In other words

I really don't know life at all ...

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「育てる」ことの難しさ。子供にしても花にしても。。。

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何年か前からベランダで花を育てている。園芸などには全く興味がなかったのだけれど、なぜか去年あたりから本格的にベランダを花だらけにしてやろうなどと、本格的に手入れをするようになった。

最初はなかなかいい調子だった。撒いた種が芽吹き、元気な葉を茂らせ、やがて蕾が出来上がり、少しずつ花を咲かせ始めた。

そんな成長を日々見守るのが楽しくて、毎朝暗いうちからベランダにしゃがみ込んでは、間引きをしたり萎れた葉をとったり手入れをしながら、じっと咲いた花を眺めていた。

異変を感じたのは7月。例年よりも雨量の多い梅雨に、花の勢いが衰え、成長が芳しくなくなった。
それでもまだ新しく蕾をつけ、花が咲く様子を見ることができた。

本格的な危機が訪れたのは8月の半ば頃だった。梅雨が明けたかと思ったら、今度は連日の猛暑だ。
ただでさえ通気性の悪い狭いベランダに、強い日差しだけが一日中燦々と降り注ぎ、葉は皺皺に萎れてしまう。

早朝に水やりをしても、あっという間に気温はあがり、もはや土の中は蒸し蒸しのサウナ状態であることが想像できた。

いくつかの花は根腐れしたのだろう、見事に枯れてしまった。

一番ショックだったのは、花ではなく「金の成る木」が枯れてしまったことだ。
もう何年もとりたてて手入れをすることも必要とせず、その肉厚な葉は常に青々と生い茂り、次々と新芽をだしていく。それほど強い植物が、だんだんと元気を失ってきた。
鮮やかなグリーンだった葉が茶色に変色し、次から次へと枯れ始めたのだ。
枯れてしまった枝を剪定していたら、「金の成る木は」見事に丸坊主になってしまった。

この木は元々、お金持ちの知人が数年前にプレゼントしてくれたものだった。
増えすぎたのでもらってねと、美しい漆黒の鉢と共にいただいたのだ。

元気に葉を増やし、生い茂っていく様子を見ていると、まるで自分の懐まで潤ってくるような気がして嬉しくなるので、私はなんとなくこの鉢を大切にしていた。

それが夏の暑さにやられてしまったのだ。

園芸などが得意な義母とSkypeで話したとき、その様子を見せると、

「手をかけすぎたんじゃない?」

そう指摘された。
「金の成る木」に水のあげすぎは厳禁。生命力の強い植物だから放置するくらいでちょうどいいという。

確かに水をあげすぎたのは痛恨のミスであった。自分でもそれが原因ではないかと薄々気づいていた。しかし気づいた時には時すでに遅しで、もはや「金の成る木」は瀕死状態だ。
なんとか生きてはいるけれど、どんなに頑張っても回復には相当の時間がかかるか、このまま朽ちてなくなるか。。。





生き物を育てるのは、本当に難しい。
ビギナーベラダガーデナーは、いまそれを痛感している。

思えば「育てる」ことが難しいのは、植物だけではない。人間もまた然り。。。

私にも子供が2人いる。もう来年には2人とも大学生という年齢の大きな子供だ。
この子たちを見ていると、自分が「こんな大人になって欲しい」と掲げた理想とは、ずいぶんとかけ離れている。

この20年以上、自分のことはさておき、何事も子供を中心に考え暮らしてきた。

下世話なことを言えば、自分の貯金も湯水のように注ぎ込んできた。
学校もお稽古事も、本人が「やってみたい」ということは全てやらせたし、行ってみたいところがあると言えば、それが地球の反対側でも連れて行って、様々な経験をさせることに努力を厭わなかった。

経験はプライスレスであると考えていたから、自分の力で実現させられることは、喜んでやらせてきた。

20年近くそうしてきて、どうなったか?

