In other words

I really don't know life at all ...

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日本食は身体に優しい。肉と脂にまみれた欧米食から離れ、胃腸の不調改善。

新型コロナもようやく落ち着いたかと、今年の6月に「温泉プチ湯治」と称して、二泊三日の旅に出た。
場所は長野駅から電車で1時間弱下った、小さな温泉だった。

これまでは完全にホテル派だったのだけれど、50代になり旅の形もこれまでは違ったスタイルを求めるようになったため、宿選びも少し冒険してみようと思った。

今回選んだのは、小さな旅館だった。
部屋数はおそらく10室程度のものだろう。家族経営のお宿で、出される料理は会席のような派手なものではなく、そのまんま家庭的な和食だった。

家庭的ではあるけれど、品数はとても多く、普通の主婦が家庭で毎食用意できるようなものではなく、完食するとしばらく動けなくなるくらいのボリューム満点料理だった。

出された食事は完食する主義なので、私は多少お腹がきつくても頑張って食べ切った。

食べ終えたあと、御膳を片付けにきてくれるまでは、なんとか姿勢を正していることができたのだけれど、女将が「おそまつさまでした」と、御膳を片付け、パタンと襖を閉めたところでダウンだ。

敷かれた布団の上に倒れ込み「お腹いっぱいー」と、まるで妊婦のように膨れ上がったお腹を必死でさすった。
それくらいお腹いっぱい食べたのだった。

本来ならここで胃腸の調子を崩し、トイレへ駆け込むことになるのが常だけれど、不思議なことにただお腹いっぱいなだけで、不快感はまったくなかった。

少し落ち着いてきた頃、部屋にある温泉に浸かっていたら、妊婦のようなお腹は変わらないけれど、お腹いっぱいな感じは次第に遠のいた。

この温泉の効用に、消化器系の活性化はなかったのだけれど、ブクブクとまるで音が聞こえてくるかのように、ものすごい勢いで、胃の中のものが消化していくのがわかった。

すごい!
これぞ日本食の底力か⁉︎
はたまた温泉力というものか⁉︎





外国人である夫と結婚してから、かれこれ25年以上になる。
この長きにわたる年月、私の胃腸はヘビーな欧米食に否応なしに晒されてきた。

もっと早く、そのダメージに気づくべきであったと、今更ながら思うところだけれど、若かりし頃の私はといえば、フレンチやイタリアンといった欧米の食をとりわけ好んでいた。

類は友を呼ぶで、子供を産んだ後に知り合った、いわゆる「ママ友」と呼ばれるランチ仲間達も、同じような嗜好の持ち主ばかりだった。

毎日のように、誰かしらが「すごく美味しいフレンチのお店があるの」「新しくできたイタリアンの店、行ってみない?」などと、頻繁にランチ会を催してくれた。

私もまた行きたいレストランがあれば、友人達に声をかけ、肉と脂にまみれた美味しい料理に舌鼓を打っていたのだ。

この積み重ねこそが、数十年後の胃弱を生み出すとは知るよしもなかった。。。

しかし、そこに後悔はない。季節季節で美味しいものを堪能できたし、胃腸が丈夫な比較的若いうちに、好きなものを思う存分食べておいてよかったとさえ思う。

肉と脂にまみれた生活は外だけではなかった。家でも完全なる洋食だったからだ。

外国人と結婚したこと、そして自分もまた日本食よりは欧米寄りの食事を好んでいたせいで、我が家の食卓にはほとんど日本食が並ぶことはなかった。

冷蔵庫の中には常に牛、豚、鶏問わず、大量の肉、そして大きなバターの塊やチーズ、クリームといったものが常備されていた。

もちろん、それと同じくらい野菜もたくさん摂取してきたつもりだったけれど、サラダのような生野菜か、オリーブオイルをぐるりとかけてオーブンで焼いたグリル料理で、バターを使ったソースにまみれた肉の塊と並ぶと、それら野菜達は明らかな脇役だったのだ。

