In other words

I really don't know life at all ...

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スマホを忘れて外出。不便だと思った瞬間と、スマホとの付き合い方。

時折スマホを家に置いたまま外出してしまうことがある。
ほとんどの場合、家を出て気づくのだけれど、ひとりで外出する時は取りに戻ることはない。

さすがに家族や友人、知人など誰かと会う時は、予定の変更なども考えられるので、相手のご迷惑になるといけないと取りに戻るけれど、基本的には昭和世代はスマホのない青春時代を送ってきたのだ。スマホなどなくてもちっとも困らない。そんな気持ちなのである。

しかし、実際はどうかと言えば、困ることも増えたと最近は感じるようになってきた。

まず、スマホがお財布の代わりもするようになったことだ。
私はいまだに現金主義で、お買い物は可能な限りキャッシュで支払うようにしている。以前はクレジットカードを主にしていたのだけれど、現金支払いの方が無駄遣いが少ないと気づいたので、自身の生活を守るためと、あえて時代に逆行しているのだ。

スマホのお財布機能は使わないけれど、私の場合は自然と貯まってしまったポイントがある。ポイントはお金と同じだ。お買い物ができてしまうのだから。

近隣の商業施設やスーパーなどなど。あまり気にしていない割には、精算時には必ず提示してしまうので、知らないうちにポイントが貯まっているのだ。

ポイントはつけてもらうのだけれど、それを使うのはだいたい1年に一度。ポイントが失効する直前になると、途端に「これを使わなければもったいない!」と思いはじめ、急いで使うといった具合。



先日、ある商業施設内にあるお洋服屋さんで、いいなと思ったセーターを見つけた。たまたまセール価格になっていたので、ここでポイント消費してしまおうと思った。
ところがポイントカードはずっと前にスマホのアプリに取って代わっていたのだ。当時はカードを持ち歩かなくて便利と思ったものだけれど、スマホが手元になければ意味がない。
この日、私はスマホを忘れて外出したので、ポイントでの精算ができなかったのだ。結局、セーターは買わずに店を出た。
この時、スマホのない不便さを感じたのだった。

他にも不便だなと感じたのは、すぐに記録ができないことだ。
以前はペンと小さなメモ帳は必ずバッグに入れていたものだけれど、仕事もしていない専業主婦にはもはやスマホがあれば余計なものは必要ない。
記録しておきたいことがあれば、パシャっと写真に撮っておくか、メモ帳アプリにサッと入力しておけばいい。
記憶には頼れないので、これもスマホがなければ、なす術もない。

それからブログ。
私は家でも外出先でも、ブログに書きたいと思うことが浮かぶと、すぐに「はてなブログ」のアプリを開いて、後で思い出せる要点だけをサッと書いて下書きに残しておくようにしている。これもスマホがあればこそである。

先日も信号待ちをしている時に、ふと頭に浮かんだことがあった。信号は赤に変わったばかりで、メモ書きする程度の時間はたっぷりあった。
バッグに手を入れたとき、スマホ忘れたのだっけ。。。と思い出した。

私の頭の中はいつも雑多な事柄で溢れかえって、片付いていない部屋のようなので、この機を逃すと確実に行方不明になる。そして二度と思い出すことはない。
たかがブログのネタなので、忘れ去られたとて問題はないのだけれど、自分としては後で思い出せないと、ちょっとがっかりするだ。



こんなことがあっても、相変わらずスマホを忘れて外出してもそれほど慌てたりはしない。不便だなとは思うけれど次の瞬間には「ま、いいか。。。」と思うだけだ。
50代の私は人生の半分はスマホなしの暮らしを楽しんでいたのだ。そんな意味のない自負がある。
確かにあの青春時代、もしもスマホがあったら、もっともっと楽しめたかもしれないと思うことはあるけれど、一方でアナログゆえに手をかけ時間をかけたことが、いま心の基盤になっているとも言えなくない。
アナログな時代を生きてきたことが自信になっているのだ。

