In other words

I really don't know life at all ...

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届いた郵便物はどんなものでも着いたらすぐに開封して確認すべきと思った件。

少し前のこと。
終日外出して帰宅すると、いつものように郵便受けには封書やハガキ、チラシがたくさん入っていた。
チラシの類は近所にあるエステやスポーツジム、不動産関連のものがほとんどで、たまにインターナショナル幼稚園の案内やネットスーパーの割引案内なども混じっていたりする。そんなチラシをまとめて資源ごみ用の紙袋に収めたあと、残った手紙類の差出人を軽くチェックする。

いつも銀行や保険会社からのDMや、会員になっている商業施設やブティックからの案内ハガキがほとんどなので、急いで目を通す必要はない。暇な時にでも一応目を通せばいいだろうと思っていた。

つい最近もそんな風にして、届いた封書をまとめてダイニングテーブルに置いておいた。
3日後くらいになり、終日在宅でたっぷり時間もあったので、ようやく一通一通を開いてみた。
ほとんどは詳しく読むまでもなく、必要なしと破棄する類のものだったのだけれど、銀行からの封書を開いてみたとき、ちょっとドキリとした。

「ローンのご案内」のようなDMだと思いこんでいたそれは、クレジットカードが不正に使われる可能性があるという注意喚起の連絡だった。

問題のクレジットカードは、かれこれ30年以上も前に銀行口座を開設するのと同時に作ったものだった。
そのためカード会社からではなく、銀行経由で封書が届いたようだ。
私は現在、他社のクレジットカードをメインに使用しているので、そのカードはほとんど使っていない。その代わりに夫と子供達に家族カードを発行して使わせている。

クレジットカード会社では、不正利用を未然に防止するため、あらゆるシステムで網を張り、少しでもイレギュラーな動きがあれば、すぐに対処して不正利用を阻止しているというようなことが書面には書かれていた。

そして今回、私名義のクレジットカード、正確には長女に使わせているカードから不正利用される可能性が検知されたということだった。

銀行からの手紙には、現在使用中のクレジットカード番号の変更を推奨すると書かれていて、その同意書が同封されていた。

長女は毎月ネットで何十万もお買い物をし、海外通販を利用することも多い。あれだけの頻度でショッピングを繰り返していれば、それだけリスクも高くなるのは想像に難くない。

長女にはすぐ事情を説明し、当該カードの使用をストップするように連絡をした。
そして銀行が送ってきたカード再発行の同意書に記入して返送したのだった。



今はクレジットカードをはじめ、ほとんどの支払いはキャッシュレスになっている。
先日もタクシーに乗った際、支払いに現金を差し出すと、運転手さんから「珍しいですね」と言われた。
そんなに現金支払いする人が少ないのかと少し意外に思い尋ねたところ、「今日はほぼ9割の方がキャッシュレスでしたよ」と。
知らなかった。。。海外ならいざ知らず、日本国内においてもそれほどキャッシュレス化が進んでいようとは。

実を言えば、私も以前はほとんど支払いにクレジットカードを使用していた。
その方が楽であるし、ポイントやマイルも貯まるのでお得だと思っていたのだ。

しかし昨年から現金支払いをメインにするようになった。
そのきっかけは、限度額オーバーで使用できなくなった経験をしたからである。
その辺りの経緯は以前、サブブログに書いたのだけれど、夫と長女が家族カードを使いまくった挙句、2枚のクレジットカードが限度額をオーバーしたのだ。
これにはかなり怒り心頭であったのだけれど、その際に仕方がないのですべて現金支払いをするようになった。

そこで気づいたのが、クレジットカードよりも現金支払いをしていた方が、無駄遣いが少なく、支出が減るということだったのだ。

金離れがいい割にはケチンボという、バンバン使うけれど、後から「もったいなかった。無駄をしたな」などど考えるような人間なので、自然と無駄が省けたことで大層気をよくしたのだった。

以来、実店舗でのお買い物は百貨店でもスーパーでもコンビニでも、また飲食店やお菓子屋さん、タクシーなどもすべて現金で支払いをするようにしている。

さすがに3万円以上の支払いとなると、ポイントも大きくなるので惜しい。なによりも元々お財布にはそれくらいしか入れていないので、すべて遣ってしまっては心許ないとカードを使用する。
そしてネットでのお買い物は、わざわざコンビニや銀行へ振り込みに行くのも面倒なので、こちらはクレジット決済にしている。

