In other words

I really don't know life at all ...

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注文していないのに勝手に置き配された大量のドリンク。誤配された物の行方。

昨夜、遅く帰ってきた夫が玄関で何やら騒いでいるので、何事かと出てみると、我が家の玄関先に大量のドリンクが置かれていた。

ペットボトルや缶ではなく、ファストフード店などで提供されるようなプラスティック容器に入ったドリンクと、キャップ付きボトルに入ったドリンク、両方合わせて20個ほどのドリンクが透明の手提げ袋に入った状態で置かれていたのだ。

どうやらどこぞの配達員により置き配されたようだ。
もちろん我が家は注文はしていない。
配達された時にインターフォンも鳴っていない。
夜遅くに、ただひっそりと置き去りにされたのだ。

一つや二つならまだしも、大量のドリンクが玄関先に並んでいるのはかなり気味が悪いものだ。
面倒だったけれど販売元に連絡しようと思い、領収書かレシートなどは入っていないかと中をのぞくも、店名は袋やボトルに書かれていたものの、レシートのようなものはないのでどこの店舗から配達されたものなのかはわからない。
ますます気持ちが悪い。。。

とりあえずは、一番近い店舗に連絡をとるほかないと思った。。。

しかし、勝手に玄関先に置き配されたのだ。なぜ私がそのような苦労をしなければいけない?
それもおかしな話だ。
夫に「これ、どうする?」と尋ねると、「どうするもこうするも、自分のものではないし、そのうち取りに来るでしょう」と、そのままにしておけという。
気になりつつも、夜も更けていたので、放置したまま私は寝たのだった。



今朝、「もしや、間違いに気づいた配達人が取りに来たかも?」と、玄関ドアを開けると、そこには依然としてあの大量のドリンクが鎮座していた。

お店の商品などは、今やネットで検索すればどんなものかは容易にわかる。
下世話だけれど、調べてみた(笑)

そのドリンク、こよなく健康にこだわる、所謂意識高い系の方々が好んで愛飲するような、少しばかり高価なドリンクだった。
私にはまるで縁のないものだったため、その分野に明るい長女に「玄関のドリンク、◯◯という店の◯◯なんだけど知ってる?」と尋ねると、「そうなの?あれ高いから玄関にある分だけでも1万円はゆうに超えるよ」と。

そんなドリンクが誤配されたら、普通なら注文した人が「届かないじゃないのさ!」とクレームを入れてもよさそうなものだ。

まさか取りに戻るのが面倒で、配達人が自腹で弁償した?
いや、この金額を肩代わりするくらいなら、面倒でも引き取りにくるばすだ。

ひょっとして、近所のお宅でパーティーでも行われていて、酔っ払ってあれこれ注文したために、一軒くらい注文したものが届かずとも、忘れてしまって気づかないとか?

我が家の近隣はとにかく外国人が多く住んでいるため(我が家もだけれど)、よくパーティーどんちゃん騒ぎしているのが聞こえてくる。
昨夜は金曜日だ。パーティーにはうってつけの華金であった。
ところが、どこのお宅からも大騒ぎしている声は聞こえてはいなかった。
やはりどこかの健康と美容に心血注いでいる意識高き御仁が注文したものに違いない。。。

もはや誰がどんなものを注文しようがどうでもいいことなのだけれど、とにかくこのドリンクをどうしらいいか、朝から頭を悩ませていた。

廃棄するにも中には液体が入っているため、そのままゴミに出すこともできない。
処分するためには、一つ一つ中身のドリンクを捨て、プラスティックゴミ回収日まで待って出すしかない。キャップ付きのものは資源ゴミに分類される類のボトルだから、これまた回収日が異なる。
そのような面倒なことをした挙句、大量のゴミを回収日まで抱えるなどということを、なぜ私がしなければいけないのだ⁉︎
考えるだけで悶々としてくる。