例えば、大変な時代を経験してきたお年寄りは、概してその経験値や忍耐力ゆえか、肝が据わっているものだ。
ちょっとばかり例えが変だけれど、ニュースで観る、山で熊と遭遇しても顔面パンチで撃退する類いの人は、ほとんどがお爺ちゃんだ。私なら山で熊になど遭遇したらイチコロだ。。。
そんなお年寄りの足元にも及ばないけれど、少しばかり大変なことを経験すると、自然と力がつくのだと思う。

大変な思いなどしないに限るけれど、いつ不測の事態に直面するかわからない。これは神のみぞ知ることだと、心しておかなければいけないと思っている。

そんな気持ちが根底にあるせいか、意図せずにスマホには執着しないようにしているのかもしれない。。。
食べることと韓流ドラマにはあれほど執着するのに(笑)


スマホの便利さを知った今でも、子供達のように四六時中手元に置いて生活をすることはない。
家にいてもスマホを手にするのは、ブログを書く時が一番長い。次がamazon楽天などショッピングサイト巡り。
以前、Netflixなどもスマホで観ていたのだけれど、少し前に長女がリビングのTVにファイアースティックをつけてくれたので、最近はそちらで鑑賞している。



少し前に更年期による不安症、心配性についてブログに書いたことがあるのだけれど、その改善策として「寝る前にスマホでハッピー動画を観て、不安感を払拭する」ということをしていた。
最近はそちらも少し落ち着いてきたので、寝る前にスマホを手にすることはなくなった。


そんな感じなので家族や友人からのLINEを半日くらい気付かず平気で放置してしまい、急な用事の時などは電話がかかってきてしまったりすることもある。人様にご心配やご迷惑をかけるのは本意ではないので、もう少し気を配る必要は感じている。
これは50代の夫も同じで、TVも観ないしスマホを使うのは仕事の時と、連絡の時くらいだ。
ただし、その「連絡」というのがかなり頻繁なので、スマホに依存というよりも、人依存ではないかと思っている(笑)
そんな夫婦なので子供達が旅行中に隙あればとスマホを手にするのを見て、苦々しい気持ちになったりもした。
スマホではなく、この雄大な自然の美を堪能せよ!と。

そうは言っても、やはりスマホの重要性を否定することはできない。
先日乗ったANA全日空)も4月からは、チェックインから搭乗まで、すべてスマホQRコードで処理されるという。
スマホを使いこなせないと、不便以前に何もできないという社会になりそうだ。
アナログ礼賛などと言っている場合ではないのだ。

本当かどうかはわからないけれど、最近「スマホ認知症」というワードを見聞きするようになった。
スマホの使いすぎによって、脳機能が低下し、記憶力や集中力の低下、その他にも色々な症状をきたすらしい。
まるで私が直面している老化現象そのものだ。
これ以上、そんな症状が加速していくと、将来夫や子供達に迷惑をかけそうなので、やはり私にとってスマホは「あれば便利だけれど、なければないでいいわね」と、生活するに困らないい程度に使えればちょうどいいようだ。

どこかで見た人に、生きていることの喜びと感謝を改めて感じた日。

昨年末のこと、病院へ行く途中に横断歩道で信号待ちをしていたら、隣に小柄な女性が並んだ。
チラリと横顔を見た時、「どこかで見たことのある人だわ」そう思った。

病院の近くということは、かつて病院内で出会ったことのある人かもしれない。
記憶を巡らせていると、ある一人の女性を思い出した。

もう10年くらい前、私が大病のために入院した時に同室だった人だ。歳は私よりも10歳くらい上だったと記憶している。

4人部屋の私は右奥、その人は入口すぐの隣りのベッドだった。
私が入室した時にはすでにいたのだけれど、いつでもぐるりとカーテンでベッドを覆い、顔を見ることはほとんどなかった。

