In other words

I really don't know life at all ...

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百貨店のイタリアンで出会った老後を楽しく生きるご婦人との一期一会。

少し前に長女の付き合いで日本橋の百貨店へお買い物へ行った時のこと。
ランチは行きたいイタリアンがあったのだけれど、陽射しも強く暑かったため、その店へ行くまでの気力がなかった。
面倒だからと百貨店の中のイタリアンレストランで済ませることにした。

百貨店の中にある飲食店はまずハズレがないので、その点はよほど期待値を高くしない限りは十分満足できる。

ランチのピーク時間を過ぎていたせいか、週末にも関わらずその日、店内は空席が目立った。

案内されたテーブルに着き、私は魚介を使った本日のパスタセット、長女はトリュフを使ったキノコリゾットをチョイス。

さほど待つことなくお料理が運ばれてきたのと同じくして、すぐお隣に初老と思しき女性が一人案内されてきた。

長女とのお喋りに夢中になり気付かずにいたのだけれど、いつの間にか空いていた店内のほとんどの席は埋まっていた。

なぜかそんなことがよくある。空いていて静かだからと選んで入った店も、気づけば満席になっているということが。
お店でお買い物をしていても、誰のいなかったのに、後ろに行列ができていたり、とにかく人を吸い寄せる磁石のような特性を持っているらしい(笑)
これは昔からなので、割と身近な人間の間ではよく知られていて、知人が飲食店をオープンする際も、無料で食事を提供するからとにかく毎日座っていてくれないか?とお願いされたりしたこともあった。
暇な私は美味しいお料理に釣られて、遊び半分毎日その店に顔を出し、遺憾無く人寄せパンダ能力を発揮したものだった。
さすがにいつもご馳走になるのは気が引けてきて、繁盛店になったところでお暇を頂いた。そんなこともあった。

とにかく、その日も静かだったレストランに少しだけ騒めきが加わったのけれど、客層が割と高めのカップルなどだったので、うるさいということはなかった。



さて、お隣に案内されたご婦人、注文したのは私と同じ本日のパスタ。そしてシャルドネのグラスを注文した。

一人で百貨店のイタリアンに来て、昼間からワインとは、なんと粋なことだろう。。。
どんなご婦人かチラリと盗み観ると、年齢は70代くらいか、華美ではないけれど、シンプルな質の良さそうなラフな服装、アンティークらしい腕時計にジュエリーを身につけていた。

とても素敵だなと思った。私ももう少し歳をとったらあんなふうになれたらいいなと、私には珍しく興味を惹かれた。

そんな気持ちが伝わったのか、私がパスタを食べ終わるのを見たご婦人が声をかけてきた。

「このパスタ、量が多くありません?よく食べましたね」

確かに普通よりは若干量が多かったかもしれない。しかし人一倍食べる私には簡単に完食できる量だ。
パスタに加えサラダにパン、そして長女が食べ切れないと残したリゾットまで平らげたのだ。

しかし、雰囲気的に「こんなのお茶の子さいさい」などとは言えない。

「そうですね。結構多かったですよね。私もやっと食べました」

かなりよそゆきの返答をしてみた(笑)

そこから「歳とともに食べられなくなるのよね」などと会話が始まったのだけれど、なんとそのご婦人は80歳を過ぎているという。
年齢よりもかなり若く見えるのには、私も長女もたいそう驚いたものだ。

聞けば80代となった今でも一人で海外旅行へ行くという。しかもヨーロッパへ2週間滞在などかなりしっかりと旅行されている。

「趣味がワインなので、動けるうちに世界のワイナリーに足を運んでいるの」

そんなことを言う。

フランスのブルゴーニュはもちろん、イタリアのトスカーナ、今年はスペインへも行く予定だと言う。

これには正直、目から鱗がポロリと落ちたような気持ちになった。

私は若くて体力のあるうちにヨーロッパなど遠方へ、歳をとったら近場のアジアを旅しようと若い頃から考えていたからだ。

幾つになっても元気でありさえすれば、どんな遠方の海外にでも行けるのだ。もちろん若い頃とは体力も違う、しかし気力さえあれば旅の形は変わろうとも、旅をすることはできるものなのだなと。

そこで必要なのは「動機」というものなのかもしれない。
件の女性も「ワイン」という自分の好きなもの、趣味に突き動かされて旅をしているのだ。
しっかりと目指すものが見えているからこそ、そこへ向かうための気力や行動力が生まれる。



