In other words

I really don't know life at all ...

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英語の筆記体を義務化というニュースに考えた、いかに脳を活性化されるか問題。


写真は本文とは関係のないイメージ画像で、私宛のお手紙ではありません。

かなり前になるのだけれど、アメリカで筆記体を義務化する州が増えているというニュースを見た。

タイプライター、パソコン、タブレットの普及でいつしか筆記体を使うことが少なくなったとのことだけれど、我々昭和世代では日本でも筆記体は必須だった。

私の年代(50代)では中学1年から英語の授業があり、まず最初にアルファベットを覚えることから始まる。
筆記体、ブロック体の両方を何度もノートに書き込んで覚えたものだ。

幸い小学生の時から洋楽が好きだった事で、英語への苦手意識はなく、むしろ学びたいと思っていたくらいなので、まったく苦にはならなかった。
その後、大人になってからは何十年も筆記体など使った事はなかったけれど、若い頃に学んだ事は柔らかい脳にしっかりと浸透しているせいか、使わずともいまだに筆記体で書けと言われれば書けるし、読むこともできる。

そんな筆記体もいつの頃からか、学校でも学ぶことはなくなっていった。それを知ったのは、長女が小学生になり英語学習の内容を見たときだった。
たとえ使わずとも、存在しているのならたった26文字くらい覚えさせておいてもよさそうなものをと思った覚えがある。
短い時間に多くの単元が押し込まれている状況では、省かれていくのも仕方がないのかもしれないけれど。。。

しかし、世の中、無駄なものなど一つもないというではないか。万人に必要なくとも、誰かにとっては必要であるということもあるということだ。
かくゆう私にとっての筆記体もそんな必要なものであった。

私の場合、夫が外国人のため、夫の両親、そして今は亡き祖母から届く手紙は全て筆記体で書かれていた。
今のように電子メールが普及していない時代は、手紙でのやりとりが頻繁にされていたのだ。
これが難なく読めるのも、あの中学校での学習のおかげといっていいだろう。

一方、私よりも英語力の高い子供達は、筆記体を習ってこなかったため、これらの手紙を読むことができず、私が読んで聞かせていた。

次女は筆記体に興味を持ったので、私が教えたのだけれど、まったく興味のない長女はいまだに筆記体を書いたり読んだりすることができない。

筆記体云々以前に、今はペンを持って字を書くことすら少なくなった。
メモ帳もペンも全てスマホが肩代わりしてくれる。
荷物が少なくなって便利なので、私も数年前からはスケジュール帳やメモ帳、ペンを持ち歩くことをやめ、全てスマホを活用するようになった。
こんな昭和生まれの私でさえもそうなのだから、スマホやパソコンをいじりながら育った年代では、もはや文字を書く機会などほとんどないと言っていいだろう。



日本人にとって英語は第二外国語であるから、筆記体くらい読み書きせずとも不便はないだろうけれど、英語を母国語とする国では若干の懸念も出ているらしい。
そのニュースで取り上げていたのが、歴史的文書、古い公式文書は筆記体で書かれているため、それを読めない人が増えているということだった。
それも必要な人とそうでない人がいると思うけれど、子供達の学習という点で考えればやはり読めるに越したことはないのだろう。

他にも脳を活性化させる役割もあるらしい。
活字体と筆記体では脳の別の部分が使われるため、両方を使うことで脳の活性化がより高まるということだ。

脳が活性化すれば自ずと英語以外のお勉強にも役立つ。
数学での計算はもちろん読解力なども上がり、全般的な学力向上に役立つということで、筆記体復活の動きが出てきているということだった。

そんな単純なことではないと思うのだけれど、これは面倒くさいことをわざわざやれば、それがたとえ筆記体を書くことでなくても、脳が活性化するということなのではないか⁉︎

面倒くさがり屋ゆえ、物事をいかに簡単に済ませるかを常に考え、やらなくてもいいことは極力やらないで済ませようとする。
そんなことだから、私の脳は活性化しないのではないのか?と思った。

まだ仕事をしていた頃や、子育て最盛期はやるべきことが多く、中には非常に厄介でできれば避けたいような事柄も多々あった。
しかし、そんなウェルカムでないことも、やらなければいけないことはどんなに面倒でもそれなりにこなしてはきた。