現金主義でもクレジットカードは必要不可欠ということだ。

そんなクレジットカードをどこぞの誰とわからぬ輩に不正利用されるなど、あってはならないことだ。
まだされてはいないけれど、考えただけで腹立たしい。



銀行もクレジットカード会社も、よくぞことが起こる前に防止策を提案してくれたもだと感心する。
ちなみに、クレジットカードを再発行して不正利用を未然に防止するという今回のお知らせは、あくまでも推奨ということで、今のカードのままで問題なしと思えばそのまま継続してカードを使用できるというものであった。

しかし「あなたのクレジットカードが不正に利用される可能性を探知しました!」と言われて、「いやいや、そんなの平気でしょ?」と思える人が果たしているのだろうか。。。

私はそのような「可能性」を考えただけでも、「どうしてそんな悪いことするのよ!」とイライラする。
楽して美味しい思いをしようだなんて、人生そんなに甘くない。因果応報、天罰がくだるわよ!などと勝手に怒りをたぎらせる。
無駄なストレスだと思うけれど(笑)

可能性だけでそれほど怒るくらいなので、この銀行からのお知らせを3日も放置してしまったことが悔やまれるのだ。

仮にその3日間の間に、どこかに潜んでいる悪い輩が事を起こしているかもと想像するだけで、さらに口惜しさ倍増だ。

今のところ、そんな兆候もお知らせもないけれど、とにかく一日も早く対処すべきであったと後悔している。

「今できることは、今やるべき」
そんな言葉に、私はよくふざけて「明日でいいことは明日やればいい」と言っていた。少し冗談めかして言っているけれど実は本心だ。
明日でいいものをなぜ慌ててやる必要がある?
「今できるけど、明日でもいいなら明日やればいいでしょ」といった具合だ。

本心ではあるけれど、本当は「今できることは今やる」方がいいのはわかっているのだ。
一寸先は闇というように、明日やるつもりでも出来る保証はない。だからこそ「今できることは今」なのだ。それをあえて「明日でいいことは」と言うのは、ただ単に面倒くさいから。それだけの理由だ。

とにかく面倒なこと混み合ったことが嫌いなものだから、なんでもかんでも簡単、シンプルを求める。
それはいいこともあるけれど、悪いことも同じようにあるのだ。
今回も「手紙など別に、いま目を通さずとも困りはしない」と放置していたけれど、蓋を開けてみれば(封を切ってみれば)、すぐにやればよかったという案件であった。

生活の全てを「今できることは今!」とばかりにストイックにはなれない。本来の面倒くさがり屋という性分がそれを許さないのだ。
しかし、今回のようにそれが原因で不正利用されようものなら、悔しさで夜も眠れなくなることだろう。
私は面倒くさがり屋以上に悔しがり屋なのだ。
悔しい思いをしてストレスを溜めるくらいなら、面倒でも少し気をつけようと思う。

幾つになっても日々学びだ。人によってその学びがいつ訪れるかはまちまちなのだろうけれど、私は人生半ばを過ぎて多くの学びが訪れているようだ。。。

届いた封書にはすぐ目を通す。

努力を怠らず頑張ってみよう。

diary.hw-frankie.com

成人した娘の同級生のママがベビーカーを押していたことに驚愕した理由。

買い物へ行った帰り道、次女が小学生だった頃のクラスメートのお母様とバッタリ出くわした。

そのお母様、ベビーカーに小さな子供を乗せていた。お孫さんかしら?と思ったものの、お嬢さんは成人したばかり。ベビーカーの中の子は2歳くらいだろうか。ずいぶん早くに結婚、出産したのだなと思っていたら、違っていた。。。
聞けば、その子はお孫さんではなく、彼女自身のお子さんだという。

私よりもかなり若いお母様だけれど、40代半ばは過ぎているはずだ。
今は高齢出産も珍しくないので、驚くようなことではないけれど、そのお母様の場合はすでに二人の子育てをようやく終えたところなのだ。
二人の子供を育て上げたあと、さらにもう一度同じことをする気概に、私はなによりも驚いてしまったのである。