ちょっと話は変わるのだけれど、最近興味深い話を聞いた。
そう遠くない将来、仕事をする必要のない社会になるだろうという予測があるらしい。
すべての仕事はAIロボットに任され、仕事のみならず日常の家事などもすべて人間が手をくださずとも、AIロボットが肩代わりしてくれるというのだ。
にわかに信じがたい話だったけれど、私達がまだワープロをカチャカチャやりながら、調べ物でもあれば本を見たり、然るべきところに電話できいたりしていたものだけれど、20年もしないうちにすべては手に収まる小さなコンピューター(スマホ)によって誰もが手軽にできるようになった。
当時はそんな未来を微塵も想像していなかった。
そんな進化を思うと、AIロボットのお話もあながち空想とは言えないのではないかとも思う。

もしもそうなった時、人はなんのために生きるのか?自分の存在理由に行き当たるのではないだろうか。。。

そうなった時、自分の趣味なり好きなことがない人は、どう人生を充実させていけばいいのかと。

趣味のない私のような人間はいくらでもいる。
家族からすると、私の趣味は「お菓子」だというけれど、自分的にはそれは趣味というよりも、日常生活におけるただのおやつ習慣なのだけれど。。。

毎日どんなものを「今日のおやつ」にするか?
日々そんなことを真剣に考えているのは、少し度が過ぎているとも思わないでもないが(笑)

最近は旅に出ても、そんなおやつ探しが中心になっている。
先日の京都旅も朝から晩まで好きな和菓子屋さんを渡り歩き、美味しい和菓子を堪能したものだ。

自分では趣味であるとは思っていないけれど、自分の「好き」を追いかけるという点では同じような意味を持つのかもしれない。



話を戻すと、もしも自分の存在理由を問うことを余儀なくされる未来が来たとき、今と同じようにお菓子探しをしているかといえば、それはわからない。

元来の面倒くさがり屋だ。それでもその土地に行かなければ手に入らないお菓子があれば、食の欲求に突き動かされて足を運ぶ。しかしAIが代わりに美味しいおやつを探しできてくれれば、私は動くことなく、家でそれを味わうだけになるだろう。

旅に出て街の景色に目を奪われながら、テクテクと歩き、非日常を楽しむこともなくなるのだろうか。
なんとも味気ないものだ。。。

遠くない未来が一体いつなのかはわからない。確かなのは、20年後には今の社会もガラリと変わっているだろうということだ。

しかしその変化、進化がどれほどのものになるか、私にはまだ想像がつかない。
はっきりと見えない未来に気を揉んでいるほど人生は長くないのだから、やはり余計な心配などせずに、これまでのように今楽しいと思えることを追いかけるのが一番なのかなと思う。

子供達二人も成人した。これからの人生は二巡目だ。若い頃のように、家族の生活よりも自分の好きを最優先させたところで誰も文句を言う人はいない。

まだ一線で働いている夫のサポートはしなければいけないと思っているけれど、夫自身が「これまで頑張ってきたのだから、これからは好きなことをしてね」と言ってくれている。
「旅行も好きなように行けばいいし、好きなお菓子も健康に気をつけて好きなだけ楽しんだらいい」
そう言って、むしろ背中を押してくれているくらいだ。

夫自身もお友達と遊びに行ったり、北海道から九州まで、友人を訪ねて遠出をしたり、それなりに楽しんでいる。
旅などは二人一緒に楽しむご夫婦も多いそうだけれど、私は一人旅派なので必然的に夫もそうなってしまったようだ。

いずれにしても愛だ恋という時期はとうに過ぎた中年夫婦。お互いに健康にだけは注意して自分の好きなことをしながら、人生を楽しめばいい。
そして何か困難があった時は、二人で手を取り合い、窮地を脱するべく助け合い、よりよい人生を送ろうではないかという、戦友のような関係でいいと思う。

いいことばかりではないのが人生であると承知しているけれど、どんなことがあっても前向きに努力をしていれば、多少厄介なことがあっても、なんとかしのいでいけるものだ。

人の一生は長いようで短い。だからこそ、年齢にとらわれずに、件のご婦人のように好きを追い求め、この人生に悔いなし!と思える生き方をしたいと思ったのであった。


SNSがブログのアクセス数に与える影響を実感したというお話。

最後にこのブログを投稿してから、気づけば2ヶ月近く経過していた。
ブログが書けないほど忙しいわけではない。ただ他の2つのブログも書いているので、この不定期更新ブログの存在をしばし忘れてしまっていたというのが正直なところだ。

