In other words

I really don't know life at all ...

Sponsored Link

タクシーに乗ったら、必ずレシートはもらっておくべき理由。

私は普段家計簿をつけているので、どこでお買い物をしても、必ずレシートを受け取るようにしている。
それがあれば毎日つけずとも、後からまとめて記入することができるからだ。
レシートには必ず店名と日時が記入されているので、たとえ品名が具体的に書いていなくても、ある程度は後から思い出すことができ、レシートがあれば少し時間が経ってからでも書けるというわけだ。

レシートをもらわないという人もいるだろう。私の友人の中にもいるし、子供達も必要ないからもらわないという。
まあ、必要ないのなら、すぐ捨てるものをもらってもね。。。
ずっとそんな風に思っていたのだけれど、万が一の「保険」として、やはりレシートはもらっておくに限る!と思った出来事があった。


昨年末、長女がタクシーを使い我が家に来た時のことだ。
インターフォンが鳴り、玄関を開けると同時に「タクシーの中に携帯忘れた!」とあたふたしだした。

降りたタクシーはすでに走り去っている。
ふと見ると、長女の手にはレシートが握られていた。

「レシートもらったの⁉︎」
「うん。なんか渡されたから受け取った。。。」
「それなら、すぐに連絡しなさい!」

そう言って、私の携帯を渡し、そのレシートに書かれた連絡先を示した。

レシートにはタクシー会社名や金額だけでなく、その時に乗った車の車番も記されている。

その車番を伝え、どこから乗り、どこで降りたかなど伝えると、「すぐ調べて、折り返し連絡します」とのことで、一度電話を切った。



待つこと15分くらいか、その間も長女は「今年最大の失態だわ」と大騒ぎ。「携帯がないともう何もできない」などと、この世の終わりかというくらい落ち込んでいた。
確かに携帯を失くしたら、私だって困る。だからこそ、失くさないように注意しているのだけれど、それにしてもその嘆きは大袈裟と言わんばかりに深く、今時の子は携帯がないだけで、これほどまでに打ちひしがれるものなのかと少し興味深くもあった。

「そんなに大切なものなら、なぜきちんと管理しないの?」

あまりに騒ぐものだから、少し意地悪く言ってみた。

「これまで失くしたことはないし、いつも気をつけている!」

「でも、実際に置き忘れてるし。これを機に携帯がなくても困らないよう、バックアップを考えておきなさい」

「だから普段から、アナログ力も身につけなさいと言っているでしょ?」

実際に窮地で役立ったのは、紙のレシートだったのだから。。。

そんな会話をしていると、タクシー会社から折り返し電話がかかってきた。

携帯はやはり車内の後部座席にあり、30分後にタクシーを降りたところまでお届けします。と、とても親切な返事が返ってきた。

降りたところとは、我が家のマンションの前である。こちらのミスなのに、相手が骨を折ってくれるとは、申し訳ない気持ちにもなる。
晦日の忙しいときなので、なおさらそう思った。

電話はスピーカーでの会話にしていたので、タクシー会社の方と長女のやり取りは、隣で聞いていたのだけれど、とにかく親切丁寧で驚いたものだ。

長女は自分のミスの尻拭いをしてもらっているため、とても恐縮して何度もすみません、ありがとうございますを繰り返していたのだけれど、タクシー会社の方は、「いいえ、我が社のタクシーを使ってくださり、ありがとうございます」と、お礼まで述べている。
これが日本のサービスか!
素晴らしいではないか!



日本は落とした財布さえ戻ってくる国だ。
長女は携帯のケースに身分証やPASMOなども入れてあるため、私などは「金めのものがあったら戻ってこないんじゃない?」などと意地悪を言ったりもしたけれど、長女は「日本は大丈夫!私は日本人の良心を信じるわ!」と仕切りに言っていた。
本気で信じているというよりは、あくまでも希望を奮い立たせるためと言っていい。

そしてきっかり30分後、マンションの前で長女が待っていると、無事に携帯は届けられた。

これも、タクシーを降りてすぐに気づき、レシートによる情報があったため詳細を伝えることができたおかげだろう。

乗った場所と降りた場所だけでは、どの車を使ったのか、都心部において特定はかなり難しそうだ。
長女も改めて「レシートがあって助かった〜」と言っていた。

普段、レシートをもらわない、またもらっても見ることなくポイっとゴミ箱に放り込んでいるため、そこにどんな情報があるか長女は知らなかったようだ。
まじまじとレシートを見て、「忘れ物の連絡先まで書いてあるものなのね〜」と、感心していた。

