In other words

I really don't know life at all ...

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話を聞いて欲しい女と話を聞かない男。相手に対する思いが適当だからこその円満。

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我が家の夫は完全なシングルタスク人間。

一つのことに夢中になっていると、まったく他のことは目にも耳にも入らず、一点集中。

それがプラスになることもあり、もっぱらその並外れた集中力が仕事の上では強みになっているともいえる。

しかし、家庭内において、それはマイナスにしか作用しない。
そのせいで、家族は呆れ果て、もはや話しかけようなどとも思わなくなる。

私はもう何十年もそうした夫と共にいるので、当たり前のこととして受けとめている。確かに不満はあるけれど、それも我が家の生活を支える上でメリットとなっていることも否めないので、黙認している状態だ。

しかし、子供たちは違う。何かに夢中になっていると、娘が話しかけても無視同然。
ほのたびに「ダディー‼︎」っと大声で怒りをあらわにする。

子供達も勝手なもので、自分たちが話したいときは、こちらが何をしていようがお構いなしだ。
しかも話しておかなければいけない大切な要件ならともかく、そのほとんどがくだらない話だ。

「これ、すっごくおもしろいんだけど」などと、YouTubeTikTokの馬鹿げた動画を見せにきたり、「誰々がこんな変なことをしている」など、まるで自分の生活とは関係ない話を、隣に張り付いて延々としてくるのだ。

本当なら「くだらない!もっと自分のためになることに時間を費やせ!」と一括したいところだけれど、私は「うん、うん、おもしろいわね!」と、それを聞く。

明るく振る舞っていたとしても、人の心の裏側にはどんな思いが隠れているかわからないものだ。
そして話すことによって気持ちが楽になったり、気が紛れたりもする。

どんな話かが問題なのではなく、自分のところに「話を聞いて」とくることが大切で、そこで受け入れるか突き離すかで、心の在り方は大きく変わってくると思っている。

なにがあっても、どんなことであろうとも、話を聞いてくれる人がいる。

そう思えることは、心強いものだ。とくに女の場合は他者に強く共感を求める傾向にあるというから、話を聞いてあげて、共感してあげることが心のケアに繋がる。

他のことをしながら、「そうだね」と話を聞くことは、それほど難しいことではない。ほんの少しだけ、そちらに意識を傾ければいいだけなのだから。

しかし、夫はそれができない。一度に複数のことに向き合うことが苦手なのだ。

外国人である夫は徹底した個人主義だ。何事もまずは自分ありき、自分の利益を最優先して物事を判断する。

それに加えてのシングルタルクなものだから、自分が何かしていればそれが最優先。子供達のくだらない話など、耳に入らないのだ。

私は割と自己完結型なので、困ったことや悩ましいことがあってもほとんど人に相談はしない。
いいこと、悪いこと含め「聞いて!聞いて!」と相手に何かを求めることはあまりない。

その役割は大方、ブログが担ってくれてあるせいもある。
心に溜まった澱はすべてブログにグチグチと書き綴ることで、なんとなく浄化された気がするので、一人で悩んでいるには変わりないけれど、かと言って行き場のない思いを抱えるという感覚はない。

ありがとうブログ。。。





とにかく、そんな性格なので「話を聞かない」夫と長年共にいることができるのだろう。

夫が話を聞いてくれない。
夫が理解してくれない。
夫が自分に対して無関心。

そんな理由で離婚した友人もいる。

豊かな経済力、安定が約束された老後を捨て、50歳目前で家を出て、苦しい生活を余儀なくされながら、それでも話を聞いてくれない夫とは一緒にいたくなかったと言う。

それほどまでに、人に話を聞いてもらうことを求める女性もいるのだと、ちょっと驚いたものだけれど、子供達が「聞いて!聞いて!」とくるたびに、そんなものなのかなとも思う。

男だから、女だからと性別で一括りにするのはちょっと乱暴な気はするけれど、概して女の方が自分の気持ちを誰かと共有したいという気持ちが強いように思う。

我が家でもよくあることだけれど、「なんでこれをしてくれなかったの?」と言えば、「やってって言わなかったでしょ」となる。

こちらの感覚では、言わなくてもわかるでしょ?といったところなのだけれど、相手からしたらそうではないのだ。

特に外国人である夫は、なんでも口にしなくてはわからない。「忖度」などと言う感覚は欧米人には通用しない。

「想像力が足りない!相手の身になって考えればわかる!」

私がそう言えば、

「私はエスパーではない!日本人は言語を用いずに会話ができるのか?」

と、若い頃はよくそんなやりとりをしたものだ。

結婚して20年以上ともなれば、結局は水掛け論に着地すると決まっている不毛は口論は自然と避けるようになった。

話を聞がない人に「聞いて」と迫るのは所詮無理なこと。それを求めるから喧嘩になったり、イライラしたりするのだ。
最初から「この人にはできないこと」と期待しなければ怒りも湧いてこない。