ところが次女の大学受験が終わった途端に、私には「面倒だけれど、やらなければいけない」というようなことは極端に少なくなった。

いまだ家族から投げて寄越される雑事など、厄介なことはあるけれど、それは以前の比ではない。
たまに夫が仕事関係のことやお役所関連の書類などを翻訳しろとか代筆しろなどと言ってきたり、いきなりお友達を連れてきてパーティーのようなことをしたり。。。また次女も毎週末のように大学のお友達を連れてきては、私に飯炊きおばさんをさせたり。そんな面倒はあるけれど、それも毎日ではない。



仕事もしていない専業主婦なので、時間も自由に使えるし、好きなことをしていれば一日が終わるのだ。
これでは脳も活性化するどころか、どんどん退化していくのではないか?と思う。

自覚症状も著しく、判断力や処理能力が極端に衰えていると日々感じている。
なにかを決めたら即実行!というのが当たり前だったのに、最近は一度決めてもあとからそれは最善なのか?とぐずぐずと悩むことが増えた。

大したことではないのだけれど、例えば百貨店などで面白そうな催事があれば、以前なら初日に駆けつけていた。しかし最近は「初日は混むかしら?」「翌日にあの予定もあるし、疲れちゃうかしら?」などと、先のことをあれこれ考えなかなか「行く」という決断ができない。
結局終わり頃に「やっぱり行っておかなければ!」とギリギリに滑り込んだりするのだから、最初から行けばいいものをと後から必ず思う。

そんなことばかり繰り返していたので、最近はそんな自分の優柔不断さに嫌気がさして、計画はしないことにした。

朝起きて、その時の気分で決めるのだ。
計画したことが実行されないからこそ、悶々とした気持ちになるのであって、最初から計画がなければ実行してもしなくても気分的には変わらない。

自分自身にまるで負荷を与えないことばかり考えているのだから、脳の不活性化はさらに進む。

これではいけない!と思う反面、この歳になってなぜ好き好んで面倒なことに頭を突っ込む必要がある?とも思う。

厄介事が重なるとストレスも増える。私はストレスによって引き起こされる病気は多いと考えているので、なるべくストレスのない生活を心がけているのだ。

過去、大病により二度手術を受けた。その時に「もう二度と身体にメスなど入れたくない!」心底そう思った。
幸いなことに命拾いし元気になったので、とにかく健康でいたい気持ちは人一倍強く、いかなる病気も近づけない努力はしようと思っているのだ。

そのためには常に免疫を上げていくことであると信じている。
しっかりバランスの取れた食生活と質のよい睡眠、いつも朗らかに笑って暮らすこと。これができていれば、とりあえずは大丈夫だろうと、かなり大雑把だけれど、そんな生活を心がけている。

よく眠れるし、よく笑ってはいるけれど、食に関してはとにかく甘いお菓子が大好きで、それが唯一の趣味でもあるから、そこは悩ましいものなのだけれど、昨年暮れの健診でよくない結果が出て、主治医にも注意されたので、お菓子を大幅カットし、同時に食事制限も始めた。
体感的にも次の検査ではまた正常値に戻るだろうと思う。



筆記体のお話からかなり飛躍し、もはやどう軌道修正していいのかわからなくなってきた。。。

とにかく、脳を活性化させるためにはそれなりに負荷をかけることも必要なのかもしない。
しかし、負荷をかければかけたでストレスもかかってくると思うと、そのバランスも問題になってくる。

今はまだいいけれど、あと20年も経てば私も立派な高齢者となる。その時に脳がしっかり機能しているのか、今の安穏とした暮らしの中ではいささかの不安がある。

年寄りなりに常に脳を活性化させるのは必要なことだ。そのためには今のように何も考えず刹那的に暮らしていてはダメな気がする。

ストレスなく脳を活性化させるにはどうしたらいいのか?
いまさら筆記体を繰り返し書くのもつまらない。それならば毎朝写経でもやろうか?
最近はペンを持つことも稀なので、これはいいかもしれない。手先を動かすのは脳の活性化に役立つというし。。。

そこで「脳を活性化させる方法」をネットで検索してみると、なんだかあまり難しく考える必要はないようなのだ。

規則正しい生活や好きなことを楽しむ、人とのコミュニケーションを大切にするとか、なんだか免疫を上げるために必要なことと同じようなことが書かれていた。
また脳を活性化させるためのゴールデンタイムとは起床後の2時間であるらしい。
その時間、私はだいたいブログを書いていることが多い、まだ家族も眠っているので、洗濯機を回しながらコーヒーなど飲みながら、こうしてダラダラと書いているのだ。
これも脳を活性化するために役立っているということか⁉︎

