In other words

I really don't know life at all ...

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気持ちを整えるために始めた早起き生活が自己満足に変わった今、もう少し立派な理由が欲しくなった。

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早起き生活を始めてもう15年以上になる。
当時、まだ子供は幼く、自分だけのひとり時間を持つことが難しかった。そこで考えたのが、朝型生活だった。
朝4時に起き、家族が起きてくる7時までの間なら、静かに過ごせるかも知れないと思ったのだ。

その思惑は予想通りで、わずか3時間だったけれど、誰にも邪魔されることなく「わたし時間」を楽しむことができた。

早朝、まだ暗いうちに起きて、コポコポとコーヒーを淹れ、パソコンの前に座り、メールの返信をしたり、調べものをしたり、本を読んだり、、、とにかく私は自由だった。

「マミー!マミー!」と代わる代わるやってくる子供達も、いつも傍で喋りまくっている夫も、愚痴ばかりこぼす実母も、みんなぐっすり眠っていて、私の邪魔をする人は誰もいない。

常々言っていることだけれど、人間には誰しもパーソナルタイム、パーソナルスペースというものが必要だ。

自分だけの時間を持つことができないと、気持ちを整えることができない。

結婚願望のなかった私が結婚し、子供嫌いだった私が二人の子供の母となり、仕事を辞めるつもりもなかった私が専業主婦になった。

まるで想定していなかった人生だけれど、別に後悔はしていない。それはそれで別の経験を得て、楽しむこともできたから。

ただ、ひとりで生きていきたいと思っていたのは、極端な話し、誰の人生に対しても責任を負うことなく、自分勝手に暮らしたいという思いに他ならなかった。私はそんな人間だったのだ。

私の時間は私のもの。
私のお金も私のもの。
私の人生、全て私のもの。

そんな人生を想定していたのに、気づけば「私の」が「家族の」にすり替わった人生を歩いていた。





家族を持った者の責任として、夫のことも、子供のことも、できる限りのことはしようと思っていた。それは今も変わらない。

夫は当時、ろくに日本語も理解できない、全く稼ぎのない外国人だったので、日本人である私が世帯主であり、戸籍の筆頭主だった。

今では日本語も話せるようになり、家族4人不自由なく暮らせる程度の収入を得てと成長した夫だけれど、今でもやっぱりよその日本人の旦那様より大変なことも多い。
何十年日本で暮らしていようが、外国人は外国人なのだ。

そんな夫と幼かった子供達、同居していた実母に囲まれ、私は正直とても窮屈な思いをしていた。

ひとりでゆっくりできる時間は、ほとんどなかった。
夫がお休みの日に子供達の面倒を見てもらい、一人で美容院へ行ったり、お茶を飲みに行ったり、本屋さんをぶらぶらしたりはあったけれど、それ以外はいつも私の傍には誰かしらがいた。

そんな生活を何年も続けるうち、ちょっと危機感を覚えたのだ。
とにかく「私だけの時間」というものが必要だ。しかし、家族に対する責任も放棄できない。。。

そこで考えたのが、家族が寝ているうちに、自分の時間を作ることだった。

子供は夜8時には寝てしまう。しかし、夫は夜遅く帰宅することも多く、何時だろうが私が起きている限りは、話しをしたがった。

夜が無理なら、朝はどうか?

家族が起きてくるのは7時頃だから、狙うのはその前の時間しかない。

ひとり時間は長ければ長いほどいいと思ったのだけれど、あまり早すぎると夜だか朝だか区別がつかなくなりそうだったので、4時に起きることにした。
3時間もあれば、いろいろなことができる。

そうして始まった早起き生活だった。





最初は子供達と一緒に8時に寝るところから始めた。早く寝れば早く起きられる。

しかし、狂いに狂っていた夜型の体内時計を整えるのは、なかなか大変だった。
それまでは、朝4時近くに寝るような生活をしていたものだから、睡眠時間も不定、寝たり寝なかったり、まだ若かったおかげでナポレオン並みの睡眠時間でも問題なかった。
今あの頃と同じことをしたら、一日で倒れる。間違いない。

