In other words

I really don't know life at all ...

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「進化系」への憂鬱。そこにハードルを見るのは意固地ゆえか?

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写真は本文とは関係ありません。

既存のものにアレンジを加え、さらに進化させたというものがある。

お菓子の世界にも、そんな波が押し寄せている。

進化系スイーツというものだ。

本来の色形、素材など、もはや原型は留めていないけれど、カテゴライズすると、従来のそのお菓子と同じものとして並べられる。

そんな進化系スイーツは常に注目を集め、人気店などになると常に行列を作るというくらいにポピュラーな存在となっている。

この発展は「インスタ映え」の援護を受けたものではないかと密かに思っている。

なぜならば、進化系スイーツは色や形が華やかで、写真映えするものが多いからだ。

私はお菓子好きなので、街でネットでと、あらゆるところで、日々美味しそうなお菓子を探しているのだけれど、近頃たびたび出会すのが、この進化系スイーツなのだ。

話題になれば人は集まる、人が集まれば、さらに話題となり、メディアなどで取り上げられる機会も増え、さらなる人気を呼ぶ。。。

あまりに「すごいぞ、すごいぞ」といった様子を見せられると、さすがに気になってくる。

しかし、興味津々にも関わらず、なぜか手を出すことを躊躇してしまう。

「食べず嫌い」はいけない。見た目以上に味も確かかもしれないのに。。。そう思いながらも、私は古い伝統というものに遠慮して、新しいものを敬遠してしまうのだ。





例えば和菓子で言えば、美味しい餡子を食べた時。
何十年も修行を積んだ者にのみ備わる技術というものに敬服し、それを重んじることこそ、お菓子loverの務めであり、若くはない者の使命ではないかと。

洋菓子も然り。創業当時の味を守り通す頑固なまでの姿勢に、畏敬の念を覚え、それを食べ続けることが、この味を守ることの一助になると、勝手に思ってこだわっている。。。

こうした思いを持っているせいだろうか、私はいわゆる進化系という従来のものをアレンジして新しいものを作り上げるということが、どうも素直に受け入れられないところがあるのだ。

時代は確かに変わったけれども、変わらないもの、変わって欲しくないものが、まだ私の中にはある。

往生際が悪いのは承知のこと。

別に私が進化系スイーツに手を出したとしても、誰にも文句は言われないだろうし、それどころか、誰が何を食べようが、頓着する人などいないだろう。

興味があるのなら、一度でいいからものは試しで口にしてみればいい。

理屈では分かっているのに、いざとなるとそれができない。

一体、誰に?なにに?義理立てをしているのだ?

思わず自分自身にツッコミが入る。

そこで、はたと思い当たった。

意固地。。。

人は歳をとると、心の柔軟性を失い意固地になると聞いたことがある。

よく、ドラマなどでも、分からず屋のがんこ親父や、変わり者の婆さんなどが登場し、周りを困惑させたり、しらけさせたりしている。

あれと同じ。。。

進化系?

そんなの、邪道だよ。本物じゃないよ。

そんなことを言って、誰の意見にも耳を傾けようとしない天邪鬼な意地悪婆さん。

自覚症状はないものの、筋は似通っている気がしないでもない。

ただでさえ歳をとることを悲観し、時に憂鬱になる気分を盛り上げながら生きているのに、進化系スイーツのおかげで、私の憂鬱はどんどん深まっていく。

たかがお菓子。。。

わかっていても、気持ちがズーンと傾いていく。

こうなったら、食べるしかないのかもしれない。

意固地な年寄りになりたくなければ、邪道だろうが、なんだろうが、手を出してみるべきなのだ、

そして、実際に自分の舌で味わった時に、決めればいい。

伝統にこだわり、進化系と言われるものを拒絶するのか、逆にそれを認めて自分の中に迎え入れるか。。。

それをしなければ、自分自身に擦りつけた「意固地」という汚名を晴らすことはできないだろう。

気は進まないけれど、進化系に向き合って見る時がきた!





求めなさい、そうすれば与えられる。。。

その言葉通り、進化系への入口はあるとき突然目の前に現れた。

新約聖書は嘘を言っていなかった!

ある老舗和菓子店がフランス菓子のテイストを加味したお菓子を販売したのだ。

期間限定なので、このチャンスを逃したら、私はこれからも新しいものに手を出すことは出来ない。

いくつかあるお菓子を片っ端から買って食べてみた。

美味しかった。。。

素材を知り尽くした職人だからこそ作り上げられる味だ。

これを進化系と呼ぶには、あまりにもおこがましいと思えるほどで、ここでまた進化系に対する不信感が余計に頭をもたげてきてしまった。

ここでも私はこだわりが捨てられなかったのだ。進化系に手を出したつもりでいたけれど、決してそうではなかった。

絶対的信頼のあるお店だからこそ、老舗の味を信用しただけだったのだ。

やはり私は意固地だ。
進化系へのハードルは依然として高いままなのであった。

Billy Irishを聴いたとき、私はもうこの世界を共有することはないのだと思った件。

Billy Irish(ビリー・アイリッシュ)という若いアーティストの曲を聴くたびに、ちょっとした寂しさに襲われたりする。

私がこんな感情を抱くのは、決まって「失われた時」を思ってのことだ。
失われた若さと、それに付随するもの全てから、完全に見放されたことを自覚して、寂しくなってしまう。

