In other words

I really don't know life at all ...

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歳を重ねるのは素敵なことなのか?白髪染めで考えた若さへの羨望と老いる気楽さ。

普段はほぼ2週間に一度、白髪を染めるために美容院へ通っている。
コロナ禍では自分で白髪染めを買ってきて染めたこともあったけれど、手間もかかる上に、なかなかキレイに染めることができない。

月に2度もわざわざ白髪を隠すために美容院へ行くのは、正直言ってとても面倒だ。それでも、自分で染めるのとは仕上がりが雲泥の差。なにより座っているだけですべてキレイにしてもらえる楽さは、通う面倒を遥かに上回る。

白髪をキレイに染めてもらった後は、「ああ、これで少しの間は安心だ」そう思う。
しかし、その憎らしい白いヤツは、どんなに塗り潰しても、すぐにまた「白」の陣地を奪還するが如く攻撃を仕掛けてくる。まるでスプラトゥーンみたいな陣地取りゲームのようだ。
また少ししたら、こちらが劣勢となる。

この果てしない戦いを思うと、「いつまで続くのだろう。。。」と、時折うんざりとした気持ちになる。これは若い頃にはなかった悩みの一つだ。
シワやシミ、弛みといった、加齢に伴う悩みも同様なのだけれど、白髪ほど頻繁に煩わしさを感じることはない。

シワやシミ、弛みに関しては、少しずつ、少しずつ、陣地を拡大され、気づけば惨敗といった有様なので、これはもうどう足掻いても敵を打ち負かすことは不可能だから、降参するしかないと諦められる。
しかし白髪は違う。美容院へ行けば、一瞬でもこちらが優位になるのだ。
だからこそ、この戦いがやめられない。





この果てしない白髪との攻防を、いつかやめる日が来るのだと思う。けれど、それは10年、20年先だ。50代のいま、まだ降参する気にはなれない。

歳を重ねることが楽しみという言葉をよく見聞きするけれど、私はやはり若さとは素晴らしいものだと思う。

私には年頃の娘が2人いるのだけれど、彼女達が美容院へ通うのは、ファッションを楽しむためだ。
スタイルを変えたり、色を変えたり、さまざまな変化を楽しむために、美容院へ通う。

しかし、私は違う。美容院へ行くのは、白髪に抗うため、そして加齢のために艶を失ってきた髪を慰めるためなのだ。

もう、それだけで若さとは素晴らしいことだと思える。

確かに歳をとり、楽になったことはたくさんある。
所謂、開き直ることが容易にできるようになったせいで、あらゆることが「どうでもいいこと」「他愛のないこと」に分類されるようになった。

たとえば、自分の容姿にしても、若い頃はことさら自意識過剰になるものだけれど、50も過ぎれば、「もう、誰も見ていないわよ」と開き直り、近所であればノーメークはもちろん、部屋着のままでコンビニへ行ってしまったりもできる。

人間関係においても、誰に何を言われようと、なんとも思わなくなった。若い頃からあまり人のことを気にするタイプではなかったけれど、トラブルがあればその火の中へ飛び込んでいくくらいの熱さは持ち合わせていたものだ。
いまは争うことも面倒だと、よほどのことでもない限りは、スルーするようになった。

刺激のない生活を送っていると、その凪に慣れてしまう。その安穏とした暮らしに少しでも波風が立つと、「ああ、面倒くさい」と思う。

若い頃ならば、躍起になって勝ちをとろうと大騒ぎしたものだけれど、今は寝たふりで済めばそれでいいと思うようになった。知らんふりしているうちに、嵐が過ぎれば御の字。

相手がなんやかんやと突いてきたら、さすがに怒りを爆発させることもあるけれど、そんなことは稀だ。
そういった点では、歳をとるのも悪くないと思う。





諦めがよくなったというのも、歳をとったからこそ手に入れたことの一つだ。

若い頃というのは、誰しもが何某になりたがる。自分の能力や適性を客観視できないというのか、過剰に評価してしまうのだ。見えていないからこそ、恐れを知らず、どんなことにも果敢に挑戦できる。
啓発本に書かれた偉大なる人物の人生に自分を重ね、己の努力は必ず実るものだと信じて、がむしゃらに突っ走るのだ。
もちろん、それで成功を手にする者もたくさんいる。それは本人の努力はもちろんだけれど、本人の資質、時代や社会の流れに後押しされるなど、運もついて回るものだ。

経験値が上がるにつれて、そうしたことを知り、さらに自分の限界が見えてくると、努力だけではどうにもならない物事があることを知る。

女性であれば、結婚や出産などといった要素が加わってくると、さらに事情は複雑になり、家族を思いやったりといった優しさが、仇になったりもする。
仕事か家庭かで世の中の女性たちが多くの悩みを抱えるのも、そこなのだ。

「仕事と家庭」について突っ込むと、お話は脱線し、収拾がつかなくなるので、またの機会にするとして、とにかくこの歳になれば、そんなことにも諦めがつくようになるものだ。

負けで上等とばかりに、開き直ったり、諦めたりできればストレスはない。
これは歳をとったからこそのものだろう。

ただ、少しつまらなくもある。楽だけれど退屈を感じたりもする。
勝ちを取るために競い合ったり、ジタバタと足掻いたりするのは、なかなかエキサイティングだ。
嫌なこと、不快なこと、楽しいこと、嬉しいこと、全ては寄せては返す波に乗り、代わる代わるやってくる。

大波に挑む『ビッグウェンズデー』のジャン・マイケル・ビンセントさながら、人生の荒波に果敢に挑むのは、エキサイティングだ。

ビッグウェンズデーを諦めた老いたサーファーには、もうそんな熱狂を感じることはないのだ。
感じたくても、それが不可能であり、無駄な足掻きとなることがわかる。命を削ってまでも求めるものではないと諦める。

それが歳をとるということなのだと思う。

白髪からビッグウェンズデー。。。
飛躍も甚だしい。





あの美しかったジャン・マイケル・ビンセントはもういない。。。
そんな時の流れを改めて感じると、もはや白髪を受け入れてもいい年齢になったのではないかと思う。
諦めという術を発動させる時だ。

しかし同時に、あの紺碧の海を染める白い水飛沫のように美しかったジャン・マイケル・ビンセントを思い浮かべると、若さに対する絶対的な輝きが羨望の波となって押し寄せてくる。
まさにビッグウェンズデー!

つまりは、若さとは素晴らしいものなのだ。

ハリウッド俳優と自分を同列に並べるほど図々しくはないけれど、若さは万人にとって、あらゆる欠点をカバーしてくれるものであり、エキサイティングな日常を運んできてくれるものなのだ。

ただ、よくよく考えてみれば、そんなエキサイティングな毎日であったら、体力がもちそうにない。
遠巻きにビッグウェンズデーを眺め、「私ももう少し若ければ。。。」と、凪いだ海面にぷかぷかと浮かんで高みの見物を決め込んでいる方が楽そうだ。

若さは素晴らしいけれど、楽な人生もまた然りということか。

若さと引き換えに、そんな安穏とした生活や開き直りを得たとはいえ、50代でグレーヘアーにするほどの潔さはまだ持てない。

人はないものねだりなのだ。白髪に悩まされない若さも欲しいし、エキサイティングな日常も楽しそうと思うけれど、面倒なのは御免。

つまり求めるものは、髪黒々、艶々、若さを抱えたまま、気楽な開き直り人生を!

そいういことだ。