In other words

I really don't know life at all ...

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かつての港区女子が選んだ人生。人は変わることで幸せになるのか、幸せになったから変わったのか。

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先日、近所で買い物をしているとき、すれ違った女性から突然呼び止められた。

私よりも10歳は若い女性だった。化粧っ気のないすっぴん、肩までの髪を無理やり後ろで縛ったような、無造作なヘアースタイル、薄手の赤いコートを羽織り、隣にはごくごく平凡な30代くらいの外国人男性が小さな子供の手を引いて立っていた。

誰だろうか?なんとなく見た覚えはあるし、私の名を呼んだのだから、知り合いには違いなかったのだけれど、まったく思い出すことができなかった。

外国人男性といるのなら、ひょっとして夫の知り合い?
それにしても思い出せないと、必死で記憶の中からそのファミリーを探そうとしていた。

そんな私を見て「◯◯です。ご無沙汰しています」と、その女性が名乗ったところで、ようやく思い出した。

昔々、六本木や麻布、青山界隈で夜にだけ会ったことのある女性だった。

かつての彼女は今とはまるで別人だった。
当時はハイエンドの高級ブランドに身を包み、完璧なメークをほどし、長いまつ毛をまるで蝶が飛び立つように瞬かせていた。
そして、決まって傍には見るからにお金持ちそうな男性を伴っていたものだ。

今で言うところの典型的な『港区女子』である。





今ではすっかり夜の外出をしなくなった私だけれど、15年くらい前までは、時折友人知人達と連れ立って夜の街へ繰り出すこともあった。

彼女とはその頃に出会ったのだった。
たまたま私の知り合いが、彼女の連れと友人関係にあり、遊び場が同じだったこともあって、一緒に食事をしたことが何度もあったのだ。

身なりは豪華なシャンデリアなようであったけれど、自分よりも歳上の私に対して、彼女はいつも礼儀正しく、気遣いを忘れなかった。

そのせいか、お金やステイタスによって付き合う男性を選んでいたような女性だったけれど、私は彼女に対しては好感しかなかった。

港区女子』を体現していたような彼女がまるで別人のようになってしまったのを見て、ちょっと感慨深い気持ちになった。

ああ、人は変わるのだなと。。。

今の彼女はどう見ても、「お母さん」だ。
かつていつも彼女の小さな足にフィットしていた10センチヒールはスニーカーにとって代わり、ついでと言ってはなんだけれど、傍にいるのは以前のようなお金持ちタイプの男性ではなかった。

「いつの間にママに?気づくわけないじゃないのよ」

変わってしまったと思ったことは口に出さず冗談めかして言った。

「私、変わったでしょ?仕事と子供を追いかけ回すのに忙しくて、自分のことは二の次」

彼女も笑っていた。





それから彼女は生活が大変なこと、子供の世話に疲れ切っていること、コロナによる収入減で食べていくのがやっとなこと、、、と、そんな近況報告をケラケラと笑いながらしてくれた。

そんな生活に満足できる女性だとは、失礼ながらあの頃は考えられなかった。

きっと、本命とされていた起業家の男性と適当なところで結婚し、裕福な奥様として貧しさとは無縁の人生を送るのだろうと疑いもしなかった。

人の心も人生もわからないものだ。。。

「あまりに意外なチョイスに正直驚いた」

経済力のない男性をパートナーに選んだことも、子供を産み育てていることも、煌びやかな世界を捨てたことも、全て私にとっては意外だったので、正直に口に出してみた。

「でしょう⁉︎ 自分でもビックリ!子供まで産んじゃうなんて!」

彼女はそう言って隣の旦那さんを笑いながら見上げた。

なにが彼女を変えたのかはわからないけれど、その「意外な選択」が意外にも幸せそうだったこと。

結婚なんてものは、何十年連れ添ってもダメになる時はダメになるし、自分も含めて未来永劫幸せなどとは言えない。

ただ、自分の選択を一度でも正しかった、幸せだと思えるのなら、それはその時の正解なのだと思う。

後悔なんて結果論でしかない。
どんな目が出るかわからないからこそ、人生は面白いと言えるのかもしれない。

しかし、ふと思った。

彼女が自ら変わったことで、今の幸せを手にしたのか?