その部屋は4人とも同じ病気を抱えていて、深刻度から言えばその人は中ぐらい。すでに余命宣告を受けている人もいる病室の中では、まだ希望が持てる状態であると、向かいのベッドのおばさんが言っていた。

生存率の低い病ゆえ、その人が常に悲観的になり、周りとの交流を断ちたいという気持ちになるのも理解できた。
ただ、私はその病の深刻度から言えば、十分に生きられる希望があったので、悲観はすれど心を閉じることはしなかった。

人は死の可能性を目の前にしたとき、その受け止め方が違うのは性格によるものなのだろうか。それとも置かれている環境なのか、私にはよくわからなかったし、当時はそんなことすら深くは考えたくなかった。



その人はいつもカーテンの中にこもり、独り言を呟いていた。
「私はもうダメ」
「もうどうなってもいい」
「なにをしても無駄」
そんな言葉を日がな一日呟いていた。

時折、私の向かいにいた威勢のいいおばさんが、カーテンの中のその人に声をかけていた。

「病は気から!そんなんじゃダメよ」
「病気に勝つのよ!」
「そうそう簡単には逝くものか!」

普通なら「余計なお世話よ。あなたになにがわかる?」と言いたいところだけれど、深刻度から言えば、そのおばさんが一番死に近いところにいたのだ。

その病室の中で一番若く(とは言え40代)、新参者だった私はそんなやりとりをいつも黙って聞いていた。

その人には娘さんが一人いて、週に一度着替えを持って病院へ来ていた。
誰にも挨拶することなく、下を向いてスッとカーテンの中へ入っていくのが常だった。

娘さんが来るたびに二人は小声で口論していた。その発端はいつも経済的なことで、お金に関することで娘さんが不満を言えば、その人は娘さんが働かないことを責め、最後には「もういいよ」と、娘さんが怒って帰ってしまうというのが毎度のパターンだった。

聞き耳を立てていたわけではないけれど、カーテン越しとはいえ、すぐ隣なので会話は筒抜けだった。

一度、娘さんが帰ったあとに、その人がカーテンを開けて声をかけてきたことがあった。

「私がこんな病気になっても、娘はちっとも優しくしてくれないの」

「あなたみたいに、いつも一人の方が楽でいいわね」と。

私は一人ではなかったけれど、誰もお見舞いにこないので、独身の独り者と思ったのだろう。

当時、次女は小学生で長女は中学一年生だった。
私が入院する際、夫には「子供達にはこれまでと同じ生活を」とお願いしていた。病院への見舞いにも、決して連れてこないでほしいと。
病院というネガティブな空気の蔓延する場所に、子供達を触れさせたくはなかった。
夫にも、私のお見舞いに来る暇があるのなら、仕事と子供の世話に集中してくださいと話した。
夫は「せめて手術の立ち合いだけでも」と言ったけれど、それもやめてほしいと言った。
夫が手術室の外で待っていたからと言って、私がよくなるわけではない。何か不測の事態にでもなれば、必ずあなたに連絡がいくはずだから心配はないと。
その時間をどうか子供達のために使ってくれとお願いしたのだった。

嘘をつくわけにもいかないので、一応私にも家族がいることは伝え、「お見舞いには誰もこないでと言ってあるので」と、本当のことを話した。

「私は娘にどんなに酷いことを言われても、こないでは言えない。一人では怖くてたまらない」

その人から、あなたの強さが羨ましいと言われたけれど、私は強いわけではなかった。もちろん病気も怖かったし、夜になり色々なことを考えていると、ひとり涙がこぼれることもあった。
それでも一人で大丈夫と思えたのは、希望を持っていたからだ。
元気になって退院すれば、好きなだけ家族と過ごすことができると、以前と同じ暮らしに戻ることだけを考えていた。

