In other words

I really don't know life at all ...

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令和のバレンタインデー、ホワイトデー。自分へのご褒美と義理チョコ習慣。

今日はホワイトデーなのだけれど、バレンタインデーが終わる前から、早くもホワイトデー商戦が開始され、つい先日まで百貨店から美味しそうなお菓子のご紹介メールが連日メールボックスを埋めていた。

季節季節でまるで押し寄せてくる波のように、お菓子情報が入ってくるものだから、その度になにやらソワソワしてしまう。

そんな甘い誘惑に乗らないよう、なんとか理性を保とうと必死になっている私を横目に、そんなホワイトデーを楽しみにしている者がいる。

我が家の長女である。

毎年、バレンタインデー前になると、長女が「バレンタインのチョコレートを用意しないと!」と、どんなチョコレートがいいかな?と相談してくる。
私が日々おやつと称してお菓子ばかり食べているので、贈答品などを選ぶ際には必ずアドバイスを求めてくるのだ。

贈り物とはなかなか難しいものだ。どんな相手にどんな理由で贈るのか、また相手の家族構成や好み、予算まで考慮して選ばなければいけない。

その辺の聞き取りをした上で、毎年「この方にはあの店のあのお品がいいのでは?」などと、いくつか提案する。
そしてその提案通り、長女は毎年大量にチョコレートを用意するのだ。

最近一人暮らしを解消し自宅に戻ってきた長女だけれど、今年もバレンタイン前に一人暮らしの部屋を訪れると、ずらりとチョコレートの入ったショップバッグが並んでいた。
どれほどチョコレートに散財しているのかと、チラリ見ると全て同じではなく多少のバリエーションはあるようで、値段や大きさなど若干は違うものの、高価でも安価でもなく、ほどほどの値段の美味しいチョコレートという、私のアドバイスをしっかり聞き入れた内容になっていた。

これらのチョコレートはすべて仕事関係を始めとした、知人に送るためのものだと言う。
なぜかバレンタイン時期には彼氏がいないせいか、私の知る限り彼女が買うのはすべて「義理チョコ」だ。

我が家の長女は時として、まるでバブル期女子のようなことをして、よく「生まれてくる時期遅すぎたんじゃない?」と家族で笑うような女子だ。

「今どき、義理チョコなんて、誰もそんなに買わないでしょ?」

ちょっと呆れたように言うと、

「これは義理チョコではなく、日頃お世話になっている感謝の気持ち」

そんなことを言う。

特に目上の方には何かしてもらっても、こちらからのお礼などプレゼントするのは難しいものだ。

そんな日頃溜まった「ありがとう」をバレンタインを使ってお返しすると言うことらしい。



それはとても良いことだと思うのだけれど、私は知っている。。。
表向き殊勝なことを言っているけれど、実は海老で鯛を釣るべく、狙いを定めていることを。
本人は否定しているけれど、私はずっと疑惑の目をもっている。

目上の方からしたら、年若い女子からプレゼントなど頂いたら、それ以上の物をお返しするのは当然という意識だろう。
私も娘達のボーイフレンドから、おもたせなどお菓子を頂くと、次に来た時にはそれ以上のものをお返しする。

実際に長女はお渡しした義理チョコのお返しとして、様々なものを頂いて帰ってくる。
私が疑いの目を向けるのは、そんな状況証拠あってのことなのだ。

何故こうも要領がいいのか。。。
私の若い頃を思い出すと、まったく意識が違う。一体私はどのように娘を育てたのだろうと思うものの、次女は私と同じようなものなので、やはり育て方よりも本人が持って生まれた性分なのだろう。
そう思うことにする。。。

思い起こせば、私は義理チョコを渡すような、そこそこ濃密な人間関係を築いていなかった。
仕事でも組織に属してといった働き方はほとんどしていなかったし、仕事上の知り合いはいても、仕事以外のことはよほどのメリットでもなければお付き合いは一切なしだった。
ちなみにメリットとは、当時から「美味しいものをご馳走になる」であった(笑)

時に周りの女子達から、「少しずつお金を出し合って買いましょう」と声をかけられれば、お金だけ渡したというようなことはあったけれど、バレンタインに色めき立つようなことはなかった。
天邪鬼のため、そもそもバレンタイン自体が好きではなかったのだ。

