街には外国人旅行者が溢れかえっている。渋谷などを歩けば、「ここはどこの国?」と思うほど外国人だらけ。
コロナ禍以前に比べれば外国人観光客はまだ7割ほどしか戻っていないというけれど、欧米からの旅行者が増えたせいだろうか、我々アジア人とは違った風貌の身体の大きな外国人が目につくようになったからか、コロナ禍以前よりも外国人旅行者が増えていると感じる。
飲食店でもお買い物をしていても、そこかしこから英語が聞こえてくる。英語圏からの旅行者は一部なのだろうけれど、世界の共通語ということで、とりあえず日本語ができなくても英語でなんとかなるだろうというのはどこのお国の人も考えることだ。
私も然りで海外へ出ると、その国の言葉が話せなければ、とりあえず英語でコミュニケーションを試みるのでその心情は理解できる。「日本なのだから日本語を話す努力くらいしなさいよ」などと無茶な要求はしない。
ただ、我が物顔で英語を喋りまくり、通じないと呆れた素振りなどを見せる輩を目にすると、「なんと傲慢な!」とは思ったりはする。
ここは日本なのだ!郷にいれば郷に従え!と。
こんなふうに思うのは、あまりに中途半端な自分の英語力を自覚してのコンプレックスなのだろうか。。。
正直言えば英語は得意ではない。とりあえず日常会話程度なら問題ないのだけれど、スラングなどを多用されるとまったくわからなくなる。とりわけアメリカ人の話す英語は巻き舌が過ぎて耳が追いつかない。むしろ非英語圏の人が話す訛った英語の方が聞きやすいくらいだ。
英語を一所懸命に勉強したのは20代の前半。それ以降、30代くらいまでは海外と日本を行ったり来たりしていたので、普通に「英語は問題なし!」と言えた。しかし30代の終わり頃に日本に定住してからは、家で外国人の夫と話すくらいしか英語を使うことはなくなった。
そして、夫が日本語を理解するようになってからは、家の中ですら英語は使わなくなった。
語学というのは道具と同じで、使わないと錆びつくものだ。15年以上も英語を使わない生活をしていたものだから、いざという時、以前のように言葉が出てこない。
子供達にも発音の悪さや言い回しの不自然さを指摘されたりするほどに、気づけば私の英語力は10年間雨ざらしにされた植木鋏くらい錆びついていたのだった。
日本で暮らしているのだから、英語など必要ないわ!
そんな気持ちで、もはやブラッシュアップする気すらまったくなかったのだけれど、少し楽観しすぎていたようだ。
先日、夫の友人達が海外からやってきた。ホテルにステイするものだと思っていたのが、突然我が家に泊めると夫が言い出したのだ。
言葉の問題よりもまずは家の狭さが心配になった。一応ベッドルームは3つあるけれど、バスルームもトイレも一つずつしかない。我が家3人にさらに外国人の大人2人が加わるとなると、かなり無理があるのでは?と思った。
自分のテリトリーにおいて、生理現象を我慢しなければいけない事態は容認できるものではない。
夫には「近くのホテルにでもステイしてもらったら?」と言ったのだけれど、みんなと毎晩遅くまでワイワイやりたいのか、「どうしてうちじゃダメなの?」と、「泊める!」の一点張りだった。
仕方がないので、念の為にその友人達に「日本の家はウサギ小屋と揶揄されるくらい狭いですがご存知ですか?そんな狭い家でいいのですか?」
「小さなベッドルームにギュウギュウ詰めにしますよ!」
そう脅かしてみたのだけれど、あちらはまったく意に介さず。。。
「ホテルに泊まるのと同等の宿泊費を払うから、是非お宅に泊めてほしい」
もはや意味がわからない。。。
友人達は富裕層の方々なので、一泊10万円のホテルに1ヶ月泊まっても痛くも痒くもない。特にケチンボというわけでもない。
それなのに、なぜウサギ小屋に泊まりたいのだ⁉︎
もしや、この歳になってホームステイ体験でも求めているとか?
