「頑張って」という言葉、わりと気軽に意味なく口にしてしまう言葉で、自分でも言ったこと、言われたこと、それこそ何百万回ある⁉︎というほど、もはや挨拶のような言葉になっている。
「これからご飯の支度しなくちゃ」
「あら、頑張って」
「これから暑い中、子供達のお迎えよ」
「大変ね。頑張って」
「あー、明日からまた仕事だわ」
「頑張ってね」
例をあげたらきりがない。
たいして意味のない愚痴やボヤキに対し、どう答えていいかわからない時、私たちはなんとなく「頑張って」という言葉を投げかけたりする。
心から「頑張れ」と思うこともあるけれど、ほとんどの場合はあまり考えずに、軽く「頑張って」を使う。
まさに「励ましもどき」の乱用だ。
ただ、私はこの言葉を言われることが好きだ。
頑張ってね!
頑張れ!
そう挨拶のように軽く言われる言葉さえ、清々しく感じる。
もっと深刻な場面で、使われる「頑張って」に至っては、援軍得たりとばかりに「よーし!」とやる気が出てくる。
以前、生死に関わる病に罹患し手術することになった際、友人達が決起集会を開いてくれた。
彼女達が何度も口にする「頑張って!」に、どれだけ心強くしたことだろう。
「頑張って」という言葉そのものが、まるで呪文のように、私の生命力というもの増大させていくように思えた。
「頑張って」という一言は、私にとっては、力強くも清々しい、ポジティブワードなのだ。
しかし、昨今ではこの「頑張れ」は、あまり歓迎されていないともいう。
「頑張れ」とは言わないで欲しいという人も多くいるそうだ。
自分がポジティブワードだと思っていたことが、実は人によってはNGワードになり得るということもあるのだ。
言って欲しくない理由が、
「こんなに頑張っているのに、これ以上頑張らないといけないの?」
「これ以上、どう頑張れというの?」
そんな気持ちにさせられるからだという。
言われて不快に思う人は、ほとんどが全力で頑張っている人だろう。
そんなギリギリの叫びが、「頑張って」という言葉の意味を変異させているのかもしれない。
頑張っても、頑張っても、どうにもならない事態を悲観しているときに、「頑張って」とお気楽に声をかけられればカチンともくるだろう。
また、「頑張って」という言葉は、高みの見物を思わせるところもある。
大変な状況の中、共に戦うのではなく、「それはあなたの問題だから、頑張って」と、トンと突き放すように背中を押されているととらえられないこともない。
そうなると、「他人事だと思って。。。」「少しは手を貸してくれてもいいんじゃない?」と、いじけたくなったりもするだろう。
そのイライラを相手にぶつけるか、そっと自分の中に飲み込んで、さらにストレスを溜めこむか。。。
そんなことをあれこれ想像していると、まるで挨拶をするように、安易に「頑張って」というのは、思慮に欠けるような気もする。
自分が言われて嬉しい言葉だからと言って、誰もが同じように喜ぶわけではない。
「自分がされて嫌なことは人にするのはやめましょう。」
幼い頃、親や幼稚園の先生から教えられたことだ。
これはよい教えであったと今でも思うし、よき人間関係を築く上では役に立っているといえる。
では、逆はどうだろうか。
「自分がされて嬉しいことは、人にもして差し上げましょう。」
こんな教えは聞いたことがない。
これがまさに「頑張れ」の類なのだろう。
自分が言われて嬉しくても、人によっては不快に思う人もいるのだから、余計なお節介となり得る事はやめましょう。と、そんなところなのだろう。
子供達にもよく言われることなのだけれど、なんでも気合で乗り切ろうとするのは、昭和世代の悪い癖なのだそうだ。
もはや精神論で苦難を乗り切れるほど簡単な社会ではなくなっているのは承知している。
やればやった以上の成果が得られた昔に比べ、わずかな成果しか得られないのなら、気合云々の問題ではない。
ただ、気持ちが内側に向かってしまっては、落ちる一方だ。
気合ではどうにもならないのを承知の上で、ポジティブな気持ちで物心に挑むのは悪いことではない。
というか、それしか術が分からないともいえるけれど。。。
だからこそ、私は「頑張って!」と言われるのが好きなのかもしれない。
そんな背中をドンっと押されるような言葉を投げつけられると、やる気が出てくるのだ。戦う前にいたっては、どんな敵にも勝てそうな気すらしてくる。
「頑張って」という言葉を口にすることが憚れる社会とは、どれだけ疲弊しているのだろうと思う。
そんな社会を生きていくのは息が詰まるようだ。
お互いに「頑張れ」、「あなたも、頑張って」と素直に言えて、素直にその言葉を受け入れることのできる社会はもう戻ってこないのだろうか。