なんだか特別なことなどしなくていいようだ。
人として正しく、楽しく生活していれば、おのずと脳は活性化してくれるのかもしれない。

昨今、なんでもこねくり回し物事を難しく考える風潮にあるけれど、実はそんな難しいことではなく、ごくごく当たり前のことこそが一番の正解なのかと思った。

その「ごくごく当たり前のこと」を日々実践していくことこそが難しいのだけれど、なんとなく今の暮らしでそこそこ脳は活性化している気がしてきた。

とりあえずはブログを書くという日課をこの先も継続していこうと思ったのであった。


令和のバレンタインデー、ホワイトデー。自分へのご褒美と義理チョコ習慣。

今日はホワイトデーなのだけれど、バレンタインデーが終わる前から、早くもホワイトデー商戦が開始され、つい先日まで百貨店から美味しそうなお菓子のご紹介メールが連日メールボックスを埋めていた。

季節季節でまるで押し寄せてくる波のように、お菓子情報が入ってくるものだから、その度になにやらソワソワしてしまう。

そんな甘い誘惑に乗らないよう、なんとか理性を保とうと必死になっている私を横目に、そんなホワイトデーを楽しみにしている者がいる。

我が家の長女である。

毎年、バレンタインデー前になると、長女が「バレンタインのチョコレートを用意しないと!」と、どんなチョコレートがいいかな?と相談してくる。
私が日々おやつと称してお菓子ばかり食べているので、贈答品などを選ぶ際には必ずアドバイスを求めてくるのだ。

贈り物とはなかなか難しいものだ。どんな相手にどんな理由で贈るのか、また相手の家族構成や好み、予算まで考慮して選ばなければいけない。

その辺の聞き取りをした上で、毎年「この方にはあの店のあのお品がいいのでは?」などと、いくつか提案する。
そしてその提案通り、長女は毎年大量にチョコレートを用意するのだ。

最近一人暮らしを解消し自宅に戻ってきた長女だけれど、今年もバレンタイン前に一人暮らしの部屋を訪れると、ずらりとチョコレートの入ったショップバッグが並んでいた。
どれほどチョコレートに散財しているのかと、チラリ見ると全て同じではなく多少のバリエーションはあるようで、値段や大きさなど若干は違うものの、高価でも安価でもなく、ほどほどの値段の美味しいチョコレートという、私のアドバイスをしっかり聞き入れた内容になっていた。

これらのチョコレートはすべて仕事関係を始めとした、知人に送るためのものだと言う。
なぜかバレンタイン時期には彼氏がいないせいか、私の知る限り彼女が買うのはすべて「義理チョコ」だ。

我が家の長女は時として、まるでバブル期女子のようなことをして、よく「生まれてくる時期遅すぎたんじゃない?」と家族で笑うような女子だ。

「今どき、義理チョコなんて、誰もそんなに買わないでしょ?」

ちょっと呆れたように言うと、

「これは義理チョコではなく、日頃お世話になっている感謝の気持ち」

そんなことを言う。

特に目上の方には何かしてもらっても、こちらからのお礼などプレゼントするのは難しいものだ。

そんな日頃溜まった「ありがとう」をバレンタインを使ってお返しすると言うことらしい。



それはとても良いことだと思うのだけれど、私は知っている。。。
表向き殊勝なことを言っているけれど、実は海老で鯛を釣るべく、狙いを定めていることを。
本人は否定しているけれど、私はずっと疑惑の目をもっている。

目上の方からしたら、年若い女子からプレゼントなど頂いたら、それ以上の物をお返しするのは当然という意識だろう。
私も娘達のボーイフレンドから、おもたせなどお菓子を頂くと、次に来た時にはそれ以上のものをお返しする。

実際に長女はお渡しした義理チョコのお返しとして、様々なものを頂いて帰ってくる。
私が疑いの目を向けるのは、そんな状況証拠あってのことなのだ。

何故こうも要領がいいのか。。。
私の若い頃を思い出すと、まったく意識が違う。一体私はどのように娘を育てたのだろうと思うものの、次女は私と同じようなものなので、やはり育て方よりも本人が持って生まれた性分なのだろう。
そう思うことにする。。。

思い起こせば、私は義理チョコを渡すような、そこそこ濃密な人間関係を築いていなかった。
仕事でも組織に属してといった働き方はほとんどしていなかったし、仕事上の知り合いはいても、仕事以外のことはよほどのメリットでもなければお付き合いは一切なしだった。
ちなみにメリットとは、当時から「美味しいものをご馳走になる」であった(笑)