まったく解せないのだけれど、そこまでいうのならと、受け入れることにした。
散々脅かしておいたので、不便があっても「だから言ったでしょ?」と言える。
もし途中で嫌になったら、ホテルにでも移ってもらえばいいと考えていた。
ところが、いざ滞在を始めると予想に反してなぜだかとても快適なようなのだ。私も元々過剰に気を遣うタイプではなく、なんでもはっきり口に出すタイプの人間なので、彼らに対しても言いたいこと言う。
あちらも最低限の礼儀をもって、自由に振る舞う。
「まるで自分の家と感じるくらいに快適だよ」
などと狭い部屋に押し込められながらも楽しそうにしていたのだった。
最初に心配した部屋の狭さなども大して気にならないようで、お風呂やトイレの使用も、なんだかんだと声を掛け合いながら不便なく使うことができた。
夫にとっても近しい友人でも、私にとってはよくわからない赤の他人なのだけれど、不思議とストレスもなく毎日顔を合わせてはお喋りを楽しむことができたのだった。
ちなみに宿泊料はお断りした。食事に連れて行ってくれたり、あれこれプレゼントをしてくれたりとかなり気を遣っていただいたので、「そんなものいただけませんわ〜」と気前のいいところを見せてみた(笑)
そんな感じで思いもよらず楽しい時間を過ごすことができたのだけれど、やはり言葉の問題は避けては通れなかった。
歳のせいか、頭の中で言語の切り替えがうまくいかない。
頑張って英語で生活していたけれど、今度は日本語の使い方がおかしなことになったのだ。
夫や子供達とは普段日本語で会話をしているのだけれど、ゲスト達がまったく日本語を理解できないので、あまり日本語でばかり話しをするのは失礼ではないかと思い、夫はもちろん子供達に対しても英語で話すようにしていた。
通じればいいのよと思っていたので、かなり適当だったのだけれど、私なりに頑張っていたと思う(笑)
悪戦苦闘と言うほどではないものの、さすがに英語だけの生活は疲れるものだ。
必死でかつて覚えた単語を思い出しながら、時々言葉に詰まりながら話しているのだけれど、考えたからと言ってホイホイと失った英語力が戻ってくるものでもはない。
ボキャブラリーが少ないと、かなり回りくどい言い回しになるもので、もはや会話の全てがぐるりと遠回り。地下鉄を使えば早いのに、乗り換えが難しいからと山手線でぐるりと回ってきました。そんな感じで会話しているのだ。
とても親切な方々なので、そんな私の遠回りに辛抱強く付き合ってくれた。きっと聞いている方にとってはとてももどかしい思いをしていたことであろう。しかしそうしなければ会話が成立しないのだから仕方ない。
昨日食べたものすら忘れてしまうのだから、何十年も前に覚えた単語など出てくるわけがないのだ。
こんな感じで外国人に囲まれ、約2週間英語だけの生活をしていたら、今度は日本語までおかしくなってきた。
よく海外で長年暮らしている人などは、日本語を忘れてしまい、スムーズに出てこないということがあるけれど、私の場合はどっぷりと日本語に浸かって生活しているのだから忘れるはずがない。
なぜかといえば、頭の中で英語と日本語の切り替えがうまくできないようなのだ。
日本語を忘れるようなことはないけれど、頭で考えたことがサラサラと出てこないのだ。
外国人ゲストが滞在中、ちょっとだけ日本人のお友達とお茶を飲みに行ったのだけれど、なんだか言葉に詰まることが多かった。約2週間、ずっと英語だけだったので、頭の中に浮かんでくるのはまず英語だ。そこで日本語モードに切り替えるため、ワンテンポおそくなるという。。。
これはよろしくない!と今度は日本語に比重を置くと、今度は英語が思うように出でこない。
なんだか日本語も英語もどちらも中途半端という、久しぶりにとんでもなくポンコツになった自分を感じた。
海外で暮らしていた若い頃は、この切り替えが実にスムーズにできたものだけれど、錆びついた英語力に加え、年齢のせいか、それとも普段まったく頭を使わずにのほほんと暮らしているせいなのか、とにかく頭の回転速度がかなり遅くなっている。