これを機に、どんな時でも必ずレシートは貰うようにしようと、長女もアナログもあなどれぬと知った出来事であったようだ。


年賀状はいつになったら買わずに済むようになるのか。。。年賀状仕舞いした者の本音。

今年もまた年賀状が数枚届いた。
私が年賀状仕舞いをしてから、もう何年になるだろうか、ちょうどメインブログを始めた頃なので、かれこれ7年以上は経っているはずだ。

最初の頃は結構な数の年賀状が届いていた。当然頂いておきながら無視もできないので、年が明けてから年賀状を送った。
最初の年は年明けに年賀ハガキを買いに走るのが大変だったので、翌年からは15枚ほどの年賀ハガキを用意するようになった。

それから数年、届く年賀状の数はかなり減ったのだけれど、それでもまだ買っておいた年賀ハガキが捌けるほどには届いた。
頂いたら、こちらからも出す。これは当然の礼儀ではないかと思っていたけれど、よくよく考えてみればイタチごっこになる。
だからこそ、毎年毎年年賀状が届くのかもしれない。。。
そう考えて、ほぼ交流のなくなった方には送らないようにし、そうでない方々もメールのやり取りがある方々には、メールやLINEで新年のご挨拶をするようにした。
このおかげで、翌年からはかなり届く年賀状が減ったのだった。

ただ、お年寄りなどはメールでのやり取りはないので、やはり年賀状がくれば、これまで通り送ることにしている。



思えば、年賀状を書いて送るのは、毎年本当に負担だった。
全て印刷で済ませればいいのだろうけれど、どうせ送るのならオリジナルな素敵なものを!と、自分でデザインを考え、慣れないパソコンで写真などを貼り付けたり、文字のフォントに凝ってみたりと、とにかく仕上げるのに時間がかかった。
そして、これもまたくだらないこだわりなのだけれど、宛名書きも自筆で書きたいと、毎年新しい筆ペンを買い込んでは、一枚一枚宛名書きをしていた。

十数枚なら大したことはないけれど、我が家の場合、夫が外国人のため、夫の日本人仕事関係者や友人知人、加えて子供の分もと、毎年100枚以上は用意していたのだ。
人の年賀状など、他人はそれほどの興味を持って見るわけではない。どんなに気合を入れて作っても、その労力に見合うリターンなどない。まさに自己満足の世界なのである。
そうわかっていても、やめられないのは、やはり全てを自己満足で完結しようという私の厄介な性格によるものでもある。
自分の首を自分で絞めているような「こだわり」は、嫌だ嫌だと思いながらも、年賀状仕舞いをするまで続いた。

長年そんなことをしていたので、年賀状仕舞いを決めた時には、本当に肩から荷が降りたという清々しさでいっぱいだった。

面倒な年賀状とは、これできれいさっぱり決別よ!
そんな気持ちになっていたこともあり、新年になると届く年賀状に、正直げんなりとした。



子供達が幼稚園の時の同級生ママの一人は、今ではまったく交流がないのにも関わらず、子供達が成人した今でも変わらず送ってくる。
最初の頃は、きっと年賀状リストに載せたままで、印刷したものをただ送っているだけなのね。と思っていたのだけれど、さすがに20年近く経てば、リストの見直しくらいするだろう。
ましてや、いまは年賀状仕舞いをする人の方が多い時代になっているのだから。。。
それでも送ってくるということは、これはある意味私に共通する「自己満足」ゆえなのかもしれない。
とにかく年賀状を作るのが楽しくて、それを送ることに意義を感じているといった具合だ。
人様の頭の中のことはわからないので、確証はないけれど、私の想像の範囲ではそんなところだ。

そこで、その方には申し訳ないけれど、年賀状を送るのをやめた。メールアドレスも知らず、LINEも繋がっていないので、無視という状態だ。

これはさすがに心苦しくもあり、毎年元旦になると、「またきたのね。。。まだくるのね。。。」と、やはりこちらからも送るべきかと少しだけ悩んだりするのだけれど、もしかしたら消えかけた火に油を注ぐ結果になる可能性も考慮し、心苦しさを感じながらもグッと耐えている。

今年、私宛に届いた年賀状は3枚だった。
念のためと買っておいた年賀ハガキは5枚なので、かなり年賀状仕舞いが進んでいるとみられる。

いまだに家族で交流のある年配の知人には、急いで書いて送ったけれど、かつてのママ友からの年賀状は今年もまたスルーさせて頂いた。

来年はどうなるのだろうか。。。
自分はとっくに決別したはずの年賀状に、元旦から思い巡らせるのもそろそろ終わりにしたい。。。
使うか使わないかわからない年賀状を用意することも、もう終わりにしたい。。。
そんなことを思った2024年の始まりなのであった。

