In other words

I really don't know life at all ...

Sponsored Link

輝かなくてもいい人生。キラキラなど求めずに、地味に我が道を行くもまた幸せなり。

f:id:frankie17:20201027122308j:plain

私の生活はとても地味なものだとつくづく思う。

1ヶ月くらい前に、このサブブログとは別に、もう一つ日記代わりになるような第二のサブブログを作ったのだけれど、それを読み返していると、特別なことが起こることもない、同じような日々の繰り返しであることがわかる。

仕事もしていない、子育ても終了間近、ただ家事と自分なりの楽しみを細々としているだけの毎日。。。
きっと側から見たら、ものすごくつまらなそうな生活だろうと思う。

それでも、今の生活は割と気に入っているし、かなり満足度の高い毎日を送っていると自分では納得している。

いや、むしろこの生活は上々だろうと。





女性が輝く社会。。。

よく聞く言葉だけれど、

同時に「女性が生きづらい世の中」

そんな声も聞こえてくる。

しかし、50代となった私にとっては、どちらもまるで響かない。

「年齢なんて関係ない!」

「いくつになっても輝いていたい!」

そんな声があちこちから聞こえてくるけれど、老も若きもなぜみんなそんなにキラキラしたいのだろう。

だからこそ、「生きづらい」のではないのか?

そもそも「輝く」とはどんなことを言うのか?あまりに漠然としている。

お仕事をバリバリやって、社会と濃密に接している生活か?

やり甲斐のある仕事、理解のある夫、可愛い子供、余裕ある生活、全部得ることか?

ブランド物をまとい、港区あたりの素敵なレストランでステイタスのある男性と過ごすことか?


そもそも光を放つのはエネルギーが必要だ。人よりも輝きたければ、それだけ消耗することになる。
一見、輝いているように見えても、バックステージではまったく違う姿を見せていることも珍しくない。

水面を優雅に進む水鳥が、水面下では必死に足を動かしているように。。。

この歳になってまで、まだそんなエネルギーを放出し続けねばならないなど、考えただけで疲れてしまう。

私は別に輝いた人生ではなくてもいいと思っている。
外で花よ蝶よ!ともてはやされるよりも、自分の好きなこと、やりたいことだけに目を向けている方が幸せだ。

私はあまり家に引きこもっているのは好きではないけれど、仮に家でテレビやゲーム三昧することが何よりも楽しい!と思えるのなら、きっと毎日思う存分に引きこもってそうしていることだろう。