病とはそんな精神論で治癒できるものではない。それを重々承知の上で、ポジティブな未来を信じる努力をしていた。

幸いにも私の病は完治し、あの時に信じた未来を生きることができている。
それは自分の力ではないだろう。お医者様と神様が治してくれたのだと思っている。



当時はギスギスと言うほどに痩せていたその人は、顔も丸く身体もふくよかになっていた。
なによりも驚いたのは、その表情の明るさと穏やかさだった。

検査の順番を待つ間、顔見知りの女性と笑顔でお喋りをしていたのだ。
毎日カーテンの中で呪いのような言葉を吐いていた人と同じ人物とは思えないほど、その人は朗らかに見えた。

病気というのは、身体が蝕まれれば心もまた同じように崩れるものなのだろう。そしてその逆も。。。

他の顔見知りの女性と話している内容から、その人の病気が完治しているのか否かはわからなかった。
ただ、受ける検査がことごとく私と同じだったので、もしかして私のように完治したあとも、引き続き先生の元へ通い、検診のようなことをしてもらっているのかも知れない。
声をかけるほど親しくはしていなかったので、あえて確認するようなことはしなかった。

5年生存率の著しく低い病気ゆえ、もうあの人はいないのだろうなと、時折あの頃のことを思い出しては漠然と同室であった人達の顔を思い浮かべることもあった。

しかし10年近くも経ったいま、その人はまだ生きていて、むしろ以前よりもお元気そうだったのだ。
なんだか無性に嬉しかった。。。

向かいのベッドにいた威勢のいいおばさんとは、5年くらい前にバッタリ病院で会ったことがあり、その時も「この人は自身が言っていた通り、病気に打ち勝ったのだな」と嬉しかったものだ。
それ以来、お姿は拝見していないけれど。。。

袖触り合うも多生の縁という。
人生のほんのひととき、生死をかけて共に過ごした人達だ。
知っている人とも言えないほどの関わり合いで、文字通り「どこかで見た人」と、記憶の引き出しの奥の奥にいる人だ。
それでも、生きていていてくれたこと、そしていま自分もこうして生かされていることに感謝したい気持ちだ。

我が家の子供達の大学受験を思い出したセンター試験の日。

今年もセンター試験の日を迎えた。その昔は共通一次試験、そしてセンター試験になり、現在は全国共通テストとその呼び名が変わっている。
年代ごとに変わるせいか、今でも多くの人が「センター試験」と呼んでいるようだ。私もついつい「センター、センター」と連呼してしまう。。。

昨年は我が家の次女も受験生であった。その頃のことを思い出すと、受験生ご本人はもちろん、その親御さん達の落ち着かない気持ちがよくわかる。
受験が終わるまで、ずっとそんな気持ちを抱えるのだから、これは大仕事だ。さすがに能天気の私ですら、受験が終わるまでは、ソワソワとした気分で過ごしていたものだ。

「この大学以外は行きたくない」と、志望校を一本に絞った結果、浪人が決定したのが一昨年の3月。
次女は1年間の浪人生活を経て、昨年2度目のセンター試験を受けたのだった。
センター試験の後に、まだ大学での二次試験があり、そこで合格すると、その後さらに三次試験まであったため、センター試験の時はそれほどの緊張もなく出かけて行ったと思いきや、会場からLINEが入った。
時間を間違えて、2時間ほど早くきてしまったとのことだった。
遅れたのではないのだから、試験は確実に受けられる。
「近くでのんびりお茶でも飲みながら待ったら?」
そう気楽に返信をした。
さすがに会場外へお茶を飲みには行かなかったようだけれど、空き部屋でスマホをいじり時間を潰したそうだ。
最後の1分まで時間を惜しまず勉強!とならないのは、やはり私の能天気遺伝子を色濃く引き継いだ娘なのだ。。。
そんな小さな手違いはあったけれど、無事にセンター試験を終え、結果も想像通りだったそうだ。
本人は答え合わせなどをしていたようだけれど、あえて結果を聞くことはしなかった。聞いたところで結果がわかるわけではない。むしろ余計なストレスを生むだけだ。
ストレスレスな生活を心がけている私には、センターの結果を知る必要はない。
最終的に合格となるか否かだけが問題なのである。