忙しくはないけれど、さして暇でもないという、専業主婦にありがちな生活で、やることは探せばいくらでもあるけれど、やらないで済ませようと思えばまたそれも可能という、忙しくなるも暇になるも自分次第といった感じなのだ。

放置するつもりもなかったのだけれど、最近他のブログに加え、X(旧Twitter)も楽しいものだと思うようになり、そちらも覗くよになったので、そのせいもあるのかもしれない。
アカウントは7年ほど前からあったのだけれど、あまり熱心ではなかった。
なんといっても饒舌な専業主婦だ。140文字という文字数制限があっては、書きたいことも書けない。
ブログはオワコンだと言われながらも、ブログから離れられないのは、いくらでも好きなことが書けるからだ。

それでも最近は140文字制限にも若干慣れ、なかなか楽しくなってきた。

ネットコミュ障ゆえ、相互フォローの方々との交流は少ないのだけれど、それでも有益な情報を得たり、他愛のない呟きに温かいメッセージを送って頂いたりと、メリットも感じるようになってきた。

元々このX(当時はTwitter)は、ブログのために始めたものだった。
ブログ記事を貼り付けることができると知り、入口は多い方がよかろうと始めてみることにしたのだ。
しかし、前述したように文字数制限が面倒で、ほとんど放置していた。

昨年あたりから、またぼちぼちと始めてみたのだけれど、やっていれば少しずつフォロワーも増えるようで、より多くの情報が得られるようになってきた。

ここでいう「情報」とは主にお菓子関連なのだけれど、お菓子マニアと言ってもいいお若い方々が実に精力的にお菓子ハンティングしている様がよくわかる。
例えば催事などの様子など、どれだけ混雑しているか、どれだけ並んだかなどなど、リアルタイムに近い形で情報が流れてくるのだ。

今はもうお菓子のために朝から並んだりはしないけれど、この情報であまり混んでいないようだから行ってみようか?などと、逆に混雑回避するのにも役立っている。

お菓子以外にもフォロワーさんから、自分が逃していた情報を頂いたりすることもあり、SNSも使いようによってはかなり有益なものなのだと実感したものだった。


そんなSNS(X)で最近、面白い現象を目にした。
いつものようにブログ記事のリンクをつけて呟いたお饅頭のポストがなぜなのか800以上リツイートされ、その影響でブログのアクセス数が爆増していたのだ。

Xを見た方々が、ブログ記事も読んでくれたということなのだ。
一過性の事象ではあるだけれど、少し驚いた。。。

いまやSNSの影響力はあらゆるところで目にするけれど、この拡散力はあなどれないものだなと改めて実感した。

何の気なしにブログとXを紐付けてみたのだったけれど、あくまでもブログ最優先とあまりXのことは気にかけてこなかった。
たまにくだらない呟きをしたり、パン作りやお料理の待ち時間に経過を記録しようとXに写真などを載せてみたり、それもなかなか楽しいものだと、ただそれだけでやっていたのだけれど、これは少し考えを変える必要がありそうだ。

ずいぶん前からGoogleアルゴリズムも公式最優先で個人ブログにはあまりスポットが当たらなくなった。

これは私のブログが何年経っても変わり映えせず、その間にもっとお面白いブログが多数登場し、順位を奪われたというのもあるのだろう。
タイプライターからワープロ全盛期を過ごしてきた昭和の専業主婦には、とても太刀打ちできないスキルを持った若きブロガーが多数いる。
そう考えれば、アクセス現象も納得だ。

納得はしているし、今のスタイルを変えるつもりもないのだけれど、さすがに月に数千アクセスも減少しては、ちょっとばかり悔しい思いもあったりする。

悔しいけれど、元々マネタイズ目的のブログではなく、子育ての終わりを実感し始めたころに、老後の趣味になればと始めたブログだ。
アクセス数に頓着することもないのだけれど、あったものがなくなるのは性分的に悔しいのだ(笑)

そこにきてのSNSの影響に、これは使いようによってはアクセス回復の一助になるのでは?と単純ながら思った。

しかし、だからと言っていきなりXに張り付いたりできないのが私なのだ。
相変わらずブログは一所懸命に書くけれど、ともするとXの存在を忘れてしまう。

私は確固たる目的がないと、猛進できないタイプの人間だ。
ブログやXの目的はなにか?と問われれば、よく言えば趣味で悪く言えば暇つぶし。。。
目的が趣味や暇つぶしでは、当然のことながら力は入らず、気が向いた時にゆるゆるとやることになる。