子育てはなかなか楽しいものであったし、産み育てて本当によかったとは思うけれど、私はもう二度と同じことはしたくない。それほど出産と子育ては大変だった。

私も30代で二人の子持ちとなった。20年以上も子供、子供の生活をしたのち、今は二人とも成人した。ようやく私はその責任から解放されたのだ。
子育てから卒業できたと思った時の解放感といったら、筆舌に尽くしがたい。。。重たい足枷が外れて自由になったことを感じたものだ。

「足枷」とはかなりネガティブな表現で適当ではないかもしれない。自分が望んだ子供なのだから、そのような言葉を使うべきではないのかもしれないけれど、常に自分の身体に二つのコブをくっつけていると思うとそんな表現になってしまう。
とりわけ子供達が小さな頃は、食事をするのもお風呂に入るのも、買い物へ行くのも、とにかく両脇に子供を抱えて暮らしていた。
ようやく手が離れたと思ったら、今度は教育費という重たい荷物を背負うことになる。
そんなことを20年以上も続けるのだ。理屈ではなく、子育てとはそれほど長く大変なことなのだ。



いまは、少子化による子育て支援が度々話題になる。
SNSなどにアップされる呟きを見ると、悲痛な言葉ばかりが目に入る。
自身の子育てしていた時代はどうであったか思い出してみると、政権交代により子供手当だか児童手当だか名前は変わるは、その額も増えたり減ったり、扶養控除も途中からなくなったり、変化の激しい時期であった。
高校無償化などがようやく実施されたものの、所得制限にかかり恩恵なしと、納税した額を考えると、働き損だと思ったものだ。
当時はかなり不満に思っていたけれど、SNS世代ではなかったせいか、ママ友ランチの席で軽く話題に登る程度だったと記憶している。
最初からお国からの援助など期待していなかったのだ。

それでもまだ、今ほど経済が冷え切っていたわけではなかったので、働けばお金は入ってくると希望が持てた時代でもあった。

少し前に昨年1年間の家計簿の集計をしたのだけれど、1年間の教育費が二人で350万ほどかかっていて大層驚いたものだった。

二人とも大学生で、長女は私立の文系なので理系に比べればまだ学費は高くはないのだろう。次女は国立なのでかなり学費は軽減されるのだけれど、入学金やその他諸々の納入金が嵩み、そんな額になったのだ。

周りのお友達などに尋ねてみれば、これは決して高額ではないという。
それこそ私立の理系などに子供二人通わせると考えたら、どれほどになったことか。さらには医学部などになったら、もはや普通のサラリーマン家庭では到底払える額ではなくなる。

今の若い子育て世代の方が、共働きで頑張るのも当然だ。給料が上がらないだけでなく、物価は上がる一方。子供がまだ小さな頃はいいけれど、中学、高校、大学と学費は桁外れに増えていく。
公立校を選択すればいいとか、高校無償化があるという声もあるけれど、それが無理なケースだってあるのだ。

例えば、子供自身、学びたいことが明確で、その分野に特化した私立校を希望する場合は親心としてなんとかいきたい学校へ行かせてあげたいと思う。
高校無償化に関しても、所得制限ありきなので、親が頑張れば頑張るほど蚊帳の外に置かれることになる。つまり学費全額自腹ということだ。

自分が望んで産み育てている子供なのだから、夫婦2人の力で育てよう!と、夫とは励まし合ったものだけれど、受けられるものであればどんなに助かっただろうかと、今でも思う。

世の中の親は誰もがこのように大変な思いをして子育てしてきたのだと思う。「親になる」ことが自分の選択とはいえ、これほど茨の道とは。

このようなことを言うと少子化を加速させそうだ。。。
大変なだけでなく、それを上回る喜びもあると、付け加えておくことにしよう。
子供達のおかげで、夫は「稼ぐぞ!」と力をもらえた。そのおかげで家族は何不自由なく暮らすことができた。
なにより無条件に可愛い自分の子供達がいつもそばにいてくれることで、暮らしが幸せに彩られたことは間違いない。
どんな茨の道でも、それを薙ぎ倒してでも進む力を与えてくれるのが子供達の存在だったのだ。



そんな子育てももうすぐ終わる。
学費は次女1人分払えばいいので学費だけなら年間60万程度で済む。これまで毎年、何百万単位と支払い続けてきた学費という怪物ももはや虫の息だ。
長女はもう自立をしているし、次女も得意分野を活かし、バイトで好きなものを買ったり遊んだりするくらいの収入はある。
もう、子供にはお金がかからないのだ。

