In other words

I really don't know life at all ...

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物理的孤独という贅沢。精神的孤独という空虚。対極にある二つの孤独について考えたクリスマスイブ。

光陰矢の如しというように、今年も残すところ数日となった。
今日はもうクリスマス・イブ。

子供達がまだ小さな頃は、家に大きなツリーを飾り、その下にたくさんのプレゼントボックスを並べたものだ。
クリスマスディナーも大きな丸鶏を焼き、スープにオードブルを並べ、家族4人でわいわいとクリスマスを楽しんだ。

クリスマスプレゼントを買い集めてラッピングしたり、海外に住む夫の親兄弟や親戚にカードやプレゼントを送ったり、そしてクリスマス数日前からはご馳走の準備と、とにかく忙しく過ごしていた。

いま思えば、よくぞ毎年毎年そんな面倒なことをしていたものだと思う。
しかし家族が喜んでくれるのが嬉しかったのだろう。嬉々としてそんな行事をこなしていた。

今年は12月になってものんびりとしたものだ。
我が家のクリスマスは外国人である夫のためというのが一番大きかったと思うのだけれど、そんな夫も今年は単身赴任でクリスマスは家で過ごさない。おそらく結婚して初めてのことだ。
夫は少し残念そうだったけれど、もう子供達も大きくなったし、今は家族よりも各々自分のやるべきことをするべきでは?との提案に「それもそうだね」と納得してくれた。

子供達はといえば二人とも成人し、長女は一人暮らしをするため家を離れた。唯一一緒に暮らしている次女も大学生となり、日々忙しくしていてほとんど家にはいない。
クリスマスも「もう頑張らなくていいよ」とのことなので、お言葉に甘えて今年は何もしないことにした。

おかげでお買い物も気が向いた時に、ぶらりと自分の好きなお買い物をするために出かけるだけとなった。

先日、やはりぶらぶらとお買い物をした帰り道、たまたまイルミネーション輝く通りを歩いた。
真っ暗な中に延々と伸びる氷のように光る道はとてもきれいだった。

その通りに限らず、この時期は街の至るところでイルミネーションが燦々と輝いている。



イルミネーションに彩られた街はとても美しい。毎年のように見ている光景であり、正直言って見飽きてもおかしくはないのに、毎年見るたびにしばし足を止めてしまうほどだ。
何度見ても飽きることのない圧倒的な美しさ。。。
だからこそ、多くの人がただそのイルミネーションを見るためだけに、寒い夜の中に集うのだろう。

そんな美しいイルミネーションを見ていれば、ほとんどの人は華やかな気持ちになるのだろうけれど、何故か私はとても寂しい気持ちになる。。。

そんな風に感じるようになったのは、一体いつからだろうと考えてみたら、それはちょうど50歳を過ぎた最初の冬だったのではないかと思った。

すっかり日が暮れた寒い夜、六本木のけやき坂を歩いていた。
氷のように冷たい青いイルミネーションが、突然真っ赤に変わった瞬間、なんて華やかで綺麗なのだろう。。。と、一瞬だけ頭上のイルミネーションを見上げた。
真っ赤に染まったけやき坂を、ただ進んでいくうち、なぜかひどく寂しい気持ちに包まれたのだった。
どう表現していいのかとても難しいのだけれど、美しいとは思っても、そこに感動したり心を躍らせることがなくなってしまったことに気づいたのだ。

それは、かつて自分を輝かせてくれていたものがすっかり失われ、もはや自分は空っぽになってしまったということなのだと思った。
ショックでも落胆でもなく、そんな気持ちになったことがただ寂しかった。

何かを見たり、聞いたり、読んだり、そんな時に心を揺さぶられるという経験を、かつては毎日のようにしていた。
心に寄り添うなにかが、「すごいね」「素敵ね」と、頭の中でお祭り騒ぎをしているような状態だ。
そんな頭の中の何かは消えてしまって、私に語りかけてくれるものはなくなってしまったのだ。。。

この感情に名前をつけるとしたら、「精神的な孤独」というのが一番しっくりくる気がする。

これは誰かと一緒であるか否かとは全く無関係な「孤独」だ。
誰と一緒であったとしてもきっとそんな孤独から逃れることはできないように思うのだ。

人から孤立し独りぼっちで寂しいのではなく、自分自身がひとりきり、まるで丸裸になったような心細さを感じる時こそが私の感じる孤独なのである。

私にとっての精神的な孤独とは、他者との関わりと関係のない、自分自身の心の問題で、失われたものに対して、取り返しのつかないような気持ちを認めた時に現れるのだ。
そんな時、強く孤独を感じるような気がする。

