In other words

I really don't know life at all ...

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オタクの資質。なりたくてもなれない人もいるというお話し。

「オタ活」という言葉をよく耳する。
つまりは熱狂的なまでに、自分の「好き」に没頭し、時間もお金も注ぎ込むという行為と認識している。

そんなオタ活民を見るたびに、なんだかとても幸せそうで、楽しそうで、私もオタ活なることをしてみたいと羨ましさをもって考えたりする。

私にも趣味と言えるようなことがある。
主なところではメインブログのトピックにもしているお菓子。これに関しては長い時間とそれなりにお金も遣ってきたけれど、考えてみれば、それはただのおやつ習慣だ。
しかも、お菓子ブームとも言える昨今の盛り上がりに腰が引け、以前のように熱が入らなくなった。
そんな天邪鬼にとっては、とりあえず日々のおやつがあればOKとなった。

もう一つはサワードウブレッド作り。
ルヴァンという小麦粉と水だけで作った酵母でパンを焼くというパン作りなのだけれど、これもオタ活というよりは炊事に含まれるものと思っている。
夫が外国人のため、日々の食事にパンは欠かせない。自家製パンが毎日食卓に上がることが、とびきりの贅沢だと思っている夫のためというのも一つの理由だ。
私自身、いまはあまりパンを食べない。
それでも時間も手間もかかるサワードウを作り続けているのは楽しいからというのはもちろんなのだけれど、結局のところ趣味と実益を兼ねたものであり、オタ活には程遠い。

韓流ドラマもかなり熱心に鑑賞している。
Netflix、U-NEXT、amazon prime、Disney plus、Huluなど、あらゆるサブスクを契約しては、あちらこちらを回って面白そうな韓流ドラマを観ている。
これはコロナ禍以前からなので、かなり長く続いた趣味で、それに費やしている時間もかなりのものだと思っている。
子育てを終えた専業主婦の特権である。

もちろんお気に入りの俳優も何人かいて、その麗しき姿に見惚れたりすることもあるのだけれど、ドラマを観終わったらリセットだ。
ファンクラブに入り、ファンミーティングやイベントへ出かけたり、ドラマの聖地巡礼に出向く「推し活」に精を出す韓流おばさんも多いというけれど、そういったことにはまったく興味がない。
自分の子供と同じような年齢の俳優を追いかける時間とお金があれば、美味しい物を食べた方がいいという花より団子気質なのだ。



他にも植物を育てることも楽しんでいる。季節ごとに花を咲かせる植木をベランダに並べ、お世話をするのだ。
ここ数年は多肉植物も育てていて、これは小さいので場所もとらず、都心の狭いベランダでもなんとか楽しむことができる。

どこかのお店で見かけると、ついつい買ってしまい、今はベランダの半分は多肉植物という「場所を取らない」という最初の目論みとは外れているけれど。。。

しかし、ネットで多肉植物を趣味としている方のSNSなどを見ると、お店でもできるのでは?と思うほどの数と希少種で溢れかえっていて驚く。
挙げ句の果てに多肉農家さながら、個人で多肉植物の販売を始めてしまう人もいるそうだ。
まさに多肉オタクと言っていい。
私はと言えば、ただ育てることを楽しんでいるだけで、希少な多肉の収集にも興味はなく、それこそ100均で買ったもので充分。好みはあれど、正直言ってなんでも育てることさえできればいいという、これまたオタクとは程遠い距離にある。
多肉植物は葉挿しなどで増やすこともできたりするので、どんどん数が増えていくけれど、多肉オタクを名乗るには及ばないレベルである。


ブログ書きも長年続けている趣味の一つと言ってもいい。
はじめてこの『はてなブログ』にアカウントを作ったは2017年の3月だったと記憶している。
そして本格的に投稿を始めたのが7月頃で、今から約6年前ということになる。
最初は専業主婦の日常を綴った雑記ブログからスタートしたのだけれど、投稿記事のほとんどがお菓子に埋め尽くされていることに気づき、数年前にタイトルも変更し、お菓子に特化したブログにした。
しかし、そうなるとお菓子以外のことを書く場所がなくなる。そこでさらにサブブログを作った。『はてなブログ』プロでは同じアカウントで10個までブログを作ることができるのだ。
さすがに10個も管理しきれないけれど、与えられた権利をなるべく使おうということで、今はお菓子のメインブログ、日記ブログ、そしてこのなんでもボヤける雑記ブログと、3つのブログに書き散らかしている状況だ。

