In other words

I really don't know life at all ...

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私がブログを書く理由。

最近、これまでにも増して頑張ってブログを書いている。
InstagramやXもアカウントはあるものの、どうも好きになれない。
Instagramに関してはとうの昔に放置の状態に入った。理由は写真メインのため、相応の写真をアップするのが面倒(無理)になったからだ。

Xは2017年にアカウントを作ったものの、数年は放置。しっかりポストするようになったのはこの2年くらいで、嫌い、嫌いと言いながらなんとか続けてはいる。

もう何度もやめようと思ったけれど、続けていればお菓子好き相互フォローの方々になんとなく愛着が湧いたりするもので、自分では決して知ることのなかったお菓子のことを教えてくれたりと楽しいこともあり、なんとなくやめる決心がつかないのだ。
また、Xにブログの記事紹介などを貼り付けると、多少でもブログへの流入もあったりするので、それなりにやっている意義というものも感じられるのが大きい。

しかし、依然としてブログがメインだ。
文字数の限られたXでは、まるで消化不良。そもそも私はお菓子マニアでもなんでもなく、日々の暮らしの中でただ美味しいおやつをいただくことに情熱をもやしており、それを記録するのが目的なのだ。メインブログの名を『お菓子を巡る暮らしの雑記帖』としている通り、一応お菓子の紹介はしているものの、それ以外の余談も容赦なくグダグダと書いている。
読んでいる方からすると必要ないかもしれないのだけれど、私にとってはこの私的なグダグダも立派な記録となっているのだ。



このブログはまだ若いけれど、メインブログの方は来年で10年目を迎える。
ここまで続けられたのは、グダグダと語る(書く)ことが好きだからなのだと思う。

いまは私と同じ中年のおばさんですら、推し活といってはアイドルに夢中になり、第二の人生を謳歌している方々が多くいる。推し活だけでなく本格的に趣味に取り組んだりしている人も。

私の周りにもお茶のお稽古やお茶会をライフワークとしている人、ダンスのお稽古やお料理教室に通って自分磨きをしている人、みんな何かしら夢中になれることがある。
私もたまに誘われるのだけれど、どうも興味が持てないのでお断りし続けている。
興味のないことに時間もお金も遣いたくないのだ。

そんな趣味というものがまったくない私が、唯一楽しいと思って続けているのがブログなのだ。
すでにオワコンと言われて久しいブログだけれど、そんなことはどうでもいい。
元々自己満足のブログなのだ。目的は「記録」であり、日々の暮らしを綴る日記のようなものといってもいい。

毎日書くのが面倒で、もうやめようかと思ったことも一度や二度ではないけれど、こうして日々3つのブログを行ったり来たりしつつ書き続けている。
面倒だけれど、書き始めれば楽しい。まったく苦に思うこともなく、もっともっと書きたいと思う。

こうなったら、80歳くらいまで続けて、後期高齢者ブロガーとして、老後の生活発信もいいのではないか?と思えてくる。
人生100年時代と思えば、それくらいのことはできそうな気がする。

スマホ片手に街を徘徊し、ネタ写真を撮っては、「今日はシルバーパスでバスに乗り、巣鴨へお買い物」、「腰が痛いので孫に運転してもらい箱根の温泉にきました」などと、今とはまったく違うネタで書いても面白いかもしれない。



ブログを書く上での悩みに「ネタがない」というのをたまに聞くけれど、多分それは「お金になるネタがない」というもなのだろう。
収益化を目的としたブログの場合、少しでも検索流入を増やす必要がある。どんなネタならアクセスが増えるか?
そう考えたら、ネタ探しも難しいのだろう。
しかし、私のような日々の暮らしを綴る雑記なら、日記のように書けばいいし、趣味のある人ならそれに特化したことを書けばいいので、ネタ切れすることはない。
この場合、気になる収益化は人それぞれだと思うけれど、扶養控除内のパート勤務で得られる程度なら、こんな素人おばさんブログでも長く続けていれば可能だ。

この令和の時代において「ブログを書いて生活したい」と思うような人はほぼいないと思うので、趣味のように書いて少しばかりの収益は、おまけのようなものと思えばなんだか得をした気分になる。

とはいえ、私がブログを続けてこられたのは、ひとえに時間があったからだ。
仕事をしていない専業主婦ゆえ、家事こそするけれど子育てが終わってからは、かなり時間にゆとりが持てるようになった。