お節もご馳走もないお正月。なにもしない年末年始を体験して思ったこと。

謹賀新年

西暦2024年【令和6年】辰年

瞬く間に2023年が終わり、新年を迎えてからもう2日目。
「光陰矢の如し」とはよく言ったもので、本当に月日が流れる速度は歳を追うごとに速くなっている。
人生100年時代とはいえ、こうも時の流れが早いと、やるべきことはできるうちにやっておかねばと、多少の焦りを感じたりもするのだけれど、きっと今年ものんびり過ごすのだろう。。。

昨年はなかなか大変な一年であった。
簡単にいえば、低迷した一年といった感じで、どんなに足掻こうとも事態が一向に好転しない。そんなもどかしい一年でもあった。
物事があまりにもうまくいかないので、最後には開き直り、無駄な努力は心身共に消耗するだけだと、なにもしないことにした。

そんな心理状態と諸々の状況から、
「よし!もう年末年始も、特別なことはなにもせずに過ごそう!」
そう思い立った。

長年、年末は夫と連れ立って築地や銀座のデパ地下へ繰り出し、派手にご馳走を買うのが恒例であった。
ところが一昨年の暮れは夫が仕事で不在だったため、例年よりもお正月支度は控えめだった。
そして昨年も夫は年末年始を含む長期出張が決定し、お正月は不在ということになった。
クリスチャンである外国人夫にとってクリスマスは重要でも、お正月は「ただ新しい年を迎えるだけ」という意識のようで、年末年始の買い出しも私の荷物持ちとして参戦していただけだ。

二人の子供達が成人した段階で、これからは家に留まらずどこへでも行って好きに仕事をしたらいいと夫婦で話し合った。
私も常に夫がいなければ困るということもない。むしろ夫の世話をする必要がなくなるのだから、そんな状況は私にとっても好ましい。
夫は好きに仕事をし、私は家事軽減とまさにWin-Winというわけだ。

今回も「年末年始だけでも帰ってくるよ」と言われたけれど、わざわざカウントダウンしに帰ってくるのは飛行機代の無駄。それなら出張先で新しい年末年始を見てきたら?と提案した。
常に新しい環境や体験をおもろしろがる夫は、すっかりその気になり、今回の年末年始も夫不在ということ決定。
私の開き直りによって考えた「なにもしない年末年始」にGOサインが出たのだった。



「なにもしない年末年始」とは、つまり普段通りに過ごすということだ。

まずは大掃除をやめた。例年11月からボチボチと大掃除を始めていた。断捨離をすると粗大ゴミが出るのだけれど、それを引き取ってもらうのも予約制で、何かと時間がかかるため、早めにスタートを切るのだ。
もう捨てるような粗大ゴミもないし、特に気合を入れて掃除をするようところもない。

長女は家を出て一人暮らし、夫は長期出張で不在、残る次女も大学にバイト、彼氏やお友達とのお付き合いでほとんど家にはいない。
まるで一人暮らしのようなので、家が雑然とすることもない。
私は専業主婦なので、毎日掃除はしているし、いつも家族4人揃って生活していた頃に比べると、常に綺麗を保っていられるのだ。
いつも通りのお掃除だけで十分。わざわざ大袈裟な掃除などする必要はないと、大掃除はやめることにした。

そして年末のメインイベントである買い出しをやめた。
この買い出しはお節料理をはじめ、我が家の場合は刺身やイクラなど魚介、生ハムやパテ、オリーブなどオードブル系。夫の希望で数種のチーズも揃える。お酒は飲みたい人が揃えればいいと、いつも夫が調達してくる。
そして2日から食べ始めるお肉。これはすき焼き、ステーキ、焼肉など、肉好き家族のために大量に用意する。
そこにお菓子や、大晦日の年越し蕎麦なども加わり、まさに年末の大盤振る舞いとなる。
次々と財布から旅立つ諭吉さんもなんのその、「お正月くらいは贅沢してもバチは当たらない!」と、やたら気持ちが大きくなる。
夫も「そうだ!そうだ!」と好きなチーズをバンバンとカゴに放り込んでいく。
唯一、冷静なのは長女だ。
たまに買い出しについてくることがあったのだけれど、「もう、これで終わりにしたら?そんなに買っても食べきれないよ」と、「冷蔵庫に入り切るの?ちゃんと考えてる?」などと、苦言を呈してくるのだ。
それでも大蔵大臣である親の特権で、「お正月だからいいのよ!」とまるで何かに取り憑かれたかのように買い物をしまくるのだ。