このブログに関しては不定期更新なので、その存在すら忘れていて、投稿もそう頻繁にしていないのだけれど、メインブログは平均すると今は週に5回ほど、そして日記ブログに至っては毎日更新しているというくらい、ブログに関してはかなり熱を入れていると言ってもいい。
ただ、ブログも他の趣味然りで、特別なこだわりもなければ、マネタイズしようなどという野心もない。
ただの自己満足としてやっているだけなので、サイトのデザインもスタイルにも進化はなく、ただ淡々と書き散らかしているだけだ。
これがもしもオタ活ならば、より多くのアクセスを集めるために、もっと試行錯誤しているはずだ。



子育てを終えたいま、専業主婦であっても空の巣症候群になることも、暇を持て余すこともなく、毎日充実して過ごせるくらいにやることはある。
ただ、そのどれもが「オタ活」というには及ばない熱量しかない。

若い頃はまったく趣味のない人間であった。バブル期だったこともあり、よく働き、よく遊んだけれど、何か一つのことに熱中していたことはない。
仕事といっても職種にこだわりはなく、とにかくどれだけ稼げるかが基準だったし、遊びも仕事の合間の息抜きに適当に騒いでいただけで、形になるようなものはなにもなかった。

それに比べれば、いまは趣味と呼べるようなことがたくさんあるのだから、少しはオタ活民に近づいているのか?と思わないでもない。

しかし、オタ活民への道はそんな簡単なものではないのだ。そのハードルは、私からすると天を見上げるかの如く高い。

オタ活の一つに収集というものがある。
趣味とは言えないけれど、フェイラーと近沢レースのハンカチは知らない間にかなりの枚数になっている。

それでも「オタ活」というほど熱中しているという実感は皆無だ。
ただ日々使うハンカチは、自分の好きな素材、デザインのものを持ちたい。ただそれだけの理由で気に入ったものがあれば買っていた結果、それなりの数になったというだけだ。
後生大事に額に入れて飾ったりはしない。使うために買うという点でも、オタクの収集とは違う。

子供達を見ていると、夫のオタク気質を色濃く受け継いでいるのがわかる。
とにかく好きなことに対しては、お金も時間も可能な限り使うのだ。
それを見るにつけ、「こんなもの買って役に立つ?」「そんなことする時間があればもっと有意義なことをしたら?」などと口走るのだけれど、このオタ活こそが有意義なのだと本人達は胸を張って言う。



子供達が「オタクになるにはそんな気質が必要なのでは?」と言う。

無駄であるか否かは問題ではなく、すべては「好き」に集約される。
リターンは求めず、自分の「好き」に心血注ぐことで自己満足と幸福感を得る。
余計なことは考えずに、そこへ邁進できる人間だけがオタクになることができるというのだ。
これはどんなに努力しようが、人間に理性というものがある以上、容易にコントロールできることではない。

損得勘定という頭の中の電卓が、勝手に計算を始めてしまうためだ。
その電卓を「好き」に向かった時だけ休眠させるには、持って生まれた気質が必要だと言うことらしい。

そう考えると、私がオタクになれないのも納得がいく。
どんなになりたくて努力しても、なることができないのは、その熱で理性を溶かし、頭の中の電卓を止めてしまうことができないからだ。

これには自覚もある。
「好き」が80%あたりまでくると、カタカタ、カタカタっと計算が始まる。
「こんなものにお金を払うの?」
「ここまで苦労してやって、自分のためになる?」
一時が万事そんな感じで考えてしまう。

目に見える物事に価値に重きを置き、その目に映らない幸福というものに目が向かないのだ。

実際にオタ活民となったことがないので、その幸福感がどれほどのものか、私にはわからない。
ただ、オタ活を楽しむ子供達を見ていると、実に充実した人生を過ごしているかがわかる。
「好き」につぎ込むお金と時間は、そのまま本人の幸福感というリターンを得ているのだ。

無駄なく現実的に生きることも大切だけれど、四角四面の人生も味気ない。
役に立たない無駄なことから、楽しさや幸福感が生まれるのは私も知っている。

それでも、その道へ足を踏み入れることができない。
それは、私にオタクになれる資質がないということなのだ。

オタ活はいさぎよく諦めて、何事も自分のペースで楽しんでいくしかなさそうだ。


「調理定年」を知り、子育てを卒業後は楽をしていこうと思った件。


黒酢酢豚を作ると、必ず「いらない」と言いながら、傍らから肉だけ摘む夫。それはやめて欲しい。

少し前に『クロワッサン』という雑誌のオンラインサイトで、面白い記事を読んだ。

「女の人よ、『調理定年』を考え、もう料理はそこそこに」

そんなタイトルがつけられたこの記事。

「調理定年」とはなんぞや?
私は初めて知った言葉だった。

調理定年とは、手作り主義をほどほどにし、外食やテイクアウト、スーパーのお惣菜などを上手に取り入れながら、必要な栄養を摂ること。

男性の仕事には定年があるのに、女性はいくつになっても食事を作り続けなければいけないということに疑問を呈した記事だった。

いまは女性も男性同様に働く時代なので、すでに便利なサービスを取り入れているご家庭もあるかと思うけれど、私のような50を過ぎた年代は、まだまだ専業主婦も多い。
当然、ワンオペは当たり前。私も家事全般を一手に引き受け、すべては家族の健全な生活を優先にと20数年過ごしてきた。

