In other words

I really don't know life at all ...

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ショックだった出来事。バター騒動をきっかけにもう働くのは無理と思った件。

昨日、Xのおすすめで「◯◯乳業のバター自主回収」というポストが目に入った。
我が家は外国人(夫)がいるため、とにかくバターの消費量が多い。そのため、お安いものがあれば国産、海外産問わず、そこそこ美味しくいただけるものであれば、まとめ買いしておくことも珍しくない。
定期的に起こるバター不足への備えでもあるからだ。

確か◯◯乳業のバターも冷蔵庫にあったはず。。。
すぐにチェックしてみると、150gの加塩バターが5つあった。
◯◯乳業のホームページに記された自主回収のお知らせページを表示したスマホを片手に、早速製造番号を調べてみることにした。

「どうか該当しませんように。。。」

わざわざ梱包してクール便で送り返すのは、いくら着払いとはいえ面倒である。

しかし残念ながら、5個のうち3個が該当商品であったのだ。

さて、どうしようか?
自主回収ということは、返品するか否かは本人の決断となる。

再びホームページをよく読んでみる。

製造する際のベルト内破損により金属線が混入している可能性があるとのこと。
例えば混入していたとしても、目視できるものであれば取り除けばいいのではないか?とも思う。
これが虫や小動物だったりすると、気分的にかなり気持ち悪いので迷うことはないのだけれど、金属線とはかなり微妙だ。

比較的簡単に目視できる程度の大きさであるなら、使う際に注意して見つけたら取り除けばいけそうな気がする。

そもそも回収該当品である600万個超全てのバターに異物が混入している訳ではあるまい。異物混入バターを引き当てる確率はかなり低いと思われる。
しかし、まったくないとも言い切れない。だからこその自主回収ということなのだ。

ニュース記事などによると混入していた金属線は長さ約18mm、太さ約0.07mmだそうだ。
さすがに見つけるのは難しいのではないかと思った。これが表面に付着していればいいけれど、バターの塊の中に入っていたとしたら、バターを常に塊で使う我が家の場合はほぼ発見は困難だろう。

あれこれ考えた末、ホームページに書かれていたように、北海道の工場へ送ることにした。

今朝、早速3つのバターを保冷袋に詰め、ついでに保冷剤もつけて梱包した。
これが廃棄になるのはなんとも心苦しい思いであったけれど、万が一廃棄処分とならない可能性もあるのではないか?と思い、食品であることも考えて、できる限り丁寧に梱包した。



さて、本題はここからである。

お買い物ついでに近所にあるクロネコさんの営業所へ直接荷物を持ち込んだ。

ちょうど着払いの伝票をもらったところで、もう一人年配の女性が入ってきた。

同じく「着払い、クール便で」と言っている。

思わず振り返り「バターですか?」と尋ねると、「そうなの、たまたま一つ当たっちゃったわ。あなたも?」と。

そんな短い会話の後で、まるで徒競走のよーいドン!の如く、同時に伝票を書き始めた。

お隣の女性はもう70歳くらいだろうか、妙にこなれたテキパキとした方に見受けられたけれど、私の方がずっと若い。
お互い老眼ではあろうけれど、間違いなく私の方が早く書き終わり、営業所のお姉さんに伝票を差し出すだろうと疑うことはなかった。

ところが、先に椅子から立ち上がったのお隣の女性の方であった。

は、はやい。。。

記入する内容はほぼ同じである。
宛先や品名は全く同じ。住所も違うのは番地とマンション名くらいのものだ。
つまりは、その女性の方が処理スピードで優っていたということなのである。

完全なる敗北であった。。。

これには少なからずショックを受けた。

思えば件の女性、見た感じただの主婦という感じではなかった。
入ってきた時からずいぶん小慣れた感じで、初めて訪れた感じには見えなかった。
身なりもかなりきちんとしていたのだけれど、近隣の有閑マダムとは明らかに違っていた。