幸せな暮らしが彼女を変えたのか?

そこまでは不躾に尋ねることもできないから、本当のところはわからないけれど、確かなのは「人は変わる」ということだ。

ネガティブな感情を放出するため、ブログにその役割を担ってもらい心の健康を保つ。

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たまに思いきり気持ちが落ち込むことがある。

普段はあまり物事に頓着せず、マイペースで行動しているから、心病むようなことはないけれど、ちょっとしたことでものすごく気持ちが落ち込んで、どうしようもなくなることがある。

それは暗い殻の中に心を閉じ込めて、悶々と寝返りを打って過ごすような感じだ。

これは特別なことではないのだろうと思う。
人は誰でも心が暗くなるようなことがあるものだ。
日々、生活していれば、悩んだり行き詰まったりすることは誰にでもある。

ただ、人によってその解決法が異なっていたり、解決法が見つからなかったりで、結果は変わってくるのだと思う。

「物事はポジティブにとらえる」

所謂、ポジティブシンキング。

Positive Thinking =積極思考

積極思考。。。まさに暗い殻の中で落ちた要因を反芻しながら、ゴロリゴロリ寝返りを繰り返しているのとは真逆の思考だ。

積極思考と言われても、そもそもそれができないから落ちるのであって、それができていれば、暗い殻の中に閉じこもることもない。

どんなにドン底でも、結局は時間が解決してくれることは、長年生きていればその経験からもわかっている。
問題は浮上するまでをどう過ごすかなのだ。

家族や友達に相談する人もいるだろうけれど、自分を知っている人だからこそ、都合の悪いこともある。
本来なら自分をよく知る人だからこそ、有益なアドバイスがもらえそうだけれど、話せないこともあれば、話したくないこともある。

日記などに思いの丈を綴り、気持ちをスッキリさせるという方法もあるけれど、そこまで閉じこもってしまうと、心の中で繰り返していることを、ただ紙面にこぼしているだけのようで、心の変化は感じられない。

命の電話みたいな、悩みを聞いてくれるところもあるらしいけれど、そこまで深刻でもないし、そのようなところにSOSを出すのは、案外勇気がいるものではないだろうか?
そこまで追い込まれている人は、迷わずダイヤルすればいいと思うけれど、私の場合はそれほど大袈裟なものではない。

誰にも話したくない、日記も悩み相談もイヤ。誰かに救ってもらおうだなんて思ってもいない。
でも、一日も早く気持ちをスッキリさせて、浮上したい。。。

ちょっと我儘な感じだけれど、そんな人は少なくないのではないかと思う。





気持ちが落ちた時はブログだ。

私はそう思う。

Twitterとかでもいいのだろうけれど、文字数の問題があるので、グダグダと愚痴をこぼすのには不向きな気がする。
最近はCLUB HOUSEという音声版Twitterのようなものもあるけれど、これは私もやってみた結果、人によってはいいかもしれないと思った。

人気のroomになると、自分が発言できる可能性は低いけれど、少人数のところならお悩みを話したりもできるはずだ。自分でroomを作ってもいい。
ただ、CLUB HOUSEはなんとなく、人と人との繋がりを重視しているところがあるので、そういうことを求めていない人にとっては、あまり居心地がよくないかもしれない。

私もとくに人との新しい繋がりなど望んでいないから、野次馬根性で面白い話に聞き耳を立てて聞いているという使い方しかしない。

ブログのいいところは、まるで自己満足の日記のように書いていても、その向こうには、そんな自分の思いを読んで、知ってくれている人がいるかもしれないと思える点だろう。

そこで、殻の中でひとりもがいているというイメージは完全に払拭される。

それだけでなく、共感した人から「私もです」などというメッセージをもらって、「みんなそうよね」と安心させてもらえることもある。

そこでメッセージを送り合う関係性ができたりなんてこともあるのだろう。私はないけれど(笑)

ある意味で、一方通行にも双方向にもできるのだ。
特に『はてなブログ』はそんなコミュニティーを作りやすいイメージがある。
あくまでもイメージだけど。

ただ、注意しなければいけないのは、ネットあるあるで、時に酷い言葉を浴びせてくる人もいたりするということだ。
メリットばかりというわけではないのは、何事も然りなのだ。