どうにもなっていない。。。

長女は流行に敏感で、物事に着目するのが早く行動力もある。しかし長続きしない。次々と新しいものに目を奪われ、あちこちに手を出して、一体何がしたい?と、見ていてイライラする。

次女は正反対。一つのことだけをやり続け、他のことには全く目もくれない。
頑ななまでに一つのことに固執する、いわゆるオタク気質で、自分の作り上げた世界の中だけで完結している。

同じように育てたつもりなのに、この違いは一体どうしたことか。

手をかけ過ぎたつもりもなければ、放置したことも皆無だ。
その塩梅が違っていたのか?
いまだもってわからない。。。

新型コロナによる自粛で、在宅が増えた子供たちを見ていると、「確かに難しい。。。」そうため息が漏れる。

ひょっとしたら、人間も花や木もまた同じということなのかもしれないと思う。

オギャーと産まれた子供が大人になるまで約20年。大学を卒業して自立となると22年だ。

子育ての時期はあっという間だったような気もするけれど、自分が辿ってきた道を振り返れば十分に長い。。。

その証は顔のたるみや白髪に見てとれる。

その長い年月の間、それこそ様々なことがあったはずだ。よほど大きな事件でもなければ忘れてしまうのだけれど、確かに悩み苦しんだ日々はあったはずだ。

長い人生いい時ばかりではない。逆風が吹くことは誰の人生にも起こることだ。

そのときの対処法を誤ると、失敗する。
まさにこの猛暑でミスをしたために、大切な花を枯らしてしまったことのように。

しかし正しく対処したからといってうまくいくとも限らない。これが「生き物」を育てる上での難しい点だ。

その個体によって強さや成長の度合いは違う。
生物は生まれながらに持って生まれた生命力というものがあるという。
どんな過酷な環境であろうと、それに立ち向かう強さを持ったものもいれば、少しな刺激にへたり込むものもいる。

同じ日に、同じように撒いた種が全て芽吹くわけでなく、たとえ芽が出てもヒョロヒョロと伸び、いつしか枯れてしまうものがある一方で、太い茎を持ち、力強く育っていくものもある。

人間も同じなのかもしれない。。。

子供達が悩んでいるとき、「こうすればいいのよ!」と老婆心からアドバイスをするのだけれど、そのたびに子供達は諦め顔になる。

「みんなマミーみたいに強いわけじゃない。嫌なことでも一晩寝れば忘れちゃうような人ばかりじゃないんだよ」

もう何百回言われたか記憶できないほど、何度も聞かされた言葉だ。

最初は「最近の若い子は弱い。弱すぎる。反骨精神はないの⁉︎」

などと思っていたものだけれど、最近は少し違う。
子供達の言う通り、生まれながらに繊細な人もいれば、優しく気の弱い人もいる。
反対に無神経であったり、打たれ強い人も。。。





花のように枯れたら新しい花を植えようと諦めのつくものはいいけれど、子供ともなればそうもいかない。

枯れないまでも、茎や枝がヒョロヒョロと弱かったり、歪に曲がったりしてしまったら、もう容易には修正はきかない。

「育てる」という行為は難しい。
手をかけすぎてもダメだし、放っておいてもいけない。

日々きちんと観察すること、心配な点があれば、なにが問題かを探し出していち早く対処すること。
ある程度は個体の生命力を信じて、自身で伸びていくことを見守る。

今年の猛暑はそんなことを考えながら過ごした。

Googleのアップデートと読書熱の再燃〈後編〉本を読むに必要な情熱と体力。

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前記事を書いていた際に、3000文字を超えてきたあたりで、これは長すぎはしないか?と思い始めたのだけれど、まだまだ終わりそうにない。。。

トピックとしては、Googleのアップデートにより、思うような検索結果が出ずにつまらない。もうGoogleに見放されたので、読書に活路を見いだそうと読書熱が再燃したお話というただそれだけ。

それなのに、まだまだ続きそうなのだ。

饒舌なアラフィフにとっては、これでもかなり省略という作業を重ねているつもりなのだけれど、言いたいことを全て吐き出そうと思うと、そうそう簡潔には済まない。

そんなわけで、誰にともなく「長すぎて申し訳ない」という気持ちが湧いてきたので、それらしく〈前編〉〈後編〉などという小賢しいことをしてみた。

つまり、この前記事の正真正銘の「続き」である。


diary.hw-frankie.com






ネットから見放されたことが原因となり、最近再燃したのが読書だ。

若い頃はスマホなどという便利なものがなかったから、とにかく本をよく読んだものだ。
今の子がスマホを片時も離さず手にしているように、私が若い頃には文庫本をいつでも手にしていたような人が多くいた。

今は雑誌や書籍が売れないという話をよく耳にするけれど、ネットが普及すればそれも当然のことと想像できる。
しかし、ネットにそっぽを向かれた身としては、もはや頼みの綱は「読書」だけだ。