たまたま出歩くのが好き、食べることが好き、人と会うことが好きだからこそ、そんな毎日を楽しんでいるだけ。
そこには「輝きたい」などという思いは微塵もない。

人から見て輝いていたって、その芯が真っ黒に炭化していたら意味がない。

たとえ人からはくすんだような人生を生きていたとしても、自分のしていることが好きならいいじゃないのと思う。





日本というのは個人に対して相対的な評価を下させることが多い。
人と比べて、自分の位置はどこなのか?
学校の成績も受験も、仕事においても常に数字がつきまとう。

数字から解放されたとしても、今度は所有するマテリアルによってさらなる相対評価を受けることになる。

社会から半ば切り離されたような生活をしていても、その呪縛から逃れられない人は多い。

人と違うことで被る強い風を避けようと、自分の意思とは無関係に、安泰を求めようと人と同じ列に並ぶ。。。

挙句、安泰を求めたつもりが、余計な競争に巻き込まれたりで、さらに過酷な状況に自分をおいこむことになるというのに。

「女性も輝く社会」も同じようなものだと思う。

人と同じように「輝く社会」の一員になることを望んだがために、さらに強風吹き荒ぶ中を歩かねばならない状況になることもあるのだ。

ただ、本当に輝きたいと望むなら、それも一つの生き方だ。

どれだけ過酷であろうとも、自身がそれを望み、努力することは意味のあることだと私も思っている。

一番無意味なのは、世間の言うままに「輝かなくちゃ」と無理矢理にでも、自分というものを合わせようとすることだろう。

だからこそ「女性の生きづらい社会」などという声が出てくるのだと思う。

女性だろうが男性だろうが関係はない。
自分の意思に反した生き方をしていたら、誰もがつらいはずだ。

逆に、どんな険しい道であろうが、本当に行きたい場所があれば、苦しみながらもそのプロセスで学びながら、充実感を持って進んでいけるはずだ。





私はもう険しい道を歩いてまで辿り着きたい場所はない。
ただ、あらゆる苦悩から遠ざかり、心穏やかな毎日を送ることを望んでいる。

若い人たちは、自分が輝くために試行錯誤する時間がまだたっぷりと残されているのだから、いろいろな道を歩いてみるのもいいと思う。
その経験がやがて将来なんらかの役に立つこともある。
成功も失敗もどんなことも未来の糧になることだろう。

しかし、50も過ぎればそうも言っていられなくなる。この年齢の失敗は命取りだ。
起死回生する時間、体力、気力、それらが残り少ないのだから。

キラキラと輝くことよりも、絶対評価として自分自身が満点をつけられる暮らしを目指したい。

病院や医者を選ぶ基準は名医か否かではなく、相性も大切だったというお話。

f:id:frankie17:20201015113611j:plain

先日、某大学病院へ行った。
子供が少し前から不具合を抱えていて、近所のクリニックで診ていただいていたのだけれど、どうも改善の兆しが見えない。

特に大きな病気というわけではなかったので、それほど深刻には考えていなかった。
ただ、出された薬やこちらがした質問の答えにいささか不安を感じたため、病院を変えることにした。

いくら深刻な病ではないとはいえ、少しでも問題があるならきれいさっぱり片付けてしまった方がいいということで、詳しい検査をするため大学病院に紹介状を書いてもらった。

こんなことはなんの自慢にもならないのだけれど、私は病院や医者選びにはちょっとうるさい。
過去に大病をしたおかげで、どんな病院、どんな医者がいいのか、頭の中でしっかりとしたイメージが出来上がっている。

かつて、自分が病気を疑ったとき、訪れた病院で、何度も聞いた言葉。

「多分、なんでもないでしょう」

「様子を見て、また何かあったらきたら?」

そんなとき、自分の頭の中に「?」が浮かんだことがたびたびあった。

そんな時は、必ず「もっと詳しく検査できる病院に紹介状を書いてください」と、言うようにしてきた。

その結果、最終的に重篤な病が早期発見され、命拾いをしたという経験があるからだ。

自分の「感」をあなどってはいけない。
そう、つくづく感じた。

今回もそうだった。

やはりその医者と話す中、「?」が浮かんだ。そして、大学病院を紹介してもらった。案の定ここでこれまでわからなかった症状について、原因解明となった。





ほとんどの場合、自分で「このお医者さまがいい」と指定できるわけではない。
ある意味、どんな医者に診てもらえるかは、運によるところも多いと思っている。

これは名医か否か?は関係がない。

病気というのは難解なもので、同じ病でもその人によって症状が違っていたり、痛みひとつとってみても、個人によってその度合いも異なる。
つまり、医学書に書いてある通りにはいかないということだろう。