逆のことを言えば、たった一人でいても心が温かく満たされている時もある。
ひとりで美味しいものを楽しんだり、寒い夜にぬくぬくと温かい毛布にくるまっているとき、私はとても温かい気持ちになる。

なにぶん自分の心の中のことだ。どんな解釈もできてしまうのだけれど、シンプルに言ってしまえば、イルミネーションを見て悲しくなるのは、色々なことに胸を躍らせていた子供であった頃に持っていたものは、もはや全て失われ、二度と自分の元に戻ってこないことがわかっているから。そういうことなのだと思う。



孤独というのは、案外得体の知れないものなのかも知れない。
「孤独」というものに寂しさを感じながらも、逆に「独りになりたい。。。」
そんな風に思うことが、私にはよくある。
これは「物理的な孤独」を求めてのことだ。

独身の若い頃であれば、ふらりと旅に出て、気が済むまで独りの時間を楽しむことが出来たけれど、家族のいる今はなかなかそんな勝手もできない。
やろうと思えばできるけれど、いつ帰るかなど旅の計画も知らせない訳にもいかないし、もうそれだけで気ままな旅という訳にはいかなくなる。
誰かの妻であり、母である私は、常に家族に対しての責任というものがあると考えてしまうからだろう。
旅先で子供達の事などを気にしながらでは、なんだか100%楽しむこともできそうにないし。。。

今はせいぜい2泊3日程度の旅か、普段は独りで買い物へ行ったり映画を見たりと、都内をふらふらする程度だ。

どこにも属したくないという思い。。。
私にとって「物理的な孤独」とは若いころからの関心ごとの一つだった。
ただ、昔は一人でいる方が好きというよりは、一人でいても平気といった感じだった。しかし、今では好んで孤独を追いかけているようなところがある。
それは今の自分が物理的に孤独でいられる機会が少ないからかもしれない。

孤独という贅沢。。。
孤独と聞いても、それが物理的なことであれば、私には「寂しい」というイメージはない。私にとっては贅沢なことなのだ。

「あの人は孤独よね」なんて事をよく耳にするけれど、そのほとんどが物理的な部分を見て他人が判断しているものなのだろう。
本当の孤独は外から見えないものではないかと私は思っている。

孤独=一人で寂しい。そんな簡単なことではない。もしそう思っているとすれば、その考えこそが精神的に自分を孤独にしている要因なのだと思う。



家族というコミュニティーは、一番身近で重要なコミュニティーであり、同時に最も厄介な場所とも言える。

家族と言えども、全ての人と気が合うわけではない。どんなに濃い血の繋がりがあったとしても、性格は皆千差万別。似たところはあったとしても、そもそも同じ人間ではないのだ。
中には正反対な性格、価値観を持った、まるで仇のような家族すら存在する。

しかし、家族としてそのコミュニティーに生を受けた以上は、そんな気の合わない人とも無関係でいることは難しいものだ。

自分のどこか心の底にある「情」というものを捨て去るのはなかなか難しいものだからなのだろう。
そこをスパッと割り切って、たとえ縁を切ったとしても、なにか事が起これば必ず家族の元に連絡がきて、家族としての責任を果たすよう社会からは求められる。
切っても切れない縁というものが、家族間では存在するのだ。

だからなのだろうか、配偶者や子供がいるから安心だなどと口にする人がなんと多いことか。
自分が年老いて自立した生活を営なめなくなったときに、血の繋がった家族がいれば安心という事なのだろうか。

しかしそれとて永遠でも絶対でもない。
子供はいつか巣立ち、新しいコミュニティーに属する者となっていく。
人生の伴侶とも必ず別れの時は訪れる。
切っても切れない縁とはいえ、必ずしも依存できるものではないのだ。