遅いどころか、ときどきエンストを起こすくらいだ。
我が家に滞在していた外国人が夫や私のガイドなしで行動する際、「若い人を選んで話しかければ、少しは英語を理解してもらえるのでは?」と言っておいた。帰宅した彼等に言葉の不自由はなかったか?と尋ねたところ、若い人にもほとんど英語は通じなかったと言っていた。
私の年代では中学、高校の6年間は英語の授業があった。当時は日本人教師が酷い発音で英語の授業を行っていたもので、帰国子女の生徒がよく鼻で笑っていたのを思い出す。しかし今は小学生から英語の授業が取り入れられているから、おそらく12年は英語を学んでいるはずだ。しかも教えているのはネイティブの英語教師だ。
それにも関わらず、実戦で外国人との会話がままならないとは、日本の英語教育は正しいのだろうかと疑問だ。
私の友人達の多くはとても流暢に英語を話す。どこで覚えたかといえば、帰国子女はじめ、インターナショナルスクールへ通っていたとか、海外留学や海外赴任経験ありと、全員が日本の外で培ってきた英語力だった。
中にはとても高学歴なお友達もいるのだけれど、日本での英語教育ではまったく英語は話せなかったという。
日本で暮らすのなら別に英語などできなくても不自由はしない。正直そう思うけれど、英語が話せて損をしたと思ったことは一度もない。
日常会話程度でも英語が理解できれば、とりあえず海外旅行へ行った際などには不自由はしない。
お買い物の際にお釣りを誤魔化されるとか、人並みのサービスを受けられないといった理不尽な目に遭ったりした際も、とことんクレームをつけたりできるので、泣き寝入りして悔しい思いをすることもない。
そもそも私が英語を学んだのは、「悔しい思いをしたくない、言いたいことが言えるようになりたい」そんな思いからだった。
元来の悔しがりが英語を学ぶ大きな原動力となったのだ。
それはのちに夫婦バトルでも大いに役立った。私の場合は「ビジネスで役立つ英語」ではなく、暮らしの中で「理不尽な目に遭った時に応戦するための英語」に主軸を置いて学んだため、夫との口論にもその英語力を遺憾なく発揮できたのである。
単に「英語を学ぶ」ではなく、何のために学ぶのか、目的をしっかり持つことは後々の人生においてはなかなか重要なことではないかと思う。
たかが夫婦喧嘩で連勝し続けている程度で大袈裟だけれど。。。
私の場合はそんな小さな目的ではあったけれど、もっと志高く目標を定めて学べば、きっと相応の結果が期待できたはずだから、目的によって学び方を選ぶのは案外大切なことなのではないかと思うのである。
しかし英語が話せなくても、必要でない環境で生きているのなら問題はない。
私も夫が外国人だからこそ、英語が必要になることもあるけれど、もしも日本人と結婚していたらきっと何十年も英語に触れる機会などなく過ごしていただろう。
英語が話せない友人から「あなたは英語が話せていいわね」と言われることがあるけれど、逆に「英語を話せなくて困ることなんてある?」と聞き返せば、「別に困らないわね」と返ってくる。
結局はそういうことなのだ。
夫が外国人である限り、今後も今回のように英語を話さなければいけない場面があるだろう。その時にまたあたふたしたないように、少しはブラッシュアップしておくべきなのだろうとは思う。
それでも「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、今更英語など勉強してもね。。。などと思い始めている始末だ。
英語を学ぶことよりも楽しいことは山ほどある。暇な身の上とはいえ、時間は大切にしたい。
勉強せずとも完全に忘れてしまうことはないだろうから、またそんな場面が訪れたらその時考えればいいかなと思う。
英語は必要な人が必要な時に学べばいい。今の私にはとりあえず必要ではなさそうなので、ブラッシュアップする暇があるのなら、この有限である時間をもっと楽しいことに使うとしよう。