リアルでは他人とのコミュニケーションは得意だけれど、ネットの中となると私は途端にコミュ障になる。
ブログを始めて4年目になるけれど、自分からコメントをすることはほとんどない。
ごくたまにコメントを頂いたりした時は、頑張って返信するようにしているけれど。。。

自分が積極的でなければ、当然コミュニケーションが少なくなるのは、リアルでもネットでも同じだ。





好きな時にネガティブを吐き出すことのできる場所。言葉は悪いけれど、ゴミ集積所のようなブログがあってもいいのではないかと思う。

世の中にブログなど星の数ほどある。世のため人のためになるようなブログから、毒にも薬にもならないようなブログまで。
つまり使い方は自由ということだ。

私はいま、3つのブログをやっていて、このブログはメインブログの次に作ったサブブログになる。

メインブログは最初、専業主婦生活や国際結婚のことなどを書いていたのだけれど、だんだん趣味のお菓子に占領されてきた。
そのせいで、ネガティブを吐き出すにふさわしい場所ではなくなってしまったのだ。

昨日まで「このお菓子美味しい!また買いに行こう!」などと可愛いお菓子の紹介をしていたと思ったら、翌日には「愚痴三昧のネガティブネタ」なんてことになると、自分でもあまりに情緒不安定だとうんざりしてくる。

そこで、愚痴はもちろん心に溜まった澱のようなものを吐き出す場所を作ることにした。

あまり更新頻度は高くないけれど、当初の役割は十分に果たしてくれている。

ちなみにもう一つのサブブログは、コロナ禍で暇に任せて「日記ブログ」を作った。
これはとりあえず1年間だけ毎日更新してみようという遊び半分というか、まんま遊びのブログで、1年経過した後に継続するから未定。。。

自分でやってみて思ったのは、書くことはヒーリングになるということ。
心を癒す方法はきっと他にも色々あるのだと思うけれど、いずれにしても暗い気持ちを発散させる一つの方法として、ブログは使えるんじゃないかと思っている。

書くことで「積極思考」の端っこを掴み、自分の元へ手繰り寄せる一助になる。

何もせずに、悶々とゴロゴロしているだけでは殻の中からはなかなか抜け出せない。
そんな状況を打破するためにも、まずはもがいてみることなのだろう。

ポジティブな人は、常に何かしらの行動を起こしているものだ。
動けば何かしらの変化があることを知っているから。

マウンティングする人との付き合い。金メッキと銅を比べることの愚かさを知る。

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今朝、友人から長いLINEメッセージが届いていた。

若い人の間では、単純に連絡ツールとして活用されているらしいLINEだけれど、我々の年齢になると、まるで井戸端会議でもするような、長いメッセージのやりとりをすることも珍しくない。

これは日記か?というように、日々の出来事を送ってくる人もいれば、悩み相談のような内容のこともある。

今朝届いていたのは、悩み相談というよりは、愚痴やボヤキといった類のLINEだった。

そこには気乗りのしない友達とのランチに行かなければいけない憂鬱な気持ちが切々と綴られていた。

そんなに嫌なら適当な理由をつけて断ればいい。
このコロナ禍なら、尚更断りやすいだろうにと思う。

そう言うのは簡単だけれど、人によっては、断ることができない人もいる。。。

「私なら」会って憂鬱になるような相手とは、最初から約束しない。
緊急事態宣言中にみんなで集まりましょうよ!という招集をかける無神経な人間なら尚更のこと。

本心はそんなところだけれど、「私なら」というのは、ほとんどの場合、良いアドバイスにはならないものだ。

その人は私ではないのだから。。。





ラインを送ってきた友人は、かねてからそのランチのお相手を快く思っていない。
もう何度もその話は聞いているので、よくわかっていた。

気を遣う相手であるとか、マウンティング好きとか、人に対して過干渉であるとか、聞いているだけで、面倒になるような人で、愚痴りながらもよくぞ長年お付き合いをしているものだと、友人の辛抱強さに呆れているのも正直なところ。

しかし、10代や20代の若い子供ではない。私達はもはや50を超えた立派な大人だ。
それしきのことで、人間関係に波風を立てるようなことをする必要もないと思うのは理解できる。