夫と付き合うようになってからは、幸いなことにあげる方から貰う方になった。
欧米では男性から女性へお花などをプレゼントする習慣らしく、最初のバレンタインには赤い薔薇の花束をもらった。
花より団子の私にとっては、あの花束にかけたお金の分だけチョコレートでもくれた方がずっと嬉しい。
しかしそれは相手の好意にケチをつけるようなことになると、あえて口に出さなかった。

結婚後、家計を共にするようになってから、ようやくそれを言えたのだけれど、夫の方もそうそう簡単には引かない。
もう50を過ぎた数年前になってから、ようやく花束をやめ、お菓子をくれるようになった。
諦めずに、何年でも言い続けてよかった!私の粘り勝ちである。



私がそんな感じだったので、長女がバレンタインデーにあれほどのチョコレートを用意するのを見ると、「そこまでやるの⁉︎」と思ってしまう。。。
私と違って交友関係が広いせいもあるだろうけれど、それほど多くの方々に日頃からお世話になっているものかと思うと、やはり見返りを期待してなのだと思わざるを得ないのだ。
二十代半ばにして、それほど義理を通さねばならない人間関係などあるわけがない。

私からすれば「義理チョコ」というと、なんだかイヤイヤながら義務で渡すように感じてしまうけれど、長女の場合はむしろ嬉々として渡している。

もしも、長女が言うように、日頃お世話になっている方に感謝をこめて渡すのなら、それはいいことではないかと思うけれど、一方でもらう側の男性はどう感じているのだろうか。

男性陣の中には。お返しするのが面倒だからいらないと思う方もいるかもしれない。

あくまでも「気持ち」なのだから、面倒ならお返しなどせず「ありがとう」で済ませればいいと思うのだけれど、男性としては見栄やプライドがあるのだろう。
ほとんどの方はホワイトデーには何かしらの贈り物をしてくれるらしい。
中にはそんなプライドや見栄など持たずに、「ありがとう」だけで済ませる人もいるという。

「そんな人には翌年からはあげないの?」

損得勘定ばかりしている私は面白がって聞いてみたけれど、回答は意外にもノーだ。

「お返しがなくても、日頃よくしてくれる人には、もちろん毎年あげる」だそうだ。

そこでまた、お返しをしないことで数年分の見返りが蓄積し、一気に大きなお返しを期待しているのではないか?

そんなふうに勘繰って、長女を呆れさせたのだけれど(笑)

それは冗談として、人に物をプレゼントするというのは、贈ることによって自分も喜びを得られ、なおかつ相手にも喜んで頂くという図ができなければ意味がないと思っている。

それがたとえ「義理チョコ」だとしても、あげる人ももらう人も双方が嬉しいと思うのなら、それはそれでいいことではある。
バレンタインのチョコレートに限らず、贈り物とはそんなものだ。

しかし、最近はバレンタインには贈るよりも、自分へのご褒美として高級チョコレートを買う方が多いらしい。



意識の変化というものなのか、私の感覚がおかしいのかわからないけれど、高価なお菓子は「贈るもの」「頂くもの」であり、自分で買うには少し高過ぎると思うような高価なものこそ、プレゼントにしたいと思う。
しかし今は、そんな高価なものは自分のためにとなっているという。

昭和の時代と違い、自分律することよりも、自分を甘やかしてあげる時代なのだ。
それは昨今何かにつけて言われる「◯◯ハラスメント」に通ずる。

少しでも嫌な思いをすると「◯ハラだ!」と声高に言うものだから、なんとも息苦しく窮屈な社会になったものだなと思う。

必要以上に自分に厳しくする必要もないし、する価値のない我慢をするのは愚かなことだと思っているけれど、何事も自分中心でなければ文句を言う、それが罷り通る社会とは一体なんなのだろうか、古い人間は思ってしまうのだ。
逆境が人間力を育んでくれることもあると、これまで生きてきた人生で実感している。
自分に優しいばかりでは、人間成長できないものだ。

そんなことを言うと、また「老害」という言葉が返ってきそうだけれど。。。

とはいえ、自分へのご褒美というのもいいものだなと思う。
第一に大切にすべきは自分自身だ。自分が幸せになれることにお金を遣うのは、自分への立派な投資であると思う。
私も高級チョコレートこそ買いはしないけれど、疲れたりするとぶらりと旅行へ行ったりする。それも自分へのご褒美なのだと思う。

問題はご褒美を貰うような事は何もしていないのに、ご褒美をあげてしまうところなのだけれど(笑)

