In other words

I really don't know life at all ...

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ありがた迷惑によるストレス。好意を与えること、受け取ることの難しさ。

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人から何かをしてもらったり、物をもらったりすることは、必ずしも嬉しいということばかりではない。

ありがたいという気持ちはもちろんあるのだけれど、時に困ったなと思うこともある。

私の場合は、ほとんど夫がしてくれることに対して、素直にその好意を受け取ることができない。

メインブログからも分かるように、お菓子が趣味と言ってもいい私に対して、友人知人などからよく頂き物をする。
「美味しそうだったから買ってきたわ」
「◯◯へ旅行に行ったから、そのお土産よ」
「お取り寄せついでに、あなたの分も」
そんな感じで、よく頂き物をするのだけれど、そんな場合は100%嬉しいという気持ちになる。

しかし、夫からもらうものは、いつもどこかピントが外れているというのか、欲しくもないどころか、あったら迷惑になるというものばかりなのだ。

昨日、もらったのは、よくわからないクッションのようなものだった。
なんでもスクワットをする時に、そのクッションの上に立ってやると、効果が絶大らしい。。。

私はスクワットなどしたこともない。これからもするつもりはない。それなのに、何故夫がそんなプレゼントをしてきたかと言えば、最近私が「運動不足で身体が硬くなってきた」と言ったからだという。
以前に大きなバランスボールを買ってきた時も、同じようなことを言っていた。。。

夫は趣味がワークアウトというくらいの運動好きで、毎朝早くから出かけ運動をしている。
体を動かさないと体調が悪くなると信じているせいか、私の更年期による不調も、持病からの不調も、全て運動で解決できると思っているのだ。
運動さえしていれば、すべては解決。

私の健康を気遣っての好意だと思えば、それはありがたいことだ。





また、別の時はおかしなTシャツをプレゼントされた。
私がサワードウブレッド作りを始めて、毎日のように試行錯誤しているのを見たためか、サワードウブレッドのイラストと、ふざけた文言の入った小さなTシャツを買ってきたのだ。
それはアメリカ西海岸で見かけるティーンエイジャーの着るようなピチピチのTシャツで、とても50代の私が着られるような代物ではなかった。

着られないのなら、部屋に飾ればいいと言うけれど、私にはそういった趣味はない。

極力物を増やしたくない私にとったら、使わないものが増えるのは迷惑以外の何物でもない。
それを知っていながら、無駄なものを増やすというのは、どのような了見なのだ?と思ってしまう。

「あなたのため」と言われても、それはちっとも私のためにはなっていない。

しかし、「あなたのため」と言われたら、それが実際は自己満足のためであっても、受けた方は、好意によるものと受け取るのが礼儀であると、日本人である私は思う。

アメリカなどでは、プレゼントをする際にギフトレシートも一緒についてくる。万が一そのプレゼントが気に入らない場合は、返品できるというシステムだ。

合理的といえばそうなのだろうけれど、せっかく選んでくれたプレゼントだと思うと、返品するのは気が引ける。

しかし、夫が度々繰り出してくる、ありがた迷惑なプレゼントを思うと、私もこのギフトレシートが束で欲しい!と思う。

これは家族ゆえの甘えなのだろうか。





何度言っても、何を言っても、まったく治まることのない夫のありがた迷惑行為。
歳を重ねるごとに重症化しているように思える。

長年連れ添っていれば、相手に対する配慮がなくなるものだけれど、最近のプレゼントは好意からではなく、嫌がらせか?というレベルになってきている。
もしも好意からだとしても、ここまでピントを外してこられては、付き合いきれない。

あまり喧嘩腰にものをいえば、本気の喧嘩になり、さらに面倒な事態になるので黙っているけれど、正直なところストレスだ。

最近特に迷惑に感じていることがある。夫は私のコーヒーカップが空になっているのを見ると、すぐに電気ポットのボタンを押すのだ。私がいつ飲むかわからないけれど、とりあえずお湯を沸かしておくという、自己満足この上ないお節介。。。そんなことを毎日のように繰り返されるのもストレスだ。
飲む気がなくても、せっかくお湯を沸かしたのだからと、動きたくもないのにお茶を淹れる。

