In other words

I really don't know life at all ...

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子離れ、親離れは最初の一歩が難しい。ある親子の話で考えたこと。

先日、久しぶりに長女の小学校時代にお付き合いのあった母様から連絡があった。仮にMさんとしておこう。
特に用事があったということではなく、「ふと、あなたのことを思い出してね」と、連絡してきたそうだ。

Mさんは、おそらく私よりも一回り以上も年上で、40過ぎてから産んだ一人息子を、それはそれは溺愛していた。
子供同士の喧嘩にも、子供を差し置いて出てくるものだから、他のお母様方からの評判はすこぶる悪かった。

海外暮らしが長ったとかで、いわゆる欧米礼賛といった思想を持った方だったので、外国の血が入っているミックスの我が子たちがいたくお気に入りだった。

周りのお母様方からは、「あの方とお付き合いしない方がいいわよ」などと忠告という、余計なお世話を焼いていただいていたけれど、私に対してはいつも礼儀正しく、とても親切だったので、気にすることなく、誘われればランチもご一緒した。

Mさん自身も自分が人から何を言われているのか知っていた。周りの方々から一線を敷かれ、陰口を叩かれるのも知った上で、私が普通にお付き合いをしていたためか、「やはり外国の方は違うわね」と、日本人の私に向かって、よく言っていたものだった。

夫は日本人ではないけれど、私はどこをどう切り取っても日本人だ。
周りのことを気にしないのは、私が「外国人みたい」だからなのではなく、単にそんな性格なだけなのである。

どれほど評判の悪い人だろうが、その人が自分にとって良い人であると思えば、遠ざける必要もない。
誰とお付き合いするかは、自分で決める。そう思っていただけなのだけれど、Mさんの中ではそれが「外国人」と写ってしまったようなのだ。
勘違いも甚だしいと、何度も「私は大和撫子よ」と言ったが、受け入れてはもらえなかった。
大和撫子」などと言ったのが失敗だったと、今では反省している。素直に「日本人」だと言えばよかった。。。



電話では相変わらず溺愛する一人息子の話題でいっぱいだった。いわゆる近況報告だ。

Mさんはシングルマザーではあったけれど、ご自身でビジネスやっていたため、かなりの資産家のようだった。
いつも日替わりでカラフルなバーキンを腕に引っ掛けて現れ、指には大きな立て爪のダイヤがギラギラと光っていた。
予約してくれるランチのお店も、一元さんでは敷居が高いようなお店ばかりで、料理長や支配人がご挨拶に来ていた。
想像するにビジネスでも使っているお店なのだろう。

人脈もかなりあるようで、溺愛する一人息子の進路も常に自分のコネをフル稼働して決めていた。
しかし、なにぶんエキセントリックな性格なものだから、あちこちで衝突しては、息子の進路にさえもよくない影響を与えていた。

Mさんにとっては、それが息子を守るという正義だったのだけれど、側から見ると「おとなしくしていればいいのに」と思い、時には「Mさん、やり過ぎよ」などと口出ししたこともあった。
困惑している息子さんが、不憫に思えたからだった。
しかし、人の言うことなど素直に聞くようなおばさんではない。

子供達が小学校を卒業したのを機に疎遠になっていたけれど、何年経ってもMさんは相変わらずのようだった。

当時は自分のコネで某外資系企業に就職させるつもりだと言っていたけれど、その話は立ち消えになったようだった。きっとまた大騒ぎして拗らせたのだろう。
結局、大学を卒業した息子さんは定職にはついていない。

大学を卒業した歳といえば22歳になる。
我が家の長女はすでに家を出て一人で暮らしている。そんな年齢だ。

しかし今でもMさんは、都心の高級マンションで溺愛する息子さんと仲良く暮らしている。
それだけなら、まだわかるのだけれど、未だに小学生の頃と同じように、どこへ行くにも息子に付き添っているというから驚きだ。