人間、時に諦めも必要なのだ。

そものも男と女では生まれつき備わった能力が異なる。それに輪をかけて我が夫は究極のシングルタスク。。。そんな夫にとって、家族の戯言など存在しないも同然。

そういうものだと早々に諦めたことが、未だに離婚もせずに連れ添っている理由なのかも知れない。

よく、結婚したら相手のことは片目で見るくらいがいいというけれど、なるほどと思う。

言葉は悪いけれど、我が家のように相手に対して「適当」な思いいることが、すなわち「諦める」ということであり、円満の秘訣なのだろう。

真剣になど向き合っていたら、ストレスでおかしくなっていたはずだ。

お互いに適当な人間であることが幸いした。それも相性ということなのだろうけれど。。。

国際結婚には当たり前の選択的夫婦別姓。それでも同姓を選ぶ人が多い事実。

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時々Twitterを見る。正直言えばあまり好きではないのだけれど、どんなことが起こっているか、話題になっているかなど、TVのニュースを見るより早い。

自分のTwitterに関しては、メインブログの「ブログアップしました」という告知メインで、ほとんど余計な呟きはしないので、フォローもフォロワーも極端に少ない。
それでもトピックによってはTwitter経由で多少アクセスアップに貢献してくれるので、消極的ながらも続けている。


今朝もTwitterをつらつらと見ていると、「選択的夫婦別姓」という話題がトレンドに上がっていた。

Twitter上の意見がすべてではないけれど、夫婦別姓を望む人の声の大きさにちょっと驚いた。

夫婦別姓を望む人の多さにではなく、そこまで自分の姓にこだわりを持つ人の多さにだ。

夫婦で姓が違うのはそれほど問題なのだろうか?

また夫婦で姓を同じくすることに、それほど大きな意味があるのだろうか?

私にとってはどちらも大きな問題ではない。





私は国際結婚しているのだけれど、元々国際結婚に関しては、夫婦別姓を選択することができる。

パートナーが外国籍であれば、日本における「戸籍」そのものがない。それでも、求めれば夫となる人の横文字姓に変えることができるのだ。

結論から言えば私は夫婦別姓を選択した。
いや、選択したというのではなく、ただ面倒で手続きをしたくなかったため、そのまま旧姓のままでの婚姻となっただけだった。

姓が変われば銀行の口座からパスポートから、何から何まで変更の届出を出さなければならない。
それを考えたら、そのままで済むのならそれに越したことはないと考えたのだ。

そして、もう一つの理由が外国姓を名乗る自分が想像できなかったからというのもある。

ブログ上では「Frankie(フランキー)」などという名をつけている私だけれど、リアルでは違う。

日本で生まれ育った生粋のジャパニーズである「山田花子」さんが、いきなり「ベーカー花子」とか「トンプソン雪子」などという姓に変わることを想像して欲しい。

それを自分に当てはめると、笑いが出てくるほどだ。まるでフリルのドレスを着て、下駄を履いているような気持ちになる。

誰も人の名前など頓着しないだろうから、ちょっと自意識過剰かとも思うけれど、若い頃の私は本気でそう思っていたのだ。

そんなこともあって、旧姓のままでいることにしたのだけれど、それで不自由を感じたことは一度もないので、正解だったと言ってもいいだろう。

ところが、選択できるにも関わらず、あえて面倒な手続きを踏み、夫の姓を名乗る女性が多いのも国際結婚の不思議なところだ。

特に統計を取ったわけではないから、これはあくまでも私や夫界隈での印象だけれど、圧倒的に同姓を選択する女性が多い。

私の周りの国際結婚している女性は10人いればそのうちの8割以上といってもいい女性が夫の姓を名乗っているのだ。

これはなぜだろうか?
不思議に思っても、根掘り葉掘り聞くのも失礼かと、あえて理由を尋ねたことはないけれど、なんとなく感じるのは「結婚したら夫の姓を名乗る」ことが当然であるという、既成概念によってそのような選択をしているように思えた。