なんとも大人気ないのだけれど。。。

いいなと思うアーティストがいれば、当然ライブなどへ行ってみたいと思う。けれど、もうBilly Irish は無理だ。。。


中高年がライブへ行ってノリノリになることができないというわけではない。
矢沢永吉のライブに繰り出して、30年、40年前と同じようにタオルを投げながら、Yazawaと共にシャウトしている同年代は沢山いるだろう。しかし、私はそれさえも躊躇してしまう。


そうするためには、幾つになろうが「突き抜ける」必要があると、自分自身が思いこんでいるところに問題がある。
その命が尽きるまで「ロックだぜ!」と我流を貫いた故内田裕也氏のように(ちょっと古いか。。。)。
つまり、これは内田裕也になれない、自分にとっての問題なのだ。

年齢や己の見た目もかえりみず、我が道を突き進む覚悟というものの有無。。。





年齢という点で言えば、同じような年齢の中年女性が自分の子供と同じくらいの韓流アイドルを追いかけるなどという話は、いくらでもある。

ただ、そこには若い彼らを育てたい、応援してあげたいといった母心のようなものが見え隠れする。

しかし、私がBilly Irish に求めるものはそれとは全く質の違うものだ。

これは初めて『ultra』とかいうイベントを知った時の思いに似ている。

あの場所で、割れるようなノイズの中で一晩中ガンガン踊り狂うことが出来たら、どんなに楽しいだろうかと。

そこで、ハタと自分の体力や運動能力の低下が思い出される。それと同時に頭に浮かんでくるのは、自己満足丸出しで無様に踊る美しくない中年女という絵だ。

まさに公害に値する。。。


Billy Irish が『bad guy 』のプロモーションビデオで見せる、あのおかしなダンスはとても魅力的だ。

若い頃の自分なら。。。

ちょっと真似してみたりしたくなっただろう。

若ささえあれば、ライブに行って、あのヘンテコリンなダンスを彼女と一緒に踊り狂うこともできただろう。

まさにその空気、その世界観を共有した気持ちになれるはずだ。

しかし、それはもうできない。
ライブへ行くことも、恥を忍んで踊るくらいのこともできないことはない。
しかし、そこには「羞恥」というかつてなかった邪魔な感情が立ち塞がってくることは間違いない。
そうなると、あの世界に完全に入り込むことはできないのだ。





子供達はきっと知っている。
YouTubeの履歴を見て、母親がどんなものに心躍らせているかを。

だから、時折マライアやコステロなどを入れておいたりする(笑)

これがマドンナとかワムまでいくと、いかにも昭和だから、そこは少し見栄をはって、もう少し新しい雰囲気のあるチョイスにしてみる。

マライアやコステロも古いには古いのだけれど、今時の若者も結構知っていたりするのだ。そのせいで、あまり古さを感じさせない。
いかにもアラフィフの女が聴きそうなチョイスで、我ながらいい感じだと思う。


自分の娘と同じ年頃のアーティストを観て、その世界に魅了されながらも、フロアーには立つことができずに、2階席に座ってにこやかに、そしてお行儀よくクレイジーな若者達を見ていなければいけないことを想像するのは寂しい。

過ぎた時間は戻らない。私はもう17歳の女の子には戻れない。あの何もかもを忘れたようにその瞬間を楽しむという熱狂を、もう二度と味わうことはない。

やりたくても出来ないことがあるというのは、悔しいものだ。

いくつになってもできないことはない。

人はよくそう言うけれど、それを可能にするためには捨てなければいけないものもあるのだ。

私にとって、「羞恥心」ということになる。
見栄を張るつもりはないけれど、さすがに不格好な姿を公衆の面前で晒す勇気はない。

つまり、どう考えても、もうBilly Irishは無理なのだ。。。


いい歳をしてくだらないことを考えていると、我ながら思う。
だからこそ、家族にも友人にもそんなことは言わない。

ただ、そんな若かりし頃の自分を渇望していることも、また確かなことで、それを完全に自分の中から追い出せないのが困ったものなのだ。

まったく、おかしな中年になったものだと自分でも呆れている(笑)

デジタルデトックス。たとえスマホを忘れても、腕時計と財布があればそれでいい。

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たまにスマホを忘れて外出してしまうことがある。途中で忘れたことに気づいても、急を要する連絡を待っている時でもない限りは取りに戻らない。
社会にとって私はそれほど重要な人間ではないと自認しているし、常に確認を要するアプリなども一切ないので問題はない。