今回発見したのは、医者との相性ということ。

娘の主治医となったのは、私と同年代の女医さんだった。
診察中の話で、娘と同じ年頃の子を持つ母親だということがわかった。

娘の話を一通り聞き、診察をした女医さんは、これまで原因不明と言われてきたものを、いとも簡単に解決してしまった。

「いつも、こんな習慣がある?」

「こんな時、症状がひどくならない?」

言われることがいちいち的を得ていて少し驚いた。

ひょっとして、エスパーか⁉︎

違った。

「私も同じ年頃の子供がいるので」

その一言で、ようやく納得した。


娘に出ていた症状の原因は一つではなかった。あらゆることが重なった結果に出てきたもので、だからこそ普通の症例とは異なり、原因解明できなかったようだ。


子供の行動パターンがわかっているからこそ、病の根本を推測できたのだ。

もちろん年齢や大学病院という環境から、多くの臨床経験があるのだろうけれど、それだけではここまで深く推察することはできなかっただろうと思う。

病院で勤務医として働きながら、子育ても必死にやってきた人なのだろう。
話していてそれがよくわかった。

まったく頭が下がる。。。

どんな経験も無駄にならないものだと思った。

医者の仕事と子育てなど、どう考えても結びつかないと思っていたけれど、子供を育てるという経験が、医者としての知識を後押ししているのだ。

これは患者と医者の相性がよかったのだ。
たまたま同じ年頃の娘をもつお母さん医師に診ていただけたことが、解決に繋がったと言える。

これまで処方されていた薬は逆効果であり、それら全てをやめ、女医さんのアドバイスに従い、ほんの少し習慣を変えただけで、症状はどんどん改善されてきた。

やはり相性のよい医者と巡り合えるか否かは、運も大きく左右されのだろう。





ちなみに、私が医者に求めるのは、「安心感」だ。

診察に訪れ、そのドアを出るときに安心感が得られれば、その人は自分にとって「いい医者」だと思っている。
いわば、それが医者を選ぶ一番の基準になっている。

「安心感」はどんな医者から得られるのか?

思いつく項目を考えてみた。


・明るい雰囲気の医者
柔和な笑顔があるということは、冷静で前向きである証だ。

暗い顔をして診察されると、もうそれだけで不安になってしまう。

前向きに病気と向き合うためにも、明るい人柄の医者が安心できるものだ。

・話を濁さない医者
病院へ行って、これという原因がないとき、「んん〜」と首を傾げるだけの医者がたまにいたりする。
こちらが、思いつく限りの原因などを、尋ねても、「それもどうかな〜」「ん〜、違う気がするしな〜」と、煮え切らない。

原因が分からないなら、はっきり言えないのもわかるけれど、そんな時は必ず「とりあえず、様子みて」だけで終わるのだ。

様子を見ていられないから来たのに。。。と、こちらは悶々としてしまうのだ。


・行動してくれる医者
原因が分からないと、「様子を見て」とか「とりあえず」と薬を出されることが多いのだけれど、よい医者はなにかしら行動してくれることが多い。

「こんな病気も考えられるので、この検査をしましょう」など、具体的なら行動を示してくれる。

人は何もしないで手をこまねいている状態でいると悶々とするけれど、行動を起こすことでそんなモヤモヤが払拭されるものだ。

自分が病気に対して、できることをしているという実感が持てると、たとえそれが小さな検査だとしても安心できるものなのだ。

・話をよく聞いてくれる医者
私の現在の主治医とは、もう8年以上の付き合いになるだろうか。

今ではしっかり完治しているのだけれど、当時患った病がかなりたちの悪いものだったため、今でも半年に一度は通って健康診断がわりに診てもらっている。

この主治医は最初に訪れた時から今に至るまで、とにかくよく話を聞いてくれるのだ。自分が不安に思っていること、苦痛に思っていることなど、また治療中はその方針に対するどんな質問にも答えてくれていた。