なにか大きな野望のようなものでも生まれてくれれば、もう少し必死にやるのだろうけれどそれもない。
野望と言わないまでも、承認欲求などもその原動力になることはわかる。しかしもはや50代の一介の主婦には承認欲求すらない。
誰かに認めてほしい、賞賛して欲しいという気持ちよりも、誰も何も言わないで、好きにやらせてよ。という気持ちなのだ。
もはや承認も干渉と紙一重だ。
昔から「出る杭は打たれる」というではないか。

ひっそりと自己満足にできればそれでいいというのが正直な気持ちだ。
しかし、そうやってきたブログがある程度のアクセスを集めるようになると悪い気はしない。そしてそれが激減すると今度は悔しい気持ちになるだから、人の気持ちとは複雑なものだなと思う(笑)

相変わらず努力をしようという気持ちは希薄だけれど、今回のことでSNSがブログに与える影響というのを実感することができた。

これは本当に予測不能で、こうすればバズる!という計算ができる方もいるのだろうけれど、私などはまったく訳がわからない。
わからないなら、どうしようもないのだ。
私のような人間は、ただ運を天に任せ、時折なにかのご褒美のように、こんな出来事があれば御の字!
そう考えた方がよさそうだ。。。

注文していないのに勝手に置き配された大量のドリンク。誤配された物の行方。

昨夜、遅く帰ってきた夫が玄関で何やら騒いでいるので、何事かと出てみると、我が家の玄関先に大量のドリンクが置かれていた。

ペットボトルや缶ではなく、ファストフード店などで提供されるようなプラスティック容器に入ったドリンクと、キャップ付きボトルに入ったドリンク、両方合わせて20個ほどのドリンクが透明の手提げ袋に入った状態で置かれていたのだ。

どうやらどこぞの配達員により置き配されたようだ。
もちろん我が家は注文はしていない。
配達された時にインターフォンも鳴っていない。
夜遅くに、ただひっそりと置き去りにされたのだ。

一つや二つならまだしも、大量のドリンクが玄関先に並んでいるのはかなり気味が悪いものだ。
面倒だったけれど販売元に連絡しようと思い、領収書かレシートなどは入っていないかと中をのぞくも、店名は袋やボトルに書かれていたものの、レシートのようなものはないのでどこの店舗から配達されたものなのかはわからない。
ますます気持ちが悪い。。。

とりあえずは、一番近い店舗に連絡をとるほかないと思った。。。

しかし、勝手に玄関先に置き配されたのだ。なぜ私がそのような苦労をしなければいけない?
それもおかしな話だ。
夫に「これ、どうする?」と尋ねると、「どうするもこうするも、自分のものではないし、そのうち取りに来るでしょう」と、そのままにしておけという。
気になりつつも、夜も更けていたので、放置したまま私は寝たのだった。



今朝、「もしや、間違いに気づいた配達人が取りに来たかも?」と、玄関ドアを開けると、そこには依然としてあの大量のドリンクが鎮座していた。

お店の商品などは、今やネットで検索すればどんなものかは容易にわかる。
下世話だけれど、調べてみた(笑)

そのドリンク、こよなく健康にこだわる、所謂意識高い系の方々が好んで愛飲するような、少しばかり高価なドリンクだった。
私にはまるで縁のないものだったため、その分野に明るい長女に「玄関のドリンク、◯◯という店の◯◯なんだけど知ってる?」と尋ねると、「そうなの?あれ高いから玄関にある分だけでも1万円はゆうに超えるよ」と。

そんなドリンクが誤配されたら、普通なら注文した人が「届かないじゃないのさ!」とクレームを入れてもよさそうなものだ。

まさか取りに戻るのが面倒で、配達人が自腹で弁償した?
いや、この金額を肩代わりするくらいなら、面倒でも引き取りにくるばすだ。

ひょっとして、近所のお宅でパーティーでも行われていて、酔っ払ってあれこれ注文したために、一軒くらい注文したものが届かずとも、忘れてしまって気づかないとか?