センター試験が終わったら次は大学での受験が待っている。
1月のセンター試験から3月までがとても長く感じられた。何か対策をするには短い、かと言って何もしないのは長すぎる2ヶ月間だった。

親のできることは限られている。その中で一番重要なのは体調管理だと、私は考えていた。

とにかくしっかり食べさせ、しっかりと睡眠を取らせることを最優先とした。
「勉強しなさい」ではなく「食べなさい」「十分に睡眠とりなさい」そればかり言っていた気がする。

コロナ禍以前も、毎年受験の時期になるとインフルエンザの心配が言われていたけれど、それに加えての新型コロナだ。感染すれば数日高熱で寝込むことになり、もはや受験どころではない。



実際に中学受験の際に、長女の同級生はインフルエンザに感染し、志望の学校を受験できなかったということがあった。とても優秀なお嬢さんで、難関校の合格も間違いなしとされていたにも関わらずだ。
どんなに努力を重ねても、こうした事も起こりうるのだと、改めて思ったものだ。
以来、私にとって子供達の受験は健康管理第一となったのだった。

次女の受験があった昨年もまだコロナ禍であった。1月のセンター試験から三次試験が終わる3月末まで、とにかく長かった。
目に見えないウィルスを100%避けることは不可能だ。いつ感染するかと内心は冷や冷やだった。

「何年浪人しようが絶対にこの大学」という思いは変わっていなかったため、昨年も本命の大学しか受験しなかった。
滑り止めも受けず、何の保険もかけない一発勝負だ。
無謀ではないかとも思っていたけれど、私は浪人することに対しては否定的ではなかったし、むしろその方が面白いと背中を押していたくらいだ。
私自身もまた、そんな勝負事が好きなのであった。

幸いなことに感染する事もなく、無事に二次試験を突破し、三次試験まで万全の体制で挑む事ができた。
そして一浪の末に合格を頂くことができ、いまでは忙しくも楽しい学生生活を送っている。

ところで、1年間の浪人生活の間、次女は現在の大学の学費よりも高い受験予備校に通っていた。
そう「通っていた」と思っていたのは親だけであった。。。
後から聞けば、サボってばかりいたそうだ。親の方は、朝「行ってらっしゃい」と送り出せば、当然予備校へ行ったと思っている。探知機などつけているわけではないので、一歩家を出ればどこで何をしているのか知る術はない。
しかし、次女はストレスが溜まっては逆効果であると、銀座や表参道、秋葉原などでぶらぶらしていたそうなのだ。
本人曰く、予備校へ支払った額の半分は無駄になっていたのでは?と平然と言う。合格できたからこそ、そんな大きな口が叩けるというもので、これが二浪目突入ということにでもなっていた際には、口が裂けても真実を語ることはなかったであろう。。。

そんな風にサボってばかりいたにも関わらず、次女は合格したのだから、受験とはわからないものだと思った。
同じ予備校に通い、朝から晩まで努力し続けた友人のほとんどは不合格だった。当然、遊んでばかりいた次女に痛い視線が向けられたそうだ。
予備校の講師曰く、運もあるけれど、あの子の場合は極端なまでの自己管理と集中力によって、ここ一番で実力以上の力を出すと言う稀なケースであり、決して真似をしてはいけない事例だそうだ。
褒められているのか、貶されているのか、よくわからないと次女本人が言っていた。。。

確かに次女は集中力がある。一度部屋に籠ると食事、お風呂、トイレ以外は一切顔を見せない。
自己管理も親に似て能天気なのか、「ストレスは敵」とばかりに、やる気にならない時はすぐに散歩に出かけたり、ショッピングに行ったりと、ぶらぶらしていた。
今でもそれは変わらない。大学の課題に追い込まれると、全て投げ出してまたぶらぶらである。
心身ともに健康であるからこそ、力を出し切ることができるのだろう。