まさにありがた迷惑のなにものでもない。

好意というのは、与えることも、受け取ることも案外難しいものだ。

夫は変わらないだろう。この先も自己満足なふざけたプレゼントを贈り続けるのだと思う。そして、電気ポットのボタンも押し続けるだろう。さらにすごいありがた迷惑を考え出すかもしれない。その可能性は十分にある。

相手を変えることは難しい。それならば私自身が変わるしかない。
どんなプレゼントを渡されても、どんなありがた迷惑行為をされても、笑顔で「嬉しい〜、ありがとう!」と言える自分に。。。

ストレスで病気になりそうである。

揺れる恐怖。地震の揺れと工事の揺れ、家が揺れるのはストレスになるというお話。

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最近、地震が多い。私は雷と親父は怖くない、火事は少し怖いけれど、地震の比ではない。
身構える時間さえ与えられず、何の前触れもなく突然揺さぶられるのだから、こんな恐ろしいものはない。
地震」「雷」「火事」「親父」が同列に語られるのは、どうもおかしい気がする。

地震に関しては、怖くないという人の方が珍しいと思うけれど、友人知人などと比較すると、私は特に地震に対する恐怖心を強く持っている方だと思う。

割と小さな揺れでも、いち早く気づいてあたふたとする。そこに地震速報などが鳴り出すと、もうダメだ。。。
「慌てず、落ち着いて行動しましょう」
「パニックになってはいけません」
よく言われる言葉も、いざ地震が起きると、「そんなこと無理よ!」と大慌てする。

夫が一緒の時などは、「大丈夫だから」という言葉で少し落ち着きを取り戻したりできるのだけれど、ひとりの時などは揺れている間中、「怖いよー」と部屋の中を歩き回ったり(揺れを感じないようにするため)、ハンディーモップを手に、そこら中パタパタしたり(揺れから気を逸らすため)といった意味不明な行動で恐怖を紛らわせ、なんとか凌いでいる。





最近、我が家が頻繁に揺れる。
私はいつもキッチンに置いた椅子に腰掛け、本を読んだりブログを書いたりしているのだけれど、下から突き上げるような小さな揺れを、日に何度も感じる。

その度にビクビクッと立ち上がり、スマホに入れてある「ゆれくる」というアプリを確認するのだ。
しかし、そこには地震があったとされる記録はない。。。

こんなことが続くと、ひょっとして私は人間が感知し得ない、微振動を脅威的なまでの動物的感によって、感知しているのではないか?
そんな風に考えるようになった。

しかし、それは大きな勘違いだった。。。

今日、転職に伴い長い休暇中の夫が、ダイニングに座っていた時のこと。

「この揺れ、いい加減にして欲しいな〜。気になって仕方ない」

そんなことを呟いた。

「あなたにもわかる⁉︎ 私たちはきっと動物並みに五感が発達してるのね」

私がそう身を乗り出すと、夫は微妙な表情を浮かべた。
これは同意していないということだ。私の唱える説が誤っているのなら、この揺れをどう説明する?

私の問いに、一言。

「工事だよ」

夫によると、我が家の近所で工事が行われていて、掘削作業をしているのを見たという。それも2箇所の違った場所でだ。

普段使う道沿いではないため、私は気づかなかったのだ。

地震ではなかったという安堵感と同時に、自分が動物並みの感度を持っていたわけではないということをかなり残念に感じた。





揺れても地震ではないとわかったので、以来バタバタと慌てることはなくなった。
しかし、あの下から突き上げるような揺れに慣れることはない。

揺れるたびに、咄嗟に立ち上がる。心臓はドキドキして、なんとも落ち着かない気持ちになるのだ。

これはあまりよろしくない環境なのではないかと思う。本来、最も安心安全で落ち着けるサンクチュアリ、それが家だ。
そんな聖域にいながら、日に何度もビクビク、心臓がドキドキしていては、まったくリラックスできない。

何かというと、すぐ「裁判だ!」などと法で結着をつけようとする外国人らしく、我が家の夫も「これは補償を問えるレベルでは?」などと言う。

東京のある街でも、工事によって道路が陥没し、近隣の家屋が被害に遭われたケースを思い出す。
それほど酷いものではないにしても、だからこそ厄介である。

特に大きな被害はないけれど、揺れるのが気になって落ち着かない。
その程度のものならば、精神的な苦痛も無視される。

今も揺れている。。。
(このブログを書いているのは午後2時頃だった)
そして、午後3時を過ぎると、空には羽田空港へ向かう飛行機が、轟音を響かせながら3分おきに家の上を通過していく。