聞いたところによると、Mさんはすでに自分のビジネスは人に任せ、事実上引退し、株などをやりながら悠々自適に暮らしているという。
つまりは、時間だけはたっぷりあるということだ。
元々、「息子命」で生きてきた方なので、今は思う存分に息子に寄り添っていられると言うわけだ。



話を聞いていると、コネで働き始めたものの、相変わらずMさんが「息子を蔑ろにするのか⁉︎」「条件が悪すぎる!」「息子を過小評価するな!」と、大暴れし、すでに幾つもの会社を後にしているそうだ。

働かずとも人並み以上の生活ができるのだから、問題はないのだろうけれど、聞いているだけで他人事ながら息子さんはどうなってしまうのだろうかと思う。

親はいつか子供を手放さなければいけない時がくる。
自分から手放さずとも、子供の方から親の元を離れていくものだ。

親の役割とは、子供が自分の元を巣立った後も、しっかりと生活していけるように育てることなのだと思っている。
順番から言えば、親が亡き後も子供は生きていかなければいけないのだから、自分がいなくても一人で暮らしていける力をつけておいてあげなければいけない。

そのためには、ある年齢になったら、ポンと子供から離れるべきなのだ。

もちろん、それには勇気がいる。子供が幾つになっても、親は子供のことが心配になるものだ。
私も、長女が自立したとはいえ、何かあればすぐに心配で駆けつけてしまうから、Mさんの気持ちもよくわかる。

しかし、どう考えてもMさんは度を越しているように見えるのだ。
とうに成人した息子に常に付き添い、息子に不利益があろうものなら、先頭きって戦うのだ。本来ならそれは本人のやることなのに、その機会を一切与えない。

そのバイタリティに驚き、還暦をとうの昔に過ぎた歳でさえも、それほどの元気があることを羨ましく思うほど、Mさんは変わらない。

「そろそろ自立させたら?」

老婆心ながら、私よりも老婆に近いMさんに言ってみた。

しかしMさんは、相変わらず人の話は聞かない。

「もうね、みんながうちの子を僻んで嫌がらせをしてくるの。私が守らなくてどうするの!」

「Mさんが守らなくても、自分で自分のことは守れるわよ」

そう言ってみたけれど、ダメなようだった。

Mさんにとって、息子は3歳の頃と変わらないのだ。
そう思って、その話題は早々に切り上げた。人のお宅のことに口出しをしたところで、双方になんのメリットもない。



よくよく考えてみれば、人間関係とは親子の間でも当然のことながら双方向性である。
たとえ母親が離れようとしなくても、息子の方がそれを望めば、母の思い通りにはならない。

Mさん親子がいまだに変わらないのは、息子自身もMさんの庇護の下にいることを望んでいるということなのかもしれない。
仮に望んでいないとしても、ずっと息子命で、常に我が子の盾となり、全てを注いできた母を無碍にできないのかもしれない。
他人のことなので、その心中はわからないけれど、いつかは離れなければいけない時がくる。

それはすべての人に言えることで、命に永遠はないからだ。

「私たちももう若くはないし、自分たちが亡き後の子供達のことを考えるべきじゃない?」

その言葉にだけは「そうよね」と、少しだけMさんに響いたようだった。
いつも勢いのいいMさんが、受話器の向こうでシュッと縮むのを感じた。

「それに、そのうちMさんよりも大切な人ができちゃうかもしれないわよ!」

冗談めかして言った一言に、Mさんは本来の勢いを途端に取り戻した。

「そうね。でもそれもお相手次第よ。日本の娘は絶対にダメ。金髪の美しい娘だったら許すわ」

。。。。。

相変わらずである。。。

息子の嫁選びにさえ、前線で参戦する気満々のMさん。子離れは一生できそうにない。。。

しかし、元々喜怒哀楽が激しく、自分の信じる道を突き進んで行くような人だ。
ひょっとして、子離れの最初の一歩さえ踏み出せれば、別の道へ邁進することも考えられる。

その一歩を踏み出すには、やはりMさん自身が自分で動くしかない。なんせ他人の言うことは一切聞かない人だから。

「あら、息子から電話だわ。またそのうちね!」

突然電話をしてきたのと同じように、Mさんは一方的に話を切り上げて電話を切った。

やれやれである。。。
とはいえ、嫌な電話ではなかった。
少なからず私のことを思い出し、「お元気?」と連絡をしてくれたのだ。
Mさんも相変わらずお元気で、それは私も嬉しかった。
それほど深い繋がりはなかったにしろ、人生のほんの一幕、同じ時間を過ごした人だ。
袖触り合うも多生の縁。そんなご縁を再び繋ごうと電話をしてくれたことに感謝したい。