結果がよかったからこそ言えることなのかもしれないけれど、そんなことからも、今でも子供の受験に関して、親ができることは健康管理だけではないかと思っている。



長女の大学受験の時は、次女のように「絶対にこの大学に!」という強い意志は皆無であった。
とにかく大学の名前やイメージ重視で選び、保険をかけまくり、幾つかの大学を受験していたので、本人が納得すればどこへ行ってもいいと思い、私も楽観していた。
そして合格を頂いた中で、一番イメージに近い学校を選んだという、「何のために大学へ行くの?」状態の受験であった。
外国人である夫は、それに対してかなり拒否反応を示し、「学ぶ目的でないのならお金は出さない」と長女と対立したものだ。
私はといえば、大学へ行く目的が勉学以外でも構わないと思っていた。
長女がその大学へ行くのは、セルフプロデュースのためだ。
人はその人そのものを見るのではなく、時につけているバッジで評価する。大人の世界ではよくあることで、多様化が叫ばれている昨今においても、それは変わらない。

それは選択した長女自身が実感しているそうで、自分の選んだ道は間違いではなかったと言っている。
あれほど反対していた夫でさえも、今では手のひら返しをしている。
あの時、「学費は出さない」と頑固に財布の紐を開かなかった夫がだ!
結局、長女の学費は私が出した。「お金を出さぬのなら、口も出さないで下さい」と、私は自分の貯金を崩すことになったのだ。
その時の恨みはまだ忘れてはいない。

長女の大学受験で思い出すのは、そんなお金の恨みくらいで、私が受験に対してなにかお手伝いしたという記憶はない。
志望校選びも願書提出も、合格からの入学準備もすべて長女自身がやり、私はお金を渡しただけだった。
入学式には行ったけれど、あれほど反対していた夫までもがちゃっかりと参加していたのは、今でも腹立たしい。。。

無理に思い出そうとすると、あの時のムカムカが蘇り、怒りによるストレスが増殖しそうだ。これは健康に悪そうなのでやめて、話を受験に戻すことにしよう。

極端なことを言えば、子供の受験に際して私がしたことといえば、前述した健康管理以外には、お金を出したことだけだ。
学びたいという意欲を満たすだけの投資は、可能な限り惜しまなかった。
よく、子供に教育費をかけ過ぎて、老後の生活に不安を覚える人がいるというようなネガティブな話を耳にすることがある。
そんな愚かなことはしてはならぬというお話で、それはごもっともです。。。と思うのだけれど、私は自分の老後の心配よりも、子供達の未来を心配する方が辛いことだと思っていた。

子供達がしっかりと自立して暮らしていれば、あとは自分の心配をすればいいだけだ。自分のことならば、なんとでもなるけれど、これが子供のこととなると、思い通りにはいかない。
小さな子供ならいざ知らず、大人になった子供達をコントロールすることなどできない。
年老いていくなかで、いつまでも子供の心配をし、世話を焼き続けるのはごめんだ。
しっかり自立してもらうための投資と考えて、子供達にはやりたいことをさせる努力をしてきた。



学びにも格差が存在する。
知人は子供の受験のために、塾や家庭教師など月に30万以上も投資していた。
また別の人は、子供を海外の有名大学へ入れるために、何年間もかけて実績を作るため、湯水の如くお金を遣ったという。
お金をかければいいというものではないけれど、それだけ多くのチャンスを手にするのは間違いない。それが凡人であれば尚更だ。