実は、30年くらい前に一度ブログを始めたことがあった。しかし、その頃は子供達も幼く子育て真っ只中。やる事も多く毎日ブログなど書くほどの余裕もなく、一年程度でやめてしまったのだ。

そして9年前に再び始めたのがメインブログだった。
そして数年前にはさらに2つの違ったカテゴリーのブログを始め現在に至る。



今の私にとってブログとは娯楽なのかもしれない。
本を読んだり、映画を観たりするのと同じ、書くことがエンタメになっているのだ。

いまは、チャッピー(Chat GPT)に頼めば簡単に文章を構成してもらえる時代だ。
学生さんなどは、その気になれば作文などもチャッピーに任せることができるという。

まだ学生の頃、よく本を読んでいた私は級友から頼まれて読書感想文の代筆をしていた。一人一本¥500で請け負っていた記憶がある。
文章を書くのが嫌い、原稿用紙が埋められないと嘆く人は相応にいたため、私の代筆業もそれなりのお小遣い稼ぎになっていたものだ。
昭和の時代にチャッピーがいなかったおかげである(笑)

そんなチャッピー暗躍時代においても、あえて自分で書くことを選んでいるのは、まさに娯楽だからだ。自分の頭で考えて書くという行為が楽しいのに、その一番美味しい部分をチャッピーに譲る気はない。

楽しいついでに、書くという行為は頭の体操になるのではとも思っている。
私のように仕事もせずにのんびりと暮らしていると、ほとんど頭を使わない。
家計を安泰に維持するためのお金の計算、おやつのお菓子のこと、日々の食事管理(献立やカロリー)、次の旅行はどうするか…
その程度しか真剣に考えることはないのだ。
歳をとったらあっという間に耄碌してしまいそうである。

しかし、ここでブログを書いていれば、「あの漢字はなんだった?」「ほかにもっと適切な言い回しがあったはず…」「確かあの時はこうだったかな?」などと、多少は頭を捻るものだ。
これがボケ防止になるか医学的にはわからないけれど、やらないよりはマシであろうという認識ではいる。



また、文章を書くというのは記憶に残りやすいという。
私は何でもかんでも過ぎたことはすぐ忘れてしまう。それは時にいいことでもあるのだけれど、やはり忘れてはならないこともある。

その忘れっぽさを「後ろは振り向かない主義なの」とか、「新しい情報をインプットするために古いことは忘れるの」などと、もっともらしい理屈をつけて言い逃れてはいるけれど、本当は優れた記憶力というものが欲しいのだ!

これからどんどん歳をとり、あらゆる面で劣化が進んでいくことだろう。
記憶力も然りで、さっき食べたおやつすら忘れてしまっては、ブログすら書けなくなってしまう。
そうなっては「80歳後期高齢者ブロガー」になる夢も絶たれるのだ。

少しでも脳を使うことが増えれば、老化を遅らせることができるかもしれない。
顔の皺ばかり増やさず、脳皺を増やさねば!

ブログを書く動機は人それぞれだと思うけれど、私はただブログが好きで、ついでに脳トレしているという感じなのだろう。

最近は書くのに時間を取られ、他の方々が書いたブログをほとんど読んでいないのだけれど、私は書くのと同じくらい人様の書いたブログを読むのも好きだ。

暇といっても一応主婦業ほか、諸々雑用に加え、本を読んだり、サブスクでドラマや映画を観たり、それなりにやりたいことは盛りだくさんで時間が足りないくらいだ。

あれもこれもと手は回らないけれど、もう少し色々なブログを巡ってみたいなと考えている次第である。


おばさんという歳になるのも悪くない。その存在意義に気づいた渋谷。

先日、長女とランチへ出かけた帰り、ついでにちょっとお買い物でもしていこうかと渋谷に寄ってみた。
平日でもとにかく人が多い。なんでこう誰も彼もが渋谷に向かうのか…
自分のことは棚にあげて嘆きたくなるほどの人の多さだ。
昨今では外国人観光客の急増も混雑に拍車をかけ、交差点からセンター街へ抜けるあたりは歩けたものではない。
そんな雑踏を避けるべく、なるべく裏道などを通って歩くようにしている。