これ想像の域を出ないのだけれど、ずっと仕事を続けてきた人に違いない。
あのテキパキとした感じは、のんびり主婦のそれではなく、職業婦人をイメージさせるものであった。

考えてみれば、何十年も気を張ってお仕事をしてきた人と、自分のペースでのんびりと暮らしていた人とでは、同じ歳をとるのでも、その取り方はまったく違うのだと思う。

仕事をしていればどんな立場であろうと自分のした仕事に対しての責任というものが生じる。故に頭をフル回転させてミスのないように、効率的によりよい成果を上げるという果たすべき任務がある。

一方、私のような子育ても卒業してしまった無職の主婦はといえば、誰かに気を遣うわけでもなく、作業スピードに縛られるわけでもなく、ただ自分のペースでのんびりと過ごしているのだ。

両者では脳の鍛えられ方も身体の動きも、かなり違いが出るだろう。

一回り近くも年上の女性に負けるとは、自分の能力がいかに劣化しているかを激しく自覚したのだった。

そして思ったのが、「もう働くことはできない」ということだ。
今は老若男女問わず、とにかく働いて年貢を納めよ!という時代だ。
定年退職後もとにかくどんな雇用形態だろうが働けという空気になっている。



働くのが嫌いで働かないわけではない。どちらかと言えば家事や育児よりも仕事の方が好きだった。
しかし子供が産まれてからは、人に預けるのが嫌で仕事はすっぱりとやめた。
性格的に仕事と家事•育児を半々でという生活は無理だったのだ。
夫もまた仕事に全力投球しながら、なおかつ家事の折半などは到底無理だと言い、どうせやるならどちらかを100%で!と、珍しく夫婦の意見が一致したため、以来私は専業主婦となったのだった。

あれから25年になる。途中、知人に誘われてお手伝いで仕事をしていた時期もあったのだけれど、期間限定で半年程度の仕事を2度ほどしただけなので、ほぼ24年間は無職であったのだ。

この25年の間、学校のPTA活動、地域の活動、そして二人の子供のお稽古事や受験関連、さらにはお母様方とのお付き合いと、それなりに忙しくしていた。
仕事でなくても、そんな活動では時に頭も使うし身体も動かすものだ。

しかし3年前、次女が難関である国立大へ晴れて入学したのを機に、私の役割はすべて終わったように感じたのだった。
まだ学費の支払いなどはあるけれど、それは夫の役割だ。

思い返してみれば、子育てはあっという間に終わったようにも感じるけれど、想像した以上に大変ではあった。
その全てから解放されたと思った瞬間から、私の中に少なからずあったあらゆる能力が劣化し少しずつ消えていったのだと思う。

自分でも物忘れはよくするし、考えられないようなうっかりミスも日常茶飯事、判断力や処理能力など仕事に必要なものはことごとく失われている。

こんな状態で仕事など始められるわけがない。
人間その気になればなんでもできる!そう思える昭和世代ではあるけれど、実際に追い詰められでもしない限りは無理だ。

それなりの覚悟がなければ、周りのお荷物となり、業務を滞らせ、迷惑な存在に成り下がるのは目に見えている。
何もできないくせに、「昔は私だって!」とそれなりにプライドもあったりするものだから、余計に始末におえない。
今更苔の生えた昭和のプライドなどひけらかすようなみっともない真似もしたくない。

生活に困ったらそんなことも言っていられないけれど、幸いなことに夫が元気に働いてくれている。
何かやりたいことがあればやれば?という感じだけれど、これといってやりたい仕事があるわけでもない。
それならゆっくりしていれば?と言われるので、今はありがたくそうさせていただいている。

私は贅沢な暮らしなど望んではいない。
物欲もなく、あるのは食欲だけ。
好きなお菓子が食べられればそれで満足な生活なのである。

万が一の覚悟は必要だと思うので、とりあえず英語のブラッシュアップくらいはしておこうと思ったりするのだけれど、なにぶんブログを書くのが忙しくお勉強する時間はない(笑)

