最近、地震が多い。私は雷と親父は怖くない、火事は少し怖いけれど、地震の比ではない。
身構える時間さえ与えられず、何の前触れもなく突然揺さぶられるのだから、こんな恐ろしいものはない。
「地震」「雷」「火事」「親父」が同列に語られるのは、どうもおかしい気がする。
地震に関しては、怖くないという人の方が珍しいと思うけれど、友人知人などと比較すると、私は特に地震に対する恐怖心を強く持っている方だと思う。
割と小さな揺れでも、いち早く気づいてあたふたとする。そこに地震速報などが鳴り出すと、もうダメだ。。。
「慌てず、落ち着いて行動しましょう」
「パニックになってはいけません」
よく言われる言葉も、いざ地震が起きると、「そんなこと無理よ!」と大慌てする。
夫が一緒の時などは、「大丈夫だから」という言葉で少し落ち着きを取り戻したりできるのだけれど、ひとりの時などは揺れている間中、「怖いよー」と部屋の中を歩き回ったり(揺れを感じないようにするため)、ハンディーモップを手に、そこら中パタパタしたり(揺れから気を逸らすため)といった意味不明な行動で恐怖を紛らわせ、なんとか凌いでいる。
最近、我が家が頻繁に揺れる。
私はいつもキッチンに置いた椅子に腰掛け、本を読んだりブログを書いたりしているのだけれど、下から突き上げるような小さな揺れを、日に何度も感じる。
その度にビクビクッと立ち上がり、スマホに入れてある「ゆれくる」というアプリを確認するのだ。
しかし、そこには地震があったとされる記録はない。。。
こんなことが続くと、ひょっとして私は人間が感知し得ない、微振動を脅威的なまでの動物的感によって、感知しているのではないか?
そんな風に考えるようになった。
しかし、それは大きな勘違いだった。。。
今日、転職に伴い長い休暇中の夫が、ダイニングに座っていた時のこと。
「この揺れ、いい加減にして欲しいな〜。気になって仕方ない」
そんなことを呟いた。
「あなたにもわかる⁉︎ 私たちはきっと動物並みに五感が発達してるのね」
私がそう身を乗り出すと、夫は微妙な表情を浮かべた。
これは同意していないということだ。私の唱える説が誤っているのなら、この揺れをどう説明する?
私の問いに、一言。
「工事だよ」
夫によると、我が家の近所で工事が行われていて、掘削作業をしているのを見たという。それも2箇所の違った場所でだ。
普段使う道沿いではないため、私は気づかなかったのだ。
地震ではなかったという安堵感と同時に、自分が動物並みの感度を持っていたわけではないということをかなり残念に感じた。
揺れても地震ではないとわかったので、以来バタバタと慌てることはなくなった。
しかし、あの下から突き上げるような揺れに慣れることはない。
揺れるたびに、咄嗟に立ち上がる。心臓はドキドキして、なんとも落ち着かない気持ちになるのだ。
これはあまりよろしくない環境なのではないかと思う。本来、最も安心安全で落ち着けるサンクチュアリ、それが家だ。
そんな聖域にいながら、日に何度もビクビク、心臓がドキドキしていては、まったくリラックスできない。
何かというと、すぐ「裁判だ!」などと法で結着をつけようとする外国人らしく、我が家の夫も「これは補償を問えるレベルでは?」などと言う。
東京のある街でも、工事によって道路が陥没し、近隣の家屋が被害に遭われたケースを思い出す。
それほど酷いものではないにしても、だからこそ厄介である。
特に大きな被害はないけれど、揺れるのが気になって落ち着かない。
その程度のものならば、精神的な苦痛も無視される。
今も揺れている。。。
(このブログを書いているのは午後2時頃だった)
そして、午後3時を過ぎると、空には羽田空港へ向かう飛行機が、轟音を響かせながら3分おきに家の上を通過していく。
揺れと騒音のオンパレードだ。
我が家は賃貸なので、その気になれば引っ越しをすることも可能だ。
しかし、期間限定で行われる工事の揺れのためだけに、この恐ろしく条件の整った住宅を諦めるられるものではない。
飛行機の騒音に関しては、窓を閉めればそれほど気にはならなくなった。きっと慣れてしまったのだろう。
時折、騒音が近づくと、ベランダに出て空を見上げる。かなり低空飛行のときもあり、機体がはっきりと見える。
飛行機を見るのがすごく好きなので、これは我慢できそうだ。
結局のところ、引っ越しをするよりは、工事が終わるのを待つしかないのだろう。
揺れさえしなければ、私は心穏やかに暮らせるのだから。。。
考えてみれば、工事が終わればその揺れは収まるけれど、地震という自然災害からは逃れることはできない。
日本中、どこに居ても地震のリスクはあるのだから。。。
工事の揺れに頓着している暇があったら、いつかくるであろう大地震に備え、できることなら動物並みの感も養っておくべきだろう。と、そんなことを思った午後だった。