10年後、20年後、Mさん親子がどうなっているか、少し興味深い。
同じ街で暮らしているので、バッタリ会うこともあるかもしれない。

いずれにしても、Mさん自身の人生だ。他人にとってそれが誤りであると思っても、Mさん親子がそれで幸せなら、それでいいのだと思う。

こうでなればいけない。こうしなければいけない。そんな風にがんじがらめになって生きるよりはよほど自由だ。
その結果、どうなろうとも、自分で選んだ人生だったら、その責任も自分で取ればいいだけだ。

私がヤキモキと心配せずとも、Mさんには潤沢な財産がある。
お金がすべてではないけれど、世の中の問題のほとんどはお金で解決できるのが現実だ。
そう考えると、Mさん親子のことを心配する暇があれば、自分の老後の心配をしていなさい!
そう自分に言ってあげたくなったのだった(笑)


マスク解禁になっても、私がマスクをし続ける理由。

マスク解禁となってからずいぶん経った。さすがに街を歩いていると、以前に比べてマスクを外している人が目につくようになったので、きっと公にマスクなしでOKとなるのを待っていた人がたくさんいたのだろう。

とはいえ比率から言えば、依然としてマスク着用を継続している人の方が、圧倒的に多いように感じる。
花粉の飛び交う季節なので、コロナ云々ではなく別の理由でマスクを着用している人も少なくなのだろう。

私もその一人だ。

正直、マスク解禁前から、義務ではないのだしするもしないも本人の自由ではないのかしらね?と思っていた。
マスクをしていない人が、近くで咳き込んでいたりすると、さすがに気にはなったりしたけれど、そんな時でも自分がそっとその場から離れれば済むと思っていた。

私には新型コロナに感染したらリスクとなり得るような持病もあったりするのだけれど、だからといってマスクをしていない人に「けしからん!」などとは思ったことはない。
他人のすることに対しては、いつでも極力無関心でいたいし、実際に無関心なのだ。

自分にとって害となるのなら、自分が離れればいいだけだ。人を自分の思い通りに動かすよりも、自分が動いた方が事はずっと簡単で、それを当たり前とすることで余計なストレスからは確実に解放される。



新型コロナの蔓延から早いもので3年。その間は外出するたびにマスクをつけていたけれど、それを苦痛だと思ったことはない。
むしろ私にとっては好都合なことばかりではないかと思っているくらいだ。

若くて綺麗なお嬢さん方やイケメン男子からしたら、マスクで顔の半分が隠れるのは望ましいことではないと思うのだけれど、50代になり肌の衰えが顕著に見られるようになった身としては、マスクは粗を隠す格好の神アイテムとなっている。

さすがに目尻のシワは隠せないものの、頬のシミやたるみ、ほうれい線など、根こそぎ真っ白なマスクで覆ってしまえるのだ。白いマスクはまるで反射板のようにわずかに出ている肌を明るくしてくれる。


それだけではない、化粧をしなくても外出しやすくなった。
近所のスーパーやコンビニへ行く際も、友人知人にバッタリと出会う可能性が大なので、身だしなみには多少なりとも気を遣ってきた。
しかしマスクの登場でそこまで気を遣わず済むようになったのだ。なんと言っても顔の半分が隠れているのだ。