もう15年以上も前のことなので、正確には覚えていないのだけれど、しばらく続けているうちに、体内時計も早起きモードに置き換わり、朝4時に起きることが苦でなくなったどころか、スッキリと気持ちよく目覚めるようになっていた。

人はその気になれば、変われるものなのだ。

早起き生活の一番のメリットは、寝坊をする心配がなくなったことだ。
朝4時に起きるのが習慣になっていれば、たとえ寝過ごしたとしても、5時や6時には目覚める。
私のおかげで、夫や子供達も寝坊知らずだ。
少しでもいつもの時間に起きてこないと、何度でも大声で「起きろ!起きろ!」と騒ぐものだから寝坊のしようもない。

他にもメリットはたくさんある。
朝は夜よりもずっと頭が冴えている。私の場合はブログを集中して書くのは朝が多い。
一気に書き頑丈な屋台骨を作ったものを、あとから推敲する。

私はブログを書くときに音が聞こえると気が散るのだ。音楽を聴きながらだと捗るという話も聞くけれど、人の話し声も、家族が観ているテレビの音も、好きな音楽も、すべて邪魔になる。
そんな私にとって、静けさだけがある早朝は最適な時間なのだ。





私の知人に、夜中の3時に起きて勉強するという人がいた。やはり誰にも邪魔されず、静かで集中できるからという理由だそうだ。
会社へ行く前に朝から勉強しているとは、すごいものだと思う。それだけのことができる人だから、結果も当然それに見合っていて、私などが見上げても見えないくらいのところまで出世した。

私もまるで手紙のように長いメールの返信や、ネットでの美味しいもの探し、自分にはまったく役に立たない、ただ興味があるだけの本などを読んでいないで、勉強をしていたら、今頃違った人生だったかもしれない。

15年はあっという間だったけれど、決して短い時間ではない。何かをやり遂げるに十分な時間だったかもしれないのだ。
その膨大な時間を、ひょっとして私は無駄にしたのではないかと思わないでもない。
時間の無駄遣い。。。

ただ、私の目的は勉強をして出世することではなかった。
自分だけの時間を確保し、心を整えることが目的だったのだ。

そう考えれば、私は目的を達成したことになる。つまりは件の知人と同じように、結果を出したことになるのだ。
そう思うことにしよう(笑)

今でも早起き生活は続けている。意図したものではなく、習慣になっているため、アラームが鳴る前に自然と目覚めてしまうのだ。


更年期になると、周りの友人達からは睡眠についての悩みを多く聞くようになった。

夜中に何度も目覚める。
早く目覚めてしまう。
寝入りが悪い。

睡眠の質が悪いと体調にも影響が出て、更年期症状も相まって、かなり辛いという話だ。

早起き生活のせいかどうかはわからないけれど、私には睡眠に関する問題は今のところない。

布団に入った途端に寝息が聞こえてくると、家族が驚くほどの寝入りの速さ。
夜中に目覚めることもなく、朝までぐっすり眠り、いつもの時間に自然と目覚めるのだ。

昨年だったか、一度眠れないという時期があったけれど、それも数日で解決し、今はまた元に戻った。

早くに目覚めてしまうので、若干寝不足気味なのは否めないのだけれど、それは3食昼寝付きの専業主婦なので昼寝でまかなえる。

今はもう早起きをする必要はなくなった。わざわざひとりの時間を作ろうと思わなくても、ひとりでいる時間の方が多いくらいの生活になったから。





それでもやはり早起きはいいと思う。
同じことを午後にしても、効率がまったく違う。

なによりも気分がいい。
ただの自己満足だけれど、早く起きると、さも自分がしっかりと生活しているように思えるからだ。
若い頃なら昼頃まで寝ていたとしても、なんとも思わなかった。しかし、50も過ぎた大人になると、怠惰な生活に自己嫌悪を覚えるようになるのだ。
同じ人間なのに。。。