揺れと騒音のオンパレードだ。





我が家は賃貸なので、その気になれば引っ越しをすることも可能だ。
しかし、期間限定で行われる工事の揺れのためだけに、この恐ろしく条件の整った住宅を諦めるられるものではない。

飛行機の騒音に関しては、窓を閉めればそれほど気にはならなくなった。きっと慣れてしまったのだろう。

時折、騒音が近づくと、ベランダに出て空を見上げる。かなり低空飛行のときもあり、機体がはっきりと見える。
飛行機を見るのがすごく好きなので、これは我慢できそうだ。

結局のところ、引っ越しをするよりは、工事が終わるのを待つしかないのだろう。
揺れさえしなければ、私は心穏やかに暮らせるのだから。。。

考えてみれば、工事が終わればその揺れは収まるけれど、地震という自然災害からは逃れることはできない。
日本中、どこに居ても地震のリスクはあるのだから。。。

工事の揺れに頓着している暇があったら、いつかくるであろう大地震に備え、できることなら動物並みの感も養っておくべきだろう。と、そんなことを思った午後だった。

サブブログの更新が滞る問題。更新頻度や継続よりも、まず改善すべきこと。

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前回の投稿から、気づけば1ヶ月も経過していた。桜の花もすでに満開の時期を迎えている。

今年こそは少なくとも週一ペースで、何かしら更新できたらと思っていたのだけれど、その誓いもあっさりと忘れられ、せっせと他の2つのブログを書いていた。

なぜ更新できなかったのか?

書くことがなかった訳ではない。ボヤくことなら片手で足りないどころか、両手両足使っても足りないくらいで、書きたいと思っているネタには事欠かない。

書けなかった訳でもない。
「誰が読んでいるのか、どれだけの人が読んでいるのかわからない」そんなブログなら、小難しく考えて書くほどのものではなく、思うようにボヤけばいいだけだ。

忙しかったということもない。
仕事もしていない主婦という身の上ゆえ、どんなに忙しくても、ブログを書く時間なら作ることは出来る。

ブログを継続できないという、一般的な理由には当てはまらないということだ。





更新できなかった理由は一つ。単に「忘れていたから」。

このブログの存在がすっかり頭から抜け落ちていた。

3つもブログを持っていれば、どうしてもメインブログが最優先となる。
そしてもう一つは毎日更新の「日記ブログ」なので、必然的に毎日開き、日記をつけるように更新することになる。

つまりは、なにかしらの縛りがあることで、定期更新できているのだ。

メインは「長年続けてきた」ことと「メイン」であることの縛り。
日記ブログは「毎日書くのが日記」という縛り。
この「縛り」によって、継続してきたゆえ、それがいつの間にか習慣になった。

毎朝起きて顔を洗い、歯を磨き、着替えをして、食事を摂る。それをしないと気持ちが悪いとか、なんとなく怠惰な自分が許せないとか、そんな気持ちになる。
気持ちよく過ごすために、習慣とは守るべきものなのだ。

しかし、このブログに関しては、書きたい時に、書きたいことを書けばいい。そんなお気楽なもので、「縛り」というものが一切ない。
あまりストイックな決め事をしても、かえってそれがストレスになり、ブログの継続には逆効果という思いもあり、メインブログに関しても時折お休みすることもある。

このブログも然りで、気楽にやっていた方が続けられそうだと思っていた。
ところが、実際にやってみると、ある種の縛り、決め事は必要だったようだ。
少なくとも、私には。。。





暇な主婦だからといって、一日中ブログを書いていられる訳ではない。
家事もあれば、お友達とのお付き合いもある。家にいても、最近再開したパン作りや、多肉植物の育成に関するお勉強、amazon楽天を巡ってのネットショッピング、極め付けの韓流ドラマ鑑賞と、やりたいことは山ほどある。