時に周りの女子達から、「少しずつお金を出し合って買いましょう」と声をかけられれば、お金だけ渡したというようなことはあったけれど、バレンタインに色めき立つようなことはなかった。
天邪鬼のため、そもそもバレンタイン自体が好きではなかったのだ。

夫と付き合うようになってからは、幸いなことにあげる方から貰う方になった。
欧米では男性から女性へお花などをプレゼントする習慣らしく、最初のバレンタインには赤い薔薇の花束をもらった。
花より団子の私にとっては、あの花束にかけたお金の分だけチョコレートでもくれた方がずっと嬉しい。
しかしそれは相手の好意にケチをつけるようなことになると、あえて口に出さなかった。

結婚後、家計を共にするようになってから、ようやくそれを言えたのだけれど、夫の方もそうそう簡単には引かない。
もう50を過ぎた数年前になってから、ようやく花束をやめ、お菓子をくれるようになった。
諦めずに、何年でも言い続けてよかった!私の粘り勝ちである。



私がそんな感じだったので、長女がバレンタインデーにあれほどのチョコレートを用意するのを見ると、「そこまでやるの⁉︎」と思ってしまう。。。
私と違って交友関係が広いせいもあるだろうけれど、それほど多くの方々に日頃からお世話になっているものかと思うと、やはり見返りを期待してなのだと思わざるを得ないのだ。
二十代半ばにして、それほど義理を通さねばならない人間関係などあるわけがない。

私からすれば「義理チョコ」というと、なんだかイヤイヤながら義務で渡すように感じてしまうけれど、長女の場合はむしろ嬉々として渡している。

もしも、長女が言うように、日頃お世話になっている方に感謝をこめて渡すのなら、それはいいことではないかと思うけれど、一方でもらう側の男性はどう感じているのだろうか。

男性陣の中には。お返しするのが面倒だからいらないと思う方もいるかもしれない。

あくまでも「気持ち」なのだから、面倒ならお返しなどせず「ありがとう」で済ませればいいと思うのだけれど、男性としては見栄やプライドがあるのだろう。
ほとんどの方はホワイトデーには何かしらの贈り物をしてくれるらしい。
中にはそんなプライドや見栄など持たずに、「ありがとう」だけで済ませる人もいるという。

「そんな人には翌年からはあげないの?」

損得勘定ばかりしている私は面白がって聞いてみたけれど、回答は意外にもノーだ。

「お返しがなくても、日頃よくしてくれる人には、もちろん毎年あげる」だそうだ。

そこでまた、お返しをしないことで数年分の見返りが蓄積し、一気に大きなお返しを期待しているのではないか?

そんなふうに勘繰って、長女を呆れさせたのだけれど(笑)

それは冗談として、人に物をプレゼントするというのは、贈ることによって自分も喜びを得られ、なおかつ相手にも喜んで頂くという図ができなければ意味がないと思っている。

それがたとえ「義理チョコ」だとしても、あげる人ももらう人も双方が嬉しいと思うのなら、それはそれでいいことではある。
バレンタインのチョコレートに限らず、贈り物とはそんなものだ。

しかし、最近はバレンタインには贈るよりも、自分へのご褒美として高級チョコレートを買う方が多いらしい。



意識の変化というものなのか、私の感覚がおかしいのかわからないけれど、高価なお菓子は「贈るもの」「頂くもの」であり、自分で買うには少し高過ぎると思うような高価なものこそ、プレゼントにしたいと思う。
しかし今は、そんな高価なものは自分のためにとなっているという。

昭和の時代と違い、自分律することよりも、自分を甘やかしてあげる時代なのだ。
それは昨今何かにつけて言われる「◯◯ハラスメント」に通ずる。

少しでも嫌な思いをすると「◯ハラだ!」と声高に言うものだから、なんとも息苦しく窮屈な社会になったものだなと思う。

必要以上に自分に厳しくする必要もないし、する価値のない我慢をするのは愚かなことだと思っているけれど、何事も自分中心でなければ文句を言う、それが罷り通る社会とは一体なんなのだろうか、古い人間は思ってしまうのだ。
逆境が人間力を育んでくれることもあると、これまで生きてきた人生で実感している。
自分に優しいばかりでは、人間成長できないものだ。

そんなことを言うと、また「老害」という言葉が返ってきそうだけれど。。。

とはいえ、自分へのご褒美というのもいいものだなと思う。
第一に大切にすべきは自分自身だ。自分が幸せになれることにお金を遣うのは、自分への立派な投資であると思う。
私も高級チョコレートこそ買いはしないけれど、疲れたりするとぶらりと旅行へ行ったりする。それも自分へのご褒美なのだと思う。