いざ、そんな買い出しをやめてみて、あの熱狂は一体なんだったのか?食べ残すことはなかったけれど、それでもどれだけ無駄遣いしてきたのだろうと青くなる。。。

いつも、「必ず買わなければいけない」と思っているので、もうお値段にはあまり目を留めずにいたのだけれど、「買わない前提」で見ていると、ビックリ仰天しきり。
お正月価格というものか、あれもこれもとにかく高いのだ。
例えば蒲鉾などがその筆頭で、お安いうちに買うと元旦には賞味期限切れとなるため、お節やお雑煮にとなると、必然的に値上がりしている時に購入しなければならない。
これは上手くできてるものだなと、感心したり。。。
いつもと違うことをすると、学びはあるものなのだ。



お節料理も市販のお重の中には、普段は口にしないようなものが並ぶ。最近では洋風や中華風、お菓子のお節まであるから、好みで選べばいいのかと思うのだけれど、これもまたすごく高い。
いつも百貨店でお節料理のカタログなどを頂き、どうしようかなと悩むのだけれど、小さなお重でも数万円はする。好きでもないものに、これほどのお金を出すのはどうなのか?いつも迷いながらも買ってしまうのは、まさにお正月マジック。

これは日本人としての「和の心」を証明したいだけなのだ。
誰もがスマホを手にする時代で、生活も昭和の時代とは打って変わった。それでもお節料理にこだわるのは、古いものにとらわれているというよりは、それを守っていきたいという気持ちもあるのだろう。
私も外国人と結婚したことで、より自分は日本人としてのアイデンティティを持ち、それを子供達にも伝えていかねばと躍起になってきた。
季節季節の行事には、とりわけ気を遣ってきたので、お正月のお支度もその一環であったといってもいい。

しかし、子供達も成人した。もはや私の子育ても終了だ。日本人としての心は十分に伝えたはずと、勝手に卒業することにした。

そんな卒業を機に、一昨年ごろから「お節料理はやめようか」と、ずっと考えていた。
しかし、祝膳だし。。。神様へのお供えの意味もあるし。。。と昭和気質ゆえのこだわりで、決心がつかなかった。
誰も好んで食べることはないとわかっていながら、夫不在の一昨年でさえもギリギリまで迷い、小さめのお節料理を買って用意した。
本当に買わないつもりでいて、百貨店のカタログも早々に処分したのだけれど、ネットでよくお菓子をお買い物するサイトを見ていたら、「やっぱりお正月にお節料理がないのはね。。。」と最後の最後にはポチッとしてしまった。

お節料理は高い。。。このお節代で好きなフェイラーのハンカチが何十枚買える⁉︎と、後から後悔したのは言うまでもない。



それほどに心かき乱すお節料理だけれど、今年ようやく用意しないお正月を迎えることができた。
お節料理を用意し「やはり買わなければよかった」と思ったことは数知れないけれど、用意しなかった今年「これは正解!買わないでよかった」と、心の底から思った。

確かに元旦のテーブルにお節料理が並ばないのは、慣れないせいかなんだか物足りなさも感じる。
しかし、それは「お正月」の特別感を期待してのことなのだ。「元旦」でもなく「お正月」でもなく、「いつもと同じ一日」と思えば、どうということもない。

今年は長女宅で元旦の朝を迎えた。
用意したのは自分で焼いたサワードウブレッド、それに大好きなチーズ2種類とコールドミートだけ。
これは我が家では普段でも好んで食べるものなので、いつもより高額なチーズを買った以外は、いつも通りの食卓だ。

お菓子は花びら餅を用意したけれど、お正月だからと言うよりも、お正月にしか出回らないので買っただけだ。
お菓子は私にとって趣味なので、これも平常通りの消費行動に他ならない。

そんな質素な元旦だったけれど、本当に好きな美味しいものを味わい、なかなかよい一日を過ごすことができた。

長女のところから自宅へ帰る途中、たまたま元旦から営業している百貨店の前を通った。
初売り会場でものぞいてみようかと立ち寄ったのだけれど、目ぼしいものはなかった。
デパ地下は結構混雑していて、みんな福袋がお目当てか、いくつも手にしている人を見かけたけれど、たとえ食べ物でも欲しいものはなかった。
今時の福袋は中身が見えるものも多いので、しっかり内容を確認できるのだ。
確かに通常のお値段以上のものが詰まっているのだけれど、中に入っているもの全て自分の好きなものかと言えば、それは違う。
そう考えると決してお得でもないと、私は思ってしまうのだ。