それに対して特に不満はない。夫婦の役割分担として、夫は働いて必要なお金を持ってくるのが仕事、私は家で家事育児を担うのが仕事と夫婦で合意していたので、ワンオペも当然だと思ってきた。

主婦は24時間オンコールで大変という声もあるけれど、外で働きお金を稼いでくるのもまた大変なことだ。

お互いに相応のストレスもあるけれど、家族のため、とりわけ子供たちのためと思えば踏ん張ることもできた。



家事の中でも、お掃除やお洗濯は決まったことをすればいいだけなので簡単なのだけれど、お料理はかなり大変な家事だ。

まず献立を考える。これも栄養のバランスや家族各々の好み、加えて予算なども考慮しなければいけないので、かなり面倒だ。
そしてお買い物。真夏の暑い日も、凍えるように寒い冬の日も、両手に石のように重たい買い物袋を提げて歩く。
ここでようやく半分で、そこから調理をし、食べさせ、後片付けをするまでが炊事なのだ。

人は一日3食が普通なので、朝ごはんを用意し、お昼ごはんは外で済ませてもらえればいいのだけれど、子供がいたりすると、早朝からお弁当の用意をする。
そして夜は家族が帰宅する時間に合わせて晩ごはんだ。

子供達が幼い頃は、おやつも家で作っていたので、本当に一日中キッチンに立っているのでは?と思ったこともあった。

元々料理は嫌いではない。
好きというよりは、食いしん坊なので、自分好みのものをあれこれと作るのが楽しく、毎日の炊事も大変ではあるけれど、結構楽しんできたつもりだ。

ところが、昨年長女が独立し家を出て、次女が大学生になった途端、なんだか日々の食事作りが次第に面倒になってきた。

子育てを卒業し、家事全般が軽減されたことで、食事の用意にも気合いが入らなくなったのだ。

家族の健康のため、そう思っていたけれど、子供達を健全に育てるために頑張っていただけなのだと気づいた。

もちろん外で頑張って働く夫のためもあるけれど、夫自身はもう大人なので、妻に世話を焼いてもらわずとも生きてはいける。
とはいえ、夫が稼いできたお金で暮らしている身としては、最低限の家事はまだ私の仕事だ。

役割分担として子育て以外の、家を整えること、食事の支度をすることくらいしなければ、ただの穀潰しになってしまう。
働かざる者食うべからずで、外で仕事をしていない私は、家で働かなければいけない。



自分ひとりならば、食べるものなどなんでも構わない。
作るのが面倒であれば、一汁一菜で済ませてしまうこともできるのだけれど、夫がいるとそういうわけにもいかない。

しかし我が家の夫は日本人ではないので、魚を焼いたり味噌汁を作ったりする必要はない。
面倒な時は、ハムとチーズを挟んだカスクートなどを作ればいい。
朝もパンかシリアルがあればOKだ。
夜もオーブンに放り込んでおけば出来上がる簡単料理やステーキ肉でも焼いてあげればご馳走になる。

多分、普通の日本人家庭よりは、ずっと楽なのだろうと、友人達の話からわかる。

夫自身、私の家事に対してうるさいことはほとんど言わない人だ。
「疲れたから食事の支度をしたくない」と言えば、「ピザでもデリバリーする?」「なにか買ってこようか?」と、言う人だ。
気が向けば野菜など一切ない、肉だらけのパスタなどを作ってくれたりもする。

まだ同居している大学生の次女も、「大変なら別に無理しなくていいよ」と、勝手にバーガーなどを買ってきて済ませてくれる。

誰に何を非難されるわけでもないのに、どこかに「食事の支度は専業主婦のお仕事」と自分で思っているのだろう。
きちんと食事の支度をしないと、自分の役目をおろそかにしているような気になる。