これは患者にとってはもっとも安心できることだ。その医師を100%信頼できるというのは、病気と向き合う上で、大きな心の支えとなる。


このようなことを基準に、私はお世話になる病院や医者を選んできた。
そして、それによって悪い結果になったことはこれまでない。





医者というのは激務だ。私がお世話になっている病院の主治医を見ていても、とにかく大勢の患者さんを抱え、その上多くの初診の患者さんが常に待っている状態だ。

入院中に目にしたのは、そんな外来患者を多数抱えていながらも、早朝、また夜まで入院患者の様子を見て回っている姿だった。

「先生、いつ寝てるんですか?」

「ちゃんと寝てますか?」

会うたびに、こちらがそう言ってしまうほどだった。

そんな様子を目にしていると、「患者の話はじっくり聞いてください」というのも、気がひける。。。
一人の患者にさける時間には限りがあるからだ。

それでも、患者の一人としては、しっかり話を聞いてもらえると安心する。

その病が重篤であればあるほど、それが励みになることは、自分自身の経験からよくわかるのだ。

人の命を預かるという、医者の仕事は誰にでもできるものではない。ストレスも一般の人の比ではないだろうと想像できる。

医者だから偉い。

そんなことではなく、私は自分の命を救ってくれた主治医や、いつも一生懸命にお世話してくれた看護師の方々には、本当に感謝している。

そして、そんな相性のよい医者や看護師の方々と巡り合えたのは、非常に運がよかったことだとも思う。

ただ、それは自分が手を伸ばしたからこそとも言える。
自分に合った病院や医師に巡りあえるまで、諦めなかった結果だったのだ。

今回、娘の件で改めてそんなことを思ったのだった。。。


※このブログは始めた当初からポツポツ更新ですが、メインブログともう一つの日記ブログはほぼ毎日更新です(メインブログはたまにサボりますが)。

メインブログ
お菓子のことばかりのブログです。
お菓子を巡る暮らしの雑記帖


サブブログ
一日2トピック型日記。
365の喜怒哀楽

必要とされること、求められるということの喜びは自由より勝るのか。。。

f:id:frankie17:20201010214630j:plain

近頃は結婚せずにお一人様を貫く女性も多くなったという。
自分で働き収入を得て、マンションを買い、一国一城の主人として、旅行にグルメ、美容に恋愛にと、自由に人生を謳歌しているのかと想像すると、正直羨ましさがある。

既婚子持ちにとっては、その安心感と引き換えに我慢を強いられることも多い。
とりわけ独身時代、好き放題してきた人間にとっては、その不自由さがたまらなくなることがあるのだ。無い物ねだりと言われればそうなのだけれど、ひとりになりたくてもなれない時、ぶらりとどこかへ旅に出たくても出られない時、これが独り身だったらな。。。と、考えたことは数知れない。

そんな事を共に語り合ってきた友人が、思いもかけず離婚をした。
いざ、それが現実となると、独りで生きていくのも大変なものだと、側で見ていて思い知らされた。

ところが、半年もしないうちに、その友人は嬉々とした様子で、再婚したいという話を打ち明けてきたのだ。

すでに50目前という歳になっていたので、とても驚いた。
あれほど自由を求めていたのに、また同じ事を繰り返すのか?と?

驚いたのは、再婚の意思だけでなく、お相手が20歳以上も歳下の若い男の子だったせいもある。
もはや、自分の息子と大差ない年齢で、どうしたら結婚という話になるのか。。。

現世ではもう2度と他人のパンツは洗いたくなくと思っている私からしたら、ふたたびソフトな子育てに乗り出そうとしているとしか思えなかった。

そうは言いつつ、アラフィフ、バツイチの彼女が選んだお相手には興味があった。





若い頃の彼女は、それはそれは理想が高かった。まさに3高(高学歴、高身長、高収入)狙いは当たり前、そこに知名度なども求めてくるものだから、さらにその理想は高くなる。
しかし、彼女はそんなお相手とめでたく結婚までこぎつけ、子供を持った。

これで安泰とも思われた彼女の人生だったけれど、20周年の結婚記念日を前に、突然離婚を宣言され、思いもよらず独り身となったのだ。

50近くなって、それまでずっと専業主婦として生活していた女がひとりで生きていくのは大変だ。

諸事情により、慰謝料などはゼロ。経済的な面でのヘルプも当然皆無。
そんな情け容赦ない離婚劇であったのだけれど、とにかく仕事を見つけ、引っ越し費用や当面の生活費は借金で賄い、新生活をスタートさせた。

それから半年も経たないうちの再婚話だったものだから、これには私も驚いてしまったのだ。

やはり経済的に少しでも苦労したくないがための再婚なのかと思っていたのだけれど、そうではないという。
大変でも、これまでの贅沢を忘れ質素に暮らせば、独りでやっていけないことはないという。