私は自分の権利に関しては貪欲な方なので、選べるなら自分で選ばせて!とばかりに、煩雑な手続きを避けるため、喜んで別姓にしたけれど、それは人生の一大イベントである「結婚」に対しては、非常に安易な考えであると思われていたようだ。

みんな、真面目なのだ。。。





別姓選択制の反対意見として、「結婚に対する覚悟が薄れる」「離婚を前提としている」という意見が見られるけれど、特に私の年代、つまり20年以上前の結婚では、そんな風潮が今よりも色濃くあったのかもしれないとも感じる。

国際結婚においては、結婚に対する覚悟など、苗字以前の問題であり、どんな名を使おうがそれなりの覚悟なくしてはできるものではない。つねに面倒な問題に付きまとわれていくのだから、当然覚悟くらいはあった。

そして、離婚前提に関しても、あるデータによると、国際結婚の離婚率は50%以上というのだから、合理的に考えても、その辺を念頭に置いて選択することは間違っていない。それの何が悪いのかと思う。

とは言え、離婚ありきで結婚する人などはいない。国際結婚であろうが、日本人同士の結婚であろうが、誰もが生涯連れ添う覚悟でするものだ。

それをあえて「離婚を前提」などというのは、ちょっと失礼な話でもある。


私はこの国際結婚が初めてであり、なぜかいまだに婚姻関係を継続しているため、日本人同士の結婚による姓の選択に関してはよくわからない。

どちらかの姓を選択しなければいけないということくらいは知っているけれど、それがどれだけ大きな問題なのだろうかと、ピンとこないのだ。

いまは働く女性も多いので、いきなり結婚によって姓が変わるのは都合がよくないという人もいるのだろう。
それはなんとなくわかる気がする。職場では旧姓を名乗り、戸籍上は夫の姓という人は昔からいたものだ。

夫婦別姓を選択したい理由が便宜上というならわかるけれど、昨今はちょっと違う意見もあったりする。

女性の権利とか、男尊女卑とか、自分の姓を大切にしたいとか、なんだか飛躍してる感が否めないのだけれど、それも別姓を望む理由の一つとしてあるようだ。

ここまでくると、私はもうついていけない。。。





反対派の意見として子供についての問題がある。子供にとってはどちらかの親と姓が異なるのはよくないといった意見だ。

我が家の子供達は、現在父親とは違う姓を名乗っている。
海外で暮らしていた頃は夫の姓を名乗り、日本では私の姓(日本の苗字)を使うといった具合にその時々で選択しているのだけれど、いずれにしても父親または母親と姓が異なることになる。
しかし、それでなにか都合の悪い事態が生じたことは20年以上皆無だ。

「なぜ、お父さん(お母さん)と違う苗字なの?」

そもそもそのような偏見があること自体が問題だし、そんなことをあえて言ってくるデリカシーのない人などほとんどいない。

「家族の絆」というのも別姓反対派の意見の一つとなっているようだけれど、たかが名乗る姓が違うくらいで絆が綻ぶのなら、とうに別の理由でその家庭は崩壊しているだろう。

「戸籍制度」「家制度」という日本の独特の考え方からすれば、それとはほとんど無縁な国際結婚は比較にならないのかもしれないけれど、結局のところ誰もが「選択できる自由」があるのはよいことだと思う。

夫の姓を名乗りたいという女性も少なくないだろうし、逆に自分の姓を変えたくないという人もいる。

今回の論争は夫婦別姓にしなければいけないという強制ではなく、別姓を選択する自由が得られるということだから、それの何が問題なのかよくわからない。。。

同姓を選ぶことも、別姓を選ぶことも可能になるということなら、それが一番いいことだと私は思っている。

結婚によって姓が変わり、不便になったという人もいれば、知り合いで自分の姓が嫌いだったけれど、結婚をして夫の格好いい姓に変えられてハッピーだと言っていた人もいた。





人はそれぞれ事情を抱えて生きているものだ。
そう考えると、各々が自分の考えや生活に則した姓を選択できれば、それに越したことはないと思う。たとえそれで家庭が崩壊しても、離婚にあいなったとしても、それは自己責任。自由に責任はつきものなのだから。。。