そんな大好物とも言える肉と脂の日々に不安を覚えるようになったのは、45歳を過ぎた頃だった。。。





食後、どうも調子が悪い。
ランチへ行った日の夜は、晩御飯の時間になっても昼に食べたものが完全に消化されないのがわかるほど、胃腸に不快感を覚えるようになった。

最初はたまたま体調が悪いのだろうと思っていた。
しかし、その頃から毎回ご馳走ランチの後には胃腸の調子を崩すようになったのだ。

このような食生活を長年送りながらも、よくぞ糖尿病にもならなかったと思う。さらにはコレステロール値まで正常なのだから、これは奇跡と言えるのではないか⁉︎

自分はそんな体質なのだろうと、楽観していたのだけれど、その後大病で手術をする羽目になった。
食生活や遺伝とは直接関係のない病であると医師は言っていたけれど、私は懐疑的だ。

食が身体を作るのだとすれば、まったくの無関係とは言えない。
それまでの生活が少しずつ影響を与えている可能性はなきにしもあらずだ。

とにかく、その頃から健康に対する自信が少しずつ失われていった。。。

それに追い討ちをかけたのが、新型コロナによる自粛生活だ。

肉と脂にまみれているにも関わらず、比較的健康体でいられたのは、食べるのと同じくらいの運動量があったせいだと思っている。

40代まではジムへ通ったりしていたこともあったのだけれど、50代になってからはジムへも行かず、ランニングもしない生活になった。
そのかわりに始めたのがウォーキングだった。目的がないとつまらないので、1時間ほど歩いた先にあるお菓子屋さんを目指し、とにかくよく歩いた。
おかげで食べても太ることはなく、健康診断の結果も良好だった。

ところがコロナ禍による外出自粛によって、長いこと続けていたウォーキングの習慣がぷつりと止まった。

習慣だったからこそ、どんな天候の日でも「面倒くさい」と思わずに、歩いていたのだけれど、その習慣が途絶えた途端に、わざわざ歩くためだけに出かけるのが億劫に感じ始めたのだ。

ウォーキングなどする時間があるのなら、家でゆっくり趣味を楽しんだほうがいい。
そう考えるようになってしまった。





それから2年半、ウォーキングはしていない。時折、買い物がてら、少し遠くまで徒歩で行くこともあるけれど、歩くためだけに出かけることはなくなった。

その結果はお腹周りについてきた脂肪で知ることとなったのだ。
脂肪といっても、若い身体につく脂肪とはまったく別物といってよい。
若い身体につく脂肪がコシの強いわらび餅だとしたら、私のお腹のそれは、消費期限を過ぎた求肥の大福のように、水気が出たせいでデロ〜ンと流れるが如く締まりのなくなった皮のような脂肪なのだ。
ちょっと例えがマニアックでわかりずらい。。。
つまりは、しまりがなく、だらしない付き方をしているということである。

この歳になると、一度ついた贅肉を削ぎ落とすのは大変な努力を要する。
運動に加え、徹底した食事管理が必要になってくるのである。

しかし私はといえば、運動は嫌い、でも食べるのは大好きときている。太ることは得意だけれど、痩せることは大の苦手なのだ。
ただの意志薄弱ともいう。。。

とはいえ、もう麗しき若き乙女ではないので、体型が崩れても大した問題ではない。
そんな開き直りもあるので、太ること自体はそれほど気には留めていないのだけれど、それよりも大切なのは「健康」だ。

身体を動かすことといえば、家事にお買い物くらいのものだ。あとは好きなものを食べて、毎日のおやつも欠かさない。

その上、胃腸に負担にかかる欧米食ばかりでは、いつか身体が壊れる。。。

怖いので、最近は意識して日本食を作るようにしている。
幸いなことに、外国人夫が単身赴任、時を同じくして、洋食が大好きな長女が一人暮らしのために家を出たので、今ではほとんど毎食日本食でOKになった。

友人とのランチなども、みんな同じように歳を重ね、昔のようには食べられなくなったのか、あっさりとした和食やお寿司など、肉と脂とは無縁の食事を楽しむようになった。

おかげで食後に胃腸の調子を崩すこともなくなった。

今の日本では、世界各国の食事が楽しめる。外食をせずとも、ネットにはレシピが溢れていて、自分で作ることもできるようになった。

しかし、私の胃腸はそうしたものを受け付けなくなった。
たまに、少しだけ楽しむのならいいけれど、日常的に満足がいくまでお腹いっぱいに食べることはできなくなったのだ。

なんだかんだ言っても私は日本人なのだ。
夫も50を過ぎているけれど、食べる量は若い頃よりも少なくなったものの、相変わらず肉と脂にまみれた食事を嬉々として胃袋に流し込んでいる。その後にクリームとお砂糖たっぷりのデザートを食べても、まったく問題ない。
夫を見ていると、日本人と欧米人では、体質が違うだとつくづく感じる。

