In other words

I really don't know life at all ...

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二十代に戻り人生をやり直すことができたとしても、きっと同じただ一つを求める人生を選ぶのだろう。

先日、美容院で二十代の若い美容師の男の子の話していたら、その眩しいばかりの若さが心底羨ましくなった。
趣味の話、旅の話、食の話、恋愛話と、施術してもらっている間、いつもいろいろなことを話すのだけれど、その時につい「いいなぁ...羨ましいわ」と口から出てしまった。

結婚している身の上なので、恋愛はともかくとして、趣味や食などやっていることは大して変わらない。やろうと思えば彼のしていることは私にもできるようなことだ。

それなのに、なぜそんなに羨ましさを覚えたのだろうか?

一つはまだ劣化を知らない健康な身体。こちらは50もとうに過ぎ、更年期真っ只中。少し無理をしただけで、「あー疲れた」と身体の節々が痛くなったりで、いやでも老化を実感する毎日だ。
一日中立ち仕事をした後、ジムで汗を流すという話を聞いて、これが若さなのだなとしみじみと思ったのだった。

そしてもう一つは「時間」に対する羨望だ。
人生100年と言われる時代だけれど、私はもうその半分以上を使ってしまっている。しかしまだ20代の彼は、私の倍は人生を楽しむ時間が残されている。
多分それが「羨ましいわ。。。」と口にした一番の理由なのだと思う。

生きていれば楽しいことばかりではない。時に辛く悲しいこともあるけれど、それを思い出にしてくれるくらい楽しいこと、喜ばしいこともあるものだ。
生きているのが辛ければ、若さを羨むことはないだろう。逆に楽しければ、この時間がいつまでも続けばいいのにと願う。

人の命は有限ではあるけれど、この先私よりもさらに楽しい時間を多く持てる可能性のある「若さ」が羨ましかったのだ。

「もしも、もう一度二十代に戻れるなら、何をしますか?」

そんな質問をされた。

一瞬だけ考えて、スラスラと口から出てきた言葉。

「また同じことをすると思う」

自分にとって当たり前のようでいて、また意外とも思える答えだった。
同じこととは「たくさん遊ぶ」「好きなことをする」ということだ。

きっと私は何度生まれ変わっても、ささやかな自分の「好き」を求めて、こじんまりと自己満足な人生を送るのだろう。。。



最近、大学生の次女が、ある悩みを口にした。

「大学で勉強を頑張ると忙しすぎて遊ぶ暇がなくなる。しかし、大学生のうちにたくさん遊んでおいた方がいいとも思う。どうしたらいいのだろう」

そんなことを本気で悩んでいるようだ。

一年浪人してまで頑張って入った大学で、そこでの経験や肩書きは将来必ず役に立つものだ。
しかし、次女はいつも遊んでばかりいる私や長女の姿を見ているせいか、遊ぶことも必要なのでは?と思っているようなのだ。

親としては遊び呆けていられるよりは、大学でやるべきことを頑張って欲しいと思っているけれど、自分が遊んでばかりいるので次女にだけ押し付けるわけにはいかない。

正直なところ、自分は楽しむことをだけを考えて刹那的に呑気な人生を送り、幸いなことにいまも同じように暮らしている。当然真っ当なアドバスなどできない。

「将来のことも視野に入れ、今はきちんと必要なことを学校で学ぶべきでは?」

一応、親らしくそんなことを言ってみようとも思ったのだけれど、それで次女が大人しく言うことを聞くとも思えない。言っている私自身が実践していないのだから。。。

「遊びたいのなら、今こそ遊ぶべき。大人になってから遊ぶのと、若いうちに遊ぶのとでは経験も喜びも感動も密度が違うのよ」

そう言って、遊ぶことを薦めるのも少し怖い気がする。
それこそ長女のように、大学を一年休学してまで、自分の「好き」に没頭する可能性もあるからだ。

ただ、そんな長女は今とても幸せに楽しそうに毎日を過ごしている。
大学生ではあるけれど、自分で収入を得て、一人暮らしをしているので、自由を謳歌しているのだろう。
学費はこちらで払っているけれど、それ以外の援助は一切していない。
お金を出さないのなら口も出さない。それが持論なので、私が口出しするのはお金を出しているところだけだ。

「せっかく入った大学なのだから、卒業だけはしてね。卒業しないと投資した分の回収ができないからね」

長女にはそう言うだけで、あとは自立したとみなして、何も言わないようにしている。

しかし次女はまだ親の元にいる。学費以外の衣食住、バイト代で遊ぶお金が賄えなければ多少の援助もしている。
つまり「言う権利」は有しているのだ。
それでも、「遊ばずに学業を最優先にせよ」とは言えない。

吉と出るか凶と出るか、私にも未来は見えないのだから、
無責任なことは言えない。

ただ確かなのは、今の自分の姿は過去にどう生きてきたかの答えだ。もちろんよく言われる「親ガチャ」のように、人生とは運にも左右される部分は多分にあると理解しているけれど、自分の考え方、生き方で行き先が変わることは往々にしてある。

結局のところ、自分がどの道を歩くかは、自分で決めるのが一番ということなのかも知れない。
たとえ親でも子供の人生に責任は負えない。生きるのは子供自身なのだから。



私が重ねて子供に言ってきたことがある。それは「don't be greedy 」。「欲張ってはいけない」ということだ。

あれもこれもと多くを求めすぎると、全てが中途半端になり満足できず不幸になるよと。
迷った時は、いま自分にとって一番やりたいと思えることを選択しなさいと言ってきた。

その結果がどうなろうとも、後悔しないくらい「やりたい」と思うことを全力でやるべきということだ。

それがたとえ遊びで、将来どうなるかわからないとしても、それが自分の選択であり、後悔しないというのなら、その道を行けばいいと本気で思っている。

ただ一つ言えるのは、長い人生の中では方向転換も可能だということ。
もしも「これは間違いだった。別の道の方がよかった」そう思ったらたとえ後戻りしてでも、別の道へ行くことも可能なのだ。

よく、「やった後悔よりも、やらなかった後悔」という言い方をされるけれど、自分自身の経験から言えば、ほとんどの場合やらなかった後悔の方が後々心に重く引っかかるものだ。

やりたいことができるのは、大きな幸せの一つだと思う。
仏教の教えでは生老病死愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦というように四苦八苦あり、生きることは苦しみに他ならないと考えられているけれど、人生はお釈迦様が唱えるほど苦しいことばかりではない。
四苦八苦と同じくらいの喜びや幸せもあると、私は信じている。
だからこそ、チャンスがあるのなら好きなことを、心からやりたいと望むことをして欲しいと、子供達にも望んでいる。

「欲張らずに、自分がいま一番やりたいと望むことはなにか、よく考えてみたら?」

結局、次女に向けたアドバイスはそんなことくらいしかできなかった。
彼女がどんな道を選択するかはわからないけれど、それほど悲惨な人生になることはないと思っている。
そう信じられるくらいに、一生懸命に子育てをしてきたつもりだ。

ここは自分の子供を信頼して、自分の人生を考える方が大切である。
子供に「欲張るな」と言ったのだから、私もあれこれ望むべきではない。
ただ一つでも、自分が一番に望むことが叶えば、それはとても幸せなことだと思わなければいけない。

いま、私がなにか一つを選択するとしたら「楽しき人生」。ただそれだけだ。

もう一度20代に戻ったとしても、生まれ変わったとしても、私が私である限りは変わらないのだろうと思う。

何度転生を繰り返しても、成長しないということだ(笑)