんだけれど、それと同じくらいに「読みたい」と、読み物として面白いものを求めている。

そう気づいたとき、私は暇なのだ!
そして、読みたいのなら、ネットじゃなくてもいいじゃないの!

そう気づいてしまった。。。

きっも世の中の忙しい人々は、誰が書いたかわからない、本当だか嘘だかわからないような戯言を楽しむ時間はないのだろう。

そして、ネットに親和性のある年代は、まさにそんな働き盛りの人なのだ。

多くの人が求めている情報を提供するのは、企業としては当然のことだ。暇な専業主婦を満足させるものよりも、社会を動かしている人々に焦点を当てるのは正しい。

人生の折り返し地点をとうに通過し、老後の生活をぼんやりと考えているような年代は、もはやおよびではないということなのだ。

Googleさまから「眼中なし」と宣言されたも同然なら、他のなにかに希望を見出すしかない。

というわけで、行き着いたのが「読書」だった。
アナログな昭和世代にとっては、安心と信頼に基づく情報収集の一手段である。

結局ここに戻ってきたか。。。


〈後編〉に続く。

Googleのアップデートと読書熱の再燃〈後編〉本を読むに必要な情熱と体力』

diary.hw-frankie.com

美学やプライドを持つことは格好よくもあるけれど、経年劣化すると怠惰に変わることもある。

f:id:frankie17:20200821121720j:plain

新型コロナ以来、子供達と過ごす時間が格段に増えた。子供と言っても大学生と来年には高校を卒業する、大きな子供達。
コロナ以前であれば、それぞれ学校やお友達付き合いなどで、家にいるよりも外出していることが多かった。

それがコロナ禍によって、一同介して在宅だ。一緒に食事をし、暇な時間はなんとなくみんなリビングに集っている。そんな状況であれば、当然のことながら会話も増えるものだ。

自分の知らない世界を生きている若者の話を聞くのはわりと楽しい。昭和脳から進化できない自分にとっては、ちょっとした刺激というのか、もはやアンティーク化した既成概念を取り払ってくれたりもする。

逆に経験値の低さによる浅はかさや傲慢さに危うさを感じたり、疑問に思ったり、情けなく感じたりと、いろいろと思うところがあるのも正直なところだ。

とりわけ我が家の子供達は、話していると、もっと器用になれないものかともどかしくなる。

よく言えば、独自の美学をもっているとか、プライドを持っているともいえるけれど、悪くいえば、融通が効かないとか頑固であるということと同義なのだ。

確固たるスタイルを貫き生きるのは、格好がいいように思える。ドラマに出てくるヒーローなどは、ほとんどがそのタイプだ。物事の本質に触れるどころか、それが存在することすら知らない若い頃は、そんな生き方がことさら格好よく映るのかも知れない。

しかし、もう若さとは無縁の歳になって思うのは、プライドなどという鎧を纏うことは、それが厚ければ厚いほど厄介なものだということ。
簡単に言えば、得することよりも損をすることの方が多い。

逆を言えば、そんなものを持たずによりよく生きている人もいる。





例えば、ある知人は人の真似をすることで莫大な利益を得ている。
具体的に言って個人が特定されてしまっては困るので職種などは控えるけれど、その人はいつも誰かの作った「よいもの」をそのままコピーして、「私が作りました」と宣伝をする。

もちろん、その人のプロデュース能力は素晴らしいものがある。いくら優れたものであっても、人の目に触れなければ正当な評価以前の問題だ。
そういった点で言えば、その人の功績も大いにあると言えるのだけれど、あまりに露骨に真似をするものだから、知ってる人は口々に、

「プライドはないのかしら?」

「すべて人真似よね」

と、陰で言いたいことを言う。

それをすべて承知の上で、その人は他人の真似をすることで利を得ているのだ。

人の陰口などというものは、おそらく80%くらいは「嫉妬」という要素で構成されているようなものだから、涼しい顔で聞かぬふりをしているのは正解だと私も思うのだけれど、問題は自分の美学やプライドといったものと、どう折り合いをつけているのかという点だ。