そもそも自分のものではないのだ。後から「勝手に処分した!」などと難癖をつけられては、激しいバトルに発展する可能性もある。
争いはネガティブ感情の塊だ。免疫が低下する恐れがあるので、とりわけ健康に留意しなければいけない今、それは避けたい。

本当に困ったものである。。。



我が家はかつて、毎日のように◯ーバー◯ーツによる誤配があり、かなり頭を悩ませていた時期があった。

日に3回、朝昼晩とインターフォンが鳴り、そのたびに「うちではありませんよ!」と叫んでいたものだけれど、利用していたと思われるお隣のマンションのOLはどうやらお引越ししたらしく、以来誤配は落ち着いていた。
一時期、インターフォンのところに「◯ーバーの方へ、うちではありません」などと貼り紙をしようかと思ったこともあるけれど、さすがに景観が悪いのでやめた。
そうこうするうちに誤配の嵐が止んだので、そんなこともすっかり忘れていたのだった。

それから数ヶ月、何者かによるいきなりの大量ドリンク置き配事件勃発だ。

やはり面倒でも商品を販売しているお店に連絡するべきだろうか?

そこで、まずはネットで配達可能地域の店舗に当たりをつけ電話してみることにした。
ところが営業時間が夕方からになっている。。。
メールという手もあるけれど、昭和の人間なのでメールよりは断然電話だ。その方が文字を打つよりも早いし、相手の様子も伺いしれる。

結局、お店に連絡することはできず、私は用事があったので、ドリンク問題はそのままペンディングとし、とりあえず外出することにした。

それから3時間後、帰宅してみるとあったはずのドリンクが姿を消していた。
ようやく配達人が取りに来たのか?と思いホッとしたのだけれど、真相は違っていた。



留守番をしていた夫に尋ねてみたところ、なんとドリンクは警察が持って行ったという。

いつまでも玄関先に余計なものを置かれては困ると、一応隣近所に心当たりを聞いてみたところ、誰も注文した覚えはないということで、警察へ通報したのだそうだ。

夫はこれを「不審物」であると結論づけたのである。
「知らないうちに何者かによって置き去られた謎の液体」ということで、警察に相談したところ、「落とし物」として処理しますと、そのドリンクを回収していったそうだ。
これにて一件落着である。

最近は私もamazonなどで物を買うと、置き配されることがほとんどで、直接顔を合わせずに受け渡しができる「置き配」は、面倒もなくよいシステムだと思っていた。
受け取る手間が省けるだけでなく、防犯上の観点からも人によっては安心できる。
我が家の娘が一人暮らしをしていた時、そんなシステムが安心材料にもなっていたものだ。
しかし反面、コミュニケーションがないことで不便なこともあるのだ。

私は◯ーバーをはじめ、食べ物のデリバリーは近所のピザ屋さんくらいのものなので、◯ーバーの詳しいシステムは知らない。

近所を歩いていると、レンタルサイクルで配達をしている人をよく見かける。そんな様子からどこかの組織に属し働いているのではなく、所謂個人で配達を請け負っているのはわかる。

そうなると一体責任の所在は誰になるのか?
商品を販売する店舗か配達人か、◯ーバーという会社なのか。。。

自分にはまったく関係のないところで行われた取引に、自分が知らぬうちに巻き込まれ、頭を悩ませていると思うと、本当にうんざりする。

申し訳ないけれど、街で◯ーバーの文字をみるたび、過去の度重なる誤配を思い出し、苦々しい気持ちになり、思わず眉をしかめてしまうほどだ。

今回の件が誰によってなされた事かはわからない。
気持ち悪い思いはしたけれど、実際は数ある誤配の一つなのだろうと思う。

それでも、気になる。。。
注文した人も、配達した人も、一体何をしているのだ?と。
少なからず金銭が関わってくる問題だ。人様のお財布事情に頓着する必要はないのだけれど、事の顛末がわからないため、なんだかスッキリしない。