普段からまったく大したことをしていないので、これで自堕落な生活などしようものなら、自己肯定感のカケラも持てなくなるのは想像できる。

毎朝早く起きて、何かしらすることで、所謂充実感というものを味わっているのだと思う。

夫や子供達からは、一体いつ寝てる?もっと寝た方がいいと、毎日のように言われているけれど、私は「きちんとした生活をしています」という自己満足を手放したくはない。

雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも、寝不足にも、負けずに、私は早起きをする。

「自分ひとりで過ごす時間によって、心を整えること」そんな目的を持って始まった早起き生活。今は自分がきちんとした暮らしをしているという自己満足のためのものになっている。

歳をとると、早起きになるという話をよく聞くけれど、30代のうちから早起きしている私は、今後どれだけ早く起きるのだろうか。

その辺りの帳尻を合わせるためにも、少しずつ起床時間を遅らせてみてもいいかもしれない。

極端な夜型から朝方に変えられたのだから、きっと起きる時間を遅くすることもできるだろう。

ただ、もう人生の半分以上を生きてきた。それでもまだまだやりたいことはたくさんある。つまり、寝ている場合ではないのだ。

自己満足のためだけの早起きではなく、これからはもっと早起きにきちんとした理由をつけられるようになりたいと思う。

ベートーヴェンの『運命』で心が不安になった朝。音楽とは、これほどまでに人のメンタルを左右する効果があるのだ。

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音楽のもたらす効果というのは絶大だ。

少し前のこと。朝、駅を抜けるためだけに通過する商業施設の中で、突然ベートーヴェンの『運命』が耳に飛び込んできた。
それもかなりの大音響で響いたものだから、私の心にも「ジャシャジャジャーン!」と、何か起こるのではないかという不安が瞬時に広がった。

何故、朝っぱらから『運命』なのだろう。
その場所は、普段からBGMはある。ただ、聴き逃せる程度のもので、それは通りを走る車のクラクションと同じ程度、そこまで気に留めることはなかった。


『運命』は人を不安な気持ちにさせる。
一粒万倍日という縁起のいい朝に、悪天候をものともせず、意気揚々と歩いているときに、いきなり『運命』をぶつけられ、私のポジティブは空気の抜けた風船のように、萎んでしまった。

萎んだだけでなく、さらには頭上に暗い雲が垂れ込めてくるようなイメージさえ心に広がり、ちょっと驚いたと同時に、ものすごく不安な気持ちになった。
なにが不安なのかはわからないのだけれど、とにかくポジティブがネガティヴに変わってしまった。

さすが、歴史に名を残すだけの人物が作曲した名曲だ。
今なお、市井の人々の感情を揺さぶるとは、ベートーヴェンはやはり凄い人なのだ。





音楽の果たす役割は大きい。

映画やドラマ、CMなども、音楽がなければ、福神漬けのないカレーライスのような、味気なさを感じることだろう。

今や、ゲームやYouTubeなどの動画でさえ、そんな音楽は不可欠と言っていい。
音楽というよりも効果音といった方がいいのかもしれないけれど、大雑把に括れば音楽は音楽だ。

あの朝の『運命』は私を不安な気持ちにしたけれど、時に音楽で心癒されることもある。

昔々、海外で暮らしていた頃のこと。人生はあまり上手くいっていなかった。それでも、そこで勝つことにこだわって心身共にクタクタになっていた。

そんな時、唯一心を癒やしてくれたのが、イタリア映画音楽の巨匠である、エンニオ・モリコーネの楽曲を、世界的チェリストであるヨーヨー・マが弾いたCDだった。

真夜中に大音量で美しい音楽を流しながら車を走らせていると、何故かガチガチになった気持ちが少しずつほどけていくのを感じた。

ポリスにストップされることもあったけれど、そんな時もこの音楽が助けてくれた。
嫌なことがあって辛いから、癒されているとわかると、その曲の美しさはポリスの心も動かすほどだった。
とはいえ、違反はしていない。ただの挙動不審による職質。