それを、本人に聞けるほど図太くはないので、本人の心中はいまだに謎なのだけれど、とても興味深いことであるのは確かだ。

この知人の例は極端だけれど、よいものをよいと認め、それを参考に自分のやり方を変えるのことは、自身が向上するための一助となることは間違いない。

「真似」というと言葉はよくない。「見習う」と言い換えればいいかもしれない。

うまくいっている人のやり方を見習って、自分流を変えてみれば、もしかしたらよりよい結果が得られるかもしれないのだ。

しかし、己の美学やプライドが強すぎると、容易にそれを受け入れることができない。自分のスタイルを崩すことができないのだ。





自戒の念を込めて言うとするなら、私は何かにつけて自分のやり方というものに固執するところがある。年齢と共に多少の柔軟性はできたと思っているけれど、ちょっとでも気を抜くと、今でもそんなところがひょいと顔を出す。

50年以上も生きていれば、そんなくだらないプライドを抱えていたせいで、損をしてきたことは数知れず。それは充分に自覚している。
にも関わらず、完全に捨て去ることができないのだ。
困ったことに。。。

こうすればより向上するだろう

ああすれば、もっと自分の利益となるだろう

そうわかっていても、その美学だとかプライドみたいなものが邪魔をする。
それらを捨てることで、たとえ得るものが100倍になるとわかっていても、できないのだ。

しかも、それが大した美学でもない、ほとんどの人がどうでもいいと思うようなことに、敏感に反応してしまうのだから、始末に負えない。

この困った性分は遺伝子によって確実に子供達にも受け継がれている。

恐るべし、DNAの不思議。。。

とにかく自分のスタイルというものにこだわり過ぎて、あらゆる成長のチャンスを逃しているように見えるのだ。

若い時であれば少し不器用なくらいの方が色々な経験ができて学びになることもあるだろうから、今はまだいい。
しかし、心配なのはそれが癖になってしまうことだ。
この私のように。。。

幸い私には「プライド?己の美学?そんなものに捉われているのは愚かだね」と、その時々でカメレオンのようにオピニオンを変えてしまえる夫がいる。

普段は節操がない、プライドのカケラも見えない、そんな風にこき下ろしているけれど、その器用な生き方こそ夫の人生をよりよきものとしているのは確かなのだ。

そして、同じ一艘の舟に乗る私も、その恩恵を受けていると言わざるを得ない。

まさに幸いだ。。。

私がいまだに下らないプライドを捨てずにいられるのも、このカメレオン夫のせいとも、おかげとも言える。

男でも女でも、どんな伴侶を得るかでその人生は大きく変わる。どんなに自立した二人であっても、お互いの生き方は影響するのが普通だ。

何事もバランスが大切だとよく言うけれども、私と夫の場合は「0か100か」「白か黒」かという私に対して、「0でも100でも」「白か黒?カメレオンのように変えられる」そんな夫だからこそ、うまく生活が回っているのだろう。

結局のところ、夫に偏屈なプライドがないからこそ、バランスが保たれているのだ。

子供達がこれからどんな伴侶を得るのか、それはわからない。親がお相手選びをする気もないのだから、きっと自分で見つけてくるか、ずっと独りでいるかどちらかだと思うけれど、願わくばうまくバランスのとれた相手と生涯を共にしてほしい。

「三つ子の魂百まで」というけれど、人間の性分はそうそう変わるものではない。
それは損得で語れるほど簡単なことではないのかもしれない。




そんなことに付随して、ブログに関しても最近は思うところがある。

このブログではなく、メインブログのことだけれど、楽しんでいる一方で3年以上も同じようなことをしていると、だんだんマンネリ感が出てくる。
アクセス数もそこそこ安定しているし、内容的にも本人は満足しているのだけれど、なんとなく安定しすぎてつまらない。

どうせやるなら、もっと読者登録数を増やす試みをするとか、アクセス数をさらに上げる努力をするとか、他者との交流なども進んでやるべきかとか、できることはたくさんあるはずなのだけれど、それができない。。。

ただ、好きなときに好きなことを、勝手に書く一方通行の「自己満足ブログ」。
それが私のブログスタイル!
これこそ、まさに雑記ブログの原点であり美学だわ!といった具合に。。。