そこで、早速本屋さんへ行ってみた。
数年前までは週に何度も顔を出していた、駅前の本屋さんだ。

いつも無愛想な店員が、ニコリともせずにウロウロとしていて、あまり気分はよくないけれど、本屋というのは概してそんなものだ。
接客の素晴らしい本屋さんなど、これまでお目にかかったことがない。

まぁ、それはいいとして、書店へ行かなくなった理由は、面白そうだと思える本がなかったせいもある。

しかし、久しぶりに行ってみると、興味深い本が何冊か見つかり、「ああ、やっぱり本だわ!」と思った。

ところがお会計をしてビックリした。。。

雑誌1冊、新書3冊、文庫2冊。これでゆうに¥5,000を超えたのだ。

昭和感覚で言えば、本は高いものではなかった。
30年くらい前であれば、文庫本などは¥300程度。消費税なんてものもなかった時代だから、¥1,000あれば文庫が3冊は買えた。だからこそ、当時の若者は本をたくさん読んだのだろう。

経済は冷え切っているのに、こんなに物価が上がっているとなれば、よほどの本好きか、専門書を求めるでもない限り、わざわざ本を買おうと思わないだろう。

スマホなら定額の通信量だけで、あらゆることができ、本で得られるのと同じように知識を得ることも大方はできてしまう。

しかし、〈前編〉でも述べたように、Googleさまから見放された者にとって、本は救世主なのだ。
昔と比較すれば高いけれど、そこに盛り込まれた情報はそれだけの価値がある。
もしも自分の足で本の中にある知識や学びを自身の経験から得て、それを書籍としてまとめようと思ったら、それこそどれだけの時間とお金がかかるかわからない。

ブログを書くくらいしか趣味のない中年、しかもネットにも見放された者にとっては、本代に¥5,000支払うことは安いくらいだと思わねばならない。





さあ、これからはゆっくりと、読書漬けの日々を過ごすわよ!といい気分で帰宅し、買ってきた本をリビングの小さなテーブルの上に満足げに並べる。

そして、その中の一冊を手に取った。

背筋を伸ばして正しい姿勢で読みたいところだけれど、それではリラックスできないと、ソファーに深く腰掛けて読み始める。

そのうち、さらにリラックスした私は、ゴロッとソファーに横たわって続きを読み始める。

なんだか、スマホの画面やパソコンをのぞいている時よりも、集中できる気がする。。。

しかし、そう思ったのも開始30分程度だった。身体を横たえたのが大きな間違いだったようで、私はまるで何かの発作かと言えるくらいの早さで落ちた。。。

爆睡中。。。

2時間後に目覚めてみると、手にしていた本はそのままお腹の上に乗ったままだ。かなり寝相がいいところをみると、よほど深く眠ってしまうのだろう。

かれこれ15年ほどは続けている無駄な早起き生活で、朝の4時〜5時には起きるようにしている。たとえ前の晩何時に寝ようが、起きる時間は変わらない。そのせいで、多少寝不足気味ではあるのだけれど、それにしても真昼間に2時間も爆睡とは、ちょっと度が過ぎている。

目覚めてすぐにまた本を手に取る。しかし、どこまで読んだのだかわからない。
うとうとしながらページをめくっていたのだろう。読み進めてはいるけれど、内容が頭に入っていないというパターンだ。

