In other words

I really don't know life at all ...

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初詣は氏神様へ。おみくじは今年も大吉、その意味を読み解いてみた。


明けましておめでとうございます!

今年もまた氏神様の元へ初詣に行った。
以前は神田明神明治神宮、子供達の受験年には湯島天神など、誰もが知るような神社で初詣をしていたのだけれど、ここ数年は自分が住む街の氏神様の元へ行くようになった。

大きな福を得ようと勢いのあった頃は、なんとなく大きな有名な神社に足が向いたものだけれど、そんな強い欲が落ち着き、日々の変わらない暮らしを願うようになってからは、いつも近くで見守ってくれている神様に自然と足が向くようになった。

我が街の氏神様がいるのは、住宅街の中にひっそりとある小さな神社だ。
それでも三ヶ日には近隣の多くの人が初詣に訪れ、なかなかの混雑ぶりを見せる。

昨年は次女の受験などもあったので、3日に家族で詣でたのだけれど、まだ結構な人出だった。
しかし、しっかりと願いは受け入れていただき、無事に次女は合格を頂いた。
ちなみに、その前の年は有名な某学問の神様を詣でたのだけれど不合格だった。あまりにもお願いに訪れる人が多いので、全員には手が回りませんといったことなのかもしれない。
やはり氏神様の元へ行って正解だったのだ。

今年は一人だったこともあり少し遅い4日に詣でた。

手を合わせて昨年の御礼をしたあと、小さな神社の中を一回りしてからおみくじを引いてみた。

昨年は大吉だった。
家族は皆、末吉だったので確率的には一般で言われるように15〜30%ほどの確率なのだろう。
さすがに今年も大吉を望むのは欲張り過ぎだと、中吉あたりでお願いしたいと思ったところ。。。



なんと、結果はまたしても大吉だった。

いつもはサッと手に触れたものを引くのだけれど、今年はちょっとばかりゴソゴソしてみた。
手でおみくじがたくさん入っている箱の中をゴソゴソとし、「おお!これぞ」という感触のあるものを引いたのだ。
その結果の「大吉」だった。

これで今年も安泰だとほくそ笑む自分の性格。。。実に単純である。誰でも大吉を引き当てればいい気分になるのだろうけれど、私は本気で「2年連続の大吉とは、もはや私の人生は約束されているも同然」とばかりに有頂天になる。

さらには欲を出し、「この勢いで宝くじなど買ったら、当たってしまうのではないのかしら⁉︎」とまで思う。
実際に試したことはあるけれど、残念ながら大当たりはなかった。
しかし、たとえ数百円でも当たれば「ほらほら!やっぱりついてる!」と、有頂天にさらに拍車がかかる。 

運もさることながら、実はこの能天気さこそが福を呼び込んでいるのかもしれないと思うのだった。

何事も深刻にとらえない。
いや、一応は人並みに深刻に悩んだりもするのだけれど、そんな状態が続くとうんざりして面倒になるのだ。「もうどうにでもなればいいわ」と投げ出すので、側からみるとかなり能天気に生きているように見えるらしい。
よく言えば楽天家、悪く言えばいい加減というのだろう。

そんな単純な私なので「大吉」となればすべてにおいて絶好調も同然と思っていたのだけれど、書かれている文言をよくよく読んでみると、どうやらそうでもない「大吉」があるらしい。

50年以上毎年おみくじを引いてきて、初めて知った事実。。。



「願望は後に整う」とのことだけれど、「待ち人は来らず」、「失物も出がたし」とある。商売は「買うのは損 控えよ」なのだそう。。。
なんだか「末吉」あたりで出てきそうな文言だ。

これはそのままストレートに解釈するのではなく、今の自分に当てはめ、その意味を読み解く必要がありそうだ。

「待ち人」待っている人はいないので、来るはずもない。

「失せ物」も失くしたものなどないので出てくるはずもない。

商売は「買うのは損」とある。もはや商売っ気など出さず、財布の紐をしっかりと締めて、無駄な出費はするなという節約のすすめ。

そのように都合よく考えれば、これもありがたいアドバイスだと素直に受け止めることができる。

色々と面倒くさいことを考えたけれど、結局なにが書かれていようが、「大吉」なのだ。おみくじの中で一番の大吉を引き当てたのだ!
もうそれ以外はなんでもいいではないかと思う。