しかし、よくよく現状と照らし合わせて考えてみると。。。ただ面倒くさいだけ。

つまり、私は「美学」や「プライド」といった言葉をうまい言い訳にして現状維持という、より楽な選択をしているだけだった⁉︎

美学やプライドも経年劣化すれば「怠惰」に変わるのであった。。。

生きづらい社会の中では、物事をシンプルに考えることが安息となる。

f:id:frankie17:20200813142829j:plain

娘の大学も春からずっとリモート講義になり、そのまま夏休みに突入。そして後期もリモートでの受講と決定したそうだ。

地方から上京してきた友人達は早々に帰省しているため、会うこともままならず、時折スカイプなどで集まってはお喋りを楽しんでいる。

別に聞き耳を立てているわけではないのだけれど、部屋から時折会話が漏れ聞こえてくる。

「なんか、生きづらい世の中だよね」

一瞬、「若い娘が何を言ってるのだか」

そう笑いそうになった。

しかし、次の瞬間にはその一言に同情のような気持ちがわいてきた。

昭和の時代に青春を謳歌した私は常々、今の時代じゃなくてよかった。。。

そう思っていたからだ。

もちろん、あの頃にスマホがあったなら便利だったろうし、もっともっと派手に遊ぶことができたかも?などと無意味な想像をすることはあるけれど、何事もわかり過ぎれば複雑になる。
なんでもかんでも指先一本で解決できてしまいそうな感じというのも、なんだか面倒な気がするのだ。

もしもあの頃にSNSのようなものがあったなら、遊び友達の数も桁違いだったろうし、遊ぶ場所も違っていただろうと思う。

単純に誰とどこで遊ぶか、なにを着て行くか、なにを持っていくか、その選択肢は途方もなく、それを想像しただけでうんざりする。

今の子はすごいなと改めて思う。。。





1000000の事柄から取捨選択するより、10の事から選ぶ方が当然簡単だし、シンプルであるがゆえに潔ぎよく決断もできる。

今は昭和の頃に比べると社会そのものが複雑に映る。
たった十数年だから、実際物事の本質はそれほど大きくは変わっていないはずなのに、何もかもが天地ほども変わったように映る。

「生きづらい世の中だな」

そう感じるのは情報過多ばかりでなく、干渉というのか、監視というのか、人の目がキツイというのもある。
実際コロナ禍では「◯◯警察」とかいう、監視員が巷のSNSなどにも散見され、ニュースになっていた。

昔は近所のおばさんに「あの子、派手な格好で出かけたわよ」などと井戸端会議で噂される程度だったのが、今ではどこの誰かわからない世界中の他人から吊し上げられる可能性もあるのだ。

人生の下り坂にさしかかった年齢の私がそう感じているのだから、きっとエンジン全開で前進しようとしている若者にとっては、より「生きづらい」と感じていることだろうと思う。

それに加えて、彼らを取り巻く状況は悪化している。新型コロナという得体の知れない感染症によって、否が応でも生活が変わってしまった。

私の娘たちも、一人は大学受験を控え、もう一人は本来なら就活を始めている頃だ。

受験生はまだいい。他者との関わりよりも、自身の努力によって結果を出せるという希望があるから。
しかし、就活となると話は違ってくる。コロナ禍による影響で、これまでの就活とは同じ流れにはならないことが予想される。

「勝てる」という自信が持てない限りは、真っ向勝負をするべき時ではない。

娘には、そう言っている。

安定企業に就職することだけが幸せの道ではない。
新型コロナを機に、社会も変わろうとしている中で、これまでと同じやり方で足掻いてしまえば、疲弊して挙げ句の果てには心が病んでしまうことさえあるだろう。
いくら就職できたとしても、それでは本来求めている幸せからは遠ざかってしまうことになる。

このコロナ禍では若い人たちの方がストレスを感じているという話を聞いたことがある。

エネルギーを持て余している若者にとっては、この状況は確かに不健康といえる。
自分の若い頃を思い返しても、家にはほとんど寝に帰るだけで、思い切り社交を楽しんでいたものだ。
それが今は、友人と遊びに出ることもままならない。
中にはコロナなんてなんのそので遊んでいる人もいるだろうけれど、少しでも羽目を外せば、SNSなどですぐに広まってしまう。

まさに生きづらい世の中だ。

この先どうなるのか、まったく予想のできない今を生きるためには何が必要なのだろうか?

