前回の投稿から数ヶ月、書こうと書こうと思いながら先送りになっていた。
終わったわけでも放置でもないので、ゆっくり書ける時、気が向いた時に更新していくつもり。
今日は14年前の3月11日に発生した東日本大震災のことを思い出した。
その日のことは今でもよく覚えている。
まだ二人の娘は小学生で、私はPTAの集まりが終わった後に子供達と一緒に帰ろうと他のお母さ様方とホールでお喋りしながら待っていた。
そこにきた大きな揺れ。
あまりに揺れるので近くの空いていたお教室の机の下に身を伏せることにしたものの、一向におさまらぬ激しい揺れに恐怖を覚えた。
あちこちからあがる悲鳴に、神戸で震災を経験したことのある方が、「慌てないで、大丈夫だから!」と声かけてくれ、そこにいた皆が少し落ち着いたのを覚えている。
あの激しい縦揺れを経験した話は、以前彼女から聞いたことがあり、「大丈夫!」という言葉が妙に説得力を帯びていたのだ。
ようやく揺れがおさまり、子供達が全員校庭に避難したあと、保護者のお迎えがあった子から先に帰宅できることになったので、すぐに娘二人を連れて学校を出た。
帰宅する前にそのまますぐにコンビニへ向かった。トイレットペーパーやお水などはストックがあったので、とりあえず電池やガムテープ、紙皿などを買った記憶がある。インフラも停止しているだろうと、牛乳、パン、おにぎりなど、とりあえずすぐ食べられるものを買ってから帰宅した。
その時点でまだ夫とは連絡が取れていなかった。
電話は一切繋がらず、メールもだめ。。。
LINEに関しては、当時、友人の一人とLINEで連絡を取り合っていたため、私自身は使用していたのだけれど、当時はほとんどの人がそのアプリの存在すら知らなかった。
日本でLINEを使い始めた最初の30人くらいに入っていたのでは?とういうくらい、まったくLINEが知られていない頃で、当時はメッセージを送る相手も一人だけという状況だった。
とにかくあの日はあらゆる連絡手段がまったく機能しなかったのだ。
そんな中、連絡手段として一番役に立ったのがTwitterだったそうで、家族でアカウントくらい作っておこうと言い合ったのを覚えている。
結局、私達が帰宅してほどなく、夫もコンビニの袋を提げて帰ってきた。
何かあると、真っ先に食べ物の心配をする家族なのである。
帰宅してみると、家の中は出た時とほぼ変わりなかった。
あれほど揺れたのに、無造作に置いておいた物が一つ二つ床に落ちたくらいの被害で済んだ。
ただ夫が飼っていた魚の水槽の水は、かなり床に溢れていたので、それなりに揺れたようだった。
「地震にだけは強く作ってある」
そんな大家さんの言葉が決め手になり、地震の起きる半年前に引っ越したマンションだったが、これは大正解であった。
なんせその前に暮らしていたのは15階建のマンションの上階だったので、つくづく低層に引っ越してよかったと思ったものだ。
帰宅して電気、ガス、水道の状態を確認すると、ガスだけ自動で元から落ちていて、そちらはすぐに復旧できたので、すべて問題なく使うことができた。
ほっと一息つき、テレビをつけて初めてその惨状を知り、すぐに福島に住む友人に連絡するも、当然のことながら繋がらず、とりあえず落ち着くまで待つことにした。
そこからは情報収集に明け暮れた。
今のようにTwitterを使っていなかったので、テレビだけが頼りではあったのだけれど、天邪鬼ゆえそれを鵜呑みにもできなかった。それでも観てはいたけれど。。。
もう一つ海外からの情報も有益だった。
日本には米軍基地もある、それだけでなく東京にはあらゆる国の大使館、また外資系企業のオフィスがあり、駐在員も少なくない。
そんな人たちに本国から寄せられる情報も、友人知人達と共有した。
ほとんどの友人達は、東京から出る準備をしていた。
企業がチャーター便を用意して本国へ帰国させたり、関西など西へ避難させたりと、私の友人知人達も皆んな東京を離れる決断をしたのだった。
それは福島原発の被害にやる放射能被害を恐れてのことだった。
名前は伏せるけれど、お大臣さん達の家族もいの一番に東京を脱出していた。