ただこれ以上、無能にならぬよう多少の努力はしたいとは本気で思っている。
もはや判断力や決断力などの衰えは自分でも頭を抱えているくらいなので、放置して重症化すれば日常生活に不便が生じることになる。

まあ、そうなった時は何かしらの方法で上手く生きていくことはできるだろうと、これまた昭和世代お得意のバブル脳で、根拠のない自信が支えてくれたりもするのだけれど…。

ブログやXに関しても、もうそろそろやめようか?そう思ったりすることもあるけれど、これも一つの脳トレだと思って、もう少し継続することにした方が良さそうだ。

今日の一件でますます働ける気はしなくなったとショックだったけれど、根が楽天家なので明日になればそんな出来事もすっかり忘れて、相変わらずのんびりやっていることだろう。


14年前の3月11日、東京での出来事とその後の生活を思い出す。

前回の投稿から数ヶ月、書こうと書こうと思いながら先送りになっていた。
終わったわけでも放置でもないので、ゆっくり書ける時、気が向いた時に更新していくつもり。

今日は14年前の3月11日に発生した東日本大震災のことを思い出した。

その日のことは今でもよく覚えている。

まだ二人の娘は小学生で、私はPTAの集まりが終わった後に子供達と一緒に帰ろうと他のお母さ様方とホールでお喋りしながら待っていた。

そこにきた大きな揺れ。
あまりに揺れるので近くの空いていたお教室の机の下に身を伏せることにしたものの、一向におさまらぬ激しい揺れに恐怖を覚えた。
あちこちからあがる悲鳴に、神戸で震災を経験したことのある方が、「慌てないで、大丈夫だから!」と声かけてくれ、そこにいた皆が少し落ち着いたのを覚えている。

あの激しい縦揺れを経験した話は、以前彼女から聞いたことがあり、「大丈夫!」という言葉が妙に説得力を帯びていたのだ。

ようやく揺れがおさまり、子供達が全員校庭に避難したあと、保護者のお迎えがあった子から先に帰宅できることになったので、すぐに娘二人を連れて学校を出た。

帰宅する前にそのまますぐにコンビニへ向かった。トイレットペーパーやお水などはストックがあったので、とりあえず電池やガムテープ、紙皿などを買った記憶がある。インフラも停止しているだろうと、牛乳、パン、おにぎりなど、とりあえずすぐ食べられるものを買ってから帰宅した。

その時点でまだ夫とは連絡が取れていなかった。
電話は一切繋がらず、メールもだめ。。。

LINEに関しては、当時、友人の一人とLINEで連絡を取り合っていたため、私自身は使用していたのだけれど、当時はほとんどの人がそのアプリの存在すら知らなかった。
日本でLINEを使い始めた最初の30人くらいに入っていたのでは?とういうくらい、まったくLINEが知られていない頃で、当時はメッセージを送る相手も一人だけという状況だった。

とにかくあの日はあらゆる連絡手段がまったく機能しなかったのだ。
そんな中、連絡手段として一番役に立ったのがTwitterだったそうで、家族でアカウントくらい作っておこうと言い合ったのを覚えている。

結局、私達が帰宅してほどなく、夫もコンビニの袋を提げて帰ってきた。
何かあると、真っ先に食べ物の心配をする家族なのである。



帰宅してみると、家の中は出た時とほぼ変わりなかった。
あれほど揺れたのに、無造作に置いておいた物が一つ二つ床に落ちたくらいの被害で済んだ。
ただ夫が飼っていた魚の水槽の水は、かなり床に溢れていたので、それなりに揺れたようだった。

地震にだけは強く作ってある」
そんな大家さんの言葉が決め手になり、地震の起きる半年前に引っ越したマンションだったが、これは大正解であった。
なんせその前に暮らしていたのは15階建のマンションの上階だったので、つくづく低層に引っ越してよかったと思ったものだ。