いまだ昭和脳の私からすると、昨今のバレンタインデーやホワイトデーには色々と思うところはあるけれど、自分の好きなことにお金を遣って、幸せを感じることができるのであれば、「義理チョコ」だろうが「自分へにご褒美」だろうが、なんでも構わない。

お若い方々は自分の「好き」を楽しみながら、どんどん経済を回していって欲しいと思うのであった。。。

ホワイトデーが終わったら、次はなにがくるのか。。。

お菓子で言えば、和菓子などはその季節ごとに行われる行事に関連したものが店頭に並ぶ。

すでに桜餅は登場している、端午の節句の柏餅、水無月、葛焼、、、もうキリがない。

私は成人病も気になるお年頃になったので、これまでのように「好きなお菓子を好きなだけ」とはいかないけれど、自分へのささやかなご褒美として、毎日美味しいおやつを楽しんでいきたいと思っている。

そのためには「自分へのご褒美」と言えるような事も、少しはしなければ。。。

今日はホワイトデーだ。今年は長女がどんな鯛を釣ってくるのか、少し楽しみではある(笑)


作り手の人間性は重要?美味しければいいのか、清廉潔白を求めるか問題。


※写真は本文とはまったく関係のない自作フランナチュールです。

少し前のこと、Xをつらつらと見ていたら、某お菓子屋さんの話題が、炎上とは程遠い程度にとても遠慮がちに話題になっていた。

そのお店のオーナー(作り手)の私生活に関することで、糟糠の妻を裏切り若い女性に走ったとかいう、とてもよくあるお話しだったのだけれど、それに対して客側の声として多かったのが、「いくらお菓子が美味しくても、買いたくないよね」といった否定的なご意見であった。

私ならどう思うのだろう?
やはり作り手の人間性が気に入らなければ、その人の作ったものまでも否定するのか。。。

これは食いしん坊にとっては、考えれば考えるほど難しい問題であると思った。

正直言えば、美味しいものを作りお客に対しても誠実に向き合ってくれているのなら、プライベートがどうであろうとこちらには関係ないと思える。
一方でやはり身近な人間に対して不義理を働く人など信用できるわけがないと、あまりよい印象は持てないものだ。

私のごく身近でも昔似たようなことがあった。
ご主人はちょっと名の知れた方なのだけれど、知名度と自身の評価が上がってきたと思ったら、若くて可愛い女の子と浮気し、家に帰らなくなった末、糟糠の妻に離婚を求めてきた。
小さな子供3人を抱える奥さんから直接相談を受け、なんだかとても気の毒な話だなと思ったものだ。

相談されたものの、他人様のことにあれこれアドバイスできるわけもない。私にはそのような経験もないし、安易なアドバイスをして余計に事が拗れてしまっても責任は持てないからだ。
しかし、同情を全面に押し出した慰めの言葉で濁してしまうのも違うだろうと思い、どうしたものだろうかと思った。



結局、「もし私があなたの立場だったら」ということで、アドバイスというよりは身勝手なアイデアだけを提供することにした。
それは「離婚に応じずに意地悪をする。ただしこちらの要求する金額だけ慰謝料を現金払いしてくれるなら、お金と交換に離婚届をプレゼントしてあげよう!」
そんな事だったと記憶している。

幼子を3人も抱え、今後20年かけて育てていくのだ。なによりも先立つものはお金だ。お金が全てではないけれど、問題のほとんどはお金で解決する事ができるものだ。ないよりもあったほうがいいに決まっている。

気持ちの離れた夫、しかも糟糠の妻と可愛い我が子を捨てていくような人間に縋りつくのは時間の無駄だ。
さっさとお別れして、新たな暮らしを作っていく方がよほど明るい未来が見える気がする。なんといっても子供が3人もいるのだ。
私も2人の娘がいるけれど、成人した今は本当に強い味方で頼りになるものだ。
今は小さくて無力でも、懸命に育てているうちに子は成長する。その時は素晴らしいバディまた援軍になってくれるはずなのだ。
そんな未来のバディ達との明るい未来に目を向けた方が、人生はきっと明るいものとなるだろう。

しかし明るい未来にはお金が必要なのである。妻という立場を明け渡せというのなら、退去費用の負担は当然の義務であると思っている。

離婚の慰謝料とはいかほどなのだろうか。その人の所得なども関係してくると思うけれど、それほどの額ではないと聞く。
不義理をされた挙句、雀の涙ほどの慰謝料では割が合わない。

