東日本大震災から今日で10年。
月日が経つのは本当に早いものだと思う。
当時小学生だった子供達も大人になった。
あの日、ちょうどPTAの会合があり、私も子供達も学校にいた。会合は終わっていたけれど、子供達といっしょに帰ろうと、何人かのメンバーと校内に残って待っていたのだった。
その時に、あの地震が起きた。
これまで経験したことない揺れと恐怖に、低学年用の小さな机の下に潜り込み、揺れがおさまるのを待った。
あの時の恐怖はよく覚えているけれど、私が思い出すのはその後のことだ。
校庭に全校生徒が避難したあと、私達も外に出たのだけれど、その時ものすごいスピードで空の色が変わりだした。空の青さが失われ、グレーになり、やがて黒い曇が押し寄せてきた。その不気味な光景は今でも鮮明に思い出せる。
それを見たとき、何かとんでもないことが起こっていると、改めて感じた。
その直後、たまたま被災地に出張していたという、ある保護者の配偶者から、震源地がどこであるか、どれだけの被害が予想されるかなど、少しの情報がもたらされたのだった。
東京でもこれまでにないような大きな地震が起きたのだ。もしかしたら、明日から普通の生活はできないかもしれない。。。
そう思い、解散となったあと、2人の子供を連れてまっすぐ一番近いコンビニへ行った。
その時まだ店内の棚にはいつもように商品がたくさん置いてあったので、3人で持てるだけの食料や雑貨を買って帰宅した。
家の中はいつもと変わりはなかった。水槽の水が床を濡らしていたけれど、それ以外は家具の倒壊などもなく、これといって地震の影響は見られなかった。
小さなマンションだけれど、大家さんが「地震にだけは強く作ってあるから安心してね」と、日頃から言っていたのは本当だったのだ。
そのマンションに引っ越してきたのは前年の夏だった。当時13階建てマンションの最上階に住んでいたのだけれど、小さな地震が起きるたびに不安な気持ちになっていた。
ちょうど更新時期だったので、今度は低層の小さなマンションで暮らしたいと、そんな物件を探したのだった。
特にお洒落とか設備が整っているというわけではなかったけれど、地盤のしっかりとした地域で、「地震に強い」という大家さんの言葉で入居を決めたのだった。
その約半年後に起きた地震だった。
友人の家ではピアノが倒れた、食器棚が倒れたなど、そんな声もきこえてきた。
動物の感というものだろうか、予知能力など当然ないけれど、不安を感じたことを無視しなかったことが功を奏したと言える。
地震発生後、連絡のとれなかった夫も私達より30分ほど遅れて帰宅した。
東京では帰宅困難者が溢れていたけれど、幸い都心暮らしで夫の職場も徒歩圏だったので、そうした問題はなかった。
この時、やはり夫もコンビニに寄ってきたと、雑貨や食料品をたくさん抱えて帰ってきたのだ。
外国人である夫は地震の経験などなかったけれど、不便だったり治安の悪いところで生活してきた経験から、危機管理能力は私より遥かに高い。
余談だけれど、この地震が起きる前日、夫は仕事に出かける時に玄関先で空を見上げ、「地震でも起きそうだなぁ」と言ったのだった。
感情で生きている人なので、第六感が働いたのかもしれない。。。
とにかく、夫婦とは似るものなのか、考えることは同じだった。
乾電池やトイレットペーパー、牛乳やパン、インスタント麺など、当面は困らないだろうと思ったけれど、二人で話をするうち、「あれもあった方がよくないか?なら、あれは?」と、用意しておきたいものがいくつか出てきたので、再び子供達を連れ、今度は家族4人でコンビニへ向かった。
しかし、そこで目にしたのは、空っぽの棚だった。お菓子からパン、お弁当、ドリンク類、生活雑貨まで、ほとんどの棚に商品は全く残っていなかった。
顔見知りの店員さんが、「奥さんが帰った後くらいから、ドッとお客さんが来て、あっという間になくなっちゃいました」と言っていた。
とりあえず、困らない程度には用意できているのだから、なんとかなる。あとは万が一のときでも工夫してなんとかやっていこうということで帰宅した。