あの頃、どれだけあの音楽に助けられただろうか。。。
今でも、そのCDは大切に持っている。

どんな音楽でもいいのだと思う。自分がその音楽によって癒されたり、心を強く持てたり、慰められたり。。。

もしかしたら、ベートーヴェンの『運命』だって、誰かにとっては、ポジティブに向かうための音楽かもしれない。

音楽とは、人によって作用が違うと言えるのだろう。





若い頃に比べると、音楽を楽しむ時間は激減した。子供達などは、どこへ行くにもイヤフォンをしていくけれど、私はそれが苦手だ。

家から一歩外に出たら、なるべく五感をフル稼働しておきたいので、時にイヤフォンから流れる音楽が邪魔になる。

最近は、ウォーキングの際、片耳だけイヤフォンで音楽を聴き、もう片方の耳に聴覚アンテナを立てるようにして歩いている。

好きな音楽を聴きながらのウォーキングは楽しい。今日はどんな音楽を聴きながら歩こうかと考えることも楽しい。

昭和の女なので、どうしても古い音楽に偏りがちになる。もう時が止まったかと思うほど、若い頃に聴いていた洋楽ばかりだったのだけれど、数年前から少しは新規開拓するようにもなった。

エミネムを聴きながら歩くのは好き。
ブルーノ・マーズも聴く。
これが私の「新しい」の精一杯。

そして、最近は日本の若いシンガーの歌も聴くようになった。

ウォーキングに最適なのはテンポのいいyoasobi 、あいみょんだって聴く。
King Gnuや髭弾も。

そこに共通するのは「希望」だ。

私は希望のある曲が好きだ。
たとえ辛い内容でも、そこに一筋の光を見出すことのできるメロディーや言葉があると、救われた気持ちになる。

音楽によるメンタルへの影響は、ポジティブな部分にだけしか作用しないと思っていたけれど、ベートーヴェンのおかげで、その逆もまたありと知った。

街で流れるBGMからは逃れられないけれど、せめて自分で選ぶ音楽はポジティブに作用するものにしたい。

ベートーヴェンのような重厚さはなくても、希望があればそれでいい。

ある婚活記事で考えた、3年前の自分との比較、成長はあるのか⁉︎ 50代主婦の答え。

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東京に大雪警報の出た朝、地下鉄に乗って買い物へ出かけた。
行き慣れた場所であるにも関わらず、乗り換えの駅を通り越し、乗り過ごしてしまった。
たった一駅だったので、すぐに次の駅で降りて、向かいの反対方向行きの電車に乗った。
予定が大幅に狂うことがなかったのは、幸いだった。

都心の地下鉄は一駅の区間が短いので、要注意なのだけれど、ある記事に釘付けになっているうちに、乗り過ごしてしまったようだ。

降りる駅についたことすら気づかぬほど、何をそんなに夢中になっていたかといえば、「婚活」についてという、私にはまったく無縁の事柄についての記事を読んでいたせいだった。





それは、婚活しているものの、うまくいかない女性について、「年齢に見合った成長をしていない」という危機感について書かれた記事だった。

「3年前と比較して、成長がないという危機感を知れ」と、そんな内容だったと理解している。

具体的に「3年」という数字を出しているところに、読み手が危機感を感じるのは、まさに言葉のマジック。

長いようで短い。生活を変えることが可能な長さであると同時に、ボーッとしているうちに矢の如く過ぎ去ってしまう短い時間でもある。

すでに結婚し、そろそろ第二の人生をと考えているアラフィフには、まったく関係がないようなことなのだけれど、ふと「私はどうだろう。。。この3年で私は成長しているのだろうか」そう考えていたら、乗り過ごしてしまったのだ。