帰宅して電気、ガス、水道の状態を確認すると、ガスだけ自動で元から落ちていて、そちらはすぐに復旧できたので、すべて問題なく使うことができた。

ほっと一息つき、テレビをつけて初めてその惨状を知り、すぐに福島に住む友人に連絡するも、当然のことながら繋がらず、とりあえず落ち着くまで待つことにした。

そこからは情報収集に明け暮れた。
今のようにTwitterを使っていなかったので、テレビだけが頼りではあったのだけれど、天邪鬼ゆえそれを鵜呑みにもできなかった。それでも観てはいたけれど。。。

もう一つ海外からの情報も有益だった。
日本には米軍基地もある、それだけでなく東京にはあらゆる国の大使館、また外資系企業のオフィスがあり、駐在員も少なくない。

そんな人たちに本国から寄せられる情報も、友人知人達と共有した。

ほとんどの友人達は、東京から出る準備をしていた。

企業がチャーター便を用意して本国へ帰国させたり、関西など西へ避難させたりと、私の友人知人達も皆んな東京を離れる決断をしたのだった。

それは福島原発の被害にやる放射能被害を恐れてのことだった。
名前は伏せるけれど、お大臣さん達の家族もいの一番に東京を脱出していた。
そんな情報が入ってくるものだから、「一番情報の集まる政府機関の人達が、自分の家族を逃しているのだから」と、東京脱出を決断したようだった。



我が家も正直迷った。。。

まだ子供達は育ち盛りの小学生だ。何かしら影響があってはと思うと、やはり東京を離れるべきなのか。。。

しかし夫も同時に情報収集をしていて、海外組もまた東京に家族と共にとどまる決断をしている人も相応にいることがわかった。

つまりは各々が独自の考えで、東京を離れるか否かの決断をしているだけで、切羽詰まった緊急事態という事ではないという事だったのだ。

結局、一時的に東京を離れたとしても、また戻ることになる。
放射能があっという間に消えるわけではないのだから、それこそ別の土地に移住でも覚悟しない限りは、一時的に逃れても同じことだと思った。

夫にもそう説明し、私は東京に留まりたいと言ったところ夫もそれに同意し、我が家は東京に留まることを選択したのだった。

ただ、やはり心配なのは子供達のことだ。しっかりとした情報が出るまでは、決して外には出したくない。

学校に電話してみると、登校は自己判断で構わないとのことだったので、当面は学校を休ませて家に籠ることにした。

気休めだけれど、ガムテープで外気が入りそうなところは全て目張りして、空気清浄機をまわして少しの安心感を得た。

食べるものにさえ困らず、トイレやお風呂が使えれば問題ない。

スーパーやコンビニの棚は流通が滞りスカスカではあったけれど、米と小麦粉があればなんとかなる。

そんな時でも美味しい物が食べたいと、私はパンを焼いたり、うどんを捏ねたり、すいとんを作ったりと、忙しくキッチンにたっていた。


毎日のようにテレビから流れてくる東北の様子を目にしていた。その頃にはようやく福島に住むお友達とも連絡がつき、みんなの無事を確認できホッとした。


当時を思い出すと、目に浮かぶのは真っ暗になった東京の街だった。

我が家の住む地域では計画停電にはならなかったけれど、街灯などはすべて電気が切られ、無数にある飲食店もほとんどすべて閉店状態で、いつも煌びやかな街がとにかく真っ暗だった。

その暗さに重ねるように、この先どうなってしまうのか、先の見えない不安に恐れのようなものを抱いていたのが思い出される。



震災から数週間経つと、東京から脱出していた人達もボツボツと帰ってきた。
中には本格的に沖縄あたりに移住してしまったファミリーもいたけれど、ほとんどはまた元の生活に戻ったのだ。