それからが大変だった。
被災地で避難所生活をしている人からしたら、なんと恵まれているのだろうとは思うけれど、その時の生活は現在の新型コロナ以上の恐怖があった。
地震が起きた時よりも、その後の生活の方が覚えているというのはそういうことだ。
TVでは凄惨な東北の状況が次々に映し出され、福島の原発でもメルトダウンの恐怖が語られていた。
そんな中、TVに映し出された福島原発爆発の映像。。。
今でもあの映像を観ると、涙が出そうになるくらいなのだから、当時は本当に「これからどうなるのだろう?」とショックを受けた。
東京でも放射能の話でもちきり。以降、多くの人が東京を脱出し始めた。
元々地方出身者の多い東京だ。西の方から上京してきた人たちは、みんな子供を連れて郷里へ避難した。
富裕層の友人達は、海外にある別荘やホテルへ避難。
大手外資系企業などでは、会社によっては大阪あたりにホテルを用意し、避難を促していたため、大阪へ避難した友人知人もいた。
なんのツテもないまま、とにかく東京にはいられないと、自主避難した人も多く、周りからあっという間に人がいなくなった。。。
子供達の学校は自由登校となっていて、欠席扱いにはならないということだったので、そんな状況も東京脱出に拍車をかけたのだろうと思う。
大きな商業施設を有し、あらゆる企業がオフィスを構えるエリアのため、いつも多くの人が行き交っていたのに、街はまるでゴーストタウンのようになった。
加えて計画停電のため、街灯の灯らない真っ暗な街を見て、どれほどの人が東京から出て行ったのかがわかるようだった。
我が家でもどうするべきか、家族で話し合った。
夫の両親をはじめ、親類縁者、アメリカからヨーロッパ、オセアニアからアフリカまで、あらゆるところに散らばっている。
そんな親戚達から「こちらに避難してきなさい!」という、ありがたいオファーが毎日きていたのだ。
まさに、あの原発爆発の映像を観たせいだ。
夫は仕事上、責任もあるので東京を離れる気はないけれど、せめて私と子供達だけでも避難したらどうか?と言った。
しかし、私もまた東京を離れるつもりはなかった。
避難したとしても、いずれはここに帰ってくることがわかっていたからだ。
たかが2、3ヶ月避難したところで、何が変わるというのか?そう思っていた。
どうせすぐ帰ってくるのなら、わざわざ遠くまで行く必要はない。とりあえず子供達は学校を休ませて、情報を集めながら、気をつけて生活してみようということになった。
今でもその時の決断は正しかったと思っている。
関西方面に避難した友人達は2週間ほどで東京に戻ってきた。
かりそめの生活は長くは続かなかったという。
自主避難した人の中で、お里帰り組はまだいいとして、ホテルなどへ自主避難した人達の中には、経済的な問題に晒され、やむなく東京へ戻って来た人もいた。
経済的な問題がない人でも、子供を連れてのホテル暮らしの不便さに耐えきれず、結局自宅に戻った人もいた。
いずれ帰ってくるのなら、少しの間避難したところで、何も変わらない。
子供達の同級生の中には、避難生活を経て、沖縄にそのまま永住してしまった人もいるけれど、私にはそこまでの覚悟がなかった。
まだ子供達も小学生だったので、確かに原発事故の影響は心配していた。それでも、やっぱり生まれ育った東京を捨てることができなかった、というのが正直な気持ちだ。
東京に残るか、東京を捨てて戻らないか、その二択しかないと思っていたのだ。
あの時、家族の4人で東京に残ってよかったと、今でも思っている。
ちなみに、自己所有の別荘に避難した富裕層のお友達たちは、経済的な問題もなく、不便さも感じない海外暮らしだったせいか、長いこと帰ってこなかった。
安全はお金で買えるものの一つなのだ。
残念ながら、私にはそんな別荘などなかった(笑)
そうして始まった東京おこもり生活は、毎日TVで、被害状況を確認するだけに終始していた。
放射能の影響も無視できないので、念のため窓もシャッターも閉め切り、なるべく外気を入れないように気をつけた。
それでもシャッターを締め切った部屋に一日中こもっているのは、逆に健康的ではない。
