In other words

I really don't know life at all ...

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誰もがもの言える時代。言葉が翼をもって駆け回るいまだからこその息苦しさ。SNSのなかった時代と今。


「なんでもいいから、とにかくその思いをどこかに吐き出したい」

そうした欲求は時に争い難く、独りよがりなことをやたらめったらTwitterに呟いたり、ブログに何万字も書き散らかしたりする人の気持ちが、私にも少しわかる。

私のブログの中にもそうした傾向があらゆるところに見え隠れしているからだ。Twitterにやたらめったら呟くような大胆さは残念ながらないけれど、表舞台には決して立つことのないという安心の中では結構ボソボソと言っているのだから、やっていることに大して変わりはない。

別に何者でもない個人の日記など、オピニオンとして表に出してもなんら差し支えはないだろう。
そもそもどれだけの人の目に留まるかを考えれば、それほど神経質になる必要もないと思われる。

ただ、誰もがそうやって言いたいことを発信できる。それが簡単に叶う今の時代はいいのか悪いのかわからない。
だからこそ、大きな声を上げることが躊躇われるし、表に出す勇気も持てない。


吐き出すという行為はある意味自分の気持ちを反芻する機会にもなるのだけれど、逆に苦しくなるということもあり、Twitterなどで罵詈雑言する輩をみると、Twitterという場所があるからこそ荒むのではないのかとも思う。
文句を言えば言うほど心はどんどん暗い方に傾いていき、まるで泥の中に半分埋れながら外の世界に向かってその泥を投げつけているような感じだ。

そんなことをしてどうなる?と思うのだけれど、そうすれば少しは気が晴れた気になる人もいるのだろう。それも少しわかる。

よく奥様方の井戸端会議で、延々と人の噂話をしている人がいる。ほとんどが遠回しの悪口だ。
もっとも自分達は泥の中にいる事すら気付いていないだろうけれど。。。

逆にお花畑の中にいて、「綺麗でしょ?綺麗でしょ?」と花吹雪を巻き上げても、それを「綺麗ね」と褒めてくれる人ばかりではない。
嬉しかったことや良いことを語れば語ったで、それが自慢だと人から斜め上の方からいきなり拳を振り上げられるなんてこともあるからだ。

いまは何をしても揚げ足を取られる時代になった。
SNSなどの普及によってあからさまになった他人の生活や感情が否が応でも目に飛び込んでくる。

赤の他人の言動に対して、猛烈な怒りを持つことなど以前であったら考えられないことだった。

しかしいまは違う。どこの誰かもわからない人に怒りを持つのは容易いことになった。そして怒りを持たれる側になることも。

どこに何を書き呟くにしても、それに対して反論を唱える人はいる。それは昔も同じことであった。違うのは、相手の顔が見えないこと。どこでどんな暮らしを営んでいる人なのか、名前はおろか年齢も性別もわからないのが当たり前の世界なのだ。

逆の立場からいえば、その匿名性ゆえに自由に振る舞えるということもあるのだと思う。
そこが問題なのだけれど。

どこの誰か知らない人と繋がるからこそ楽しいと思えることもあるのだろう。ネット上にはあらゆる出会いが溢れている。しかし、一方ではそれが不幸な結末を迎えることも珍しくない。

それでもSNSなどまったく存在しなかった昔の方がよかったとは言い切れない。
その普及によって暮らしが向上したという人もいるだろう。

どんなものにも光と影はある。それを光とするか、影とするか。光としたものはきっとよりよい人生を送る。影とするものは自身をどんどん荒ませていく。

何がいいのか悪いのかわからない社会に生きているのが今の私たちなのだろう。

「言葉は言葉呼び、翼を持って駆け回る」

三島由紀がそんなことを言っていた。
鋭利なナイフを携えた言葉ではなく、大きな花束を抱えて花吹雪を撒き散らしながら駆け回る言葉が欲しい。