神様の言いたいことも一つだ。
日々、感謝の心を忘れず祈れば、きっとご加護があるでしょう!ということなのである。
困った時は神頼みをするくせに、実際は神様の存在に対して半信半疑な私の心を、氏神様は見透かしているのだろう。

神様を信じて祈りなさいと、重ねて書かれていたくらいなので、神様も私の信心に対しては半信半疑なのかもしれない。

厳しく「凶」を与え、己の行いを顧みてその心を改めるという逆境は、この人間においては逆効果。それなら「大吉」を与えて有頂天にさせた方が、よい人間になりそうだという神様の判断なのかもしれない。

もしそうだとしたら、やはり神様はすごい。しっかりと我々の行いや心のうちを見てくれているということなのだ。

「信じるものは救われる」と言う。

今年は是非とも神様に祈ろう。

ところで、少し前にこのブログで書いた「更年期による不安症、心配症」については、年が変わってから改善されてきたように感じている。
特に初詣に行って以来、なにやらスッキリとして、寝る前に動画など観なくても平気になった。

またいつぶり返してくるかはわからないけれど、初詣というのは気持ちをリフレッシュし前向きにしてくれる効果があるのだと実感している。
よくパワースポットなどと言うけれど、あながち嘘ではなく、心身浄化という意味では意味のあることなのかも知れないと思ったのだった。。。

年末調整の還付金が1月になったことで、年末年始の支出が減った。

例年12月の給与には年末調整の還付金が加わるので、今年も給料日の朝、ホクホクと足取り軽くも銀行へ出かけた。
さてさて、今年はいかほどお返ししていただけるのか、通帳を記帳してみると、いつもと変わり映えのしない数字が並んでいた。
期待した還付金が入金されていなかったのだ。。。

なぜ?なぜ?なぜ?
それは困る!

この時まで、私は還付金なるものは必ず12月に入金されるものだと思っていた。
私が働いていた時もそうであったし、何度も転職を繰り返している夫も、常に12月のお給料には還付金が加わっていた。

軽く動揺したため、その場で単身赴任中の夫に電話をかけ「還付金が入ってない!」とやや大袈裟に訴えた。
今年は転職したばかりで、クリスマスも年末年始も返上で仕事をするという夫、12月に入ってからとにかく忙しいようだ。
毎日、朝晩欠かさずにFaceTimeで連絡してくるのは変わらないのだけれど、常に移動の車の中か、デスクに座っている。
本来なら年末調整の還付金などに構っている暇はないといった状況なのだろう。
忙しいところ申し訳ないけれど、私にとっては夫の忙しさよりも還付金なのだ。

お国というのはまったく薄情なもの、悪くいえば姑息で、徴収するときは執拗にとことん追い込んできてまで巻き上げるのに、いざ自分が返す段になると途端に静かになる。こちらが気づかず申請をしなければ、しめしめとそのまま知らん顔をするのだ。

長年に渡り専業主婦などしていると、社会の動きにうとくなるものだけれど、貰えるものは1円たりとも逃しはしないと、お金のことに関しては常に目を光らせ、守銭奴政府に対抗しているつもりでいる。



年末調整の還付金に関しては、会社にお任せできるので、キリキリせずとも還付金は給与と共に振り込まれる。毎年年末調整書類だけは細心の注意を払って記入するのみと、安心し切っていたが、いざ還付されていないと知ると、散々税金を徴収しておきながら、還付金を着服するつもりなのか⁉︎と疑惑の目を向けてしまう。
更年期ゆえ、普段よりも疑り深く、何事にも疑心暗鬼になりがちなのだ。
心身共に普通ではないので、それは仕方ない。

きっと夫もそれを承知しているのだろう。ちょっと笑いながら、「会社に確認するから」と電話を切った。

ここですぐに折り返さないと、更年期妻はますます不安に煽られ、大騒ぎするのは想定内ということで、すぐに折り返し連絡があった。

「この会社は1月なんだって」

1月のお給料と一緒に振り込まれるらしいとのことだった。

還付金が年内に振り込まれないなどということがあるのか。。。
生まれて初めて知ったことだった。

毎年、振り込まれた還付金は「元々なかったお金」と思うことにして、年末年始のご馳走にすべて投入していた。
まるで棚からぼた餅のように思える還付金だからこそ、大盤振る舞いしてきたというのに、それがないとなると、ケチンボな私は途端に消費にもストップがかかる。



