In other words

I really don't know life at all ...

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電車での忘れ物。センター問い合わせで確認すべきこと。見つかる可能性が上がるというお話。

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先日、日記ブログの方で大切なマフラーを失くして落ち込んでいるという話を書いた。

ちょうど病院へ検査に行く途中で、目的地の駅に到着し、降りようとした時に電車内で落としたのだと思う。
改札を出た後にすぐに気づいたものの、病院の予約時間に間に合わないと困るので、そのまま病院へ行くことにし、帰りに乗っていた鉄道会社の忘れ物センターに寄ってみた。
詳しい経緯を説明したものの、その時点では該当するような物は届いていないという答えだった。
ちょうど紛失してから、2時間半ほど経過していた。


私が乗った電車は「A」という鉄道会社で、降りた駅も「A」路線上の駅だった。

当然「A」の忘れ物センターへ行ってみたのだけれど、そこでは該当する忘れ物はないとのことで、別の鉄道会社へ問い合わせをしてみてはどうかと、「B」という別の鉄道会社を教えて頂いた。

この「A」の路線は、途中から都外になるため「B」という鉄道会社の管轄になるそうで、その忘れ物センターにあるかも知れないとの話だった。

すぐに「B」へ電話をし、調べてもらったのだけれど、やはり「B」にも私のマフラーらしきものはないという。。。

こんな時、他にできることはない。「ありません」と言われたら、「わかりました」と納得するしかないのだ。その時はそう思っていた。

とはいえ、長年大切にしてきたお気に入りの物を、そうそう簡単に諦められるはずもなく、なんだかひどく落ち込んだ気持ちのまま、その日は帰宅した。





ちょうどクリスマスイヴの前日だったので、ケーキのスポンジを焼いたりしながら気を紛らわせ、一度は諦めようと思った。
しかし、やはり「万が一」誰かが遅れて届けてくれたかも知れないなどと淡い期待を捨てられず、翌日の昼過ぎにもう一度、問い合わせをしてみた。

前日と同じように、まずは「A」の忘れ物センターへ電話してみたのだけれど、答えは同じ。そして次に「B」へ連絡。ここでもやはり該当すものはないとの返答だった。

しかし、ここで前日には出てこなかった新しい情報を知ることになった。

「A」から都外に出ると「B」になって終点と思っていたところ、実はその先があったのだ。

「B」が折り返し、再び都内に戻ると、今度は「C」という鉄道会社に変わるという。

最初のお問合せでは聞かれなかったことだったのだけれど、翌日に電話をした際に出た担当者が、そのことを教えてくれ、「C」が最終的に終着駅となるので、そちらへも問い合わせをするようにと教えてくれたのだ。

そして、「C」へ問い合わせたところ、なんと「それらしき物がある」という。

色も素材もタグに書かれたブランド名も、同じ。まず間違いないだろうということで、翌日早速「C」の忘れ物センターへ確認に行ってみた。





そこから出てきたのは、紛れもなく紛失した私のマフラーだった。
嬉しいと思うのと同じくらい、不思議な気持ちになった。
家から遠く離れた所で失くした物が、一日かけて、とても近くで発見されたのだから。
これは東京地下鉄ラクルだ。

東京は広い。そこに神奈川、埼玉、千葉とさまざまな路線が乗り入れ、それぞれがリンクしているという複雑さ。

きっと私が鉄オタだったら、あっという間に解決していたことだろう。

最初に問い合わせをした時、どの担当者も教えてくれなかった「C」の存在。
もしかしたら、忘れ物センターの方も完全には把握していないのかも知れない。

「最初から教えてよ」という気持ちに一瞬なったものの、やはり悪いのは自分だ。
自分の不注意で紛失したのがそもそものことなのだから。

そして、自分で根気よく調べることもせず、「ありません」と言われて「そうですか」と納得したのも自分のせい。

たまたま知識のある駅員さんが、私が乗った電車の運行状況などを把握していて、「C」の可能性を教えてくれたからこそ見つけることができたのだ。いわば運が良かっと言える。