10代の頃は、原宿ラフォーレなんかでお洋服の福袋を買っていた時期もあったけれど、大人になってからは一切福袋は買わなくなった。
同じ値段なら、そこそこ好きなもの10個よりも、本当に好きなもの一つの方がいいと私は考えている。
余計なものは欲しくないのだ。



昨年暮れはまだ暗いうちから寒い中、築地を歩き回ることも、混んだデパ地下を梯子して足を棒にすることもなかった。
暖かい家の中で、のんびりとブログを書いたり、ベランダの植物観察などをして過ごしていた。

そしてお正月もしかり。元旦の朝に忙しなくお節料理やチーズを並べ、お刺身を切ったり、その他お料理を盛り付けたりなど、キッチンに立ちっぱなしということもない。
本来なら2日である今日から、お肉デーが始まるので、すき焼きやステーキ、焼肉などの用意も油だらけになったキッチンをお掃除する必要もない。

今日はひとりなので、朝はいつも通りご飯に納豆、味のり、豚汁でサラリと済ませ、お昼は残り物のチーズとコールドミート。
夜は一人でことこともつ鍋だ。
なんと楽なのだろうか!
こんなのんびり、ダラダラとしたお正月を知ってしまったら、もはや元には戻れない。
今後もこれでいいではないかと思う。

そう言えば、知人でも同じように、お正月は特になにもしないというご家族がいた。
元旦といえどもいつもと同じだそうで、一人暮らしのお子さんなどが帰ってくることもないと言う。
それを聞いた時、いろいろなお宅があるものなのね。。。でも、つまらなくないかしら?と思ったものだけれど、つまらないどころか、実際にやってみればこの上なく快適である。

よい点はのんびりできるということだけではない。もっとすごいのが、その節約効果だ。
今回、家計簿をつけていて、笑いが止まらなかった(笑)

年末に遣ったのは、年越し蕎麦&天ぷら代。チーズとコールドミート、花びら餅代くらいのものだった。

トータルすると、¥15,000程度だ。これは過去平均額の10分の1だ。
フェイラーのハンカチが50枚は買えてしまう!

お正月のお支度に何十万も遣うのなら、ゆくゆく年末年始は夫と二人でどこか旅行でもした方がいいかなと思う。
実際、今年のお正月も夫が「こっちに(赴任先)旅行においでよ!」と言っていた。年末年始は混雑するから嫌よと辞退したけれど。。。

とにかく、もう従来通りの過ごし方をしなくてもいいのだということがよくわかった新年だった。

ここ数年の物価上昇、年貢の取り立ても年々厳しくなっているいま、旅行などと悠長なことは言っていられない日が来そうな気もするけれど。。。

私がまだ若く、これからガンガン稼ぐわよ!と、そんな士気でもあればまだしも、50も半ばを過ぎて稼ぐよりも今あるものを守る方が楽と、すっかり隠居状態だ。
夫はまだまだ「頑張って稼ぐぞ!」と、若い気でいるけれど、私はもうそんな気力はないので、無理のない程度に節約していくことは不可欠であると思っている。
そうしたことからも、なにもしない年末年始は、今の自分の暮らしに見合っていると言ってもいい。



今日は年が明けてから2日目。
いつもなら近くの氏神さまに初詣へ行っているのだけれど、今年は初詣にもいかないつもりだ。
別にお正月に出向かずとも、少し落ち着いてからお詣りしてもいいのだから。

なによりも昨年があまりに散々な一年だったため、「神も仏もないのか」と思い、少し拗ねているせいもある(笑)

いいことがなくても、普通に家族みんなが元気で、毎日しっかりご飯を食べ、屋根のある温かい家で過ごし、清潔な衣服を着て過ごせる。それだけで感謝すべきなのだろうと思う。
長い人生、山あり谷ありだ。思い起こせば、昨年よりももっと酷い年はあったはず。
拗ねたり不貞腐れたりするのはやめよう!
「足るを知る」と思い、今あるものに感謝して明るい気持ちで新しい年を過ごそうではないか。

今日は特になにもせず、ブログを書いたりしながら、のんびりと過ごしている。
そのためか、ダラダラと相変わらず饒舌だ(笑)

昨年はこのブログの更新頻度もかなり低くかった。色々と書きたいことはあれど、他の2つのブログを優先しているため、どうしても忘れがちになるのだ。
毎年言っている気もするけれど、今年も言っておこう。

今年こそはもっとしっかり更新していくつもりですと、そんな風に今ところは思っているので、「今年もよろしくお願い致します」ということで、締めくくることにする。