これは自身の意識改革が必要なのかもしれない。
そんなことを本気で思うようになった。

しかし。。。まだ夫は現役で仕事をしている。定年まで最低でも10年以上あるので、役割分担としては、私の調理定年もまだ先ということになる。

夫が頑張って外で働いているのに、自分だけお先に定年を迎えるのは、図々しい私でもさすがに申し訳ない気持ちになる。

ただ、件の記事にもあるように、毎食ごとに食事を作る必要はない。
時にデリバリーをしたり、デパ地下やスーパーのお惣菜を買ってきて食卓に並べてもいいのだ。
そこに罪悪感を持ち込む必要はない。

問題は我が家の夫はデパ地下惣菜などを好まない。たまに一緒に買い物へ行くと、物珍しいのか喜んであれこれ買い込むのだけれど、私が「今日は買ってきたもので」とデパ地下惣菜を並べると、あまり食が進まないようで、好きなもの以外には手をつけず、食後にまたパンを食べたりするのだ。

多分、私のチョイスが好みではないのだろうと思うけれど、その時々で気分がコロコロ変わる夫の胃袋事情まで頓着していたら、もう何を買っていいかわからなくなる。
ある程度、夫の好みは把握しているけれど、とにかくその時の気分でその好み自体をひっくり返してくる人間だ。まさに予測不可能で、時々どうしていいのやらとうんざりする。

一方で夫の好むピザやバーガーなどのデリバリーは、私が受け付けない。たまにならいいけれど、毎回毎回ではこちらの胃腸が保たないのだ。

最近では家でも別のものを食べることが多くなった。わざわざ家族に洋食を、自分用にちょっとした和食をとなると、これもかなり面倒なのだけれど仕方ない。

『調理定年』となった暁には、夫と私が「別々のものを買って食べる」
それが一番いいのかもしれない。コスパは悪くなりそうだけれど、食は人が生きていく上で、とても大切なことだ。
心も身体も満足できるよう、そして面倒な食事作りからの解放も考えながら、いい塩梅の落とし所を見つけて行かなければと思ったのだった。


手作りパンもいいけれど。お米とパンどちらが安い?我が家の場合。

終日家にいる日は、ほぼ毎日朝からパンを作っている。
我が家の夫は外国人なので、主食はお米ではなくパンのため、日本人のご家庭が毎日お米を炊くようにパンを作るのである。

以前はほとんど小麦粉の価格など気にしたことはなかったのだけれど、最近の度重なる価格高騰を受け、さすがに「高いな」と感じることが増えた。

いつもパン用の小麦粉はネットで注文している。たまに買い物ついでに興味を持ったブランドの小麦粉を見つけたりすると買ってくることもあるのだけれど、いつも持ち帰る時には重たくて買ったことを後悔する。
小麦粉に限らず、水や米など重たいものは通販に限る。

最近も小麦粉が残り少なくなっていたので、いつものようにネットでパン用小麦粉を注文した。

私がよく使うリスドォルは現在amazonで3kgで¥1,662。ただその都度値段が変わる。4月頃は同じものが¥1,900近かったので、若干下がったようだけれど、少し前と比較すると、まだ高いと感じてしまう。

もう少し安いものはないかと探してみたところ、同じものをまとめて買うと、若干安くなるようだった。
3kg×4袋で1袋¥359、4袋だと¥1,436お得ということになる。

あまりまとめ買いはしたくないのだけれど、この価格差は見逃せない。
「残り一個」の表示にせかされるようにポチッとした。

※同じ製品でもその時々価格が変わるので、ご参考までに。

12kgの小麦粉というと、かなりの量だなと思ったものの、とにかく毎日のように作っているのだ。その消費量もそれなりになるだろうと、一体何日くらいで12kgを消費できるのか、単純計算してみることにした。

一日平均約600gほど使用するので、1ヶ月にすると18kg。
12kg あっても20日で消費してしまう計算になる。思っている以上に食べている。。。



それにしてもお金がかかるなと思う。
我が家の外国人夫の主食はパンなので、お店で買うことを考えれば、家で作った方が割安だと思うのだけれど、それにしてもだ。。。

その分、お米の食費量は少ないのだから、どっちにしても同じでしょと思ったものの、果たして同じなのだろうか?

もしも我が家の主食がお米だったら、もしかしたらその方が安いのではないかと考えた。
ここは日本だ。日本人の主食であるお米がパンよりも高いなどということがあってはいけない!