何事も他力本願ではいけない。
どうしても見つけたいと思ったら、とことん調べてみるべきであったと思っている。

都内の鉄道網は複雑だ。けれど、調べればわからないことではない。

忘れ物が見つからないという方は、今一度ご自身の乗った電車がどこの会社でどこまで行き着くのか、詳しく確認することをおすすめしたい。
もしかしたら、私のように思いも寄らぬ駅に届いているかも知れない。





それともう一つ、今回はコロナ禍だからこそ、見つけることが出来た可能性もある。

そのマフラーは割と高価な物で、だからこそ大切にしていたのだけれど、色味も落ち着いていて性別、年齢問わず、誰もが使えるようなシンプルな物だ。
もしかしたら、誰かにそのまま持ち去られていてもおかしくはない。

誰かが忘れ物かしら?と届けてくれたかも知れないという願いもあったのだけれど、結局は終点の駅で駅員さんが車内に残されていたマフラーを見つけたようだった。

つまり、コロナ禍だからこそ、どこぞの誰の物かわからないような物には、誰も手を触れたがらないということだ。
おかげで、私のマフラーは誰の手に取られることもなく一人で旅をして、駅員さんに拾われたことで、無事私の手元に戻ってきた。

もしかしたら、そのマフラーへの思い入れが強すぎて、「そんなに思われているのなら、仕方ないか。。。」と、マフラーが戻ってきてくれたのかもとも思ったり。。。

いずれにしても、ご縁とは人間同士だけではなく、物とも繋がっているのを感じた失せ物騒動だった。

コロナ禍で変わった買い物の仕方。ネット通販依存の末に考えたこと。

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六本木ヒルズのクリスマスデコレーションの一部です。本文とはまったく関係ありませんが、とてもきれいなディスプレイなので、イメージとして。。。



昭和の人間にとっても、いまやネット通販を便利に利用することは当たり前になっている。
手元にあるスマホで、ゴロンと寝転がりながらポチポチすれば、翌日には欲しいものが届くのだから、こんなに便利なことはない。

ついつい熱中して、大して必要でないものまで買い物をしてしまう。

先日も夫が毎朝食べるグラノーラが残り少なくなっているため注文をしておいてくれと頼まれた。
食べる量がとにかく多いので、いつも5キロくらいはまとめ買いをするのだけれど、それもかなりの重量になるので通販を利用している。

主にamazon楽天を使うことが多いので、どちらがお安いか、あちこちのお店を比較しながら注文したのだけれど、他に欲しかったものはなかったか?いつも無理にでも捻り出そうとする。

しかも「スーパーセール」「半額セール」「タイムサービス」「ポイント◯倍!」「15%オフクーポン」
そんな、いかにも「いま買わないと損をする!」という気にさせる文言を見ていると、ついつい煽られてしまうのだ。

消費者の購買心理というものを巧みについた宣伝は、本当に凄いものだと思う。
amazonにしろ楽天にしろ、あれだけの企業へと成長を遂げたのも、思わず納得してしまうほど、理性を失わせてくれる戦略をあちらこちらに張り巡らせている。

私もそんな戦略にまんまと乗せられ、ポチポチと買い物をしてしまうのだ。

「家にいながらして買い物ができる便利さ」

これはコロナ禍の自粛生活で、多くの人が実感したことだと思う。
私もコロナ禍以前は毎日のようにふらふらと出歩き、そのついでに買い物をしていたのだけれど、自粛でそれもできなくなり、以来すっかり通販に依存するようになっていた。





便利なのはもっともなのだけれど、自粛の解かれた以降でさえも、どっぷり通販生活を続け、余計なものにまで手を出すのは、その「便利だから、ついでに」が大きな免罪符となっている気もする。。。

もちろん必要なものは便利に購入させていただいている。しかし、いつもその必要なもの以外の物もついでに買っておこうと思ってしまう、そこが問題なのだ。。。

そもそも考えなければ思いつかないような物は、本来買う必要のないものだ。無駄になるとまでは言わないけれど、なくても困ることはない物ばかりなのは確かだ。

もちろん通販に限らず、百貨店や路面店、スーパーなどでも、ついつい「ついでにこれも」などと、余計な物を手に取ってしまうことはある。

つまりは自分のせいなのだけれど、それを重々承知で言わせていただければ、それだけ「買える物」が巷には溢れているということなのだと思う。

この「買える物」とは、まずは価格帯。これが何十万もするような物であれば少しは慎重になり、本当に欲しいものなのか?必要な物なのか?そう一歩立ち止まり、じっくりと考えるものだけれど、0が少なくなるほど、その考える時間は短縮されていく。