日本人には日本人に合った食生活があるということを、この歳になり、改めて知った。

土井先生の『一汁一菜でよいという提案』を読んでから、なるべく一人の時は、そんな質素な食事を心がけている。

面倒だったり、残り物の消費として、まだまだ洋食を口にすることも多い。
けれど、心がけておくだけで洋モノが胃袋に収まる量は格段に少なくなるはずだ。

完璧には無理でも、努力はしたいと思う。

身体に合った食生活で胃腸を整え、病気知らずで長生きしたいものだ。
そのためには、やはり日本食なのである!

コンビニのレジ袋が必要なら、大きさ指定した方がいいと思った件。

少し前のこと、コンビニで大量に買い物をする機会があった。
普段は自前のエコバッグを持参し、レジ袋を購入することはあまりないのだけれど、先日はお弁当を3つ、サンドイッチにおにぎり、500ml入りペットボトル3本、加えてプリンやゼリーなどをいくつかなど、かなりたくさんのお買い物をしたので、「レジ袋に入れて下さい」とお願いした。

私的には当然一番大きなLサイズの袋に入れるものだと思っていた。これまでの経験から、コンビニでもスーパーでもこのくらいの量であれば、大きなサイズが妥当であると思っていたからだ。

ところが、渡されたのはMサイズの袋にギッチリどころか、一番上に乗っているものは、今にも落ちてしまいそうなくらい、乗っているだけの危うさだった。
持ち手もかろうじて指3本引っ掛かるか?というくらい満杯。。。

「気をつけてお持ちください」

そんな親切な一言があったのだけれど、気持ちよく「はーい!」などとは言えないほどの危うさだったのだ。

よほど大きな袋に入れ直してくれと言おうかとも考えたのだけれど、私の後ろに並んでいる人もいた。ただでさえ品数が多く普通よりもレジの時間が長くなっているのだ。ドリンク一本を手に待っている人からしたら、ジリジリとそれが終わるのを待っているはずだ。待つことが好きではない私には、その気持ちがよくわかるのだ。

入れ直してもらうことは諦め、その袋を黙って受け取ったのだった。



案の定、一番上に乗ったおにぎりが落ちないように、提げるのではなく、袋を片手で抱え、もう片方の手でおにぎりが落ちないように上から押さえることになった。

両手が塞がり日傘もさせず、それが余計に腹立たしかった。日頃のシミ対策がこれで帳消しとなるのだから。

ようやく家に帰りつき、袋から品物を取り出すと、サンドイッチは見事に潰れていた。柔らかいサンドイッチをなぜに下の方に入れる⁉︎
レジ袋の一番下の角の辺りはすでに破れかけていた。お弁当の硬いプラスチック容器が突き破っていたのだ。
これは抱えていたからこそ決壊を免れたものの、ぶらぶらなど提げていたら道端でぶちまけることになっていたかもしれない。
その惨状を想像すると、どうしたらあんなにギューギュー詰め込もうと思ったのか、理解に苦しむ。

もしも店員さんが若者や外国人であるなら、私もそれほど深刻には受け止めなかっただろう。
外国人の店員さんの中には、何も考えずに手当たり次第あるものを袋に詰め込む人のいる。珍しいことではないし、そんな時は私も「それは一番上に入れてね」と口を挟んだりする。偏見ではないけれど、ちょっと注意して見ているのだ。
もちろん中にはこちらが「この人、すごい!」と思うくらい、綺麗に合理的に袋詰めしてくれる外国人の店員さんもいるから、おかしな偏見は持つべきではないと思いながらも、ついつい注視してしまうのだ。ごめんよ。。。

若者に対しても同じで、多少袋詰めが甘くてもイライラ、モヤモヤするようなことはない。
そもそも袋詰めに対する経験値が我々主婦とは違うのだ。自分のものだけしか買い物をしないのなら、一番小さなレジ袋でもあまるくらいだ。スーパーで大量に食材を買い物したこともないだろうから、いい具合にできなくて当然なのだ。あくまでも、我が家の娘達基準なのだけれど。。。
ただ、若者店員の多くは、「大きな袋にしますか?」「この大きさで大丈夫ですか?」と明らかに判断に迷うような時は尋ねてくれるケースが多い。
これが若さだ!
若い頃はなんでも人に尋ねたらいい。わからなければ、わからないと言えるのが若さの特権なのだから。
我が家の子供達にも言っている。わからなければ有耶無耶にせず、無知を恥ずることなくなんでも尋ねよ。そして学ぶことだと。



