近頃は結婚せずにお一人様を貫く女性も多くなったという。
自分で働き収入を得て、マンションを買い、一国一城の主人として、旅行にグルメ、美容に恋愛にと、自由に人生を謳歌しているのかと想像すると、正直羨ましさがある。
既婚子持ちにとっては、その安心感と引き換えに我慢を強いられることも多い。
とりわけ独身時代、好き放題してきた人間にとっては、その不自由さがたまらなくなることがあるのだ。無い物ねだりと言われればそうなのだけれど、ひとりになりたくてもなれない時、ぶらりとどこかへ旅に出たくても出られない時、これが独り身だったらな。。。と、考えたことは数知れない。
そんな事を共に語り合ってきた友人が、思いもかけず離婚をした。
いざ、それが現実となると、独りで生きていくのも大変なものだと、側で見ていて思い知らされた。
ところが、半年もしないうちに、その友人は嬉々とした様子で、再婚したいという話を打ち明けてきたのだ。
すでに50目前という歳になっていたので、とても驚いた。
あれほど自由を求めていたのに、また同じ事を繰り返すのか?と?
驚いたのは、再婚の意思だけでなく、お相手が20歳以上も歳下の若い男の子だったせいもある。
もはや、自分の息子と大差ない年齢で、どうしたら結婚という話になるのか。。。
現世ではもう2度と他人のパンツは洗いたくなくと思っている私からしたら、ふたたびソフトな子育てに乗り出そうとしているとしか思えなかった。
そうは言いつつ、アラフィフ、バツイチの彼女が選んだお相手には興味があった。
若い頃の彼女は、それはそれは理想が高かった。まさに3高(高学歴、高身長、高収入)狙いは当たり前、そこに知名度なども求めてくるものだから、さらにその理想は高くなる。
しかし、彼女はそんなお相手とめでたく結婚までこぎつけ、子供を持った。
これで安泰とも思われた彼女の人生だったけれど、20周年の結婚記念日を前に、突然離婚を宣言され、思いもよらず独り身となったのだ。
50近くなって、それまでずっと専業主婦として生活していた女がひとりで生きていくのは大変だ。
諸事情により、慰謝料などはゼロ。経済的な面でのヘルプも当然皆無。
そんな情け容赦ない離婚劇であったのだけれど、とにかく仕事を見つけ、引っ越し費用や当面の生活費は借金で賄い、新生活をスタートさせた。
それから半年も経たないうちの再婚話だったものだから、これには私も驚いてしまったのだ。
やはり経済的に少しでも苦労したくないがための再婚なのかと思っていたのだけれど、そうではないという。
大変でも、これまでの贅沢を忘れ質素に暮らせば、独りでやっていけないことはないという。
そうは言いつつ、人の稼いできたお金で暮らしてきた専業主婦は、やはり誰かに養ってもらう生活を求めるのだと思った。
ところがお相手のプロフィールをきいて、以前の結婚生活とはまったく違ったものになることが予想された。
仕事、年収などを聞いて、またしても驚いたのは、かつての彼女であったら、おそらくは眼中なしとみなしていた相手だったからだ。
ついでに写真も見せてもらったが、背も高くなければイケメンでもない、どちらかと言えば冴えない感じのする男性だった。
かつての旦那様を知っているだけに、なんとコメントしていいのだか困ったくらいだ。
どんな相手とだろうが、再婚したら彼女はあれほど嫌がっていた家事をすることになるだろう。掃除、洗濯、食事の支度と、誰かのためにまた自分の時間を差し出すことになるのだ。あれほど、家事や育児が苦痛だと言っていたのに。。。
おまけに、かつての専業主婦生活ではなく、今度は仕事をして生活費を稼がねばならない。
それでもなお、再び結婚という選択をするということは、やはり独りは寂しいものなのだろうか?
思い切って尋ねてみると、それも違うという。
では、なぜ再び同じことを、というより更に自由を奪われるような道を選択するのか?
その答えは意外なものだった。
「求められるから」
誰かから必要とされ、求められることに喜びを感じたのだという。
確かにこの歳になれば、誰かに求められていると実感することはほとんどない。
自分がいなくても、家族の生活はどうにでもなるだろうし、存在意義を問われれば、はてな?となる。
「あなたでなければダメなのです」
そんなことを言ってくれる人は誰もいない。
夫も子供達も、私がいなくても多少の不自由はあるだろうけれど、それでも問題なくこれまでと同じように生活していくことだろう。
存在意義を問われても、私がここにいる理由は、ただ家族だから、子供達の母親だから、そんな当たり前のことしか出てこない。
少なくとも子供がいれば、親としての責任はまっとうしようと思っているから、自分から家を出るようなことはしない。
時々、たまらなくなって家出でもしてみようかなどと衝動的に思うこともあるけれど、現実には「明日のお弁当はどうしようか?」「朝食のパンがなかったな」などと、具体的なことが頭に浮かんできて、実行には至らない。
もしかしたら、それこそが「求められている」ということなのだろうか。
誰にでもできることだけれど、やっぱり自分がやらなくちゃ。そう思うことが、求められているにすり替わっている。というか、自分を納得させる要因になってるのかもしれない。
主婦なんてそんなものなのかなと思う。。。
それを無くした友人は、それに代わるものを求めたのだとも考えられなくはない。
一番わかりやすい形での「求められている」実感だ。
本当のところは当事者ではないからわからない。
あれほど渇望し、ようやく得た自由をあっさりと捨てられるほど、誰かに求められることは生きる上で必要なことなのだろうか?
そう考えたとき、若い頃に出会ったある僧侶の言葉が思い出された。
「自分のために生きていると考えるのは傲りだ。
人は自分のためにではなく、誰か他の人のために今世を生きている」
誰かから必要とされているからこそ、生きる権利を与えられているというような話だったと記憶している。
誰かから必要とされること自体が、生きる意味になっているということだろうか。
長らく忘れていたけれど、それを聞いたとき、どんなに辛いことがあっても耐えられそうだなと思ったのを覚えている。
生きることが自分のためでなく、誰かのためで、その誰かにとっては自分が生きていることに意味があるというのなら、頑張らなくちゃいけないなと。。。
その誰かは誰であってもいいのだろう。
必ずしも結婚し新たな家族を持たなくても、親兄弟であったり、友人だったり、たまたまその時だけ、偶然に縁が結ばれた人でも。。。
求められることと、自由は同じ尺度では測れないものだったのだ。
友人もまた新しい人のために生きる道を選び、結果的には望んだ自由を手放すことにはなるだろうけれど、それが生きる意味であるというのなら、なんとなく納得がいく気がした。
自分の選択で今を生きているのではなく、
「誰かのために生かされている」
そう考えると、複雑だったこともシンプルなものだと思えてくるから不思議だ。。。