先日、久しぶりに家族旅行へ出かけた時、夫と次なる人生をどう過ごしていくかを話し合った。
夫はまだ50代なので、これからもまだまだ働く気満々なのだけれど、これまで子供達のために費やした時間とお金を、今度は自分たちの人生をより充実させることに遣おうと、珍しく意見が一致した(笑)

住む家も暮らしもギュッと縮小して、日々質素にこじんまりと、そして年に何回かは旅行へ行き、新しい体験を楽しみながらゆったりと暮らそうということだ。

第二の人生を具体的に考える年齢になったとき、偶然にも小さな子供を連れた件のママに会ったものだから、とにかく驚いてしまったのだ。

その同級生ママのご家庭は、かなり裕福なので子供一人増えたくらいでは、学費が大変だのどうのと、私のように大騒ぎする必要はない。
ただ、どんなにお金があったとしても、私は二度と繰り返したくはない。

私が一番欲しいのは、お金よりも自由なのだ。
自分も歳をとり、身体も当然若い頃と同じではない。子育てにあくせくする体力はとうに失われている。
なによりも自分中心の気ままな暮らしを捨てようとは思わない。

ようやく自由の身になったのだ。起きるのも寝るのも、食べるのも、どこかへふらりと出かけるのも、全て自由なのだ。
まるで独身の時のように、自分の気持ちの赴くままに暮らせる今を、どうして手放せようものか!

私の周りの友人達はみんな同じような考えの人ばかりだけれど、ひょっとしたら、「子供の手が離れて寂しい。もう一度子育てをしてみたい」と思う人もいるかもしれない。
もしかしたら、その同級生ママもそんな感じなのだろうか。。。そう思ったら、少し事情は違っていたようだ。

娘に聞いてみたところ、なんとその同級生ママは離婚したのちに、20歳近く若い男性と再婚したそうな。。。
そんなに若い男性と結婚、出産というのも驚きだけれど、なによりも「また他人の下着を洗濯する生活に戻るのか⁉︎」と、その方が驚きだった。
もしも私が一人になったとしたら、もう二度と結婚はしたくない。妻の役割も母の役割も一度卒業したら終わりだ。

結婚生活は一生に一度経験すれば、私にとってはそれで十分だと思っている。
夫といえど他人だ。他人と暮らすことは、よいこともあるけれど、大変なこともある。
特に私は外国人と結婚したため、そう思うのかもしれないけれど。。。

人それぞれ、幾つになっても違うものだなと思った。似たような経験をしても、その捉え方は千差万別ということなのだろう。

人様の選択にとやかく言うつもりも権利もない。ただ、20年以上に渡る子育てを思い返すと、「あの日々を再び⁉︎」と、ただただ驚愕したのだった。


50過ぎたらとにかく髪とメイク!ユーミン苗場プリンスでの発見。

先日のこと、毎年苗場プリンスホテルで開催されている松任谷由美さんことユーミンのコンサートに出かけた。

このコンサートには30数年前の若かりし頃に何度か足を運んだことがあった。当時はバブル期で「私をスキーに連れてって」と、多くの若者が週末にスキーへ行っていたような時代だ。
私も例に漏れず、友人に誘われては新潟へ足を運んだものだった。
そんな時、やはりお友達から「苗場プリンスでユーミンのコンサートがあるから、スキーの後に行かない?」とお誘いがあった。宿泊も苗場プリンスでスキーをした後に食事をして、その後にそのままコンサートを観に行けるというのでついて行くことにした。

これがすごく楽しく、その後何度かお誘いされるままに苗場で楽しい時間を過ごしたのだった。
青春の一ページである。

昨年、長女とブルーノ・マーズのライブを観るため、わざわざ大阪まで遠征した際、そんな若かりし頃の楽しかった思い出話をした。

「ホテルの部屋の窓からゲレンデでナイトスキーを楽しむ人達を眺めながら一杯呑んで、まるでユーミンの歌の歌詞みたいな光景を楽しむの。そして夜9時ごろからほろ酔い気分でコンサートに行って、日付が変わる頃まではしゃいで、祭りの後にまたしんと静まり返った夜のゲレンデを見ながら夢の一夜を見送る。。。そんな素敵な時間だったわ」