通販を今ほど利用していなかったコロナ禍以前も、普通に「ついでにこれも、あれも」といった買い物はしていたけれど、通販はその比ではない。

毎日のようにやってくる宅配便、そして月末に届くクレジットカードの使用明細を見て、「こんなに色々買ったかしら?」と、愕然とすることもある。
もはやこれは「買い物」ではなく「エンタメ」だ。。。

それに気づいた時、「エンタメ」なら買い物以外にもある。そう思った。





通販による「便利なお買い物」には、他にもデメリットがある。
それは外出の機会が減ることだ。私のような専業主婦は食材の買い出しにスーパーを巡るのもひとつの仕事なので、コロナ禍以前は毎日のようにウォーキングと称し、テクテクと歩き、そのついでにスーパーへ寄り買い物をし、大きな荷物を抱えて帰ってきた。
これだけで、結構な運動になるのだ。

それがコロナ禍ではそんな習慣もなくなり、かなり運動不足になってしまった。
更年期も相まって贅肉は増える一方。おまけに趣味がお菓子なものだから、お取り寄せしてはカロリー摂取だけは以前と同じ。。。

体型云々よりも、50も過ぎれば健康面で問題が出できてもおかしくはない。

ネット通販に依存していると、無駄買いだけでなく、健康にも影響してくると実感したのだった。


12月に入り、年末年始のお支度に向けた家計管理の一つとして、予算を決めることにしたのだけれど、家計簿を眺めていて、なんと無駄遣いの多い年だったかと反省した。

今月に入ってから、通販は本当に必要なものだけに留めている。
今すぐでなくてもいいものに関しては、暇な時に実店舗へ足を運んで選ぶようにしたので通販は利用していない。

今は重たいもの、実店舗まで足を運ぶ時間がないものに関しては、便利に通販を利用させてもらっているけれど、以前のように無理に欲しいものを探したりはしない。
また、通販でしかお取り扱いのない物もあるので、そういった物に関しても迷わず利用させて頂くつもりだ。

毎日のようにメールされてくるクーポンやセールの情報もスルーしている。
見なければ知ることはない。知らなければ、そんなお得な情報もないと同じなのだ。





「エンタメ」ならばネット通販でなくてもいい。これまで暇ができるとついつい開いてしまう通販のアプリだったけれど、最近はそちらを開く前にNetflixを開く。
韓流ドラマという「エンタメ」のおかげで、ネット通販の依存からも簡単に抜け出せた。

そして私にとってはブログもエンタメの一つだ。メインのお菓子レビューブログとサブの日記ブログはほぼ毎日更新しているのだけれど、このブログに関してはついつい放置してしまっている。

通販サイトをのぞいている暇があるのなら、こちらでブログの一本も書いて、週に一度くらいは更新したい。
来年からは少し頑張ろうと思っている。。。


新型コロナの猛威も、新たな新種の発見などで第6波が懸念されるところだけれど、もはや昨年、今年と同じような状況にはならないだろうと予想している。
疲弊し切った日本の社会、経済を立て直すためにも、これまでのように自粛を強いられることはないはずだ(そう願いたい)。

これからは、自由に動けるのなら、やはり自分の足を使って買い物をしようと思う。
もちろん、通販も便利に使うつもりだ。

通販の利点も利用させてもらいつつ、基本アナログで暮らすのが、昭和世代の暮らし方としてはしっくりくる。

何事も学びだ。ネット通販にハマり、依存したからこそ、実感できたこともあった。
今後のよりよい暮らしのヒントにするには、買い物以上の収穫であった。

と、ポジティブに考えてみようと思う(笑)

パブリックマナーはないのか!5年ぶりに爆発させた怒りの末に悟ったこと。

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最近、街を歩いていると、人にぶつかっても平気で無視して歩き去る人が多くなったように感じる。