とは言え、ないものからは取れないので、そんな時はどうするか。
私なら離婚せず、とりあえずは現状維持とする。
しかし何もしないわけではない。
嫌われついでにとことん嫌われてやろうと、「子供3人育てなきゃいけないのよ!お金ちょーだい」と夫のみならず、お相手の女性の元へも鬱陶しいくらいに足を運び続け、夫には養育費を、お相手には夫のレンタル代として、ちょこちょこと生活費を集金にいくだろう。
それでもダメなら、夫とそのお相手の家族や友人知人のところまで集金に行く。
まるでタチの悪い街金のようだけれど、自分の行いに責任を持つというのは、大人としては当たり前のことだ。義務を果たさず、都合のよいことばかりするのなら、こちらも相応の事をお返ししてあげようではないかということだ。

そんなの無理だというご意見もあろうかと思うけれど、私はそう思わない。
何事においても、一人の人間が命懸けでなりふり構わずに成し遂げようとするれば、必ず事は動くと信じている。
本気でその人間を破滅させてやろうと狙いを定め、何年何十年でも攻撃し続ければ、雨垂れだって硬い岩に穴をあけられるはずだ。

そうは言っても、私はとても面倒くさがり屋なので、もしも払うお金がないのなら、せいぜいその夫とお相手女性に借金のお膳立てをして、お金を借りてまでも支払い、離婚届と交換してもらおうとするくらいだろう。

去る者を追っても仕方ないので、とにかく納得する額の慰謝料さえ払ってくれれば、綺麗さっぱり別れるが一番だ。
きっと世の中の多くの人は同じだと思う。



これまた知人の話になるのだけれど、夫の友人は離婚する際に自分の私財全て妻に渡して別れたという。
離婚理由は浮気などではなく、ただ性格の不一致。正確には妻の後ろにいる親類縁者との付き合い(お金の無心)に根を上げたからだったという。それでも自分が別れたいのだからと、お金で解決したのだそうだ。
妻の方も一生暮らせるほどのお金を貰ったせいか、おとなしく離婚に応じてくれたという。
一方の男性は、そのせいで一文無しになってしまったけれど、自分はその分また稼げばいいと、猛烈に仕事に励みまた資産を積み上げていっている。

この話を聞いた時、なんと男気のある人かと思ったものだけれど、これくらい潔い人だからこそ、仕事でも成功するのだろうなと思った。

相変わらず話が脇道へ逸れまくっているけれど、件の浮気した洋菓子店の店主にしろ、知人の夫にしろ、結局のところ夫婦の問題なのだ。

人は自分に都合のいいことしか語りたがらない。きっと夫婦の関係においても他人が預かり知らぬ事も多々あるのだと思う。
きっと他人が知っているのは30%ほどしかないのかも知れない。残りの70%が夫婦にしかわからない事であるなら、他人が表向きの言動だけで判断するには無理がある。
結局はのところ、こうした問題は他人がとやかく関知することではないのだ。

さすがにそれが知り合いのお菓子屋さんなどであったら、「美味しいから関係ないわ!」といそいそお買い物に行く気にはなれないけれど、どこの誰だか知らない、メディアでしか見聞きしたことのないような他人であれば、私は好きなお菓子を求めてお買い物へ行くだろう。

「やってる事を考えると、美味しく食べられない」などという意見もあるようだけれど、私は美味しく食べられる。

それにしても、SNSというのは面白いものだ。本来であるなら隠されていた心の声がそのまま文字として表に出てくるのだから。
そのせいでとても不愉快になる事もあるけれど、物事はなんでも受け止め方次第だ。
我が家の次女は、たとえネットで間接的にだとしても汚い感情に触れるのは嫌だとSNSはやらないという。
一方、長女はと言えば、「おもしろいじゃん」と楽観的に受け止めている。

心の声とはいっても、そこに書かれていることの全ては真実ではないだろうし、鵜呑みにする必要はない。他人様の離婚問題同様、そこにある真実は30%くらいかなと思って客観的に見ているのが一番なのだろうと思う。