私は「これから入るであろうお金」はないものと考える。自分の持っているお金だけが、私のお金なのだ。確実に入るであろうお金でも、自分の手元にこないうちは一切期待はしない。
どんなことも「一寸先は闇」と考えて、お金も遣い方を考えるようにしている。

おかげでこれまで借金とは無縁の人生だ。
数学はあまり得意ではないけれど、足し算と引き算さえできれば、お金が足りないとアタフタすることもない。
あれば遣うし、なければ遣わないだけである。

さすがにこの歳になれば、どんぶり勘定はしないけれど。お金に関しては至ってシンプルに考えるようにしている。

夫は私のことを「お金を遣い切るのが上手」だと、皮肉を言ったりする。
その通りだ。これまで夫から頂いた生活費はきれいに遣い切ってきた。
頂くお金が何十万単位で減っても増えても、多過ぎるとも足りないとも言ったことはない。

夫が転職する際、4ヶ月近く無職であったときも同じだ。
さすがに職安から支給される失業手当だけでは、家賃すら払えなかったので、その期間は貯金を取り崩して賄ったけれど、まだ賄うお金があり、普通に生活ができるのだから、問題はないと考えていた。
この時のように、なにかあったとき、多少のバックアップがないと不安なので、その分はキープしてあるけれど、基本的に入ってきたお金は遣い切ってきた。

夫が言うのは金額の大小に関わらず、しっかり遣い切っている、つまりは帳尻を合わせるのが上手ということなのだ。

しかし50も過ぎれば老後が視野に入ってくる。最近は以前のようにお金を遣い切ることはしなくなった。
むしろ、いかに頂いたお金を余らせ、自分の通帳の残高を増やすか、そんなことに喜びを見出すようになった。これを世間ではへそくりというのだろうか?

へそくりというのは、内緒に貯めたお金のことを言うから、私の場合は少し違う。
私は夫に「見て!今月はね、これぐらい増えたのよ」と、堂々と私名義の通帳を自慢げに見せているのだから。

夫はそれを見て、「我慢しないで好きなもの買って、好きなもの食べなさい」と言ってくれる。
これだけ聞くと、なんと素敵な旦那様かと思うところだけれど、夫の言う「好きなもの」とはせいぜいお菓子くらいだと思っているのだ。
これがダイヤモンドのジュエリーや高級車であったら、「一体なにを考えている?」とお叱りを受けることだろう。

それでも、「あなたは働かずに、自分の好きなことをしていればいいよ」と言ってくれるのだから、私はそれで十分だ。
毎日美味しいご飯が頂けて、好きなお菓子も楽しめるのだから、これも頑張ってくれている夫のおかげだ。ありがたいことだと、いつも感謝している。



高級品の買い物こそしないけれど、自由に過ごしていればそれなりにお金はかかる。
一つのお菓子をお目当てにデパ地下などへ足を踏み入れると、あれもこれもと結局両手に袋を提げて帰ってくる。
お友達とランチに出かければ、ついでにとあちこちのショップを見て回り、細々としたものを買う。
一つ一つの金額は数千円でも、これを繰り返すと塵も積もれば山となる。

お金は「これからいくらでも作れる」と思うから遣えるのであって、そこらへんが不安になってくると、さすがに財布の紐も固くなるものだ。
私はもう自分では働く気はない。夫はあと15年は現役で働くだろうけれど、もう50歳を過ぎているので、この先さらに上に登れるのかどうか。。。
夫本人は「まだまだこれから!頑張りますよ!」と威勢はいいけれど、気まぐれな外国人ゆえ、いつ「もうリタイアすることにしたよ」などと言い出すかわからない。

つまりは、これからを期待するのではなく、するべきは現状維持の努力なのだ。
暮らしていれば日々お金は必要になるのだから、お金が入ってこなければ現状維持も難しくなる。

年末年始はどこのご家庭でも、いつもより支出が多くなると思うのだけれど、それは我が家も同じだ。
その救世主となるのが年末調整の還付金なのである。
還付金で年末年始の支出すべてを賄ってしまえば、持ち出しをすることもなく現状維持できる。

そんな訳で、私にとってはたかが還付金でも、この時期大きな意味を持つお金なのだ。

しかし、会社が1月と言うのなら仕方ない。。。
1月は久しぶりに遠方へ旅行に行く予定だ。2月も3月もすでに旅の予約をしてあるので、ここは気持ちを切り替えて、年末調整の還付金は旅行資金に充てようと考えることにした。