最近は再開発ですっかりその様相も変わった渋谷だけれど、10代の頃から遊んでいた街だ。裏道などお手のものとばかりに混雑を避けてずんずんと進む。

最近は時代の変化に乗り切れない昭和女よろしく、子供に教えられることも多いものだけれど、東京の地理に限っては私の方がまだ上なのだ。

それはともかく、長女がやたら感心したのは、私と歩いていると誰からも声をかけられないことだという。

普段一人、もしくはお友達と歩いていると、スカウトやナンパなどの声かけが酷く、それを振り切って歩くのが面倒でたまらないらしい。

そういえば、私も若い頃はキャッチやナンパと声がかかったものだ。それは私がとびきり魅力的だということでは決してない(笑)
若い娘が歩いていれば、誰でも声はかけられる、渋谷とはそんな街なのだ。



自分はもう若くないのだ。。。
そう自覚したのも渋谷だった。
40を過ぎあたりだったか、一人で渋谷を歩いている時のことだった。
通る若い女性ほぼ全てに声をかけているキャッチがいた、「あらあらお次は私の番かしら?」などと思っていたら、目を合わせることもなく完全スルーされたのだった。
その瞬間、「あゝ私はもう女性という年齢ではなくなったのか」そう思ったのを覚えている。

それは特に悲観するようなことでもなく、むしろ面倒がなくなってよかったと思ったものだ。

いま、我が娘たちはかつての私のように、そんな煩わしさをもって街を歩いている。

しかし横に私がいるだけで、見事なまでに誰も近寄っては来ない。

キツイ顔をしたおばさんが、ズンズンと早足で歩いているせいだろう、娘曰く「何かあれば噛みつきそうくらいの顔をしている」と。

実際に娘に近づく者があれば、身体を張って守る覚悟はある。
ずいぶんと前のことだけれど、子供たちと夕方の六本木を歩いていたときのこと、客引きの外国人が「カワイイね」と長女の腕を掴んだことがあった。

すかさずその手を払いのけ、かつてイギリスのパブで習得した暴言ボキャブラリー120%を駆使しFFFFFで怒鳴りまくり、相手も周りもドン引き…そんなこともあった。
子供達はその外国人よりも、劣化の如く怒り狂う己の母の姿に恐怖を覚えたらしい(笑)
あれほどの汚い言葉はもう二度と使うことはないだろう。。。そう願いたい。

そんな警戒心が顔に現れているせいだろうか、自分では気づかないものの、とにかく私は怖い顔をして歩いているらしい。

これはひょっとして防犯に役立っているのではないか⁉︎ そう思った。
起こるべく犯罪を意図せず未然に防いでいるのだ。
よくセレブが厳ついボディーガードを連れて歩いているけれど、私はいわゆる娘のボディーガード役を果たしていることになる。

厳つくはないけれど、何かあれば大騒ぎしそうな怖い顔をしたいかにも厄介そうなおばさんが一緒なら、声をかけたくてもかけられないに違いない。
少しでも声をかけようものなら、必要以上に大騒ぎされるかもしれない。そんな警戒心が彼らの第六感を刺激するのだろう。

枯れた昭和女にもれっきとした役割があったのだ。



人が生きる理由とは、「誰かに必要とされているから」だという。
仏教的な考えらしいけれど、生きているのではなく、必要だから生かされていると。

自分などとるに足らない存在だと思っていても、実際にそんな自分を必要としている人がいる。存在する理由があるのだ。

そう考えると、少し謙虚な気持ちになる。
まるで自分の意思で生きているように思っているけれど、実は各々役割を与えられた上で、生かされている…
自分自身のためだけではなく、自分を必要としてくれている人ために生きるということだ。

自分の春はとうに過ぎ、今は冬を待つ秋かという年齢になったけれど、春にはない厳しさ辛抱強さを身につけた「おばさん」もまた悪くはないなと思った。


偶然の意味について考えてみた。

私は決してスピリチュアルな人間ではないのだけれど、時にそんな話にふと立ち止まり、考えることもある。

これまで生きていて、理屈では通らないようなことを経験してきたせいかもしれない。

何かあると人は「そんなの偶然だよ」と言うけれど、その「偶然」にも実は意味があるのではないかと考えるのだ。


今朝、長女が昨夜みた夢の話を語りだした。
それは原付バイクに乗って遊んでいる夢だという。
それを聞いて私はたいそう驚いた。何故なら、前夜私もまた原付バイクに長女を乗せて遊んでいる夢をみたからだ。