元々地頭のいい子というのがいる。親が何をせずとも、自身で学び取ったり、一度見たものはすべて脳に刻まれてしまうなど、いわゆる天才という子たちだ。
私の知り合いの子もそうだった。幼い頃から字を覚えるのも計算もすべて独学。親が知らないうちに、年齢以上のことをすでに学んでいたという。
放っておいても難関校には合格できたそうだ。
しかし、さすがに難関校へ行くと、上には上がいて、まさに地頭と地頭のぶつかり合いとなる。
そのまま放っておいては遅れをとると、親の方も子供の望むままに学びに対する投資を余儀なくされたそうだ。
つまり最高峰の大学合格への道を目指すため、さらに教育にお金をかけることになったのだ。
私のような凡人からすれば、何もしなくてもそこまで登れるのだからいいじゃないのよと思うのだけれど、それが自分の子供ともなると、できる限りのことはして、頂上まで登って欲しいと思うのかもしれない。

とにかく、そんな天才肌の子供の世界でさえも経済格差があるのだから、つくづく私たちの生きている社会は一つではないのだと思わされる。
元々地頭のよい子が、さらにお金をかけて磨き上げられるのだから。
側で見ていても、まるで別世界のことのようだった。

さすがに私には湯水の如く注ぎ込めるほどの財力はないので、人並みにという程度ではあったけれど、子供二人を育て、望む教育を与えるために、かなり投資をしたつもりだ。
まさによく言われている、子供の教育のために自分の老後を窮地に追いやる愚かな所業をやってのけたのだ。

夫は無駄なお金を遣うことはよしとしない人だけれど、たとえ自分が我慢を強いられようが、その理由に納得さえすれば、子供達に関してお金を遣うことは厭わなかった。
長女の大学受験のときのように、なんとしてでも納得しないことはあったけれど、それも途中で気持ちが変わったのか、学費を負担してくれるようになった。
それでも、受験の費用や入学金、途中までの学費など、支払ってもらえなかった恨みは、何度も言うけれど、私は決して忘れはしない。



話を戻すと、とにかく子供達の受験に際し、私がしたことは、健康管理とお金を出すこと。。。

それだけだと思っていたのだけれど、いま思い出した。もう一つだけあった。

それは次女の浪人が決定した際に、予備校を変えたことだ。
次女はそれまでお世話になっていた予備校に通い続け、合格してその予備校に実績を残してあげたいと、なにやら優しいことを言っていたのだけれど、私は別の予備校へ移るようにと提言した。
提言というよりは命令に近かった。私なりにリサーチをした結果、合格率の高い予備校はそれなりのパイプなり、蓄積されたノウハウがあるに違いないと、当たり前のように考え、それに素直に従うが合格の道だと思ったのだ。
我が家では「お金を出さぬ者は口も出すべからず」という暗黙の了解があるゆえ、次女は渋々と私の言う通り予備校を変えたのだった。

結果よければ全てよしで、私の読み通りに合格したものだから、当たり前のことをしたにも関わらず、私の家族内ヒエラルキー第1位という座は、これで揺るぎないものとなった。
そう思っていたけれど、実際にその予備校をサボってばかりいたそうなので、予備校選びがどれだけ合否を左右したのかは謎だ。
結局のところ、本人次第だったと言うことなのかもしれないと、今は思うのだった。。。

小学校受験や中学校受験なら、親子二人三脚でと、親の持つ役割は大きくなるけれど、さすがに大学受験になれば、本人を信じて見守るしかない。
逆を言えば、その歳になって親に指示されなければできないのでは困る。

心身ともに健康で過ごすために生活を整え、ストレスがたまらないように最低限の気遣いをする。そして求められた時だけアドバイスをする程度でいいのではないだろうか。

親があまり神経質になっていても、いいことはない。
受験をする子供のみならず、親もまたしっかりとおいしい物を食べ、よく眠り、楽しく過ごしていればいいのだと思う。

努力が実ることもあれば、非情にも報われないこともある。人生とはそんなものだ。
受験で人生が変わることはあるかもしれないけれど、悪い方へ転がるとも限らない。それはまた本人の生き方次第なのだろうと思う。
とって大切な日ではあるけれど、長い人生の中ではその一幕にほかならないのだ。
そんなおおらかな気持ちで、受験という一幕を乗り切って欲しいと、我が子の受験を思い出しながら思ったのであった。