ちょっとばかり動揺したものの、年末調整還付金が1月になることもあると学び、それが来年の旅行に役立つと思えば、それはそれでいいかもしれない。何よりも還付金を手にできなかったせいで、年末の支出が大幅に減ったのだ。そんなことを考えれば、すっきりと溜飲が下がったのだった。。。

物理的孤独という贅沢。精神的孤独という空虚。対極にある二つの孤独について考えたクリスマスイブ。

光陰矢の如しというように、今年も残すところ数日となった。
今日はもうクリスマス・イブ。

子供達がまだ小さな頃は、家に大きなツリーを飾り、その下にたくさんのプレゼントボックスを並べたものだ。
クリスマスディナーも大きな丸鶏を焼き、スープにオードブルを並べ、家族4人でわいわいとクリスマスを楽しんだ。

クリスマスプレゼントを買い集めてラッピングしたり、海外に住む夫の親兄弟や親戚にカードやプレゼントを送ったり、そしてクリスマス数日前からはご馳走の準備と、とにかく忙しく過ごしていた。

いま思えば、よくぞ毎年毎年そんな面倒なことをしていたものだと思う。
しかし家族が喜んでくれるのが嬉しかったのだろう。嬉々としてそんな行事をこなしていた。

今年は12月になってものんびりとしたものだ。
我が家のクリスマスは外国人である夫のためというのが一番大きかったと思うのだけれど、そんな夫も今年は単身赴任でクリスマスは家で過ごさない。おそらく結婚して初めてのことだ。
夫は少し残念そうだったけれど、もう子供達も大きくなったし、今は家族よりも各々自分のやるべきことをするべきでは?との提案に「それもそうだね」と納得してくれた。

子供達はといえば二人とも成人し、長女は一人暮らしをするため家を離れた。唯一一緒に暮らしている次女も大学生となり、日々忙しくしていてほとんど家にはいない。
クリスマスも「もう頑張らなくていいよ」とのことなので、お言葉に甘えて今年は何もしないことにした。

おかげでお買い物も気が向いた時に、ぶらりと自分の好きなお買い物をするために出かけるだけとなった。

先日、やはりぶらぶらとお買い物をした帰り道、たまたまイルミネーション輝く通りを歩いた。
真っ暗な中に延々と伸びる氷のように光る道はとてもきれいだった。

その通りに限らず、この時期は街の至るところでイルミネーションが燦々と輝いている。



イルミネーションに彩られた街はとても美しい。毎年のように見ている光景であり、正直言って見飽きてもおかしくはないのに、毎年見るたびにしばし足を止めてしまうほどだ。
何度見ても飽きることのない圧倒的な美しさ。。。
だからこそ、多くの人がただそのイルミネーションを見るためだけに、寒い夜の中に集うのだろう。

そんな美しいイルミネーションを見ていれば、ほとんどの人は華やかな気持ちになるのだろうけれど、何故か私はとても寂しい気持ちになる。。。

そんな風に感じるようになったのは、一体いつからだろうと考えてみたら、それはちょうど50歳を過ぎた最初の冬だったのではないかと思った。

すっかり日が暮れた寒い夜、六本木のけやき坂を歩いていた。
氷のように冷たい青いイルミネーションが、突然真っ赤に変わった瞬間、なんて華やかで綺麗なのだろう。。。と、一瞬だけ頭上のイルミネーションを見上げた。
真っ赤に染まったけやき坂を、ただ進んでいくうち、なぜかひどく寂しい気持ちに包まれたのだった。
どう表現していいのかとても難しいのだけれど、美しいとは思っても、そこに感動したり心を躍らせることがなくなってしまったことに気づいたのだ。

それは、かつて自分を輝かせてくれていたものがすっかり失われ、もはや自分は空っぽになってしまったということなのだと思った。
ショックでも落胆でもなく、そんな気持ちになったことがただ寂しかった。

何かを見たり、聞いたり、読んだり、そんな時に心を揺さぶられるという経験を、かつては毎日のようにしていた。
心に寄り添うなにかが、「すごいね」「素敵ね」と、頭の中でお祭り騒ぎをしているような状態だ。
そんな頭の中の何かは消えてしまって、私に語りかけてくれるものはなくなってしまったのだ。。。