同じような経験が二人に同じような夢をみせたのかも…そう思うところだけれど、実際に原付バイクなどとは無縁。二人でテレビや何かで観たこともないのだ。

それがいきなり、二人して原付バイクに乗って走っている夢をみたというのだから、驚かないわけにはいかない。

長女とはよくそんなことがある。
先日も私が今日は麻布台ヒルズに買い物でも行こうかなと言ったところ、長女が「私、今日友達とランチにいくのよ」と。

なんとなく偶然同じことをしたり、同じことを考えていたりすることが多いのだ。
一緒に暮らす親子なのだから、それもあり得ることと言えばそうなのだけれど、次女や夫とはまったくそんなことがないのだ。



偶然と言えば、少し前に何がきっかけか覚えていないのだけれど、珍しくYouTubeを観ていた。
友人などは暮らしのことやお料理など、よくYouTubeを観ていると私にもおすすめしてきるのだけれど、私はネットといえばブログを書いて投稿するだけでいっぱいいっぱい。おまけにサブスクでドラマや映画も観なければいけないので、YouTubeまで手が回らない。
きっと観てみれば、興味深いコンテンツがあるのだろうけれど、習慣がないこともあってほとんど観ないのだ。

それがその日は何かの偶然でYouTubeを観ることになったのだ。
最初に見たのはある芸能人がお墓参りについて話している動画だった。
これは特に面白くもなく、ふ〜んと思いながら、下に表示された別の動画を観てみることにした。

それがある大御所芸能人M氏が「偶然」について語っている動画であった。
偶然が重なればそれは何かのサインとなる。
そんなお話であった。
多分本か何かに書かれていたものを、本人の声でAI再生したものだろう。ところどころおかしなところはあったけれど、なかなか興味深く視聴した。

話はここからで、そんな動画を観た翌朝、ニュースでその大御所M氏の訃報が報じられたのだ。
偶然についての話しを観たばかりだったこともあり、これもまたなんという偶然かと思ったりした。

しかし、いくら「この偶然には意味がある」と思っても、それを知る術がないのだから、どう行動していいかわからない。

その動画では確か無理になにかをする必要はないと言っていた。
その偶然に意味があることを心に留めておけば、自然と必要な時に行動できるものらしい。



昔、興味深いミステイクについての話しを聞いたことがある。
3つミスが続くのはある種のサインであると。
ここで改善しないと、次のミスで取り返しのつかないほどの大事になるというような話しだった。

これは確か大きな鉄道事故があった際に、ある有識者の言っていた言葉だ。
それは偶然起こるのではなく、必然であると語っていた。
大きなミスの前には、必ず小さなミスが重なっているものだ聞き、なるほどなと思った覚えがある。

こうして考えてみると、全ては偶然という名の必然なのではないかとも思える。
偶然のように見えるけれど、実はすべてがどこかで繋がりがあるという事だ。


例えば、悪いことが重なり最悪の状況になった時、全く運が悪いななどと思うのだけれど、これも偶然に悪いことが重なったのではなく、その結果となる種を蒔いていたのは自分で、それは必然であり、起こるべくして起こっていることなのでは?と。

偶然をスピリチュアルに捉えると、なかなか浪漫があって面白いなと思うのだけれど、実際は自分の暮らしが作り出した偶然という必然なのかもしれない。

だからこそ、毎日しっかり前を向いて正しく生活していくことが大切と思うのだ。
時に不運に見舞われ、自分がどんなに正しくあったとしても、報われないどころか、散々な憂き目に遭うこともあるだろう。
それでも、人生とは山あり谷あり!そう思って「今は谷底だけど、あとは登るだけよ」と、歩みを進めれば、いつの間にか苦境から脱しているものだ。
これは私自身、これまで生きてきて経験してきたから間違いない。
諸行無常…物事は常に移り変わっていくものだ。いまがどんなに大変で辛くても、それは一生涯続くわけではない。
とにかく前を向いて正しく歩いていれば、状況はおのずと変わるもの。それが自然の摂理というものなのである。

偶然や必然の意味を考え出すとキリがない。実態のないものは自分自身の心持ちで捉え方も変わるものだ。

どんな偶然も全ては自分の行いによる必然であると思っていた方が現実的ではないかと思うし、浪漫だなんだと余計な期待をもたずに済む。

あまり深く考えず、こんな偶然もあったな…そう心に留める程度がいいのかなと思う。

前述した原付バイクの夢などは、それでは説明がつかないけれど。。。