そこに依存しようとするから、そのコミュニティーが消滅した時に、居場所を失ったような気持ちになるのだろう。



職場というコミュニティーはどうかと言えば、今は時代も変わり、昔に比べると「個」が尊重される社会になってきているようだ。

昔はとにかく仕事もプライベートも一緒くたといった風潮が強くあったように記憶している。

上司からの誘いを断ると自分の立場が不利になると、日曜日ですら朝から接待ゴルフに出かけるという、罰ゲームのようなことも平然と行われていた。

さっさと帰りたい残業明けも、食事や飲みのお誘いは当たり前。
「帰ります」などと言おうものなら、おきまりの「付き合いが悪い!」の大合唱を浴びることになる。

私が会社という組織に属することを避けていたのも、こうした人間関係が面倒だったせいもある。
会社の一員としてでなく、例えばフリーランスとして接している分には、扱いが変わるからだ。

以前、短期で働いた職場でも年末の忘年会や年明けの新年会など、まるで全員が出席して当たり前といった空気で驚いたものだ。
平成も終わろうという時代にも関わらず、まだ昭和とあまり変わっていないのだなと苦笑したのを覚えている。

もちろん私は全て不参加で通したけれど、何十人もいる部署で社員、パート含め、参加しなかったのは私ともう一人の男性たった二人だけだった。

それほど仲の良い職場でもないにもかかわらず、こんな時の団結力といったら⁉︎
そう思ったものの、裏で交わされる「本当は行きたくない」「会費払ってまで馬鹿らしい」なんて愚痴を聞いてしまうと、それならなぜ断らない?と不思議になったりもしたものだ。

「それなら断ったら?」
私がそう言おうものなら、
「波風立つのも嫌だから。あなた、みんなにまた自己中とか、何様?とか言われているわよ」
などと、逆に忠告を受ける始末(笑)

自分を押し殺してまでも、職場というコミュニティーの「和」を守ろうとするのは、どうしてなのか、私には理解出来なかった。

友達というコミュニティーも、時に厄介だっりする。
友達がいるというのはいいものだ。気の合った仲間と一緒に美味しいものを食べたり、お喋りをしたり、独りとはまた違った楽しい時間を過ごす事ができる。

しかし、いつでも一緒に行動しなければいけないとなると、これは大変なストレスにもなりかねない。
学生の頃、トイレへ行くのも教室移動も常に一緒に!といった女子が沢山いたけれど、この歳になってもまだその癖が抜けない人もいる。

お買い物に行くのも映画や美術館へ行くのも、必ず「付き合ってくれない?」と、誰かと一緒に行動しようとする。
私は若い頃からそれがとっても苦手だった。

お買い物もその時の気分であっちへ行ったりこっちへ行ったりと、気ままに歩き回りたいのに、人が一緒では必ず「疲れた」などと水を差されることになったりする。美術館などでも気に入った展示を気がすむまで眺めている事も出来ない。
だからこそ独りがいいのだ。



最初からどこへも属していないという気持ちでいれば、物理的に孤独でもそうでなくても寂しさを感じることはない。
どこへも属さない生き方ということだ。

属さないからといって、必ずしも他者との関わりが完全に断絶されるわけではない。
かなり都合のよい考えではあるのだけれど、属さずとも共に過ごすことはできる。


自ら孤独を望むのと、否応なしに孤独に晒されることでは感じ方が違うのだろうか。
本当の意味で孤独になった事がないからこそ、孤独であることを恐れないのか。

難しい理屈など抜きにして、たった独りでいる事が孤独だというのなら、私はやはり孤独でいる時間が好きだ。

精神的な孤独という空虚はザラザラとした砂の上を延々と歩き続けるようで、たまらなくなることはあるけれど、そうしたことも受け入れて、始めて本当の孤独とお友達になることができるのかなと今は思っている。

人間は生まれてくる時も、たった一人で狭く苦しい産道を通り産まれてくるものだ。
そして死ぬ時も寂しさや苦しみをたった一人で抱えながら去っていく。

結局は一人。誰もが孤独から逃れることができないのなら、「孤独」とは生涯に渡り、良きパートナーでいたいものだ。

と、なにを訳のわからないことを書いているのだろう?と自分でも思う。。。
こんなとりとめのないことを考えるのも、すべて更年期のエストロゲン減少によるもので、本来はイルミネーションなどになんの興味も示さない情緒のない人間なのである。。。

今年はクリスマスディナーのお支度もなく、のんびりと過ごせるので、暇に任せて自己満足ブログを書いて過ごしているのであった。。。