しかし、昨今では「朝食はパン」というご家庭の方が多いと聞く。そうなると、パンもお米同様の扱いとなっていてもおかしくはない。

パンとお米、果たしてどちらが安いのか?
我が家の消費量に基づいてざっと調べてみることにした(我ながら暇だ)。

いつも買うお米は5kgで約¥2,500。
5kgだと約33合分になる。これを毎日3合ずつ消費すると11日分だ。
日割りにすると1日¥227。

一方のパンは直近でポチッとした価格で計算したところ1日で¥258。

若干お米の方が安い。
やはりここは日本だ。日本人の主食に軍配が上がった結果となった。

しかし、単純に値段だけを考えるわけにもいかない。
時は金なり、時間をお金で買うと言うように、時間や労力も考慮してコスパを考えるべきだ。

お米は土鍋に米と水を入れ、火にかけて30分で炊き上がる。途中で火を弱める以外、することはない。ただ放っておけばホカホカごはんの出来上がりだ。

一方のパンはといえば、混ぜたり捏ねたり焼いたりと、かなり手間がかかる。
特に私が作っているサワードウブレッドは、着手してから約12時間ほどかかるのだ。
12時間ずっと作業をしている訳ではないけれど、40分おきに捏ねくり回したりとちょこちょこ手を入れる必要がある。

ようやく生地が出来上がったら、今度は成形だクープ入れだとまだやることがある。
そして最後に暑いキッチンの中、オーブンを250℃にまで上げて焼く。
終わった時には小麦粉まみれの汗だくだ。

ここまで手がかかるとなると、やはりパンよりもご飯の方が安上がりに感じる。この労力と時間を秤にかければ、¥30の差など簡単に吹き飛ぶ。



やはりパンよりもご飯を主食にした方がずっとコスパはいい。
しかし、夫の身になればやはりパンでなければストレスになるだろう。
私も若い頃は和食よりも洋食を好んでいた。夫と結婚して以降はほぼ毎日洋食で和食を作ることはなかった。肉じゃがやきんぴらなど、作ったこともなければ食べたいと思ったこともない。
ところがこの歳になると、乳脂肪分たっぷりの洋食が胃腸にこたえるようなった。特に40代半ばで大病を経験して以来、すっかり胃腸が弱くなったせいもある。
加えて年齢と共に、子供の頃から慣れ親しんできた和食に気持ちが傾くようになったのだ。
もしも今、「お米は割高だから毎日パンを食べよ」と言われたら、とても困る。
気持ちも身体も和食を求めているのに、毎日毎日パンばかりではきっと痩せてしまうだろう(痩せたいけれど)。

夫にしてもそうだろう。若い頃は外食などで日本食もそれなりに楽しんできたけれど、50を過ぎてみればやはり子供の頃から慣れ親しんできた食事を求めるようになった。
これを毎日「米を食せ」と言われたら、きっとかなりのストレスになり、仕事をする意欲にも影響しそうだ。
夫がしっかり働いてくれないと、私の安泰な生活が脅かされることになる。

そうなると¥30ほど割高だろうが、手間暇かかろうが、この生活を守るためにはパンを作り続けるしかないのだろう。
身体が動く限りは毎日パンを焼くのが家庭の平和を維持するためにも不可欠だ。

暇に任せてくだらないことを考えていないで、趣味と実益を兼ねたパン作りを続けていこうと思う。



余談だけれど、ここ数日パン作りをしていない。
夫と喧嘩をしたため、その制裁として焼いてあげないのだ。
たまたま外出が重なり、家でのんびりパン作りをしている時間がないというのも理由なのだけれど、普段はなんとか工夫して毎日食卓に自家製パンを並べる努力をしている。
しかし、私の機嫌が直るまで焼くつもりはない。

夫は仕方なく近隣のパン屋さんやコンビニでパンを調達してくるのだけれど、「なんかいつものパンじゃないと胃腸の調子がよくないな〜」などと、ぶつぶつ言っている。
「作ってください」と言おうものなら、どんな言葉が返ってくるか、墓穴を掘るのは火を見るより明らかなので、それも言えないようだ。

パン作りは夫の食事のためというのもあるけれど、元々は私の趣味だ。小麦粉を捏ねくり回すのが好きで長年続けていることなので、正直作りたくてウズウズしている。
それでも今日も頑張ってパンを焼かない努力をしている。

そのうち、機嫌が直ればまた作るつもりだけれど、まだムカムカはおさまっていない。
一度機嫌を損ねると、1週間くらいは直らない。小動物気質のため、嫌なことは忘れないからだ。
人間は嫌なことがあると忘れようとするけれど、小動物などは忘れなという。覚えていることで身を守ることができるからだ。
私の場合は小動物と違い命の危険はないけれど、また不愉快な思いを繰り返さぬように、教訓として心に留めておく。

いつまでも意地を張っていては、自分の趣味を楽しめなくなるという結果になるので、件の喧嘩について忘れはしないけれど、適当なところでパン作りを解禁するつもりだ。
少し悔しいけれど。。。