知り合いに会ってもニッコリとマスクから見える目だけを、思い切り蒲鉾のように細め、微笑んで見せればそれでOKだ。
肌のくすみも露わになることはないのだから。
それでも気になる時は、マスクにサングラスでもしてしまえば、もはや誰も私だと気づきはしない。
コロナ禍以前であったら、有名人でもない人間がそんな格好をしていたら、ジロジロと奇異な視線を投げられたものだけれど、コロナ禍では誰もがそんな有名人特許スタイルで街を闊歩できるようになったのだ。

そんな訳で、マスク解禁でほとんどの人が「やっとか」と喜んだのだと思うけれど、私は少し複雑な思いだった。

今はまだ花粉の季節なので、マスクをしている人も多くいると思うのだけれど、きっと夏がやってくる頃には、多くの人が一斉にマスクを外すのではないかと予想している。

マスク着用がマイノリティになれば、海外のように今度は「あの人、なにか病気なのかしら?」といった目で見られるようになるだろう。
見ず知らずの人からどう思われてもいいのだけれど、友人知人などから「大丈夫?どこか悪いのかしら?」などと、いちいち言われるのを想像すると、かなり面倒な気持ちになるのだ。

そう考えると、この神アイテムをいつかは手放すことになるのだろうなと覚悟はしている。



マスク解禁に憂いを感じながらも、逆に「これは良かった」と思うこともある。

マスクは好きだけれど、最近は長時間していると肌の調子が悪くなることに気づいたのだ。
私は仕事もしていないので、家にいる時間が長い分、マスクを長時間することは稀だ。
しかし、今年になってから旅先で一日中マスクをしていたら、蕁麻疹ができたり肌が荒れたりするようになった。
最初は旅の疲れかと思ったのだけれど、東京に帰り日常生活に戻ると改善、そしてまた旅に出ると同じように肌が荒れるということを繰り返した。
そこで思い当たったのがマスクだったのだ。

他にもまだある。
私はカフェでトイレに行く時や飲食店で食事をした後に、よくマスクをし忘れてしまう。
一緒にいる人から、「マスク!」と言われるまで気づかずノーマスクで歩き、人からジロジロと視線を送られるといったことがよくあった。
自分ではかなり意識しているつもりだったけれど、マスクが好きな割には重要視していなかったのだろう。

マスク解禁となったいま、その点は気にしなくていいので便利になったなと思う。

ノーマスクの利点もそれなりに感じてはいるけれど、やはり老化を隠す神アイテムとしてのマスクは捨て難い。
一生とは言わないけれど、せめてもう少しだけ、自分の老化、劣化に完全に諦めがつくまでは、マスクをしていたい。

いまだに東京都はLINEなどで、毎日の新型コロナ感染者数などをお知らせしてくれるけれど、社会の雰囲気からいえば風前の灯といってもいいくらい、人々にとっては過去のものとなりつつある。

もはや私にとっても新型コロナ感染防止よりも、あら隠しのためのマスクになっている。

目的はどうあれ、私はギリギリまで抗おう。まだ家にはマスクのストックも大量に残っている。


パスポートの非ヘボン式表記が市民権を得たことに、国際結婚が増えたことを改めて実感した件。

先日、次女のパスポート更新のため、久しぶりに有楽町のパスポートセンターへ行った。

いつも新宿のパスポートセンターへ行くことが多かったのだけれど、帰りに銀座でお買い物ができるなと有楽町の交通会館にあるセンターへ行くことにした。

有効なパスポートさえあれば、住所や姓の変更などない限り、更新に必要なのは写真のみだ。あとはパスポートセンターで申請書を記入すればOKなので、特に準備は必要ない。

パスポートセンター入口にある旅行グッズなどが販売されている「トーコー」で写真を撮ることにした。
ここは長女、次女共に初めてパスポート写真を撮ったお店だ。当時は一人で座ることもできなかった赤子であったのだけれど、スタッフの方がしっかりと紐で固定して、上手に写真を撮ってくれたものだ。

あれから20年、今は一人でいそいそと髪型などをチェックしながら、「これはNG、もう一度お願いします」などど言いながら写真撮影をしているのだ。月日が流れるのは早いものだとしみじみしているうちに写真が出来上がった。