同じ立場の「店員さん」に対して、年齢や国籍で差別するのはいけないような気もするのだけれど、無意識に甘くなるのは私にも年若い半分外国人の子供達がいるせいかもしれない。

問題は件のその店員さんが、私と同じような年代のおばさんであったことだ。
おばさん店員だったがために、余計なことを考えることになってしまったのだった。
自分も十分におばさんなので、同じような立場の人をディスるのも気がひけるのだけれど、今回のレジ袋に関してはちょっとばかりモヤモヤした。

想像の域は出ないのだけれど、おばさんであれば、きっと主婦パートだろう。
つまり、主婦であるなら、お買い物の際にレジ袋の妥当な大きさくらいわかるでしょう?と、身勝手ながら思ってしまったのである。
もしかしたら、そうではないのかもしれないのだけれど、自然とそんな想像が働いてしまう。
そもそも、買い物経験値の低い人でも、途中で「これは無理だ」と気づくはずだ。それでもMサイズに強行突破したのは、客の負担するレジ袋代を少しでも安く済むようにとの気遣いであった可能性もある。

レジ袋も大きさによって値段が異なる。
大きくなれば当然、数円は高くなるのだけれど、この数円に対する思いが人によって異なるのかもしれない。

主婦感覚からすれば、1円でも安い方がありがたいと思う。しかし、それは何かを犠牲にしてまでも節約しなければいけない1円ではないと考える人間もいる。
逆にどんな不便を強いられようとも、安ければ安いほどよいと考える人もいるのだろう。 



また別の可能性としては、途中で「これは小さすぎる。。。」と気づいたものの、他のお客さんも並んで待っているし、今から詰め直すのは時間もかかり面倒と考えたのか。

私も面倒くさがりなので、もしもその立場であれば、客が何も言わなければそのまま強行突破に気持ちが向かうのもわからなくはない。
ただ、もしも厄介な客で激しくクレームなどされようものなら、余計に面倒になると想像して、多分入れ直す。
なによりも、綺麗に袋詰めできないと嫌という個人的な嗜好もある。
やはり私ならMサイズのレジ袋は考えられない。

最後の可能性として、レジ袋の大きさなどどうでいいと考えているのか。とりあえず、こぼれ落ちそうでも、止まっていればいいでしょ!と、まるでジェンガゲームのように、グラグラでも崩れ落ちさえしなければ成功!と考えているか。

考えられることはいくつかあるのだけれど、結局のところ、人の心のうちなど分かりはしない。
その店員さんが悪いわけではないということだ。
善意もなければ悪意もない。ただ自分の価値観によってお仕事をしていただけのことなのだから。

誰が悪いかといえば、それは自分なのだろう。
自分で「一番大きな袋で!」としっかりと指定しなかったのがいけなかったのだ。
人それぞれ物事に対する価値観は異なる。初めて会った客の心のうちなど、誰にもわかるわけがないのだから、わかっているはずだと、相手も自分と同じ価値観を持っていると思い込み、期待していた自分に非があるというわけだ。

コンビニでレジ袋を買う際は、危うさ回避のために大きさ指定はマストであるとつくづく感じたのであった。
人生何事もお勉強だ。このMサイズレジ袋によって、私はまた一つ貴重な経験をし、多くを学んだのであった。。。

節約はしない、けれど倹約はする。我慢せずに老後に備える暮らし。

夫が前職を退職し、再就職するまで数ヶ月間、無職の時期があり、その際に住民税や保険、年金などの納付書が自宅に送られてきた。

普段は月々のお給料から天引きされているため、それほど気に留めることもなかったのだけれど、一度に何十万も払うことになると、さすがに「え、え、え?こんなにも年貢を納めていたのね。。。」と、改めてビックリしたということがあった。

国民の義務であることは承知の上で、ものすごく「払いたくない」と思ってしまった。
自営の方々などが、必死に節税に勤しむのも当然である。どうにかできるものなら、どうにかしたいと思う。