子供達もまた学校へ通い始めたけれど、普通の暮らしが戻ったわけではなかった。
依然として放射能に対する不安はあり、こと学校給食にも保護者はかなり敏感になっていた。

中にはガイガーカウンターのような機器を手に、学校の周辺を毎日歩き回っていた保護者もいたくらいだ。

学校給食の栄養士さんも産地の公表などをしながら、必死で工夫していたようだ。

私もまた普段口にする食材にはかなり過敏になっていて、とある筋から愛知県から西のものなら問題ないと聞き、なるべくそちらのもを選ぶようにした。
余談だけれど、京野菜に興味を持ち積極的に買うようになったのもそれがきっかけだった。

そんなことをしばらく続けていたけれど、やはり限界がある。
お友達が福島にいることで、その風評被害のような話も聞いていたので余計だ。
いまでは美味しい果物も買うし、福島のみならず野菜も千葉や埼玉など西の物へのこだわりはなくなった。

それは子供達が成長したことも関係している。私の背の丈を追い越し、すっかり大人と変わりないくらいに成長したこともあり、以前のようなこだわりは次第に薄くなったのだ。

あれから14年。。。
お友達を訪ねて福島や仙台へも旅行している。
しかし、全て忘れてしまったわけではない。やはり今でもあの地震が起きた時のこと、その後の日々は鮮明に思い出すことができる。

昨年の元旦にも能登で大きな地震が発生し、甚大な被害が出た。

日本はどこで大震災が発生してもおかしくない。南海トラフ、東京直下型など、想像すると本当に恐ろしいのだけれど、東日本大震災、そして阪神淡路大震災能登半島地震などを教訓に、できる備えはしておこうと、気持ちを新たにした一日だった。


催事先行入場等メリットありながらも百貨店のカードを作らない理由。

昔から百貨店で開催されている催事によく足を運んでいるのだけれど、最近はよほど欲しいお目当てのものがない限りは意図して足を踏み入れないようにしている。

別に百貨店に行かなくなったわけではない。
今もお洋服や靴、バッグなど雑貨、もちろんデパ地下ではお惣菜をと、変わらず足を運んではお買い物を楽しんでいる。
とにかく面倒くさがり屋の私にとって、なんでも揃っている百貨店という場所は、一気にお買い物を済ませることができる便利な場所なのだ。
ただ、百貨店で開催される催事へ行くことを控えているというだけのこと。

理由はいくつかある。

まず昨今の百貨店はとにかくひっきりなしに食に関する催事を開催している。
例えば9月から10月に渡り北海道、京都などの物産、またイギリスやフランス展など立て続けに開催されていた。
これに限らず、それこそ毎週毎週と言ってもいいくらい、なんらかの催事が開催されている。
モノのみならず、地方からまた海外から作り手その人を招き、大々的に宣伝をして集客する。
もはや職人もアイドルのような扱いで、サインを求めたり、一緒に写真を撮ったりしている光景も見かけるほどだ。

そんな催事フィーバーで開店前からたくさんのお客さんが押し寄せて、連日行列なんてことも日常茶飯事の状況なのである。



9月か10月頃だったろうか、普段なかなか行くことのできない地方から好きなお菓子屋さんが出店していたので、私も珍しくそんな催事に足を運んだのだけれど、とにかく並ぶのだ。
1時間も並ばなければお菓子ひとつも買えないことに、ふと冷静になれば「そんなにしてまで?」と自問することになる。
「時は金なり」といつも言っているのに、ただ無意な時間を過ごしているような自己嫌悪に襲われたりして、あまり気分はよくない。

それでも食べたいものがあれば、待っている間にスマホでブログなど書きながら、少しは無駄な時間ではないと納得させているのだけれど、実際そんなところで立って書かずともいいではないかとも思っている。

そんな時間問題も大きな問題なのだけれど、催事にばかり足を運んでいると、もう一つ食べ切れない問題にも直面することになる。

せっかくきたのだからと、美味しいそうだなと思ったもの、珍しいものを目にすると、片っ端からお買い物をしてしまう。
自分の財布の紐が緩すぎるのがいけないのだけれど、お菓子ともなるとついつい理性が崩壊してしまうのだ。