もう成人しているのだから、パスポートの更新もわざわざ親が同行する必要はない。
普通ならそうなのだけれど、私は20数年前のすったもんだを思い出すと、万が一イレギュラーな事態にでもなったら、とても一人では無理ではないかと、ついつい心配になってしまうのだ。
過去に長女も含め何度か更新はしていて、特に問題になったこともないのだけれど、それでもトラウマなのか心配になり、今回もまた念の為について行くことにしたのだった。



あれは二十数年前のこと。初めて長女がパスポート申請をしたときのことだった。

申請書にローマ字で氏名を記入したのだけれど、いざ窓口に提出すると、「ヘボン式で書いてください」と言われた。

ヘボン式は日本式の発音をそのままローマ字に当てはめるのだけれど、ちょっと説明が面倒なので、詳しくはWikipediaなどを見てほしい。
わかりやすく例を上げれば、例えば「TOM」という名であったとしよう。これをヘボン式にすると「TOMU」となる。
OLIVIA」なら「ORIBIA」だ。。。

もはや別人の名前と言ってもいい。

我が家の子供達もこれと同じパターンで、ヘボン式にすると「これはどこの子だ?」というおかしな綴りの名前になる。
日本人である私でさえも、「これはいくらなんでも。。。」と思ったのだから、外国人の夫からしたら、とんでもないお話だ。「こんなおかしな名前があるものか!」と、大騒ぎだった。
いくら騒いだところでお国の決定事項を容易に覆す事はできない。
それでもどうにかならぬものかと、食い下がる夫。
どんなにゴネてもダメなものはダメなのである。納得いかない夫をその場から引き剥がし解決策を申し受けることにした。

ヘボン式とするための方法は一つ。
公的な証明書の提示だった。
公的な証明書と言っても、産まれて半年も経っていない赤子だ。これが海外で生まれた子供なら、その国の出生証明などを提示すればいいのだろうけれど、我が家の子供達は日本で生まれたのだ。公的証明書は全て日本語で、ローマ字表記の証明書などはなかった。

さて、どうしたものかと考えるために、一旦は退いた。しかしヘボン式表記はなんとしてでも回避しなければいけないことだけは確かだった。



夫の国へ出生届けを出した上で、証明書を発行してもらうしか手がないか?
そうなると必要書類を集めて送ったりと面倒も多そうだ。しかも時間もかかるだろう。
なるべく面倒なことはしたくなかったので、夫の国の大使館へ行って相談してみることにした。

ヘボン式表記について、「こんな名前になってしまうんですよ!」「おかしいでしょ?」などとかなり熱を込めて訴えたことが功を奏したのか、それならばと証明書を発行してくれたのだった。
大使館というのは現地で暮らす自国民のために働いてくれている!
ちょっと感動したものである。

余談ではあるけれど、海外にいる日本大使館員も同じだ。まだ私が20代の頃、かなり治安の良くない国へ出かけた時だった。たまたま機内で大使館にお勤めの方から声をかけられた。
日本人の若い女の子が一人で⁉︎と、かなり驚いていて、心配になって声をかけてくれたのだ。
現地に知人がいることを話すと、空港の中でさえも危険だからと、迎えが来るまで一緒にいてくれた。
迎えにきた知人に二、三質問した後、何かあったら必ず連絡しなさいと、連絡先を渡してくれたのだった。
幸にしてなにもなかったので、その方とはそれきりになったけれど、非常に心強く思ったことだけは覚えている。

顔も名前も思い出せないけれど、あの方はもしかしたら今頃外務省のお偉いさんにでもなっているかもしれない。。。
彼の異国の地での行いは、叙勲を受けるに相応しい仕事ぶりであったと私が証明しよう!