何はともあれ職人さんにはプラベートがどうであれ、美味しいお菓子を提供し続けてくれればそれでよし!と思うのであった。。。


電子レンジのない生活。不便ではあるけれどなければないで平気だった話。

最近、家具や電化製品などの大かがりな断捨離をした。
そのうちの一つが、毎日の生活に欠かせないものの一つと思っていた電子レンジ。
かなり大型、機能も充実していたその電子レンジ。買ったのはいつだったか?
海外生活から戻ったのが今から約20年前で、その間は実家に預けておき、帰国してから再度使い始めた。
買い替えすればいいものを、まだ新しく結構なお値段だったせいか、処分するのはもったいないと思ったのだろう。
つまり20年以上前に購入したものということになる。
実際、使用していない期間はあるにしても、優に15年は使用し続けてきたはずだ。

電子レンジに限らず、我が家の電化製品は長持ちし過ぎる傾向にある。
今回電子レンジと一緒に断捨離したストッカー(冷凍庫)も同じくらい古い。
掃除機や洗濯機は結婚した時に購入したものを、これまた20年以上使い続けた。さすがにそれらは買い替えたけれど、冷蔵庫はいまだ現役だ。

冷蔵庫の寿命とはどれほどかと調べてみると約10年だそうだけれど、我が家のものはその倍以上使い続けている。
この冷蔵庫、とにかく大きい。若い頃は私も夫もとにかくよく食べた。子供ができたらさらに大きなものが必要かと、それなりに収納できるものを選んだのだけれど、賃貸マンションのキッチンには大き過ぎたようだった。。。本来冷蔵庫が収まる場所に入らず、少しばかり不便だけれどキッチンの外に置いている。

実際、毎日調理する身として、その導線の悪さが面倒なため、もう少し小さなものに買い替えたいのだけれど、夫の反対でいまだに実現していない。
「まだ十分に使えるものを何故処分する必要がある?」
そう言って寿命が尽きるまで使うべきだと首を縦に振ってくれないのだ。

今は昔ほど食べなくなったので、キッチンに入りきらないような大きな冷蔵庫は必要ない。おまけに古い電化製品は電力消費の点でもよろしくない。

夫は只今長期出張中で留守のため、鬼の居ぬ間に買い替えてしまおうと思っていたのだけれど、ここに来て事情が変わった。
冷蔵庫事情についてはまたの機会に語るとして、話を電子レンジに戻そう。



古い電子レンジをようやく断捨離しての数日間、実際に電子レンジのない生活をしてみた。
私が小さな頃は、まだ電子レンジは普及していなかったのだから、別になくても生活はできるだろうと思っていた。

結果、不便ではあったけれど、なくても問題はなかった。

我が家の場合、電子レンジの使用用途は冷凍しておいたごはんの解凍と残り物のおかずを温めるのが主なところなのだけれど、たったそれだけでもなければないで、それなりに不便を感じることはあるだろうと最初は思っていた。

しかしいざとなると、電子レンジで温めずとも、他にも熱を入れる方法はある。
例えば冷凍ごはんなら蒸篭で蒸せばいいし、おかずも炒め直すかオーブンやトースターを使えば問題なく温めることができる。
調理に関しても元々電子レンジは使用しないことにしている。
昨今では電子レンジを使った調理法など、短時間で簡単にできるようだけれど、私は時短にこだわるほど忙しくもなく、家事が「お仕事」という専業主婦だ。時短調理する必要はない。
それ以前に、昭和の古い人間のため直火調理へのこだわりのほうが強い。

次女がホットドリンクなどを作るとき、「電子レンジないとやっぱり不便ね」とこぼしたけれど、「昔々はそんなものがなくても生活していたでしょ?昔の人ができることが出来ないの⁉︎」と、言ったところ、「それもそうだ」とミルクパンを使い温めるようになった。

今はなんでも時短、便利な生活に慣れている。こんな経験も若い娘には少しだけお勉強になるだろうと思った。

つい先日、冷蔵庫にあった残り物のハンバーグを温める際、フライパンに乗せてから蓋をして、しばらく弱火で温めたのだけれど、意外なことに次女が味の違いを感じたという。

「レンジよりもこうして温めたほうがずっと美味しい」

そう言っていたのだ。

私は食していないので、実際どう違うのか説明できないのだけれど、とにかく直火で温めた方が余計な水分が飛ばず、旨みが残り美味しいらしい。

家族の意見も電子レンジがない生活は多少不便だけれど、なければないで問題なしとのことだった。




私としてはキッチンにあまり物を置きたくないので、電子レンジはなくてもいいかなと思っていたけれど、この生活は期間限定であった。
断捨離したものの、数日後には比較的新しい電子レンジが我が家に運び込まれた。