後日、警察から何かしらの連絡でもあればいいのにと思うところだけれど、きっとそれも期待薄であろう。

とにかく、もう誤配は真平ごめんだ。


英語の筆記体を義務化というニュースに考えた、いかに脳を活性化されるか問題。


写真は本文とは関係のないイメージ画像で、私宛のお手紙ではありません。

かなり前になるのだけれど、アメリカで筆記体を義務化する州が増えているというニュースを見た。

タイプライター、パソコン、タブレットの普及でいつしか筆記体を使うことが少なくなったとのことだけれど、我々昭和世代では日本でも筆記体は必須だった。

私の年代(50代)では中学1年から英語の授業があり、まず最初にアルファベットを覚えることから始まる。
筆記体、ブロック体の両方を何度もノートに書き込んで覚えたものだ。

幸い小学生の時から洋楽が好きだった事で、英語への苦手意識はなく、むしろ学びたいと思っていたくらいなので、まったく苦にはならなかった。
その後、大人になってからは何十年も筆記体など使った事はなかったけれど、若い頃に学んだ事は柔らかい脳にしっかりと浸透しているせいか、使わずともいまだに筆記体で書けと言われれば書けるし、読むこともできる。

そんな筆記体もいつの頃からか、学校でも学ぶことはなくなっていった。それを知ったのは、長女が小学生になり英語学習の内容を見たときだった。
たとえ使わずとも、存在しているのならたった26文字くらい覚えさせておいてもよさそうなものをと思った覚えがある。
短い時間に多くの単元が押し込まれている状況では、省かれていくのも仕方がないのかもしれないけれど。。。

しかし、世の中、無駄なものなど一つもないというではないか。万人に必要なくとも、誰かにとっては必要であるということもあるということだ。
かくゆう私にとっての筆記体もそんな必要なものであった。

私の場合、夫が外国人のため、夫の両親、そして今は亡き祖母から届く手紙は全て筆記体で書かれていた。
今のように電子メールが普及していない時代は、手紙でのやりとりが頻繁にされていたのだ。
これが難なく読めるのも、あの中学校での学習のおかげといっていいだろう。

一方、私よりも英語力の高い子供達は、筆記体を習ってこなかったため、これらの手紙を読むことができず、私が読んで聞かせていた。

次女は筆記体に興味を持ったので、私が教えたのだけれど、まったく興味のない長女はいまだに筆記体を書いたり読んだりすることができない。

筆記体云々以前に、今はペンを持って字を書くことすら少なくなった。
メモ帳もペンも全てスマホが肩代わりしてくれる。
荷物が少なくなって便利なので、私も数年前からはスケジュール帳やメモ帳、ペンを持ち歩くことをやめ、全てスマホを活用するようになった。
こんな昭和生まれの私でさえもそうなのだから、スマホやパソコンをいじりながら育った年代では、もはや文字を書く機会などほとんどないと言っていいだろう。



日本人にとって英語は第二外国語であるから、筆記体くらい読み書きせずとも不便はないだろうけれど、英語を母国語とする国では若干の懸念も出ているらしい。
そのニュースで取り上げていたのが、歴史的文書、古い公式文書は筆記体で書かれているため、それを読めない人が増えているということだった。
それも必要な人とそうでない人がいると思うけれど、子供達の学習という点で考えればやはり読めるに越したことはないのだろう。

他にも脳を活性化させる役割もあるらしい。
活字体と筆記体では脳の別の部分が使われるため、両方を使うことで脳の活性化がより高まるということだ。

脳が活性化すれば自ずと英語以外のお勉強にも役立つ。
数学での計算はもちろん読解力なども上がり、全般的な学力向上に役立つということで、筆記体復活の動きが出てきているということだった。

そんな単純なことではないと思うのだけれど、これは面倒くさいことをわざわざやれば、それがたとえ筆記体を書くことでなくても、脳が活性化するということなのではないか⁉︎