話をパスポートに戻す。
結局、必死の訴えでなんとか夫の国の大使館から正しい英語名の入った公的証明書を発行してもらうことができた。

それを持って再び有楽町の交通会館へ。
散々すったもんだしたので、職員の方もよく覚えていて待ち構えていたようだった。
大使館からのレターを見せると、それはそれは大喜びしてくれたものだ。
ようやく非ヘボン式問題クリアーである。

もう一つ、普通の日本人と違っていたのは、ミドルネームがあるということだった。
日本の戸籍にもそのミドルネームは記載されているのだけれど、これがまた少し厄介なのだ。
戸籍謄本には[姓 名名]とミドルネームもくっついて記載されているのだけれど、英語表記になると[姓 名 名]となる。当然パスポートの表記もミドルネームとファーストネームの間にスペースを入れてもらわなければいけない。

ここでもまた申請書にどう記入していいのか混乱した覚えがある。ただ、鮮明には覚えていないので、ヘボン式よりは簡単に解決したのだろう。

何人もの職員の方が集い、ああでもないこうでもないと、我が子のパスポート申請に尽力してくださった。当時はまだ外国名を持つ日本人も多くはなかったのだろう。前例が少なければすんなり行かなくて当然だ。

申請書への記入をようやく終えると、職員の一人が苗字の後に()をつけて父親のファミリーネームを入れては?と提案してきた。
そのようなことができるとは、当時の私は知らなかった。
職員の方曰く、日本のパスポートで父親の国へ入国する際に、家族関係を証明する一つの手段となり得るということだった。

ヘボン式ですったもんだした後のことだったので、そのようなはからいをしていただけるのかと意外に思ったものだ。
もちろん私に依存はなく、言われた通り素直に夫のファミリーネームを加えていただいた。

今でも私も含め子供達のパスポートには夫のファミリーネームがカッコ付き記載されている。

最後の最後、ようやく申請書が受理された時、職員の方から言われたことは今でも忘れていない。

「どうか、このパスポートは常に有効にしておいて下さい。これが公的に名前を証明するものになりますから。失効させないように更新し続けて下さい」

20年以上経過した今でも、私はその言いつけをしっかり守っている。



長女の時に大変な思いをしたので、次女のパスポートを取得する際は、あらかじめ大使館で同じように証明書を書いてもらった。
一度とことん大変な思いをすると、忘れないものなのだ。次女のパスポートはすんなりと発行してもらえたけれど、あの最後の言いつけ通り、次女のパスポートもまた切らすことなく更新し続けている。

今回更新に同行し感じたのは、今は昔ほど大変ではなくなったということだ。窓口で対応する職員の方を見ていても、昔とはまったく違う。
それだけ国際結婚も多くなり、イレギュラーな申請も多くなったということなのだろう。

若い人はどんどん海外へ出て、学校へ行ったり、就職する人も今では珍しくない。そうした中で出会った人生の伴侶が外国人になる可能性は十分にある。

日本国内にいても街を歩けばミックス(ハーフ)をよく見かけるようになったし、モデルやタレントなどもたくさんのミックスが活躍している。

英語の名前を有する人の数も昔とは桁違いなのだと思う。

そんな時代の流れもあるのか、パスポートセンターの窓口でも、なにか特別に質問されることもなく、すんなりと申請を受理されたのだった。

今でも非ヘボン式表記にするためには、出生証明書など公的な証明書が必要なようだけれど、昔と違ってマニュアル化されているのかもしれない。
職員の方ですらどうしていいのか半信半疑、あちらで聞き、こちらで調べてといった昔に比べれば、すっかり慣れきっているように見受けられた。

次女場合は新規の発行ではなく、更新手続きだったので、すんなりと終わったのかもしれないけれど。。。

いずれにしろ、こんな背景もありパスポートに関しては万が一、問題が発生しては困ると同行したものの、私にはまったく出番はなかった。

ただ、証明写真を撮影したり申請書を書く次女の横で、「暑いわね〜、暑くない⁉︎」と首から流れる更年期による汗を拭っていただけ。
まるで過干渉な鬱陶しい母親なだけであった。。。

パスポートセンターを出た後、地下の喫茶店でランチをしながら、次女には「今後、パスポートは自分で管理するように」と伝えた。
そして、あの日職員の方に言われた「決して失効させてはならぬ」ということをうんざりするほど繰り返し言い聞かせたのだった。