遠く彼方へ過ぎ去った青春の美しかった記憶を脳裏に浮かべながら、こんこんと思い出を語る私。視線はもはや目の前の娘を素通りし、心の中に残る静かな幻に向けられていた。。。
気持ちが悪いほどおセンチだ。

視線は定まらず、心は大阪リーガロイヤルホテルではなく、苗場プリンスへと飛んでいた。
三十数年もの時間を遡り、20代に戻っていた私が怖くなったのか、娘が「大丈夫?どこ見てるの?」と、私を今に引き戻したのだった。


そんな私の思い出話に興味を持ったのか、一人で行かせるには危ないと思われたのか、「楽しそう!それならチケット応募してみない?」ということになった。

コアなファンの間ではプラチナチケットとされている人気のコンサートで、チケットの当落などがその界隈では話題になる。
古参のファンには申し訳ないけれど、「懐かしい。何十年ぶりにあの苗場に行ってみようか」そんな軽い気持ちで応募してみたところ、運良く当選したため長女と連れ立って苗場へ行ったというわけだ。



そして当日、懐かしの苗場プリンスに上陸した私達。

足を踏み入れた途端、ギョッとした。
ここ数年、長女と連れ立って色々なライブに行くのだけれど、ここだけは様子が違っていた。
人のことは言えないけれど、お年を召した方の集まりで、とてもコンサートが行われる会場という雰囲気ではなかったのだ。

私も髪の半分は白髪ではないのか?というくらいのおばさんになった。白髪染をせずにメイクをしなかったら、見られたものではない。

そんな私よりも10歳は歳上と思われるような人々の集いだ。20代の長女は驚きよりも苦笑。。。

よくよく考えてみれば、ユーミンも69歳になるのだ。ファン層もそれなりに高年齢化しているのは当然のことで、驚くようなことではない。
実際に自分だって、十分に歳をとっているではないか。。。

雑誌などで「歳を重ねることは素敵なこと」という一文をよく見かけるのだけれど、私は心底そう思えない。
確かに50代になり、楽になったことはたくさんある。若い頃に悩んでいたようなことも「なんであんなことに苦悩していたのかしら?」と物事をおおらかに捉えられるようになった。
しかし、それすらも自分に対する期待がなくなった。また様々なことに対してようやく諦めがつき、執着から離れることができたからなのである。
何をどう美しく繕おうが、若さとは素晴らしいものなのだという気持ちは変わらない。

容姿にしても然りだ。どんなに肌のお手入れに時間をかけようが、お高い美容液を使おうが、頻繁に美容院へ足を運ぼうが、そこには限界がある。
私には20代前半の娘が二人いるので、日々その美しいばかりの若さを見せつけられているものだから、余計にそう感じる。
すっぴんでも白く輝く肌、ヘアーオイルなど塗らずとも艶々と光る豊かな髪。
これは若さあってのものなのだ。

20代のようになどとは望まないけれど、せめて実年齢よりも少しだけ若く見えたら嬉しいとあれこれ試行錯誤し、「これくらいなら上出来よね」などと内心思っていた。
ところが、苗場プリンスのロビーに立った瞬間、そんな自己満足がガタガタと音を立てて崩れたのだ。



客観的に見れば、私もその一員なのだ。50を過ぎて肌はシミ、シワ、たるみ、くすみの大合唱。おまけに更年期太りと食べ過ぎで崩れ始めた体型。。。
あの白魚のようだった手は、へバーデン結節のような形が見え始め、どんなに高価なハンドクリームをつけてもカサカサを止めることができない。

「私はここいるみんなと同じ、もうお婆ちゃんだ。。。」

そんな事実を改めて突きつけられた瞬間であった。

何事も口にせずにはいられない性格だ。一緒にいた長女に思わずボヤキを放つ。

「年寄りばっかり!って思ったけど、私も同じなのよね。全然美しくないよね。なんだか切なくなったわ。。。」

慰めなのか、面倒だったのか、長女は「まだまだ大丈夫だから」と励ましてくれた。
それでも、まだグズグズと同じことを繰り返す私に、彼女なりの見解を述べたのだった。

「マミー!髪とメイクだよ。白髪のない艶感のある髪をセットして、肌のアラを隠すメイクをすれば、とりあえず小綺麗なマダムに見えるから」

ロビーのデスクで私がチェックインをしている間、長女は周りの人達を観察していたという。

長女はビューティーオタクゆえ、メイクや髪型、服装とその傾向を探るため、ロビーを見渡していたのだ。
周りを全く見ない私とは大違いだ。。。

長女曰く、素敵なマダムも何人か見かけたという。そしてそんな人には共通点があると。

「みんな髪をきちんとケアしてセットしてきている。メイクも厚化粧に見えない程度に、しっかりと粗を隠し、細部は光で飛ばしたり、かなり工夫している。それから服装。シンプルな明るい服を着ている人がほとんどだった」