この感情に名前をつけるとしたら、「精神的な孤独」というのが一番しっくりくる気がする。

これは誰かと一緒であるか否かとは全く無関係な「孤独」だ。
誰と一緒であったとしてもきっとそんな孤独から逃れることはできないように思うのだ。

人から孤立し独りぼっちで寂しいのではなく、自分自身がひとりきり、まるで丸裸になったような心細さを感じる時こそが私の感じる孤独なのである。

私にとっての精神的な孤独とは、他者との関わりと関係のない、自分自身の心の問題で、失われたものに対して、取り返しのつかないような気持ちを認めた時に現れるのだ。
そんな時、強く孤独を感じるような気がする。

逆のことを言えば、たった一人でいても心が温かく満たされている時もある。
ひとりで美味しいものを楽しんだり、寒い夜にぬくぬくと温かい毛布にくるまっているとき、私はとても温かい気持ちになる。

なにぶん自分の心の中のことだ。どんな解釈もできてしまうのだけれど、シンプルに言ってしまえば、イルミネーションを見て悲しくなるのは、色々なことに胸を躍らせていた子供であった頃に持っていたものは、もはや全て失われ、二度と自分の元に戻ってこないことがわかっているから。そういうことなのだと思う。



孤独というのは、案外得体の知れないものなのかも知れない。
「孤独」というものに寂しさを感じながらも、逆に「独りになりたい。。。」
そんな風に思うことが、私にはよくある。
これは「物理的な孤独」を求めてのことだ。

独身の若い頃であれば、ふらりと旅に出て、気が済むまで独りの時間を楽しむことが出来たけれど、家族のいる今はなかなかそんな勝手もできない。
やろうと思えばできるけれど、いつ帰るかなど旅の計画も知らせない訳にもいかないし、もうそれだけで気ままな旅という訳にはいかなくなる。
誰かの妻であり、母である私は、常に家族に対しての責任というものがあると考えてしまうからだろう。
旅先で子供達の事などを気にしながらでは、なんだか100%楽しむこともできそうにないし。。。

今はせいぜい2泊3日程度の旅か、普段は独りで買い物へ行ったり映画を見たりと、都内をふらふらする程度だ。

どこにも属したくないという思い。。。
私にとって「物理的な孤独」とは若いころからの関心ごとの一つだった。
ただ、昔は一人でいる方が好きというよりは、一人でいても平気といった感じだった。しかし、今では好んで孤独を追いかけているようなところがある。
それは今の自分が物理的に孤独でいられる機会が少ないからかもしれない。

孤独という贅沢。。。
孤独と聞いても、それが物理的なことであれば、私には「寂しい」というイメージはない。私にとっては贅沢なことなのだ。

「あの人は孤独よね」なんて事をよく耳にするけれど、そのほとんどが物理的な部分を見て他人が判断しているものなのだろう。
本当の孤独は外から見えないものではないかと私は思っている。

孤独=一人で寂しい。そんな簡単なことではない。もしそう思っているとすれば、その考えこそが精神的に自分を孤独にしている要因なのだと思う。



家族というコミュニティーは、一番身近で重要なコミュニティーであり、同時に最も厄介な場所とも言える。

家族と言えども、全ての人と気が合うわけではない。どんなに濃い血の繋がりがあったとしても、性格は皆千差万別。似たところはあったとしても、そもそも同じ人間ではないのだ。
中には正反対な性格、価値観を持った、まるで仇のような家族すら存在する。

しかし、家族としてそのコミュニティーに生を受けた以上は、そんな気の合わない人とも無関係でいることは難しいものだ。

自分のどこか心の底にある「情」というものを捨て去るのはなかなか難しいものだからなのだろう。
そこをスパッと割り切って、たとえ縁を切ったとしても、なにか事が起これば必ず家族の元に連絡がきて、家族としての責任を果たすよう社会からは求められる。
切っても切れない縁というものが、家族間では存在するのだ。

だからなのだろうか、配偶者や子供がいるから安心だなどと口にする人がなんと多いことか。
自分が年老いて自立した生活を営なめなくなったときに、血の繋がった家族がいれば安心という事なのだろうか。

しかしそれとて永遠でも絶対でもない。
子供はいつか巣立ち、新しいコミュニティーに属する者となっていく。
人生の伴侶とも必ず別れの時は訪れる。
切っても切れない縁とはいえ、必ずしも依存できるものではないのだ。