そこで、「ここは読んだ」と記憶の鮮明な部分までページを戻すことなる。

読書を再開して以来、毎日こんな感じだ。

これを日々繰り返すというのは、まさに「一歩進んで、二歩下がる」という行為に等しい。

当然のことながら、読書スピードが恐ろしく遅い。。。

別に早く読む必要もないのだけれど、本というのは「旬」のものだ。
小説の類でさえ、時期を逃すと面白くても新鮮さを失ってしまったりする。

実用書やビジネス本、エッセイなどに至っては、まさにすぐに読んでこそ役立つというものばかりだ。

子供達が買ってきた本を置き去りにし、いつまでも読んでいる形跡がない時、

「本は読む時期を逃すと、旨味も逃すわよ!」

などと、偉そうに言っているけれど、その言葉はそっくり自分に返したい。。。と、そんな状況なのだ。





文庫や新書なら、一日あればちょこちょこと読んでいれば読み終えることは難しくない。私にはそれだけの時間がある。

しかし、たった一冊の文庫が3日あっても読み終わらないのだ。

寝落ちだけが原因ではない、加齢による視力の衰え、そして乾燥が、小さな文字を追いかけることに疲れてしまい、持久力を失ってしまう。
眼精疲労というものだろうか。。。

眼を休めようと眼を閉じようものなら、今度はまた別の敵「睡魔」に襲われることになる。

どんなに寝ても寝ても眠れないということがない「睡眠ウェルカム」な体質が恨めしい。

本を読むにも体力が必要というわけだ。

この歳になれば仕方ないと、睡魔と眼精疲労をなだめながら読書を続けている。

そして、前回買った本がまだ読み終わらないうちに、新しい本を持ち帰ってくる。

歩みは亀の如しだけれど、本を読むのはやはり楽しい。そして、本屋さんへ行き、「読みたい」と思える本が見つかることも嬉しい。

体力がなくても、本に対する期待と情熱さえあれば、もうGoogleさんに頼らなくても楽しく暮らせそうだわと思った。

はじめてパソコンを買ったのは、かれこれ25年前だ。以来、ずっとネットのお世話にはなってきた。そして、iPhoneが登場してからは、さらにデジタルに依存するようになった。

しかし、アナログな生活もいいものだ。ちょっとしたデジタルデトックスのつもりで、この読書熱をさらに再燃させるため、どんどんガソリンを注ぎ込もうと思っている。

未読の本は既に、10冊近くも積み重なっている。
ブログも韓国ドラマもほどほどにして、早く読んでしまおう。
旬を逃す前に。。。

Googleのアップデートと読書熱の再燃〈前編〉苦肉のデジタルデトックス。

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最近、受験生の娘がしきりに肩こりを訴えてくるので、ちょっと困っている。

私自身、肩こりとは無縁の人生。美容院などで軽いマッサージをしてもらう際、「ちょっと凝ってますね」などと言わることはあるものの、本人は自覚症状なし。
痛くも痒くもない。
そんな肩こり知らずのため、娘から訴えられても、どう対処していいのかわからない。

毎日長時間同じような姿勢をしているのか、予備校から帰宅すると肩がパンパンになっていて、肩揉みなどをしてあげても、私のやり方がよくないのか、あまり効果はないようだ。

そこで、どこかマッサージを受けられるよいところはないかとネットで調べてみたものの、どうも望んでいるような検索結果が得られない。

検索上位に出てくる情報は、どれも似たり寄ったりの情報満載の企業サイト。それに加えて広告のようなものばかり。
「マッサージ」「整体」「カイロプラクティック」などというカテゴリーのせいだろうか。

悶々とする。。。





人によって求める情報は様々だ。一概に「Googleの検索はダメね!」とはいえない。

企業サイトならその情報に信憑性もあり、例えば位置情報、問い合わせ先などを調べたい時は、こうしたサイトが一番信頼できるから、検索の上位に表示されていても納得する。

ただ、問題はそんなサイト一色に画面が染められていることだ。
まるで定規で書いたような四角形が無限に連なっているように、歪なものは一つとして入り込む余地がないような構成になっている。

しかし、私が知りたいのは時として一般ユーザーの意見であり、その体験であったりする。
大手が手がけるキュレーションサイトにある似たり寄ったりの記事も、企業サイトも、お店や商品の宣伝を目的とした記事も、その中に私の欲しい情報は出てこない。
一体どこにユーザー個々の感想なりがあるのか、さっぱりわからないのだ。

ネットの情報は全てが真実だけを語っているわけではないのはご承知の通りで、それはどんなサイトでも多かれ少なかれ同じことが言えるのだけれど、そんな中から自分なりに有益と思える情報を探すのはやぶさかではない。

しかし、私の検索の仕方が悪いのか、辛抱がきかないせいなのか、昨今ますますチョイスが減っていると思わざるを得ない。

今年に入ってからそんな兆候はあったものの、Googleさんの実施した5月あたりのアップデートで、それは顕著に現れる結果となった。

検索すればそんな一般人の意見を拾うことができたのは、いまは昔というように。
かつてはたとえ弱小個人ブログなどでも、しっかりと書き込まれた良記事であれば検索上位にあった。