私は無職なので、このすべては夫の収入に対するものだけれど、家計を預かる主婦としては、「これだけのお金があれば、子供の学費も余裕で払えるてしまえるのに。。。」と、どうにか知らん顔できないものかと、一応は無駄に考えたりする(笑)

結局、銀行の窓口でしっかり納税したのだけれど、頑張って稼げば稼ぐほど、税金は重くなり、負担が増えるばかりだと感じる。

納税することによる恩恵も、普通に生活していれば多少はあるのだと思うけれど、それもちょっぴりしか実感できない。
ある程度の所得があると「所得制限」によって、数々の恩恵から排除されてしまうためだ。
例をあげれば子供の学費。我が家は子供二人とも大学生なので、すでに蚊帳の外だけれど、在学中も満額払い続けた。

「稼いだのなら、自分のことは自分で。ついでに他にも使わせてもらいますからね」

そう言われて続けてきたように感じる。

頑張ったことに対する対価は、ご褒美ではなく納税ということだ。
なんとも働く意欲が削がれる。そう言いたいところだけれど、私は働いていないので、夫の代わりに言おう。
一応は一艘の船に相乗りしているので、自分のことのように語ってしまうことにする。





物価の高騰は止まらない。
最近、スーパーなどでお買い物をしていると、本当に高くなったなと実感するようになった。
一つ一つは数十円の値上がりでも、これがカゴいっぱいに買い物をすると、塵も積もれば山となるで、お会計は予想した額をはるかに上回り、「お会計間違っていない?」とレシートを見返すこともあったりするほどだ。

景気の良い時代を知っている昭和世代ゆえ、お金に関してはそれほど神経質になることはなかった。遣ったらまた稼げばいいじゃないのよと、呑気に考えていたのだけれど、こうも経済が立ち直らないと、さすがに呑気にもしていられないと焦りを覚えるようになってきた。


最近、我が家は夫が単身赴任となり、長女が一人暮らしを始めたことで、私と次女との二人暮らしとなった。

先日、ポストに入っていた光熱費の使用量のお知らせを見て、これまでの半分以下になっていて、驚いたということがあった。
使用する人間が少なくなれば、それだけ使用量も減るのだから当然なのだけれど、ちょっと嬉しくなった。

ガス、電気、水道だけでも、毎月5万円以上かかっていたものが、その半分の2万数千円だ。

これはすごい!

これまでなら、「さて、この浮いたお金を何に遣おうか?」とルンルン百貨店へ向かうところなのだけれど、ふと考えた。。。

生活費全般、このように少しずつかかるお金が減ると、一体1ヶ月にするとどれだけの節約となるのだろうかと。

お金を遣うのは好きだけれど、それと同じくらい自分の口座にお金を積み重ねていくのも好きだ。
元々、好きではないことには1円たりともお金を払いたくないケチンボでもある。

それがこの10年ばかり、子供達の教育費は嵩み、加えて物価上昇、納税と、積み重ねるどころか、貯蓄は目に見えて目減りして行っている状態。。。

そんな事を憂いている時の生活費軽減だ。これはチャンスと捉えて、しっかり節約し挽回してやろうではないか!
そう思った。

これまで何度か「節約しよう」と心に誓いながらも、喉元過ぎればで、自身の節約ブームが去れば、また元通りという感じてきた。

そこで、どこを節約すればいいのか、じっくりと家計簿を眺めてみることにした。





私はもう長い事、家計簿をつけている。
ただ、それは家計管理のためではなく、ただの記録好き。つまり趣味のようなもので、記録したものを過去の日記を読むような感覚で、あとから見返すのが楽しいからつけていたようなものなのだ。

しかし、これはいざという時に強い味方となる。
自分が何に対して、どれだけのお金を遣っているか、固定費から税金まで全て自分がいくらどこに支払ったか、詳細がバッチリ記録されているのだから、家計を見直すときは大いに参考となる。

家計簿を見ていて気づいたのは、無駄遣いもしていないけれど、節約もしていないといったお金の遣い方をしているという事だった。

自分にとって価値のないもの、使わないものは、たとえどんなに安くても手を出さないという点では、無駄遣いはしていない。

しかし節約をしているのかといえば、そんなこともない。
欲しいもの、必要なものはしっかりと買っている。実際に趣味のお菓子に関しては、月に何万円も散財している。
これは過去にメインブログでも書いた覚えがある。自分がどれだけお菓子にお金を遣っているか、検証したことがあったのだ。
ただ、お菓子に関しては、メインブログから得られる収益で賄っているので、家計への負担はほぼない。