「暇である」ことと「時間がある」ことは違う。
暇があるからこそ、忙しくなる。それが今の生活だ。

もしも私が働く主婦であったら、きっとブログなど始めていなかっただろう。

たまに朝から一日中外出することがある。そんな日は、帰宅後に家事諸々済ませた後にブログを書くのだけれど、それがものすごく面倒に感じることがある。
前述した「縛り」によって、なんとかブログを更新するものの、これが毎日であったらもうできる気がしない。
働いていたら、そんな状態が毎日続くのだ。。。

多くのブロガーの方々は、お仕事をしながら、とても立派なブログを更新し続けている。本当にすごいと心から思う。
私なら絶対に無理だ。

40代で大病を経験して以来、自分に対してとても甘くなった。ストレスと呼べるものは片っ端から排除していく生活を実践している。
もちろん心煩うようなことがまったくない訳ではない。人間生きていれば、思い通りにならないこともあれば、不快な思いをすることもある。多少のストレスは誰しもが持っているものとして、受け入れてはいる。

受け入れるけれども、それは最小限だ。見ないふりをして通り過ぎることのできる程度のストレスだけで、終始心を縛るようなストレスに関しては、どんなことをしてでも、排除する。

ブログがストレスなら、排除は簡単だ。ただdeleteボタンを押すだけなのだから。

幸いなことに、家事育児全般を引き受けることで、働かずに暮らすことができているので、ブログの方も継続できているといっていい。





それでも忘れてしまうサブブログの更新。
これを改善するには、やはりある程度の決め事や縛りを課すしかないのかもしれない。

「毎週何曜日に更新」といった具合にするのが一番簡単な気がする。

ただ、自信がない。。。

覚えている自信も、決め事を守る自信もない。

できそうにないことには手を出さない主義だ。
一度決めたこと、始めたことは、何がなんでもやり通したい。それが自分にとっての基本的な「縛り」だからだ。

この歳になるまで、これといった趣味がなかったのも、そんな縛りに起因している。
少しばかり面白そうだな、やってみたいなと思っても、「継続できるか?」と問い、自信がなければ手を出さなかった。

このサブブログも当然継続し続ける自信があったからこそ始めてみたのだけれど、継続はできていても、この更新頻度では「ブログやってます」というには、あまりにもお粗末だ。

さて、どうしたものか。。。

理想としては週に一度や二度は更新したい。しかしこれまでそれが実践できなかったのだ。その問題を解決するにはそこに縛りを作るか?
それもストレスになりそうだ。

「好きな時に好きなことを書く」というスタンスから外れたくはないとすると、今のように月一度の更新でよしとするか。。。

やりたいことと、できることは違う。
ブログに限らず、どんなことでも好きと適正は必ずしも同じではない。そこは無視できない点ではある。
これが仕事であったら、人様にご迷惑をおかけするようなことになるからだ。

ただ、個人ブログなら誰の迷惑にもならない。これほど多くの人が、ブログを楽しんでいるのも、そんな気楽さゆえなのかと思う。





ブログの更新頻度について、ネットなどでリサーチをしてみたところ、沢山の記事が出てきた。
検索上位に君臨するだけあり、かなり本気でブログに取り組んでいるのがわかる。
しかし、私の抱える更新が滞る問題とは、少し違った考察で、あまり参考にはならなかった。
なんと言っても、原因は「ブログの存在すら忘れる」という、どうしようもないものなのだから。

強いて言うのなら、結局はここでも例の決め事や縛りありき。
そもそも「更新頻度」を考えること自体が、決め事を作るということで、それはもはや真面目なブロガーにとってはお約束のようなものだ。

ブログの存在を忘れる問題に関して触れられている記事は見つからなかったのだけれど、ブログに本気で取り組む姿勢というものを見せて頂いた。
やはり皆さん、すごい。。。

そこで少し考えたのが、アナログ法式。
毎日スマホで『はてなブログ』を開いているにもかかわらず、その存在を忘れてしまうのなら、付箋に「サブブログを忘れるな」とでも書いて、キッチンのどこかに貼っておくのが効果的ではないだろうか。
昭和の人間にはうってつけに思える。

更新頻度や継続を気にするより、私の場合はまず忘れないことを目標にすること。
忘れなければ、ある程度の縛りを作り、このブログも育てて行けそうな気がするのだ。

無駄な早起きばかりしている人間には、今日のように、日曜の早朝は狙い目かもしない。
「やる」と断言はできないけれど、努力はしてみようと思う。