面倒くさがり屋ゆえ、物事をいかに簡単に済ませるかを常に考え、やらなくてもいいことは極力やらないで済ませようとする。
そんなことだから、私の脳は活性化しないのではないのか?と思った。

まだ仕事をしていた頃や、子育て最盛期はやるべきことが多く、中には非常に厄介でできれば避けたいような事柄も多々あった。
しかし、そんなウェルカムでないことも、やらなければいけないことはどんなに面倒でもそれなりにこなしてはきた。

ところが次女の大学受験が終わった途端に、私には「面倒だけれど、やらなければいけない」というようなことは極端に少なくなった。

いまだ家族から投げて寄越される雑事など、厄介なことはあるけれど、それは以前の比ではない。
たまに夫が仕事関係のことやお役所関連の書類などを翻訳しろとか代筆しろなどと言ってきたり、いきなりお友達を連れてきてパーティーのようなことをしたり。。。また次女も毎週末のように大学のお友達を連れてきては、私に飯炊きおばさんをさせたり。そんな面倒はあるけれど、それも毎日ではない。



仕事もしていない専業主婦なので、時間も自由に使えるし、好きなことをしていれば一日が終わるのだ。
これでは脳も活性化するどころか、どんどん退化していくのではないか?と思う。

自覚症状も著しく、判断力や処理能力が極端に衰えていると日々感じている。
なにかを決めたら即実行!というのが当たり前だったのに、最近は一度決めてもあとからそれは最善なのか?とぐずぐずと悩むことが増えた。

大したことではないのだけれど、例えば百貨店などで面白そうな催事があれば、以前なら初日に駆けつけていた。しかし最近は「初日は混むかしら?」「翌日にあの予定もあるし、疲れちゃうかしら?」などと、先のことをあれこれ考えなかなか「行く」という決断ができない。
結局終わり頃に「やっぱり行っておかなければ!」とギリギリに滑り込んだりするのだから、最初から行けばいいものをと後から必ず思う。

そんなことばかり繰り返していたので、最近はそんな自分の優柔不断さに嫌気がさして、計画はしないことにした。

朝起きて、その時の気分で決めるのだ。
計画したことが実行されないからこそ、悶々とした気持ちになるのであって、最初から計画がなければ実行してもしなくても気分的には変わらない。

自分自身にまるで負荷を与えないことばかり考えているのだから、脳の不活性化はさらに進む。

これではいけない!と思う反面、この歳になってなぜ好き好んで面倒なことに頭を突っ込む必要がある?とも思う。

厄介事が重なるとストレスも増える。私はストレスによって引き起こされる病気は多いと考えているので、なるべくストレスのない生活を心がけているのだ。

過去、大病により二度手術を受けた。その時に「もう二度と身体にメスなど入れたくない!」心底そう思った。
幸いなことに命拾いし元気になったので、とにかく健康でいたい気持ちは人一倍強く、いかなる病気も近づけない努力はしようと思っているのだ。

そのためには常に免疫を上げていくことであると信じている。
しっかりバランスの取れた食生活と質のよい睡眠、いつも朗らかに笑って暮らすこと。これができていれば、とりあえずは大丈夫だろうと、かなり大雑把だけれど、そんな生活を心がけている。

よく眠れるし、よく笑ってはいるけれど、食に関してはとにかく甘いお菓子が大好きで、それが唯一の趣味でもあるから、そこは悩ましいものなのだけれど、昨年暮れの健診でよくない結果が出て、主治医にも注意されたので、お菓子を大幅カットし、同時に食事制限も始めた。
体感的にも次の検査ではまた正常値に戻るだろうと思う。



筆記体のお話からかなり飛躍し、もはやどう軌道修正していいのかわからなくなってきた。。。

とにかく、脳を活性化させるためにはそれなりに負荷をかけることも必要なのかもしない。
しかし、負荷をかければかけたでストレスもかかってくると思うと、そのバランスも問題になってくる。