日々の食事に関しても、好きなものを買っている。お菓子を買うついでに、デパ地下のお惣菜もたくさん買うし、一家の主人が外国人なので、肉やチーズは多少高価でも冷蔵庫の中にはいつでも食べられるように用意していた。

エンゲル係数は異常に高いものの、それ以外はこれと言って贅沢はしていない。

洋服は滅多に新しいものを買わず、あるものを手入れしながら何年でも着ているし、宝飾品も同じだ。日々身につけるジュエリーも若い頃に買ったものや、母から譲り受けたものだけで新しく買うことはない。
バブルの遺産で生きている、時代錯誤な出立というわけだ(笑)

化粧品も年齢的に安価なものは使わないけれど、買ったら使い切るまで新しいものは買わない。
エステなどにも行かず、美容といえば月に一度のヘアーカットと、二度の白髪染めだけ。

周りにいる友人マダム達と比べると、はるかに質素な暮らしぶりだと思っている。

興味のないこと以外、好きなこと以外には、最低限の支出しかしていないのが、家計簿を見るとわかるのだ。

つまり、私がしているのは、「節約」ではなく「倹約」なのではないのか?





その辺、確信がなかったので、Googleさんに聞いてみることにした。何かあるとすぐGoogleさんに頼る。

【節約】無駄を省き切り詰めること。

【倹約】費用を切り詰めて無駄遣いしないこと。

同じではないのか⁉︎

さらに調べてみると、「節約」はお金だけでなく電気やガス、お水の節約という使い方もするけれど、「倹約」はお金にのみ使われる言葉のようだ。。。

どちらも結局のところ、似たような意味であり、それにいちいち理屈をつけていても意味がない。

光熱費に関しては、それこそ「節約」という意識はない。寒ければ床暖房をつけ、暑ければ冷房をつける。
お水も好きなだけお風呂に入るし、洗濯も毎日ジャブジャブしている。
つまり「節約」はしていないことになる。。。

しかし、それは生活に必要なものだからだ。ストレスなく暮らすためには「節約」することは難しい。

ただ、ここでも無駄はしない。
ここのところ猛暑が続き、東京でも電力逼迫警報が出されたなんてことがあったけれど、その前から一人の時は冷房以外の電気は消してある。
普段、TVも観ないので、全て電源オフだ。
明るいリビングでソファーに寝転がり、スマホ片手にブログを書いているか、ネットフリックスを観ているか、本を読みながらまったりしているか、そんなエコライフ。
光熱費が激減したのも納得の暮らしである。
ただ、それは節約のためではなく、必要がないから使わないだけである。必要があれば家中の電気をつけることも厭わない。

やはり、私は「節約」はしないけれど、「倹約」はしているようだ。





日々の生活の中で、我慢はしないようにしている。
若い頃から、するべき我慢とするべきでない我慢があると思っていた。
我慢することによって、より自分に力がつき向上できる、そんな我慢なら喜んでしようと思う。
ただ、なんのメリットもない我慢を強いられるようなことも世の中には少なくない。
ほとんどの場合は他人目線ありきで、自分のための我慢ではない。

元々我慢を甘受できる人間ではなかったのだけれど、海外暮らしで「自分第一、自分が一番大事!」そんな人々を見てきて、我慢すればいいというものではないと学んだ。
さらには外国人と結婚したことで、「自分が一番大事」な夫と暮らすようになり、輪をかけて我慢することは馬鹿らしいとさえ思うようになったのだ。

著しく我慢耐久のない人間になってしまったので、日々の暮らしの中でも、我慢はしっかり排除するようになってしまった。

暑かったり、寒かったりしても、我慢して光熱費を節約などというのは、無理なことだ。健康面を考えてもデメリットの方が大きい。

使っていない部屋の電気をつけていたり、必要のない電化製品を使ったりと、そのような無駄は一切ないので、節約はしないでよしとしよう。


では、倹約はどうか。。。
自分が思っているほど倹約しているのだろうか。
前述したように、無駄な買い物はしていないつもりだ。必要なもの、好きなものにしかお金はかけない。

ただ、必要なものはいいとして、「好きなもの」に関してはかなりゆるゆるだ。

必要でないものでも「好きだから」という理由でお財布を開いていては、お金はどんどん出て行く。
世の中、私の好きなものは山ほどある。

高額なものは、いくら好きでもさすがにポンポンと買うことはない。数万円もするようなものは、衝動買いを改め、しっかり熟考するようになった。
問題は数百円、数千円のものだ。お菓子を含め、そんな価格帯の「好きなもの」に関しては、ポンポンと散財していた。

家計簿を見ていて気づいたのが、最近はそんなポンポン買いがとても少なくなり、出て行くお金も少なくなっていることだった。

特に倹約を意識していたわけでもないのに何故だろうか?