元々、昭和生まれのアナログ世代だ。スマホのない時代を経験してきた者は、何かあったとしても、なければないでどうにでも術を見つけることはできるという自負がある。

それならば、普段からスマホを持たずに出かければいい。

そう思うところだけれど、言うが易しで、実際にはそれをしようと思うと勇気がいる。
そこに便利なものがあれば、それを使いたくなるのは人の常。。。

実際にその恩恵に預かることが当たり前になると、切り離すのは容易なことではない。


様々な場面を想像すればわかる。

仕事をしている人なら、スマホがあることで、連絡が容易になる。

家族のいる人なら、家族に不測の事態が生じた時、すぐに連絡がつく。

友達付き合いを大切にする人なら、突然の美味しいお誘いをすぐに受けることができる。

得たい情報がある時はその場で調べることができる。

ちょっと思い浮かべただけで、あるに越したことはないとわかる。


スマホがあることで、一番便利に感じるのは、時間の浪費を防ぐことに、大いに貢献してくれるということだ。

様々なことが、指一本で完結できるのは、スマホの普及していなかった時代では考えられないことだった。

こんな便利なものに慣れてしまうと、なくても困らないけれど、あればあったで便利だし。。。と思うようになる。





私が十代の頃はスマホなど存在しなかった。
子供達に話すと、「どうやって友達と遊んでいたの?待ち合わせとかは?」と、まるでそれが不可能であるかのように驚かれる。

どうしていたのだろう?

友達と会う前は家の固定電話で連絡を取り合い、待ち合わせの時間や場所を決めていた。

「もし、なにかあって行けなくなった時や遅刻するときは?連絡取れないじゃん」

そんな時のために、私はいつも喫茶店などで待ち合わせをしていた。

茶店ならその店に電話をすれば、客に取りついでくれるからだ。
今はどうなのだろう?
チェーン系のカフェが乱立する今と違い、個人店が多かったからこそ出来たことかも知れない。

駅で待ち合わせをしている人も多かったけれど、そんな人は駅にある「伝言板」という黒板にメッセージを残したりしていた。

ほら、なければないで、どうにかなるものなのだ。

そう言いたいところだけれど、スマホであれば直接的にメッセージを送ることができる。まさに時間の短縮だ。


他にものすごく単純なところなのだけれど、スマホの機能で重宝しているものがある。

それが「時計」だ。
常にデジタル表示されているので、パッと確認するのに便利だ。

街中には時計などそこら中にあるように思えるけれど、いざ必要なときに見つからないということはよくある。

どんな気楽な身分でも、少なからず時間には縛られている。我々に与えられた時間が1日24時間と決まっている限りは。

「時は金なり」などと格好のいいことを言いながら、少しの時間も無駄にしたくないと、あちこち飛び回るような生活をしてきたけれど、50も過ぎれば、ただ忙しなく非効率に動いていただけでは?と思わないでもない。

それならば、腕時計でもしていれば事足りるのではとも思うところだけれど、腕時計ではまかなえないこともある。

スマホは日本のみならず、世界中の時刻を正確に知ることができる。
我が家の夫は外国人なので、親類縁者、友人など多くの人が日本以外の場所で暮らしている。そんな人達と連絡を取る必要がある時は、スマホの時計がなくてはならない。

腕時計では無理なのだ。。。





いまやスマホはパソコンと同じだと、私は思っている。
むしろ、コンパクトな分、パソコンよりも使い勝手がいい。

人によってはもっと高度なスペックが必要だという人もいるだろうけれど、私のような主婦が使う場合、電話、メール(LINEなど含む)、ネットショッピング、検索、写真、そしてブログやSNSなどの利用が主なところ。

これらはスマホさえあれば事足りる。

私はこのブログも、全てスマホで書いている。掲載する写真も全てスマホで撮影したものだ。

パソコンも使用するけれど、なければないで、スマホだけでどうにかなってしまう。

ブログなどを書き始めると、何時間でもスマホの画面にかじりついていることができる。

子供達などはTwitterやインスタなどで、興味のあることをつらつらといつまでも見ていたりする。

夫はといえば、ベッドにゴロリと横になり、映画などを延々と観ていたり。。。

誰もがスマホありきで生活している。


時に思う。これは「好奇心」を奪い去るものにはならないだろうか?

あまりにも便利すぎて、それさえあれば百人力と錯覚し、他のことに興味が向かなくなる、そこまで行かずとも、知らず知らずのうちに時間を浪費している。
そんなことにもなりかねないぞと。。。

時間の無駄を防ぐことに役立つものも、双刃の剣になりかねないのだ。

そんな風に考えると、たまにはスマホと離れてみるものだとも思う。
意識的にそれをするのは、前記の通りちょっと難しく感じるから、せめて忘れてしまった時くらいは、スマホをとりに戻ることなく、一日を過ごしてみるのだ。

忘れたことを落胆するのではなく、それをデジタルデトックスの機会として、喜んでみるのもいいかもしれない。

とりあえず、私なら財布と腕時計さえあればOKだ。