今はまだいいけれど、あと20年も経てば私も立派な高齢者となる。その時に脳がしっかり機能しているのか、今の安穏とした暮らしの中ではいささかの不安がある。

年寄りなりに常に脳を活性化させるのは必要なことだ。そのためには今のように何も考えず刹那的に暮らしていてはダメな気がする。

ストレスなく脳を活性化させるにはどうしたらいいのか?
いまさら筆記体を繰り返し書くのもつまらない。それならば毎朝写経でもやろうか?
最近はペンを持つことも稀なので、これはいいかもしれない。手先を動かすのは脳の活性化に役立つというし。。。

そこで「脳を活性化させる方法」をネットで検索してみると、なんだかあまり難しく考える必要はないようなのだ。

規則正しい生活や好きなことを楽しむ、人とのコミュニケーションを大切にするとか、なんだか免疫を上げるために必要なことと同じようなことが書かれていた。
また脳を活性化させるためのゴールデンタイムとは起床後の2時間であるらしい。
その時間、私はだいたいブログを書いていることが多い、まだ家族も眠っているので、洗濯機を回しながらコーヒーなど飲みながら、こうしてダラダラと書いているのだ。
これも脳を活性化するために役立っているということか⁉︎

なんだか特別なことなどしなくていいようだ。
人として正しく、楽しく生活していれば、おのずと脳は活性化してくれるのかもしれない。

昨今、なんでもこねくり回し物事を難しく考える風潮にあるけれど、実はそんな難しいことではなく、ごくごく当たり前のことこそが一番の正解なのかと思った。

その「ごくごく当たり前のこと」を日々実践していくことこそが難しいのだけれど、なんとなく今の暮らしでそこそこ脳は活性化している気がしてきた。

とりあえずはブログを書くという日課をこの先も継続していこうと思ったのであった。


令和のバレンタインデー、ホワイトデー。自分へのご褒美と義理チョコ習慣。

今日はホワイトデーなのだけれど、バレンタインデーが終わる前から、早くもホワイトデー商戦が開始され、つい先日まで百貨店から美味しそうなお菓子のご紹介メールが連日メールボックスを埋めていた。

季節季節でまるで押し寄せてくる波のように、お菓子情報が入ってくるものだから、その度になにやらソワソワしてしまう。

そんな甘い誘惑に乗らないよう、なんとか理性を保とうと必死になっている私を横目に、そんなホワイトデーを楽しみにしている者がいる。

我が家の長女である。

毎年、バレンタインデー前になると、長女が「バレンタインのチョコレートを用意しないと!」と、どんなチョコレートがいいかな?と相談してくる。
私が日々おやつと称してお菓子ばかり食べているので、贈答品などを選ぶ際には必ずアドバイスを求めてくるのだ。

贈り物とはなかなか難しいものだ。どんな相手にどんな理由で贈るのか、また相手の家族構成や好み、予算まで考慮して選ばなければいけない。

その辺の聞き取りをした上で、毎年「この方にはあの店のあのお品がいいのでは?」などと、いくつか提案する。
そしてその提案通り、長女は毎年大量にチョコレートを用意するのだ。

最近一人暮らしを解消し自宅に戻ってきた長女だけれど、今年もバレンタイン前に一人暮らしの部屋を訪れると、ずらりとチョコレートの入ったショップバッグが並んでいた。
どれほどチョコレートに散財しているのかと、チラリ見ると全て同じではなく多少のバリエーションはあるようで、値段や大きさなど若干は違うものの、高価でも安価でもなく、ほどほどの値段の美味しいチョコレートという、私のアドバイスをしっかり聞き入れた内容になっていた。

これらのチョコレートはすべて仕事関係を始めとした、知人に送るためのものだと言う。
なぜかバレンタイン時期には彼氏がいないせいか、私の知る限り彼女が買うのはすべて「義理チョコ」だ。