これは婚活女子だけの問題ではない気がした。
成長することに対し、無自覚に生きている自分への危機感を大いに煽られた。

変化と言ってもかなり漠然としているのだけれど、その記事には具体的にいくつかの基準が示されていた。

「着る服」「私生活」「仕事内容」「給料」、この4つの変化だ。





婚活女子ではないけれど、私も自分の変化について考えてみよう。

まず、着る服。
婚活中のお若い女子であれば、ある程度流行をなぞることは必要なのかもしれない。
しかし、中年ともなると、流行を追うことよりも、清潔感が第一。つまりいかに小綺麗に見えるかが勝負だ。

とはいえ、例えば50歳と53歳では大した違いはない。47歳と50歳でも同じようなものだろう。3年で着る服を変えるには、趣味嗜好が大幅に変化する以外は難しい。

ここで結論を「変化なし」とするのはまだ早い。
結果から言えば、この3年で私の着る服は変わった。
このコロナ禍でのおこもり生活ゆえか、それまで着ていた服は入らなくなり、もはやお洒落どころではなくなった。
フィットした服よりも、贅肉を隠すデザインの服を選ぶようになったのだ。

見事に変化ありということで、合格。

次に、私生活について。
3年前はまだ下の娘が高校生だったので、毎日お弁当を作り、時に保護者会やらPTA、イベントなどの手伝いで、家族中心の生活をしていた。

今はどうかと言えば、3年前と比較すると、ずいぶんと自分時間が増えて、趣味のお菓子やブログにさく時間が増えた。

10割のうち半分は家族のための時間だったのが、今は8割くらいは自分の時間。

つまりは変化ありで、ここもクリアー。


続いて、仕事内容。
無職の専業主婦という立場は変わっていない。
仕事と言えば、日々の家事くらいのものだ。

つまり変化なし。。。
危機感が襲ってくる。

最後に、給料。
無職なので、お給料はないけれど、微々たるアドセンス収益があり、それは変わった。
5年前に始めたブログは、亀の歩みながら、少しずつアクセスも増え、3年前と比較すると、確かに変わった。
とはいえ、微々たる変化。

給料の変化に関しては、「成長」というくらいだから、アップしていなければいけない。
上がったり、下がったりしているということは、つまりは変化なしということか?

これはGoogleさんの意向もあるので、不可抗力と言いたい。

以上、4項目を基準に、3年前の自分と比較して、私に成長はあったのか⁉︎

その答えは、イエス

ただ、それは「暇になり、太った」という、あまり喜ばしくない変化だった。

これを成長と呼んでいいものか?
身体に張り付いた贅肉は確かに成長しているけれど。。。(笑)





この年齢になると、成長の幅は途端に狭くなる。それは新しいことにトライする気力が激しく減退するからだ。他の人はどうかわからないけれど、私個人としては、確実に変化を好むよりも、変わらないことの安心感を選ぶようになった。

変わらないことがいいのか、変わることが素晴らしいのか、正直わからない。

新しいということにワクワクするような気持ちは失われていないけれど、そこにはリスクもある。リスク承知で「失敗も学び」と思えた若い頃と違うのは、やり直しのハードルが高いのがわかっていることだ。

それに引き換え、慣れきったヌクヌクとした毎日は安心感がある。
なにもアクションを起こさなければ、リアクションもこないのだ。
もしも今の暮らしが居心地いいものなら、リスクを負ってまでアクションを起こそうとは思わない。

そもそもリスク承知で物事に挑みたいと思うような夢もない。

婚活女子の場合は、きっと夢があるのだろう。あるからこそ、自分が変わり、成長することが大切な要素になるのかもしれない。

しかし、人生をすでに折り返した私には、成長よりも安穏とした生活を送ることの方が大切に思える。

つまりは、変化しなくてもいいのではないの?

そんな結論。。。

電車を乗り過ごしてまで、心奪われる必要はなかったということなのだ。

めでたし、めでたし。