これは道端のお地蔵様に当たって素知らぬ顔で逃げるのと、同じくらいに無慈悲かつ一方的な行為ではないかと思っている。

とりわけ、必死で水平を保ちながら慎重に買った和菓子やケーキを持ち帰る際に、後ろからドンとぶつかられ、挙句にバサッ!っとお菓子の入った手提げ袋にまでダメージを与えられたとなったら、思わず襟首掴みたいくらいの怒りを覚える。
食べ物の怨みとは、それほどのものなのだ。

しかし、そんな怒りを露わにすることは、もうない。私も50を越えた立派な中年だ。ここで大声を張り上げたりしたら、頭のおかしい人扱いされるのは、私の方だと思うから。

忍の一字。。。

最も苦手とする、耐え忍ぶということを、「これは今生における修行だ」と、まるで出家した尼さんのように俯き、耐え忍ぶのである。

「耐える」という行為もある種、慣れのようなものがあり、耐えることを続けていると、自然に怒りの沸点が高くなり、ある程度のことなら笑って黙認できるようになってしまうのだから不思議だ。

しかし、どんなに慣れようが、本当に出家した尼さんというわけでもないので、その忍耐にも限界があると知った。





先日、友人とランチがてら銀座の百貨店へ行った帰りのこと。
電車に乗っていたところ、目的地の駅に到着したので降りようとすると、目の前に30代前半と思しき、ごくごく普通の女性が立ち塞がっていた。
降りる人が大勢いる中、それより早く、我先に乗り込もうという体制なのが見てとれた。

「降りる人が先」
これは暗黙のマナーでもある。当然私もこちらに優先権ありと、ドアが開いたと同時に降りようとしたのだれど、その女性が脇によける気配はない。それどころか「退け」とばかりにこちらを睨みつけてくる。

女性が目の前にいたら、当然私は歩を進めることができない。
ドアが開いても一向に降りることのできない人々が、私の背中に耐え難い圧をかけてくる。

さすがの私も堪りかね、口を開いた。

「降りる人が先です。脇によけていただけませんか?」

とても穏やかに、ごく自然お願いしてみた。私にしては褒めてあげたいくらいの忍耐強さと穏やかをもっての対処だったと思っている。

当然、「あら、すみません」と、脇に避けるのかと思ったところ。。。





「はあ?」

その女性は不機嫌さを顔面いっぱいに貼り付けたような顔で、そう小さな声で呟くと、よけるどころか「はん!」っと、薄笑いを浮かべ無理やり車中に捻り込もうとしてきたのだ。

ちょっと驚いた。
最低限のパブリックマナーも無視し、己の思惑を無理やりにでも押し通そうとする女性に。。。

考えてみたら、こんなことは珍しいことではないはずだ。若さと美しさの剥がれた落ちた中年女性に親切心を見せてくれる人はそういない。

もしかしたら、大人しく私が道を譲れば、事を大きくせずに済んだのかもしれない。
しかし、私には無理だった。。。

「忍」の糸がぷつりと切れた尼さんは、ほっかむりを取り去り、宙に投げた(イメージ)。

もちろんいきなり掴みかかったりはしない。ただ行手を遮った。

中年になり、しっかりと肉のついた身体はこんな時のためにあるのか!というくらい素晴らしい働きをする。

鳥の餌ほどしか食べていないのでは?と思うほど華奢で高いヒールを履いた女性に私を薙ぎ倒すことは不可能だ。

行手を塞いだあと、私は丁寧に、丁寧すぎるくらいに慇懃無礼に、声を上げた。





「あーた!パブリックマナーは守りなさい!何を偉そうにしてるの!今すぐ道をおあけなさいな」

まるでデビ夫人のコピーおばさんのような口調だ。

すると、その女性は見たこともないモンスターと対峙したかのように、顔を引きつらせて一瞬動かなくなった。。。
そして次の瞬間、脱兎の如くその場から走り去り、少し離れた車両へ移動したようだった。