我が家の長女は時として、まるでバブル期女子のようなことをして、よく「生まれてくる時期遅すぎたんじゃない?」と家族で笑うような女子だ。

「今どき、義理チョコなんて、誰もそんなに買わないでしょ?」

ちょっと呆れたように言うと、

「これは義理チョコではなく、日頃お世話になっている感謝の気持ち」

そんなことを言う。

特に目上の方には何かしてもらっても、こちらからのお礼などプレゼントするのは難しいものだ。

そんな日頃溜まった「ありがとう」をバレンタインを使ってお返しすると言うことらしい。



それはとても良いことだと思うのだけれど、私は知っている。。。
表向き殊勝なことを言っているけれど、実は海老で鯛を釣るべく、狙いを定めていることを。
本人は否定しているけれど、私はずっと疑惑の目をもっている。

目上の方からしたら、年若い女子からプレゼントなど頂いたら、それ以上の物をお返しするのは当然という意識だろう。
私も娘達のボーイフレンドから、おもたせなどお菓子を頂くと、次に来た時にはそれ以上のものをお返しする。

実際に長女はお渡しした義理チョコのお返しとして、様々なものを頂いて帰ってくる。
私が疑いの目を向けるのは、そんな状況証拠あってのことなのだ。

何故こうも要領がいいのか。。。
私の若い頃を思い出すと、まったく意識が違う。一体私はどのように娘を育てたのだろうと思うものの、次女は私と同じようなものなので、やはり育て方よりも本人が持って生まれた性分なのだろう。
そう思うことにする。。。

思い起こせば、私は義理チョコを渡すような、そこそこ濃密な人間関係を築いていなかった。
仕事でも組織に属してといった働き方はほとんどしていなかったし、仕事上の知り合いはいても、仕事以外のことはよほどのメリットでもなければお付き合いは一切なしだった。
ちなみにメリットとは、当時から「美味しいものをご馳走になる」であった(笑)

時に周りの女子達から、「少しずつお金を出し合って買いましょう」と声をかけられれば、お金だけ渡したというようなことはあったけれど、バレンタインに色めき立つようなことはなかった。
天邪鬼のため、そもそもバレンタイン自体が好きではなかったのだ。

夫と付き合うようになってからは、幸いなことにあげる方から貰う方になった。
欧米では男性から女性へお花などをプレゼントする習慣らしく、最初のバレンタインには赤い薔薇の花束をもらった。
花より団子の私にとっては、あの花束にかけたお金の分だけチョコレートでもくれた方がずっと嬉しい。
しかしそれは相手の好意にケチをつけるようなことになると、あえて口に出さなかった。

結婚後、家計を共にするようになってから、ようやくそれを言えたのだけれど、夫の方もそうそう簡単には引かない。
もう50を過ぎた数年前になってから、ようやく花束をやめ、お菓子をくれるようになった。
諦めずに、何年でも言い続けてよかった!私の粘り勝ちである。



私がそんな感じだったので、長女がバレンタインデーにあれほどのチョコレートを用意するのを見ると、「そこまでやるの⁉︎」と思ってしまう。。。
私と違って交友関係が広いせいもあるだろうけれど、それほど多くの方々に日頃からお世話になっているものかと思うと、やはり見返りを期待してなのだと思わざるを得ないのだ。
二十代半ばにして、それほど義理を通さねばならない人間関係などあるわけがない。

私からすれば「義理チョコ」というと、なんだかイヤイヤながら義務で渡すように感じてしまうけれど、長女の場合はむしろ嬉々として渡している。

もしも、長女が言うように、日頃お世話になっている方に感謝をこめて渡すのなら、それはいいことではないかと思うけれど、一方でもらう側の男性はどう感じているのだろうか。