個人ブログなどは信憑性が疑われるという意見もあるけれど、それは個々が判断すればいいことだ。

企業サイトなどが発信する信頼できる記事に加え、個々の意見なり見解が垣間見られる個人サイトの両方が見られ、情報の取捨選択ができるのが理想だ。
しかし、今はその使い分けが容易にはできなくなっている。

アナログ時代を長く生きてきたアラフィフ専業主婦だからだろうか。。。





私もブログをやっているので、このGoogleによるアップデートで個人ブログが根こそぎ干されたのは承知している。
まさにアクセス半減というのを身をもって経験してた。

現在のGoogleは「より確かなもの」という方向に向かっているのだろうと想像する。
どこの誰か素性の知れない素人が、あーだこーだと感想を語るような、確証のない情報は全て弾くべし!という方向にシフトしたといってもいい。

確かに不確かな、ひどい時はガセという情報が飛び交うネットの世界だ。
でき得る限り「正しい情報」を表示しようと努力するのは当然のことだ。

それをわかった上で、申し上げるなら、私はやはり「人の声」が聞きたい。

世の中にはたくさんの人がいて、その一人一人が違ったバッグラウンドや個性を持って違った人生を生きている。当然のことながら、物事に対する感じ方も千差万別だ。

しかし、だからこそ、違うからこそ面白い。

ただの情報だけでなく、人がどう感じたのか、それによって心がどう動いたのか。
私はそんなものが読みたい。

ところが現在はちょこっと検索したくらいでは、そのような記事にはなかなか辿り着くことができない。

上位に表示されていた自分のブログ記事が、後方へと脱落させられたから、悔し紛れに言っているわけでは、決してない!
書き手としては素直に評価に従いますという謙虚さは持っている。

ただ、読み手としては、もう少し読んでいて楽しいと思えるような、人間味のある記事が評価されないものかと思うのだ。

今後、Googleがどんな判断を下し、どのような方向性によってアップデートしていくか、それはわからない。
もしかしたら、このまま企業サイト優位路線を加速させるかもしれない。
逆にその反対もなきしもあらずと、若干の希望は残しているけれど。。。





自分のブログのことを思えば、その辺りは気になるところだけれど、あまり欲はかかないことにしている。
元々、自己満足で始めたブログだ。それが数年するうちに結構なアクセス数が集まるようになり、おや?おや?っと、少しだけ欲が出ただけ。
ブログを生業をしているわけでもなし、それが半減したくらいで、どうということはない。

ただ、自己満足とはいえ、たくさんの人が読んでくれているのだから、一生懸命に書いている。
自己満足に加え、少しだけ人様のお役に立つようなことも盛り込めたら。。。などと、殊勝なことを考えながらブログを継続している。

書き手としての立場から言えば、Googleさんの思惑には心掻き乱されることはなく、淡々とブログを書き続けていますよと言ったところだけれど、読み手としては違う。

ざっと検索しても企業サイトや広告ばかりの結果にはいささかうんざりしている。

ついでに言わせていただけば、Googleの表示してくる「おすすめ記事」はほとんどが興味のないものばかり。AI(人工知能)がどんなに賢くとも、海千山千のアラフィフ専業主婦の心に潜む欲求を読み切ることはできないのだ!

結局、なにかを知りたいと検索をかけるときは、「知りたい」のはもちろんだけれど、それと同じくらいに「読みたい」と、読み物として面白いものを求めている。

そう気づいたとき、私は暇なのだ!
そして、読みたいのなら、ネットじゃなくてもいいじゃないの!

そう気づいてしまった。。。

きっも世の中の忙しい人々は、誰が書いたかわからない、本当だか嘘だかわからないような戯言を楽しむ時間はないのだろう。

そして、ネットに親和性のある年代は、まさにそんな働き盛りの人なのだ。

多くの人が求めている情報を提供するのは、企業としては当然のことだ。暇な専業主婦を満足させるものよりも、社会を動かしている人々に焦点を当てるのは正しい。

人生の折り返し地点をとうに通過し、老後の生活をぼんやりと考えているような年代は、もはやおよびではないということなのだ。

Googleさまから「眼中なし」と宣言されたも同然なら、他のなにかに希望を見出すしかない。

というわけで、行き着いたのが「読書」だった。
アナログな昭和世代にとっては、安心と信頼に基づく情報収集の一手段である。

結局ここに戻ってきたか。。。


〈後編〉に続く。

Googleのアップデートと読書熱の再燃〈後編〉本を読むに必要な情熱と体力』

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