そんな情報が入ってくるものだから、「一番情報の集まる政府機関の人達が、自分の家族を逃しているのだから」と、東京脱出を決断したようだった。
我が家も正直迷った。。。
まだ子供達は育ち盛りの小学生だ。何かしら影響があってはと思うと、やはり東京を離れるべきなのか。。。
しかし夫も同時に情報収集をしていて、海外組もまた東京に家族と共にとどまる決断をしている人も相応にいることがわかった。
つまりは各々が独自の考えで、東京を離れるか否かの決断をしているだけで、切羽詰まった緊急事態という事ではないという事だったのだ。
結局、一時的に東京を離れたとしても、また戻ることになる。
放射能があっという間に消えるわけではないのだから、それこそ別の土地に移住でも覚悟しない限りは、一時的に逃れても同じことだと思った。
夫にもそう説明し、私は東京に留まりたいと言ったところ夫もそれに同意し、我が家は東京に留まることを選択したのだった。
ただ、やはり心配なのは子供達のことだ。しっかりとした情報が出るまでは、決して外には出したくない。
学校に電話してみると、登校は自己判断で構わないとのことだったので、当面は学校を休ませて家に籠ることにした。
気休めだけれど、ガムテープで外気が入りそうなところは全て目張りして、空気清浄機をまわして少しの安心感を得た。
食べるものにさえ困らず、トイレやお風呂が使えれば問題ない。
スーパーやコンビニの棚は流通が滞りスカスカではあったけれど、米と小麦粉があればなんとかなる。
そんな時でも美味しい物が食べたいと、私はパンを焼いたり、うどんを捏ねたり、すいとんを作ったりと、忙しくキッチンにたっていた。
毎日のようにテレビから流れてくる東北の様子を目にしていた。その頃にはようやく福島に住むお友達とも連絡がつき、みんなの無事を確認できホッとした。
当時を思い出すと、目に浮かぶのは真っ暗になった東京の街だった。
我が家の住む地域では計画停電にはならなかったけれど、街灯などはすべて電気が切られ、無数にある飲食店もほとんどすべて閉店状態で、いつも煌びやかな街がとにかく真っ暗だった。
その暗さに重ねるように、この先どうなってしまうのか、先の見えない不安に恐れのようなものを抱いていたのが思い出される。
震災から数週間経つと、東京から脱出していた人達もボツボツと帰ってきた。
中には本格的に沖縄あたりに移住してしまったファミリーもいたけれど、ほとんどはまた元の生活に戻ったのだ。
子供達もまた学校へ通い始めたけれど、普通の暮らしが戻ったわけではなかった。
依然として放射能に対する不安はあり、こと学校給食にも保護者はかなり敏感になっていた。
中にはガイガーカウンターのような機器を手に、学校の周辺を毎日歩き回っていた保護者もいたくらいだ。
学校給食の栄養士さんも産地の公表などをしながら、必死で工夫していたようだ。
私もまた普段口にする食材にはかなり過敏になっていて、とある筋から愛知県から西のものなら問題ないと聞き、なるべくそちらのもを選ぶようにした。
余談だけれど、京野菜に興味を持ち積極的に買うようになったのもそれがきっかけだった。
そんなことをしばらく続けていたけれど、やはり限界がある。
お友達が福島にいることで、その風評被害のような話も聞いていたので余計だ。
いまでは美味しい果物も買うし、福島のみならず野菜も千葉や埼玉など西の物へのこだわりはなくなった。
それは子供達が成長したことも関係している。私の背の丈を追い越し、すっかり大人と変わりないくらいに成長したこともあり、以前のようなこだわりは次第に薄くなったのだ。
あれから14年。。。
お友達を訪ねて福島や仙台へも旅行している。
しかし、全て忘れてしまったわけではない。やはり今でもあの地震が起きた時のこと、その後の日々は鮮明に思い出すことができる。
日本はどこで大震災が発生してもおかしくない。南海トラフ、東京直下型など、想像すると本当に恐ろしいのだけれど、東日本大震災、そして阪神淡路大震災、能登半島地震などを教訓に、できる備えはしておこうと、気持ちを新たにした一日だった。