なるほど。。。

そんな長女の言葉を聞きながら、ふとホテルの部屋を見渡した。

苗場プリンスホテルの開業は1962年。かれこれ60年以上も前ということになる。人間で言えば還暦を過ぎた年なのだ。
訪れる前までは、年月が経っているのでかなり老朽化しているではないかと想像していた。
しかし実際に訪れてみると、30数年前とあまり変わっていないように思えた。

アーチ型の入口や小さな洗面台、水道も上から押して水を出すタイプと、お部屋は作りこそ古いけれど、全体を見渡すととてもきれいだった。白い壁紙は変色もなくはげてもいない。

これはまさにメンテナンスの勝利なのであろう。



やはりメンテナンスだ。。。

これだ!建物も人間も同じなのである。
どんなに経年劣化が進もうが、劣化をメンテナンスによって隠せば、きれいに保たれるのもなのだ。逆にメンテナンスなくしては老朽化へ真っ逆さまなのである。

ここで少し明るい気分になった。
歳をとるというのは、誰もが通る道で、決して避けることはできない。
避けることはできないけれど、繕うことはできるものなのだ。

そして、歳をとるということは、なにも外見のことばかりではない。
精神的にも若い頃とは大いに違う。
私も中年になってから、未来への希望や可能性に邁進していこうという気力はなくなった。
希望なくお先真っ暗ということではなく、これからなにか新しいことを創造していこうという気持ちが起きず、とにかく安穏とこのまま平穏にと、現状維持に気持ちが大きく傾いてきたのだ。

50代は転機の時でもある。仕事をしている人はわからないけれど、私のようにずっと専業主婦でいたような人間は子育てを終え、また新しいライフスタイルを構築していかなければいけない時期だ。
そこをうまく対応できないと、空の巣症候群になったりするのだろう。

しかしバブル世代の人間というのは、どこかお祭り騒ぎが身体に染み付いて抜けないところがある。
昔の人のように、老後はおこたつに入ってみかんを食べながらテレビを楽しむでは満足いかない世代だ。

今回、苗場プリンスのレストランで隣り合ったり、エレベーターで一緒になったりした際に、少しだけ他のご婦人方とお話をさせて頂いた。
みなさん、チケットが手に入る限り、毎年のように苗場に足を運んでいるそうだ。それだけにとどまらず、全国ツアーを追いかけ、ユーミンのみならず好きなアーティストを追いかけているという方もいた。

これには長女が「すごい推し活ですね」と口を挟んだくらいだ。
推し活という言葉は、若者だけのものでないのだ。

子育てを卒業したとは言え、更年期や人によっては介護問題、そして老後の不安など、明るいことばかりではない年代だ。
それでも、様々なことに折り合いをつけながら、自分を喜ばせてあげようという健気な中年おばさんやおじさん。

歳をとってもなお、コンサートに足を運び、飛んだり跳ねたり踊ったり、倒れたり、それができるのは、喜ぶべきことなのだと思う。

たとえコンサートの後に足腰が痛くなろうが、そんなことは承知の上よ!と後先考えずにはしゃげるのは、ほんの少しだけ残った若さの残りなのかもしれないけれど、それでも今の自分が幸せだと感じられることは誠に尊い

他人事のように書いているけれど、私もまたその中の一人なのだ。
「推し活」こそしないけれど、あちこち旅行に出かけたり、好きなお菓子を求めて歩き回ったり、お友達と美味しいものを食べたり、こんなふうにブログを書いたりと、楽しめることはたくさんある。

髪とメイクに気を配り、少しでも小綺麗でいる努力を怠らず、自分の好きなことをしていこう!と改めて考えた苗場プリンスでの一夜だった。