そんな時は夫が頼りだった。
夫は自分の人脈を駆使して、さまざまな関係各所から情報を入手し、「今日は風向きからして安全」「今日は強く影響がありそうだ」などと、その都度私に伝えてきた。
夫からもたらされる情報に従って、買い物がてら子供達を連れて近所のスーパーへいくこともあった。
しかし、外に出る時は、肌の露出を避け、マスクをしてというように、コロナ禍以上に気を遣ったものだ。
食べる物にしても、さまざまな憶測が語られ、「それは危険」「それは風評被害」など、なにを信じていいのかわからない状態だった。
結局、そこでも自分たちで情報を集めながら、都度判断するしかないと、ただただ流れてくる情報を鵜呑みにしないことに神経をつかっていた。
今振り返れば、子供達も小さかったせいもあり、コロナ禍以上にストレスフルだった気がする。。。
しかし、東日本大震災では、その後の災害に備えるための、多くの学びがあった。
震災はいつ起こるかわからない。一度大きな災害に見舞われたからといって、それで終わりというわけではないのだから。
できる限りの備えはしておくべきと、この10年は常に頭の隅に置いておく努力をしてきた。
・水や食料など、避難所へは行かない前提で、必要とも思われるものを備蓄した。
決して余分なスペースのある大きな住居ではないので、何ヶ月分もの備蓄とはいかないけれど、とりあえず2週間くらいなら家族4人、なんとかなる程度にはと思い、用意している。
・震災以前から背の高い家具は置かないようにしていたのだけれど、阪神淡路大震災を経験した友人に聞いたところ、TVやローチェストすら危ないと聞いたので、就寝中に物が飛んでこないように、家具の配置を変えたりした。
・他にも食器が割れるのを防ぐため、収納場所を重い食器は下、軽いものは上の収納へと、全て移し替えた。
・東日本大震災では、職場にいた夫とまったく電話が繋がらなかった。
私はSNSなどもしていなかったので、連絡の手段は完全に断たれていたのだけれど、Facebookや Twitterをしていた友人は、それが役に立ったと言っていた。
夫からも緊急事態の連絡手段の一つとして、何かしらSNSのアカウントを用意するようにと言われた。
・家族がその日、どこで誰と何をしているのか、家族で情報共有をしている。
万が一の時に、夫が救助に向かうからだそう。
・そして現金。今はキャッシュレスの時代だけれど、インフラが全てストップしてしまえば、クレジットカードもただのプラスティックの板と変わらない。
万が一、必要なものが出てきたとき、キャッシュを持っている方が強い。
大金はいらないけれど、安心できるくらいの用意は必要だと思っている。
あまり考え過ぎても、運に左右されるのが人生というもの。どんなに準備万端整えていても、ダメな時はダメなのだと思う。
それを承知で、できることはしておこうということだ。
思いつく限り、あの日のこと、そしてそれ以降どう過ごして来たかを書いてみたけれど、きっと忘れていることもあるだろうと思う。
10年一昔。短いようで長い10年の間に、記憶はどんどん薄れていくのは当然のことなのかもしれない。
それでも、ほんの少し心に留めておくことができれば、その後に起こることに対処することもできる。
昨年から広がりはじめた新型コロナという、新たな危機に際し、少なからず10年前の教訓は役立った。
昨年はマスクやトイレットペーパー、食料品を買い求める人で、スーパーやドラッグストアには長い行列がてきた。そんな時でも、十分な備蓄があったおかげで、感染リスクを負って行列に並ぶ必要がなかった。
マスクでさえ震災以降は常に100枚以上のストックがあった。
地震とコロナウィルスは全く別だけれど、生きる上での備えは同じだということもわかった。
「10年の節目」ということが言われるけれど、日本にいる限り大地震のリスクとは無縁ではいられない。まだまだ終わりではないのだ。
それを忘れないように、「喉元過ぎれば、熱さ忘れる」とならぬように、改めて万が一に備えていこうと思った一日だった。