我が家の近隣はとにかく外国人が多く住んでいるため(我が家もだけれど)、よくパーティーどんちゃん騒ぎしているのが聞こえてくる。
昨夜は金曜日だ。パーティーにはうってつけの華金であった。
ところが、どこのお宅からも大騒ぎしている声は聞こえてはいなかった。
やはりどこかの健康と美容に心血注いでいる意識高き御仁が注文したものに違いない。。。

もはや誰がどんなものを注文しようがどうでもいいことなのだけれど、とにかくこのドリンクをどうしらいいか、朝から頭を悩ませていた。

廃棄するにも中には液体が入っているため、そのままゴミに出すこともできない。
処分するためには、一つ一つ中身のドリンクを捨て、プラスティックゴミ回収日まで待って出すしかない。キャップ付きのものは資源ゴミに分類される類のボトルだから、これまた回収日が異なる。
そのような面倒なことをした挙句、大量のゴミを回収日まで抱えるなどということを、なぜ私がしなければいけないのだ⁉︎
考えるだけで悶々としてくる。

そもそも自分のものではないのだ。後から「勝手に処分した!」などと難癖をつけられては、激しいバトルに発展する可能性もある。
争いはネガティブ感情の塊だ。免疫が低下する恐れがあるので、とりわけ健康に留意しなければいけない今、それは避けたい。

本当に困ったものである。。。



我が家はかつて、毎日のように◯ーバー◯ーツによる誤配があり、かなり頭を悩ませていた時期があった。

日に3回、朝昼晩とインターフォンが鳴り、そのたびに「うちではありませんよ!」と叫んでいたものだけれど、利用していたと思われるお隣のマンションのOLはどうやらお引越ししたらしく、以来誤配は落ち着いていた。
一時期、インターフォンのところに「◯ーバーの方へ、うちではありません」などと貼り紙をしようかと思ったこともあるけれど、さすがに景観が悪いのでやめた。
そうこうするうちに誤配の嵐が止んだので、そんなこともすっかり忘れていたのだった。

それから数ヶ月、何者かによるいきなりの大量ドリンク置き配事件勃発だ。

やはり面倒でも商品を販売しているお店に連絡するべきだろうか?

そこで、まずはネットで配達可能地域の店舗に当たりをつけ電話してみることにした。
ところが営業時間が夕方からになっている。。。
メールという手もあるけれど、昭和の人間なのでメールよりは断然電話だ。その方が文字を打つよりも早いし、相手の様子も伺いしれる。

結局、お店に連絡することはできず、私は用事があったので、ドリンク問題はそのままペンディングとし、とりあえず外出することにした。

それから3時間後、帰宅してみるとあったはずのドリンクが姿を消していた。
ようやく配達人が取りに来たのか?と思いホッとしたのだけれど、真相は違っていた。



留守番をしていた夫に尋ねてみたところ、なんとドリンクは警察が持って行ったという。

いつまでも玄関先に余計なものを置かれては困ると、一応隣近所に心当たりを聞いてみたところ、誰も注文した覚えはないということで、警察へ通報したのだそうだ。

夫はこれを「不審物」であると結論づけたのである。
「知らないうちに何者かによって置き去られた謎の液体」ということで、警察に相談したところ、「落とし物」として処理しますと、そのドリンクを回収していったそうだ。
これにて一件落着である。

最近は私もamazonなどで物を買うと、置き配されることがほとんどで、直接顔を合わせずに受け渡しができる「置き配」は、面倒もなくよいシステムだと思っていた。
受け取る手間が省けるだけでなく、防犯上の観点からも人によっては安心できる。
我が家の娘が一人暮らしをしていた時、そんなシステムが安心材料にもなっていたものだ。
しかし反面、コミュニケーションがないことで不便なこともあるのだ。

私は◯ーバーをはじめ、食べ物のデリバリーは近所のピザ屋さんくらいのものなので、◯ーバーの詳しいシステムは知らない。

近所を歩いていると、レンタルサイクルで配達をしている人をよく見かける。そんな様子からどこかの組織に属し働いているのではなく、所謂個人で配達を請け負っているのはわかる。

そうなると一体責任の所在は誰になるのか?
商品を販売する店舗か配達人か、◯ーバーという会社なのか。。。

自分にはまったく関係のないところで行われた取引に、自分が知らぬうちに巻き込まれ、頭を悩ませていると思うと、本当にうんざりする。

申し訳ないけれど、街で◯ーバーの文字をみるたび、過去の度重なる誤配を思い出し、苦々しい気持ちになり、思わず眉をしかめてしまうほどだ。

今回の件が誰によってなされた事かはわからない。
気持ち悪い思いはしたけれど、実際は数ある誤配の一つなのだろうと思う。

それでも、気になる。。。
注文した人も、配達した人も、一体何をしているのだ?と。
少なからず金銭が関わってくる問題だ。人様のお財布事情に頓着する必要はないのだけれど、事の顛末がわからないため、なんだかスッキリしない。

後日、警察から何かしらの連絡でもあればいいのにと思うところだけれど、きっとそれも期待薄であろう。

とにかく、もう誤配は真平ごめんだ。