私には無理だけれど。。。


いくつになっても、他人に対して余計なことを言ってくる人は多いものだ。

ネット上でもそうだけれど、どうでもいいことに突っかかってくる人もいるし、リアルでもまた、人の言動にやたらと干渉してくる人も少なくない。

友人のランチの相手もまさにそんな人らしい。

とても幼稚なところでは、着ている服やバッグなどがブランドものではない量産品というだけで、「人からみっともないと思われるわよ」などと忠告してきたりするという。
そのため、着ていく服一つとっても、難癖つけられないかと気を遣うそうだ。

ならばご当人はハイエンドのブランドで全身固めているかと思えば、そういうわけでもないらしい。。。

せいぜい1万円程度のセーターを着ている人が、5千円のセーターを着ている人を見下げるといった具合だ。

それ以外にも、子供の学校についても、公立に行かせるなど考えられないなどと、子供を公立校に通わせる親の前で言うというからすごい。。。

何かというと、「みっともない」という言葉を発するのに、友人は辟易としているのだとか。。。

「みっともない」とは、「見たくもない」が語源になっているというから、その人にとっては、「そんな友達は見たくもない」ということなのだろうか?

余計なお世話だ。
それなら、見なくてよろしい。

しかし、それを言ったら話が終わってしまう(笑)





私も以前、ある集まりで同じような次元の余計なお節介を頂いたことがある。
娘の大学受験について聞かれた際、滑り止めを受けずに本命一本勝負で、もしもダメなら浪人する。
そう言ったところ「女の子で浪人なんてみっともない」と言われた。

「みっともないって、誰が誰に対して?」

そう尋ねたら、「周りの人や世間」という、ありきたりな言葉が返ってきた。

まったくもって余計なお世話である。

「世間様が我が子の幸せを保証してくれるわけではないので、本人の好きなようにさせます」

そう言ったところ、黙ってしまった。
他の方の手前もあったのか、揉めるのが嫌だったのだろう。

「みっともない」も結局のところ自分の思いではなく、世間が勝手に作り上げたものを基準になぞっているだけなのだと思う。


人生はこうでなければ、成功とは言わない。

そんな世間の作り上げたロールモデルを本気で信じて、それを信奉している人もいるのだ。。。

こんな学校を卒業して、こんな会社に就職して、こんな服を着て、こんな店で食事をして、こんな交友関係の中で生きる。

そんな世間の決めた事柄が基準であるなら、なんと無責任で儚いものだろう。

50を過ぎた立派な大人でさえも、そんな幻想を信じている人が多いのが解せない。

そんな人達と一緒にいると、私はモヤモヤしてたまらなくなるのだ。

自分の直接の友人にそのような人はいないけれど、時折友人の知人などという方とご一緒する機会があったりする。
そんな時、運が悪いとそんな人達と同じ時間を過ごすという拷問に遭うのだ。

件の娘の受験に対して、「みっともない」発言をした人とご一緒したときのように。。。

受験のみならず、ことごとく私とは意見が異なることを察知したのか、面倒なことにチャチャを入れてくる。

本当に面倒くさい。。。

ムキになるのもバカらしい、しかし言われるままでいるのも癪だ。

口論をしたところで、その場を白けさせ、他の方にも嫌な思いをさせることになる。

本当に厄介な人種である。

私ごときにマウントを取ったところで、何の得にもなりはしないのに。。。





「マウンティング」という言葉が出てきて久しいけれど、私はこれまでそれを実感したことがなかった。
自分と他人に優劣をつけて、お山の上に立つなどという行為は、砂場で遊ぶ園児のお楽しみだと思っていたからだ。

しかし、大人になっても存在することを知り、ちょっと驚いたと同時に、絶滅危惧種のレアな動物にでも会ったような衝撃を同時に覚えたものだ。

ある人が著名人である知人の話をしだすと、覆いかぶさるように「あら、私の知り合いの友人も◯◯さんなんだけどね」と、追いすがる。

私の履いている靴を見て、「素敵ね」と一人のお友達がいえば、「それ、もっと新しいの出てるわよ。私の友達がこの前買ってたわ」と。。。

受験に関しても、慶應はね、立教はねと、さも自分の子供がそこの学生であるかのように言うのだ。

ここでは必ず東大や京大ではなく、慶應、立教あたりが出てくるのは、勉学のみならずその経済力の誇示も目的としているからだろう。

このような方々は、なぜそんなに頑張るのだろうか?