考えて思い当たったのは、現金支払いだ。
先月くらいから、高額の支払いでなければ、クレジットカードを使わず、全てお財布に入っている現金で支払いをするようにしていた。

財布にはだいだい一万円札1枚、五千円札1枚、千円札10枚を入れておく。
合計すると二万五千円。
これだけ入っていれば、お買い物もお友達とのランチでも十分だ。一日遊んでこられる。

何か買い物をしたりするたびに、この財布の中のお札が出ていく。
つまり、自分のお金が減っていっていることがその都度実感できるのだ。

これはケチンボな私にとっては、とても効果があったようだ。

例えば、お友達とちょっとお高いランチを頂き、その後にお茶を飲みながらケーキーを頂き、帰りにはデパ地下へ寄ってお買い物をする。
そんな時も、財布の中が寂しくなっていくのがわかるせいか、「今日はたくさんお金を遣ったから、サラダくらいは買わずに作ろうか」などと惣菜フィーバーにストップがかかるのである。

「私のお金が減っていっている。。。」そう実感することこそが、倹約に繋がっているだ。

そうすることによって、ストレスはあるかと言えば、まったくない。
好きなものを買わないことによるストレスと、お金が減っていくことのストレスを天秤にかければ、圧倒的に後者の方が重たい。

基本的に「ストレスのない生活」を目指しているので、ストレスにならない道を選べれば満足なのである。
「好きなもの」はたくさんあるけれど、結局のところ、一番すきなのは「お金」ということみたいだ(笑)

キャッシュレス決済が当たり前となった令和の時代に、現金主義とはいささか時代錯誤ではあるけれど、私にとってはこれが一番の倹約法なのだとわかった。

ネットや雑誌でも、よく「節約、倹約方法」などの記事を目にするけれど、私にはあまり参考にはならない。実際、かなりの我慢を強いられるような例も少なくなく、ストレスが溜まるのは目に見えている。

お金の遣い方は人それぞれだ。何に使うのか、限度額はどれほどか、決済方法はどれが使いやすいかなど。。。

自分の性格を知り、自分の暮らしや行動パターンと照らし合わせた上で、自分に合った方法を模索していくのが一番だ。

私の場合は、ストレスになるような節約はしないけれど、お金が減ることによって生まれるストレスを回避できる程度に倹約する。
それが一番向いているようだ。





夫が定年退職となり、年金が受給できるようになるまで、まだ15年近くある。
子供の教育費も終盤戦。私大へ通う長女はあと半期分で60万ほど払えばめでたく卒業だ。
次女はあと3年半、幸いなことに国立なので、卒業までに納める学費は残り210万である。トータル270万で我が家の学費の支払いは終了となる。
授業料の他に入学金や予備校の費用など、湯水の如く垂れ流されてきた教育費が終わるのだ。

これまで払い続けてきた教育費が、定年までの15年は丸々我が物となるのだから、まさに貯め時の到来である。

すでに残りの教育費は確保してあるので、これからまた挽回していこうと思う。
そのためには、やはりお金の出入りをしっかり把握し「倹約」に勤しむことだ。

自分なりに「理想の老後」というものがある。
健康で、好きなものを食べて、時々旅行へ行ったり、疲れたら温泉湯治に行ったり。あとはブログを書くことを楽しみながら、本を読んだりNetflixを観ながらのんびり。
今と変わらない、ささやかな暮らしが老後も続けばいい。それが私の「理想の老後」だ。

「倹約」はするけれど、自分のしたいこと、欲しいものを我慢してカリカリするような「節約」はしない。

毎日「幸せだな」と感じながら生きていくこと。そのために何をすればいいかを考えれば、自ずと答えは出てくる。
巷に溢れる情報や、他人と比較するのではなく、自分軸で考えた暮らしを作っていくことだと思っている。