男性陣の中には。お返しするのが面倒だからいらないと思う方もいるかもしれない。

あくまでも「気持ち」なのだから、面倒ならお返しなどせず「ありがとう」で済ませればいいと思うのだけれど、男性としては見栄やプライドがあるのだろう。
ほとんどの方はホワイトデーには何かしらの贈り物をしてくれるらしい。
中にはそんなプライドや見栄など持たずに、「ありがとう」だけで済ませる人もいるという。

「そんな人には翌年からはあげないの?」

損得勘定ばかりしている私は面白がって聞いてみたけれど、回答は意外にもノーだ。

「お返しがなくても、日頃よくしてくれる人には、もちろん毎年あげる」だそうだ。

そこでまた、お返しをしないことで数年分の見返りが蓄積し、一気に大きなお返しを期待しているのではないか?

そんなふうに勘繰って、長女を呆れさせたのだけれど(笑)

それは冗談として、人に物をプレゼントするというのは、贈ることによって自分も喜びを得られ、なおかつ相手にも喜んで頂くという図ができなければ意味がないと思っている。

それがたとえ「義理チョコ」だとしても、あげる人ももらう人も双方が嬉しいと思うのなら、それはそれでいいことではある。
バレンタインのチョコレートに限らず、贈り物とはそんなものだ。

しかし、最近はバレンタインには贈るよりも、自分へのご褒美として高級チョコレートを買う方が多いらしい。



意識の変化というものなのか、私の感覚がおかしいのかわからないけれど、高価なお菓子は「贈るもの」「頂くもの」であり、自分で買うには少し高過ぎると思うような高価なものこそ、プレゼントにしたいと思う。
しかし今は、そんな高価なものは自分のためにとなっているという。

昭和の時代と違い、自分律することよりも、自分を甘やかしてあげる時代なのだ。
それは昨今何かにつけて言われる「◯◯ハラスメント」に通ずる。

少しでも嫌な思いをすると「◯ハラだ!」と声高に言うものだから、なんとも息苦しく窮屈な社会になったものだなと思う。

必要以上に自分に厳しくする必要もないし、する価値のない我慢をするのは愚かなことだと思っているけれど、何事も自分中心でなければ文句を言う、それが罷り通る社会とは一体なんなのだろうか、古い人間は思ってしまうのだ。
逆境が人間力を育んでくれることもあると、これまで生きてきた人生で実感している。
自分に優しいばかりでは、人間成長できないものだ。

そんなことを言うと、また「老害」という言葉が返ってきそうだけれど。。。

とはいえ、自分へのご褒美というのもいいものだなと思う。
第一に大切にすべきは自分自身だ。自分が幸せになれることにお金を遣うのは、自分への立派な投資であると思う。
私も高級チョコレートこそ買いはしないけれど、疲れたりするとぶらりと旅行へ行ったりする。それも自分へのご褒美なのだと思う。

問題はご褒美を貰うような事は何もしていないのに、ご褒美をあげてしまうところなのだけれど(笑)

いまだ昭和脳の私からすると、昨今のバレンタインデーやホワイトデーには色々と思うところはあるけれど、自分の好きなことにお金を遣って、幸せを感じることができるのであれば、「義理チョコ」だろうが「自分へにご褒美」だろうが、なんでも構わない。

お若い方々は自分の「好き」を楽しみながら、どんどん経済を回していって欲しいと思うのであった。。。

ホワイトデーが終わったら、次はなにがくるのか。。。

お菓子で言えば、和菓子などはその季節ごとに行われる行事に関連したものが店頭に並ぶ。

すでに桜餅は登場している、端午の節句の柏餅、水無月、葛焼、、、もうキリがない。

私は成人病も気になるお年頃になったので、これまでのように「好きなお菓子を好きなだけ」とはいかないけれど、自分へのささやかなご褒美として、毎日美味しいおやつを楽しんでいきたいと思っている。

そのためには「自分へのご褒美」と言えるような事も、少しはしなければ。。。

今日はホワイトデーだ。今年は長女がどんな鯛を釣ってくるのか、少し楽しみではある(笑)