そうは言いつつ、人の稼いできたお金で暮らしてきた専業主婦は、やはり誰かに養ってもらう生活を求めるのだと思った。

ところがお相手のプロフィールをきいて、以前の結婚生活とはまったく違ったものになることが予想された。
仕事、年収などを聞いて、またしても驚いたのは、かつての彼女であったら、おそらくは眼中なしとみなしていた相手だったからだ。

ついでに写真も見せてもらったが、背も高くなければイケメンでもない、どちらかと言えば冴えない感じのする男性だった。
かつての旦那様を知っているだけに、なんとコメントしていいのだか困ったくらいだ。

どんな相手とだろうが、再婚したら彼女はあれほど嫌がっていた家事をすることになるだろう。掃除、洗濯、食事の支度と、誰かのためにまた自分の時間を差し出すことになるのだ。あれほど、家事や育児が苦痛だと言っていたのに。。。
おまけに、かつての専業主婦生活ではなく、今度は仕事をして生活費を稼がねばならない。
それでもなお、再び結婚という選択をするということは、やはり独りは寂しいものなのだろうか?

思い切って尋ねてみると、それも違うという。

では、なぜ再び同じことを、というより更に自由を奪われるような道を選択するのか?

その答えは意外なものだった。

「求められるから」

誰かから必要とされ、求められることに喜びを感じたのだという。

確かにこの歳になれば、誰かに求められていると実感することはほとんどない。

自分がいなくても、家族の生活はどうにでもなるだろうし、存在意義を問われれば、はてな?となる。

「あなたでなければダメなのです」

そんなことを言ってくれる人は誰もいない。

夫も子供達も、私がいなくても多少の不自由はあるだろうけれど、それでも問題なくこれまでと同じように生活していくことだろう。

存在意義を問われても、私がここにいる理由は、ただ家族だから、子供達の母親だから、そんな当たり前のことしか出てこない。

少なくとも子供がいれば、親としての責任はまっとうしようと思っているから、自分から家を出るようなことはしない。

時々、たまらなくなって家出でもしてみようかなどと衝動的に思うこともあるけれど、現実には「明日のお弁当はどうしようか?」「朝食のパンがなかったな」などと、具体的なことが頭に浮かんできて、実行には至らない。

もしかしたら、それこそが「求められている」ということなのだろうか。
誰にでもできることだけれど、やっぱり自分がやらなくちゃ。そう思うことが、求められているにすり替わっている。というか、自分を納得させる要因になってるのかもしれない。

主婦なんてそんなものなのかなと思う。。。

それを無くした友人は、それに代わるものを求めたのだとも考えられなくはない。

一番わかりやすい形での「求められている」実感だ。

本当のところは当事者ではないからわからない。





あれほど渇望し、ようやく得た自由をあっさりと捨てられるほど、誰かに求められることは生きる上で必要なことなのだろうか?

そう考えたとき、若い頃に出会ったある僧侶の言葉が思い出された。

「自分のために生きていると考えるのは傲りだ。

人は自分のためにではなく、誰か他の人のために今世を生きている」

誰かから必要とされているからこそ、生きる権利を与えられているというような話だったと記憶している。

誰かから必要とされること自体が、生きる意味になっているということだろうか。

長らく忘れていたけれど、それを聞いたとき、どんなに辛いことがあっても耐えられそうだなと思ったのを覚えている。

生きることが自分のためでなく、誰かのためで、その誰かにとっては自分が生きていることに意味があるというのなら、頑張らなくちゃいけないなと。。。

その誰かは誰であってもいいのだろう。
必ずしも結婚し新たな家族を持たなくても、親兄弟であったり、友人だったり、たまたまその時だけ、偶然に縁が結ばれた人でも。。。

求められることと、自由は同じ尺度では測れないものだったのだ。

友人もまた新しい人のために生きる道を選び、結果的には望んだ自由を手放すことにはなるだろうけれど、それが生きる意味であるというのなら、なんとなく納得がいく気がした。

自分の選択で今を生きているのではなく、

「誰かのために生かされている」

そう考えると、複雑だったこともシンプルなものだと思えてくるから不思議だ。。。