一つのお店で一万、二万と買い物をするから、これが数店舗回ればどうなるか。。。
宝飾品を買うわけでない。たかがお菓子に数万円のお買い物をしたら、それこそ両手一杯のショップバッグを抱えて帰ることになる。

食べ物には消費期限というものがあるから、持ち帰ったら今度はそれを消費するのに忙しくなる。
お菓子ばかり食べて、きちんとした食生活ができなくなるほどだ。

幸いお菓子が大好きで大量に食べることのできる夫、少しだけれど甘いものが好きな子供達もいるため、ひとりですべて食べるのでなく、一つのお菓子をみんなでたべるので、買ったお菓子はしっかり食べ切っている。

それでもひっきりなしにお菓子食べ放題状態というのもどんなものか。。。

そんなことを考えて、少し買い控えようと思うものの、実際に催事へ足を運ぶと「これは普段食べられない」などと欲張ってしまい、理性を保つことが難しくなるのである。

一番いいのは、行かないこと見ないことだ。
行かなければ見ることもない。見なければ食べたくもならないのだから、それが一番手っ取り早い。
自分でお買い物ブレーキがらかけられないのなら、乗らないのが一番ということだ。



時間問題、食べ切れない問題、散財問題

これらを考えても、私のような人間には美味しいお菓子を食べるというメリット以上のデメリットがあるのだ。

しかしこれが理由の全てではなく、もう一つ百貨店カード問題というのがある。

最近よく直面するのが、百貨店系カードの◯◯カードを持っている方限定。
◯◯カードを持っている方は先行入場などといったその百貨店の発行するカードホルダーに対する優遇制度。

店頭に並んでいるというのに、カードを持たぬ者は、場合によってはお買い物もできないという事態になっているのだ。

そんな特典を利用したければ、素直に百貨店の戦略にのってカードを作ればいいだけ。それで問題解決なのだけれど、天邪鬼ゆえそう簡単に屈することもできない(笑)

そして、お得に釣られてカードばかり増やしても。。。という思いがあるのだ。

私には長きに渡り使用しているクレジットカードがあり、光熱費からスマホまで全ての支払いをそのカードに一本化している。
そして一年に一度ポイントを百貨店で使用できる商品券に変えるのだ。
ポイント還元率のよいカードのため、使用するカードを分散させずにポイントを稼ごうというわけだ。
かれこれ20年ほど、そのカードと念のための予備カード2枚しか持ち歩かない。
もう一枚、以前少し仕事をした際に強制的に作らされた銀行系のカードがあるのだけれど、そちらはただ持っているだけ。使用したことはない。

昭和のバブル期、長財布にズラリとカードを並べている人もよくお見かけしたものだけれど、今はそんな人を見ることもなくなった。
スマホにアプリを仕込んで電子決済が当たり前となったいま、それも当然だ。

そんな時代に新たにカードを作ろうという気にもなれない。

とりあえず作っておいて、必要な時だけ使えばとも思うところだけれど、使う時と言えば百貨店催事くらいのものだ。

今は以前に比べて、百貨店の催事にも行かなくなった。
いや、行ってはいるけれど、以前ほどはという意味で、それこそ一昔前までは催事場を飛び回っていたものだ。

昔はとにかく足を運び、あれもこれもとお買い物して喜んでいたものだけれど、いまは逆に百貨店離れし、なるべく個人店でお買い物をしたいなとも思いはじめているくらいなので、わざわざカードを作るメリットは今の私にはそれほどないかなと、面倒くささも手伝っていまだ持っていないのだ(笑)

現金派の私でも一年間で使用するカードの額は馬鹿にならないので、数十万とはいかないけれど、そこそこまとまった額の商品券を手にできる。
まとめて洋服やアクセサリー、小物などに使うこともあれば、特に欲しいものがない時はすべて百貨店でのお菓子購入に使用している。

結局のところクレジットカードは増やしたくない、百貨店の戦略にのりたくはないという天邪鬼、それだけなのである(笑)