予期せぬ出来事だったのだろうと思う。

百貨店の紙袋を両手いっぱいに提げ、ヒーヒーしているおばさんから、いきなりパブリックマナーだなんだのと大声をあげられたのだから。

それにしても、拍子抜けだった。 自分から売った喧嘩なのに、いきなり逃げ出すとは。。。素直に買った私はなんのために公衆の面前で大声を張り上げたのだか。。。


私は幼少の頃から人間拡声機と呼ばれるほどに声が大きい。普段は意識して声を抑えて話すようにしているけれど、こんな状況下においては、そのような配慮は不要とばかりに、その大きな声がさらに大きくなる傾向にある。

そこが、「おかしい人」と思われる所以かとも思うだけれど、効果の程は絶大であるということを、過去の数々の経験から学んでいるせいか、無意識のうちについつい声が大きくなってしまうのだ。

周りにいた人達はきっと驚いたことだろう。比較的混んだ電車の中では、前の方で何が起こっているかはわからなかっただろうから。

一緒にいた友人は満足そうな笑を浮かべていた。
古くからの友人なので、私がこんな時にどんな行動をとるかはもちろん、声の大きさも知っている。
最近は出家した尼さんのようになっていると、自慢をしていた私に対し、「ほらね、三つ子の魂百までよ」などと思っていたのだ。

「やっぱり我慢できなかったわね。我慢できたら、私が言ってやろうかと思っていたんだけど」

その言葉を聞き、「ああ、私が言わずとも、私以上に気の短いこの人がいたのだったわ」
そう、後悔した。





私はこのようなことがあると、後から必ず自己嫌悪に陥る。自分の怒りをコントロールできない未熟さが嫌になるのだ。

そんなことが繰り返されてきたからこそ、もう如何なることがあろうとも、決して怒ってはならない。
私は数年前にそう誓ったはずだった。

たかが、電車に乗るマナーがないくらいで、わざわざ人前で大きな声をあげることもなかったのに。何故我慢できなかったのかと。

しかし、最初から怒鳴りつけた訳ではなかった。礼儀をもって伝えたにもかかわらず、「はあ?」と馬鹿にしたような態度をとったのはあちらだ。
つまり、相手もやる気満々だったということだ。

世の中には、自分よりも弱い人間には横柄で、強い人間の前では借りてきた猫のようになる人が少なくない。
言葉はよくないけれど、嫌な思いをしたくなければ、舐めていい相手であると思われないことだ。

しかし、それが元で自己嫌悪に陥るのだから、私は一体どうしたらいいのだろう?

このように公衆の面前で怒りを露わにしたのは、実に5年ぶりくらいだった。

これまでも、耐えがたいほどに理不尽なことはあったけれど、それでも怒りを鎮めることができていたというのに、なぜその時は堪えることができなかったのだろうか?

思い当たる理由はあった。





それは、お腹が空いていたからだ。
しっかりランチは食べたものの、この日はお買い物に時間をとられ、デザートと称したお三時のお菓子を食べていなかったのだ。
午後、そろそ小腹が空いてきたなと感じていたところの出来事だった。

そんな単純な理由で怒ってしまう私は、やはり修行が必要なのかも知れない。
それが嫌ならば、「怒らない」という禁を破らないためにも、カロリーメイトでも持ち歩くほかないだろう。。。

その日、私は本屋さんへ寄り、仏教の教えに関する本を手に取った。仏様に寄り添ってもらえれば、少しは自己嫌悪からも解放されるのでは?との期待をもってだ。
しかし、効果はなかった。許すことを解く仏教の教えを見て、「許せなかった自分」への自己嫌悪がさらに募っただけだった。

ところが、帰宅してデパ地下で買ったお菓子を食べていたら、全て忘れてしまった。。。
仏教の教えよりも自分の好きなものが、救いになるということがわかった。
なによりも、どんな不愉快な思いも時間が解決してくれることを知ったのだ。

人生とは何事も経験だ。ここで私は一つ学んだ。
公衆の面前に出る際は、何か甘いものでも携帯しておくに限る!空腹は敵だということを。
そして、どんなに嫌な出来事、辛い出来事があろうとも、それはやがて時間が解決に導いてくれるということを。

つまり、人生とはそれほど複雑なものではなく、シンプルに考えるべきなのだ。
その方がきっと幸福でいられる気がする。

そんなことを件の出来事で考えたのだった。。。