問題はご褒美を貰うような事は何もしていないのに、ご褒美をあげてしまうところなのだけれど(笑)

いまだ昭和脳の私からすると、昨今のバレンタインデーやホワイトデーには色々と思うところはあるけれど、自分の好きなことにお金を遣って、幸せを感じることができるのであれば、「義理チョコ」だろうが「自分へにご褒美」だろうが、なんでも構わない。

お若い方々は自分の「好き」を楽しみながら、どんどん経済を回していって欲しいと思うのであった。。。

ホワイトデーが終わったら、次はなにがくるのか。。。

お菓子で言えば、和菓子などはその季節ごとに行われる行事に関連したものが店頭に並ぶ。

すでに桜餅は登場している、端午の節句の柏餅、水無月、葛焼、、、もうキリがない。

私は成人病も気になるお年頃になったので、これまでのように「好きなお菓子を好きなだけ」とはいかないけれど、自分へのささやかなご褒美として、毎日美味しいおやつを楽しんでいきたいと思っている。

そのためには「自分へのご褒美」と言えるような事も、少しはしなければ。。。

今日はホワイトデーだ。今年は長女がどんな鯛を釣ってくるのか、少し楽しみではある(笑)


作り手の人間性は重要?美味しければいいのか、清廉潔白を求めるか問題。


※写真は本文とはまったく関係のない自作フランナチュールです。

少し前のこと、Xをつらつらと見ていたら、某お菓子屋さんの話題が、炎上とは程遠い程度にとても遠慮がちに話題になっていた。

そのお店のオーナー(作り手)の私生活に関することで、糟糠の妻を裏切り若い女性に走ったとかいう、とてもよくあるお話しだったのだけれど、それに対して客側の声として多かったのが、「いくらお菓子が美味しくても、買いたくないよね」といった否定的なご意見であった。

私ならどう思うのだろう?
やはり作り手の人間性が気に入らなければ、その人の作ったものまでも否定するのか。。。

これは食いしん坊にとっては、考えれば考えるほど難しい問題であると思った。

正直言えば、美味しいものを作りお客に対しても誠実に向き合ってくれているのなら、プライベートがどうであろうとこちらには関係ないと思える。
一方でやはり身近な人間に対して不義理を働く人など信用できるわけがないと、あまりよい印象は持てないものだ。

私のごく身近でも昔似たようなことがあった。
ご主人はちょっと名の知れた方なのだけれど、知名度と自身の評価が上がってきたと思ったら、若くて可愛い女の子と浮気し、家に帰らなくなった末、糟糠の妻に離婚を求めてきた。
小さな子供3人を抱える奥さんから直接相談を受け、なんだかとても気の毒な話だなと思ったものだ。

相談されたものの、他人様のことにあれこれアドバイスできるわけもない。私にはそのような経験もないし、安易なアドバイスをして余計に事が拗れてしまっても責任は持てないからだ。
しかし、同情を全面に押し出した慰めの言葉で濁してしまうのも違うだろうと思い、どうしたものだろうかと思った。



結局、「もし私があなたの立場だったら」ということで、アドバイスというよりは身勝手なアイデアだけを提供することにした。
それは「離婚に応じずに意地悪をする。ただしこちらの要求する金額だけ慰謝料を現金払いしてくれるなら、お金と交換に離婚届をプレゼントしてあげよう!」
そんな事だったと記憶している。

幼子を3人も抱え、今後20年かけて育てていくのだ。なによりも先立つものはお金だ。お金が全てではないけれど、問題のほとんどはお金で解決する事ができるものだ。ないよりもあったほうがいいに決まっている。

気持ちの離れた夫、しかも糟糠の妻と可愛い我が子を捨てていくような人間に縋りつくのは時間の無駄だ。
さっさとお別れして、新たな暮らしを作っていく方がよほど明るい未来が見える気がする。なんといっても子供が3人もいるのだ。
私も2人の娘がいるけれど、成人した今は本当に強い味方で頼りになるものだ。
今は小さくて無力でも、懸命に育てているうちに子は成長する。その時は素晴らしいバディまた援軍になってくれるはずなのだ。
そんな未来のバディ達との明るい未来に目を向けた方が、人生はきっと明るいものとなるだろう。