見ていてとても不思議な気持ちになった。

そこに集っていたのは、富裕層の奥様方がほとんどで、私のような庶民は張り合う気にもなれない。
それよりも、世のセレブとはどんな生活をし、どんなことを考えているかを知る方がよほど楽しい。

そして、そんな富裕層の奥様方は概して自分と他人を比べるようなことはしない。
比べる必要がない人生を幼少の頃から送ってきた人達にとって、マテリアルはそれほど大きな意味を持たないからだ。

一方で人との間に優劣をつけたがる人は、きっと自分がお山の下の方に位置付けされるかもしれないという危機感をいつも抱えて生きているのだろう。

話を聞いていて思ったのは、他人事が気になり、常にマウンティングをとろうとする人は、その交友関係に問題があるようだ。

つまり、そういう人達に囲まれているということ。
常に自分が上になろうと競い合っている中では、誰もが自分を守るために人を攻撃するようになる。そして、やがてそれは当たり前のこととして習慣になってしまうのだ。

それが当たり前になっているものだから、どこで誰と会っても戦闘態勢で挑んでくるといった具合に。。。

そう思うと、気の毒になってくる。
あるがままの自分を認めてくれる人がおらず、常に甲冑をまとうように全身ガチガチで戦闘状態でいなければいけないのだから、どれほどストレスの多いことだろうと。

「私はこんなにすごいの!」とギラギラと光線を出してくるのも、ある種の目くらませなのではないか?

忍者が投げる煙幕の光線版みたいなものか?

眩しい光を放つことで、見せたくない部分を隠す。
加齢のため容姿の衰えが見えてきた女優さんなんかが、強いライトを浴びて真っ白にすることでシワやたるみなどを隠すのとよく似ている。。。

そんな風に先制攻撃をかけることで、自分の中にある劣等感を隠そうという心理だとも考えられる。

よくわからないけれど。。。





突き詰めれば、そこには常に他者との関わりがあって、つまりは「人から見えている自分」を強く意識した言動なのだということがわかる。

「生きづらい」と言われている現代だけれど、そう感じるのも他人に必要以上に干渉したりされたり、それに対して悶々としてしまう結果であるのかもしれない。

それならば、他人の目など気にしなければいいと思うところだけれど、人によってはそれが難しいことらしい。

持って生まれた気質の問題で、他人の言動がいちいち気になって仕方がないという人もいるのだそうだ。

気質の問題であれば、どうしようもないといったところだろうけれど、回避する方法がないわけではない。

極端に言えば、人と会いさえしなければ、余計な影響を受けることもなければ、自分への評価を受けることもない。

しかし、現実的に考えれば、それもなかなか難しいものだ。
人と関わることを避けるためには、引きこもりにでもなるほかないのだから。


「人のことなど気にするな」

これが無理ならば、せめて比べることをやめることだろう。

一見お山のてっぺんにいるような人でも、それを誇示してマウンティングするような人は、メッキを貼り付けている人が多いものだ。

たとえ自分がなんの輝きも持たない銅だとしても、所詮相手もメッキ。それが禿げれば同じ銅が隠れているだけ。

そんな争いなど愚かであることを知り、人よりも自分を見つめて生きていくことだと思う。

私は他人の言動はあまり気にならない方だけれど、それはある種の強さではなく、自分のことで精一杯、周りを「見ない」のではなく、「見ていない」からなのかも知れない。

誰がどんな服を着ていたとか、どこの誰が何をしたとか、ほとんど覚えていないくらいだ。

頭の中に比較するものが入っていないのだから、マウントもなにも取りようがない。

それでも、前途したように他者に対して無関心な人間ばかりではない。
気になる人は気になるものなのだ。

ただ言えることは、どんな人間にも光と影があるということ。
他人の光の部分と自分の影の部分を比べたところで意味がない。

他人の言動を気にする前に、もっと自分の心に注意を払ってあげることだ。
そうすれば、他人がどう振舞おうが、自分にとってはどうでもいいことになる。

自分を放っておいてくれない人も、時に現れたりすることもあるけれど、そんなときはマウント星という別の星から流れてきた人とでも思っておけばいいだろう。