そんなことを言いながらも、私は別にこの「選択的夫婦別姓」に賛成しているわけでも、反対しているわけでもない。
つまり、それほど大きな問題ではないと思っている。

名前など所詮はただの固有名詞だ。
姓がどうであろうが、「自分」という人間に変わりはない。
便宜上とか、日本人だから横文字姓より漢字姓といった好みで別姓を選択した身としては、正直なところ、苗字などそれほど真剣に考えてもいなかったし、その程度のことだった。

もしも、夫婦同姓にしなければいけなかったとしても、面倒くさいなとか、自分が外国の名前を名乗るなんて笑えるわ。。。などと、ブチブチ言いながらも、当たり前のように夫婦同姓としたことだろう。
私にとってはその程度のことなのだ。

しかし、ここまで問題になるということは、もしかしたら、なにか私の知らない、気づかぬ思惑が、この「選択的夫婦別姓論」に隠れているかもしれない。。。

頭のいい官僚達が、この制度を利用して、我々から更なる税金を巻き上げるカラクリを作ろうとしているのではないか⁉︎

なにか裏に黒い陰謀でも隠されているのではないか⁉︎

暇に任せてそんなことを思ったり(笑)

なにはともあれ、複雑だと思っていた国際結婚だけれど、夫婦別姓論を見ていると、日本人同士の結婚の方が大変そうである。。。

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』アニメーション映画の面白さに思わず開眼した。

今週のお題「最近見た映画」 

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公式ホームページよりお借りしました。

映画を観るのは必ず映画館で。
若い頃から、いつもそうだった。
友達や家族と行ったこともあるにはあるけれど、やはり映画はひとりで行くのが好きだ。

しかし、最近はなかなか腰が重く、時間もあり近隣に映画館があるというのに、しばらくご無沙汰していた。

そんな時、娘から「とてもいい作品で、映像も綺麗だから」と誘われ、ちょうど時間もあったので、お付き合いのつもりで観に行ったのがこの映画だった。

『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』。

内容は自動手記人形「ドール」と呼ばれる代筆屋の少女、ヴァイオレットが、依頼人や彼女を取り巻く人々との関わりで、心の成長を遂げていくという物語。

この映画は元々小説であり、それを原作としてアニメーション化されたものだという。
私は小説を読んだこともなければ、アニメーション作品すら知らず、ただ娘からこれを観よ!と、
「5分でわかるヴァイオレット・エヴァーガーデン
という動画で、簡単な予習をしただけの状態で鑑賞したのだった。

しかし、たった5分の予習動画でも、主人公ヴァイオレットのバックグラウンドや、その心の核となるものがわかっていたせいだろうか、内容は問題なく理解することもできたし、人並みに感動したりもした。

多くを語ろうと思うと、それこそ内容を事細かく解説しなければならないので、その辺は割愛するとして、私自身がなによりも心に響いたのは、人との関わりを持つことで、人間が成長していく姿だった。

ヴァイオレットがさまざまな人の心にある感情や想いに触れるうち、次第に自分の人間としての感情も知らず知らずのうちに成長させていく。そんな姿が切なくもあり、嬉しくも感じた。

それは小さな子供がやがて大人になるのを見る喜びとどこか共通している。

人でなくても動物でも植物でも同じだ。

蒔いた花の種が芽吹き、やがて花を咲かせる。。。そんな成長の過程を見ることに喜びを感じるのは、私が産む性を持つ女性だからだろうか。。。

男性になったことはないので、よくわからないけれど。。。


アニメはもはやオタクだけのものではなくなったのだ。
昨今では多くのアニメーション映画が大ヒットを連発している。
それだけ内容も映像も素晴らしい作品が多いということなのだろう。

小難しい映画よりも、大人から子供まで、すべての人の心に訴えかけてくる映画がいい。
そして、そんな映画はアニメーション映画に多く見つけることができるのだと、最近分かってきた。。。

ひとりで映画を観に行くという行為は、よほど観たい映画でも出てこない限り、足が遠くなるものだ。

今回、京都アニメーションの制作した美しい映像をあの大画面で楽しみ、またひとり映画を楽しんでみたくなってきた。

50を過ぎた女が一人でアニメーション映画を観にいくのは、少し抵抗はあるけれど、面白そうな作品があれば、きっと行ってまうだろう。


先日たまたま映画を観たので、久しぶりに「今週のお題」について書いてみたのでした。。。