しかし明るい未来にはお金が必要なのである。妻という立場を明け渡せというのなら、退去費用の負担は当然の義務であると思っている。

離婚の慰謝料とはいかほどなのだろうか。その人の所得なども関係してくると思うけれど、それほどの額ではないと聞く。
不義理をされた挙句、雀の涙ほどの慰謝料では割が合わない。

とは言え、ないものからは取れないので、そんな時はどうするか。
私なら離婚せず、とりあえずは現状維持とする。
しかし何もしないわけではない。
嫌われついでにとことん嫌われてやろうと、「子供3人育てなきゃいけないのよ!お金ちょーだい」と夫のみならず、お相手の女性の元へも鬱陶しいくらいに足を運び続け、夫には養育費を、お相手には夫のレンタル代として、ちょこちょこと生活費を集金にいくだろう。
それでもダメなら、夫とそのお相手の家族や友人知人のところまで集金に行く。
まるでタチの悪い街金のようだけれど、自分の行いに責任を持つというのは、大人としては当たり前のことだ。義務を果たさず、都合のよいことばかりするのなら、こちらも相応の事をお返ししてあげようではないかということだ。

そんなの無理だというご意見もあろうかと思うけれど、私はそう思わない。
何事においても、一人の人間が命懸けでなりふり構わずに成し遂げようとするれば、必ず事は動くと信じている。
本気でその人間を破滅させてやろうと狙いを定め、何年何十年でも攻撃し続ければ、雨垂れだって硬い岩に穴をあけられるはずだ。

そうは言っても、私はとても面倒くさがり屋なので、もしも払うお金がないのなら、せいぜいその夫とお相手女性に借金のお膳立てをして、お金を借りてまでも支払い、離婚届と交換してもらおうとするくらいだろう。

去る者を追っても仕方ないので、とにかく納得する額の慰謝料さえ払ってくれれば、綺麗さっぱり別れるが一番だ。
きっと世の中の多くの人は同じだと思う。



これまた知人の話になるのだけれど、夫の友人は離婚する際に自分の私財全て妻に渡して別れたという。
離婚理由は浮気などではなく、ただ性格の不一致。正確には妻の後ろにいる親類縁者との付き合い(お金の無心)に根を上げたからだったという。それでも自分が別れたいのだからと、お金で解決したのだそうだ。
妻の方も一生暮らせるほどのお金を貰ったせいか、おとなしく離婚に応じてくれたという。
一方の男性は、そのせいで一文無しになってしまったけれど、自分はその分また稼げばいいと、猛烈に仕事に励みまた資産を積み上げていっている。

この話を聞いた時、なんと男気のある人かと思ったものだけれど、これくらい潔い人だからこそ、仕事でも成功するのだろうなと思った。

相変わらず話が脇道へ逸れまくっているけれど、件の浮気した洋菓子店の店主にしろ、知人の夫にしろ、結局のところ夫婦の問題なのだ。

人は自分に都合のいいことしか語りたがらない。きっと夫婦の関係においても他人が預かり知らぬ事も多々あるのだと思う。
きっと他人が知っているのは30%ほどしかないのかも知れない。残りの70%が夫婦にしかわからない事であるなら、他人が表向きの言動だけで判断するには無理がある。
結局はのところ、こうした問題は他人がとやかく関知することではないのだ。

さすがにそれが知り合いのお菓子屋さんなどであったら、「美味しいから関係ないわ!」といそいそお買い物に行く気にはなれないけれど、どこの誰だか知らない、メディアでしか見聞きしたことのないような他人であれば、私は好きなお菓子を求めてお買い物へ行くだろう。

「やってる事を考えると、美味しく食べられない」などという意見もあるようだけれど、私は美味しく食べられる。

それにしても、SNSというのは面白いものだ。本来であるなら隠されていた心の声がそのまま文字として表に出てくるのだから。
そのせいでとても不愉快になる事もあるけれど、物事はなんでも受け止め方次第だ。
我が家の次女は、たとえネットで間接的にだとしても汚い感情に触れるのは嫌だとSNSはやらないという。
一方、長女はと言えば、「おもしろいじゃん」と楽観的に受け止めている。

心の声とはいっても、そこに書かれていることの全ては真実ではないだろうし、鵜呑みにする必要はない。他人様の離婚問題同様、そこにある真実は30%くらいかなと思って客観的に見ているのが一番なのだろうと思う。

何はともあれ職人さんにはプラベートがどうであれ、美味しいお菓子を提供し続けてくれればそれでよし!と思うのであった。。。