受験や就職も大切なことかも知れないけれど、それ以前にどんな心持ちで生きていくべきか、そちらの方が重要だ。





どうしたらいいのだろうかと道に迷った時、正しい道へ行くためにできることはそれほど多くはない。
どこで迷ったのか思い返してみても、ほとんどの場合は心当たりがないものだ。だから迷ったのだから。。。

自分の道を再び見つけるためにできることは、二つしかないと思っている。

もときた道を戻る

当てずっぽうでも、がむしゃらに前進する

振り出しに戻り、もう一度やり直すか、天国行きか地獄行きかわからずとも、がむしゃらに道を突き進むか、そのどちらかだ。

私は後者のように、とりあえず進むという生き方をしてきたから、人にもそうせよと言いたいところだけれど、万人にとってよい方法とは言えない。

人それぞれ違った個性、性格をもっている。
それがたとえ自分の子供だとしても、自分と同じやり方を安易に勧めることはできない。
石を投げられたら投げ返す人ばかりではなく、傷ついてその場に倒れ込んでしまう人もいるのだから。

ただ、厄介なときほど物事はシンプルに考えよということは常々言っている。

何事においても選択肢の多すぎる現代では、物事をシンプルに考えることは助けとなる。
迷った時ほどあれこれ考えてしまうものだけれど、実際にできることはそれほど多くない場合がほとんどなのだ。

断捨離を思い浮かべてみるとわかりやすい。人間が生活する上で必要なものはそれほど多くない。徹底したミニマリストの部屋などをみればわかる。

私自身、身体は一つしかないのに、何着もの服や靴を持っている。実際それほど必要はないし、数が多ければそれだけ迷うことも増えるというのに。
スティーブ・ジョブズはいつも同じ黒いタートルとジーンズというスタイルを貫いていたのは有名だ。
服で迷う時間が無駄だということらしいけれど、これはなるほどと思った。

本当に必要な最低限のものしかなければ、その行動もよりシンプルになる。

物事も同じ。

自分にできることが、戻るか進むか、そのどちらかしかないと考えれば、「えい!」っと潔く動くことができる。

戻ることは負けることになる?

そんなふうに思う必要はない。それも一つの方法なのだから。
仮にも負けだとしても、「負けるが勝ち」というように、最後に笑えるならそれは正しい選択だったということになる。





あれこれ色々な材料を持ち出して考えすぎると、それらにがんじがらめになって負のループから逃れられなくなることもある。
それで心を病んでしまっては意味がない。それは避けなければいけないことだし、病むくらいなら何もかも放り出してもいいとさえ思う。

私は昔から楽天的過ぎるとよく言われるけれど、それは物事をシンプルに考えると、自然とそんな思考になるせいなのだ。

なんでも白黒つけようとするところはあるけれど、そんな潔さを持たない限り、心がどうかなってしまうのではないかと思う。自分でいうのもなんだけれど、繊細な部分があるからこそ、物事をなるべくシンプルに考えようと努力している。

子供達が心を病んで暗黒の日々を送ると想像するだけで、私自信が病んでしまいそうになる。
立派な人間になどならなくてもいいから、幸せで明るい人間になって欲しい。

シンプルに考えるなら、受験も就職も生きる上での小さな事柄の一つだ。
それによって幸せになれるかどうか、どんなに頑張ってもその保証はない。

こんな生きづらい社会の中で、勝ち抜いていけるいける人は多くはないだろう。
今後はますます競争は激しくなり、格差も広がるのだろうと思う。

無理せず、欲張らず、自分が本当に必要だと思うものを見つければいい。

屋根のあるところで眠り、

毎日3食しっかりと食べ、

清潔な服を着て、

誰かと笑って暮らす。

人間の幸せとは、本来こうしたシンプルなものなのだから。