先日、某大学病院へ行った。
子供が少し前から不具合を抱えていて、近所のクリニックで診ていただいていたのだけれど、どうも改善の兆しが見えない。
特に大きな病気というわけではなかったので、それほど深刻には考えていなかった。
ただ、出された薬やこちらがした質問の答えにいささか不安を感じたため、病院を変えることにした。
いくら深刻な病ではないとはいえ、少しでも問題があるならきれいさっぱり片付けてしまった方がいいということで、詳しい検査をするため大学病院に紹介状を書いてもらった。
こんなことはなんの自慢にもならないのだけれど、私は病院や医者選びにはちょっとうるさい。
過去に大病をしたおかげで、どんな病院、どんな医者がいいのか、頭の中でしっかりとしたイメージが出来上がっている。
かつて、自分が病気を疑ったとき、訪れた病院で、何度も聞いた言葉。
「多分、なんでもないでしょう」
「様子を見て、また何かあったらきたら?」
そんなとき、自分の頭の中に「?」が浮かんだことがたびたびあった。
そんな時は、必ず「もっと詳しく検査できる病院に紹介状を書いてください」と、言うようにしてきた。
その結果、最終的に重篤な病が早期発見され、命拾いをしたという経験があるからだ。
自分の「感」をあなどってはいけない。
そう、つくづく感じた。
今回もそうだった。
やはりその医者と話す中、「?」が浮かんだ。そして、大学病院を紹介してもらった。案の定ここでこれまでわからなかった症状について、原因解明となった。
ほとんどの場合、自分で「このお医者さまがいい」と指定できるわけではない。
ある意味、どんな医者に診てもらえるかは、運によるところも多いと思っている。
これは名医か否か?は関係がない。
病気というのは難解なもので、同じ病でもその人によって症状が違っていたり、痛みひとつとってみても、個人によってその度合いも異なる。
つまり、医学書に書いてある通りにはいかないということだろう。
今回発見したのは、医者との相性ということ。
娘の主治医となったのは、私と同年代の女医さんだった。
診察中の話で、娘と同じ年頃の子を持つ母親だということがわかった。
娘の話を一通り聞き、診察をした女医さんは、これまで原因不明と言われてきたものを、いとも簡単に解決してしまった。
「いつも、こんな習慣がある?」
「こんな時、症状がひどくならない?」
言われることがいちいち的を得ていて少し驚いた。
ひょっとして、エスパーか⁉︎
違った。
「私も同じ年頃の子供がいるので」
その一言で、ようやく納得した。
娘に出ていた症状の原因は一つではなかった。あらゆることが重なった結果に出てきたもので、だからこそ普通の症例とは異なり、原因解明できなかったようだ。
子供の行動パターンがわかっているからこそ、病の根本を推測できたのだ。
もちろん年齢や大学病院という環境から、多くの臨床経験があるのだろうけれど、それだけではここまで深く推察することはできなかっただろうと思う。
病院で勤務医として働きながら、子育ても必死にやってきた人なのだろう。
話していてそれがよくわかった。
まったく頭が下がる。。。
どんな経験も無駄にならないものだと思った。
医者の仕事と子育てなど、どう考えても結びつかないと思っていたけれど、子供を育てるという経験が、医者としての知識を後押ししているのだ。
これは患者と医者の相性がよかったのだ。
たまたま同じ年頃の娘をもつお母さん医師に診ていただけたことが、解決に繋がったと言える。
これまで処方されていた薬は逆効果であり、それら全てをやめ、女医さんのアドバイスに従い、ほんの少し習慣を変えただけで、症状はどんどん改善されてきた。
やはり相性のよい医者と巡り合えるか否かは、運も大きく左右されのだろう。
ちなみに、私が医者に求めるのは、「安心感」だ。
診察に訪れ、そのドアを出るときに安心感が得られれば、その人は自分にとって「いい医者」だと思っている。
いわば、それが医者を選ぶ一番の基準になっている。
「安心感」はどんな医者から得られるのか?
思いつく項目を考えてみた。
・明るい雰囲気の医者
柔和な笑顔があるということは、冷静で前向きである証だ。
暗い顔をして診察されると、もうそれだけで不安になってしまう。
前向きに病気と向き合うためにも、明るい人柄の医者が安心できるものだ。
・話を濁さない医者
病院へ行って、これという原因がないとき、「んん〜」と首を傾げるだけの医者がたまにいたりする。
こちらが、思いつく限りの原因などを、尋ねても、「それもどうかな〜」「ん〜、違う気がするしな〜」と、煮え切らない。
原因が分からないなら、はっきり言えないのもわかるけれど、そんな時は必ず「とりあえず、様子みて」だけで終わるのだ。
様子を見ていられないから来たのに。。。と、こちらは悶々としてしまうのだ。
・行動してくれる医者
原因が分からないと、「様子を見て」とか「とりあえず」と薬を出されることが多いのだけれど、よい医者はなにかしら行動してくれることが多い。
「こんな病気も考えられるので、この検査をしましょう」など、具体的なら行動を示してくれる。
人は何もしないで手をこまねいている状態でいると悶々とするけれど、行動を起こすことでそんなモヤモヤが払拭されるものだ。
自分が病気に対して、できることをしているという実感が持てると、たとえそれが小さな検査だとしても安心できるものなのだ。
・話をよく聞いてくれる医者
私の現在の主治医とは、もう8年以上の付き合いになるだろうか。
今ではしっかり完治しているのだけれど、当時患った病がかなりたちの悪いものだったため、今でも半年に一度は通って健康診断がわりに診てもらっている。
この主治医は最初に訪れた時から今に至るまで、とにかくよく話を聞いてくれるのだ。自分が不安に思っていること、苦痛に思っていることなど、また治療中はその方針に対するどんな質問にも答えてくれていた。
これは患者にとってはもっとも安心できることだ。その医師を100%信頼できるというのは、病気と向き合う上で、大きな心の支えとなる。
このようなことを基準に、私はお世話になる病院や医者を選んできた。
そして、それによって悪い結果になったことはこれまでない。
医者というのは激務だ。私がお世話になっている病院の主治医を見ていても、とにかく大勢の患者さんを抱え、その上多くの初診の患者さんが常に待っている状態だ。
入院中に目にしたのは、そんな外来患者を多数抱えていながらも、早朝、また夜まで入院患者の様子を見て回っている姿だった。
「先生、いつ寝てるんですか?」
「ちゃんと寝てますか?」
会うたびに、こちらがそう言ってしまうほどだった。
そんな様子を目にしていると、「患者の話はじっくり聞いてください」というのも、気がひける。。。
一人の患者にさける時間には限りがあるからだ。
それでも、患者の一人としては、しっかり話を聞いてもらえると安心する。
その病が重篤であればあるほど、それが励みになることは、自分自身の経験からよくわかるのだ。
人の命を預かるという、医者の仕事は誰にでもできるものではない。ストレスも一般の人の比ではないだろうと想像できる。
医者だから偉い。
そんなことではなく、私は自分の命を救ってくれた主治医や、いつも一生懸命にお世話してくれた看護師の方々には、本当に感謝している。
そして、そんな相性のよい医者や看護師の方々と巡り合えたのは、非常に運がよかったことだとも思う。
ただ、それは自分が手を伸ばしたからこそとも言える。
自分に合った病院や医師に巡りあえるまで、諦めなかった結果だったのだ。
今回、娘の件で改めてそんなことを思ったのだった。。。
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