そこに依存しようとするから、そのコミュニティーが消滅した時に、居場所を失ったような気持ちになるのだろう。



職場というコミュニティーはどうかと言えば、今は時代も変わり、昔に比べると「個」が尊重される社会になってきているようだ。

昔はとにかく仕事もプライベートも一緒くたといった風潮が強くあったように記憶している。

上司からの誘いを断ると自分の立場が不利になると、日曜日ですら朝から接待ゴルフに出かけるという、罰ゲームのようなことも平然と行われていた。

さっさと帰りたい残業明けも、食事や飲みのお誘いは当たり前。
「帰ります」などと言おうものなら、おきまりの「付き合いが悪い!」の大合唱を浴びることになる。

私が会社という組織に属することを避けていたのも、こうした人間関係が面倒だったせいもある。
会社の一員としてでなく、例えばフリーランスとして接している分には、扱いが変わるからだ。

以前、短期で働いた職場でも年末の忘年会や年明けの新年会など、まるで全員が出席して当たり前といった空気で驚いたものだ。
平成も終わろうという時代にも関わらず、まだ昭和とあまり変わっていないのだなと苦笑したのを覚えている。

もちろん私は全て不参加で通したけれど、何十人もいる部署で社員、パート含め、参加しなかったのは私ともう一人の男性たった二人だけだった。

それほど仲の良い職場でもないにもかかわらず、こんな時の団結力といったら⁉︎
そう思ったものの、裏で交わされる「本当は行きたくない」「会費払ってまで馬鹿らしい」なんて愚痴を聞いてしまうと、それならなぜ断らない?と不思議になったりもしたものだ。

「それなら断ったら?」
私がそう言おうものなら、
「波風立つのも嫌だから。あなた、みんなにまた自己中とか、何様?とか言われているわよ」
などと、逆に忠告を受ける始末(笑)

自分を押し殺してまでも、職場というコミュニティーの「和」を守ろうとするのは、どうしてなのか、私には理解出来なかった。

友達というコミュニティーも、時に厄介だっりする。
友達がいるというのはいいものだ。気の合った仲間と一緒に美味しいものを食べたり、お喋りをしたり、独りとはまた違った楽しい時間を過ごす事ができる。

しかし、いつでも一緒に行動しなければいけないとなると、これは大変なストレスにもなりかねない。
学生の頃、トイレへ行くのも教室移動も常に一緒に!といった女子が沢山いたけれど、この歳になってもまだその癖が抜けない人もいる。

お買い物に行くのも映画や美術館へ行くのも、必ず「付き合ってくれない?」と、誰かと一緒に行動しようとする。
私は若い頃からそれがとっても苦手だった。

お買い物もその時の気分であっちへ行ったりこっちへ行ったりと、気ままに歩き回りたいのに、人が一緒では必ず「疲れた」などと水を差されることになったりする。美術館などでも気に入った展示を気がすむまで眺めている事も出来ない。
だからこそ独りがいいのだ。



最初からどこへも属していないという気持ちでいれば、物理的に孤独でもそうでなくても寂しさを感じることはない。
どこへも属さない生き方ということだ。

属さないからといって、必ずしも他者との関わりが完全に断絶されるわけではない。
かなり都合のよい考えではあるのだけれど、属さずとも共に過ごすことはできる。


自ら孤独を望むのと、否応なしに孤独に晒されることでは感じ方が違うのだろうか。
本当の意味で孤独になった事がないからこそ、孤独であることを恐れないのか。

難しい理屈など抜きにして、たった独りでいる事が孤独だというのなら、私はやはり孤独でいる時間が好きだ。

精神的な孤独という空虚はザラザラとした砂の上を延々と歩き続けるようで、たまらなくなることはあるけれど、そうしたことも受け入れて、始めて本当の孤独とお友達になることができるのかなと今は思っている。

人間は生まれてくる時も、たった一人で狭く苦しい産道を通り産まれてくるものだ。
そして死ぬ時も寂しさや苦しみをたった一人で抱えながら去っていく。

結局は一人。誰もが孤独から逃れることができないのなら、「孤独」とは生涯に渡り、良きパートナーでいたいものだ。

と、なにを訳のわからないことを書いているのだろう?と自分でも思う。。。
こんなとりとめのないことを考えるのも、すべて更年期のエストロゲン減少によるもので、本来はイルミネーションなどになんの興味も示さない情緒のない人間なのである。。。

今年はクリスマスディナーのお支度もなく、のんびりと過ごせるので、暇に任せて自己満足ブログを書いて過ごしているのであった。。。