今回の大掛かりな断捨離は、一人暮らしをしていた長女が帰ってくるというのがきっかけだった。
そこで現在長女宅で使用している家具や電化製品などはどうする?となった時、それならば家にある古い物を処分して長女のために購入した新しい物を使えばいいと考えたのだ。

電子レンジの他に大きなソファーや洗濯機なども長女宅にあったものを使用することになり、我が家にある物を処分したのだった。

タイミングよく、引越しの日に入れ替えられればよかったのだけれど、処分にあまりお金をかけたくなかったので、区の粗大ゴミ回収や民間の業者なども利用したため、そう都合よくはいかなかった。

区の粗大ゴミなどは回収の日が決められていて予約制になっているので、こちらの都合通りにはいかない。
家にものが溢れるよりは、ない生活の方がいいと、引越し日よりも約1週間早めに断捨離したのだった。

おかげで部屋はスッキリ。キッチンにはトースターのみが残った。
炊飯器は確か2年ほど前に断捨離し、今は食べる時に土鍋で炊き、余った分は冷凍しておくようにしている。

別に丁寧な暮らしをしようと思っているわけでは決してない。
めんどくさがり屋なので、手間がかからないのなら、それに越したことはないと思っているのだけれど、なによりもキッチンに物を置きたくないのだ。

炊飯器はかなり存在感ある。しまっておくほどの収納は我が家にはない。その点、小さな土鍋なら他の鍋と同じように収納しておける。

炊飯器はなくて不便だと思ったことは一度もなく、断捨離してよかったと心底思っている。
我が家は夫が外国人なので、これまではずっと欧米型の食生活をしてきた。
ここ数年は私の胃腸を考えて、私だけは和食にしているけれど、普通の日本人家庭と比較すると、お米の消費量はかなり少ないはずだ。
3日に一度くらい2合炊いておけばいいくらいなので、大きな炊飯器は必要ないのである。



炊飯器は必要ないけれど、前述したように電子レンジはあった方が便利だ。
今回は長女の一人暮らしに際して購入したものなので、我が家で使用していたものよりも新しいけれど、機能は最小限で小さめである。
ちょっとした物を温めるだけならそれで事足りる。
なによりも新しいのがいい。

今回電子レンジを使わない生活を経験し、今後はより使用頻度が減るだろうと考えている。
電子レンジはお手軽で便利だけれど、やはり直火を使った方が、美味しくできる気がするのだ。

いずれ、電子レンジも必要なし!と完全断捨離する日がくるかもしれない。
そうなると、キッチンがよりスッキリとし、さぞかしよい気分になるだろうと想像する。

昨年、この日記にも「来年は暮らしのダウンサイジングをしたい」と書いたことがあったけれど、今回長女の引越しに際しては、ついでにとかなりの物を処分したので、より身軽になり気分的にもスッキリとしている。

世の中、「あれば便利だけれどなければないで困らない」そんな物がたくさんある。
私はミニマリストではないので、持たない暮らしをしたいわけではないけれど、歳を重ねるごとに、あまり物を所有したくないと思うようになった。

実際に今回の断捨離で自分がどんな物を所有しているのか、それは必要か不必要か、そんなことを考えながら選別していたのだけれど、趣味もないので持っているのは服、靴、バッグ、本くらいのもので、あとは家庭で使用するものばかりだった。

定期的に断捨離しているので自分のものは少ないけれど、コレクション癖のある夫や子供達の物が、まだたくさん収納に眠っている。
これをどうにかしたい(処分)と常々思っているのだけれど、本人たちからしたら「お宝」らしいので手をつけるわけにはいかない。

しかし、子供達もいずれは家を出ていくだろう。すべてこの家から持ち去って頂くつもりだ。夫に関しては、「もう若くはないのだから」と、根気強く暮らしのダウンサイジングを促していくつもりだ。

そんな話を長女にしたところ、「物を減らせと言うより、新しい物を買おう!と言って、まずは処分させれば?」と提案された。
なるほど。。。
お買い物が好きな夫にはその方が効果がありそうだ。
処分させた後に、「スッキリ暮らしましょうよ!」とやればいい。
騙し討ちのようだけれど、そうでもしないと夫の物は増え続けるだろう。

長女の引っ越しで、ようやくスッキリとした部屋にまた荷物が運び込まれてきた。
それを見ていると、さらなる断捨離をと意欲が湧いてくる。
まだまだ快適に暮らすためにできることはありそうだ。