In other words

I really don't know life at all ...

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選択とストレス。優柔不断により生まれるストレスについての考察。


不思議と食べ物に関しては迷うことはない。食べたいものを食べたい時に食べる。

先日のこと、次女がコンタクトレンズを買いたいというので、私が普段使っている眼科へ連れていくことにした。
ちょうど私も手持ちのコンタクトレンズが切れる頃だったので、一緒に購入しようと思い二人で出かけたのだ。

それぞれ別の担当につき検眼やコンタクトの度数を測ったりとしたのち、ようやく購入の段にきた。

持ち帰れるのは2ヶ月分まで。それ以上は在庫の関係で後ほど郵送するというシステム。
嵩張るコンタクトレンズを何箱も抱えて帰るのは荷物になるため望ましくないし、私の場合は面倒くさがりなので最低でも半年分ほどは欲しい。
いつも郵送にしてもらっているのだけれど、今回は次女の分もある。
同じメーカーのものを選べばいいものを、次女が選んだのは別メーカーのコンタクトレンズだった。
発送元が違えば送料も2倍だ。
ここで、その送料を払うのがもったいような気になった。

少なくなったとはいえ、私のコンタクトレンズはまだ家にストックがある。ここで無理して半年分も買わずとも困りはしない。
持ち帰りなら余計な送料は必要ないのだ。とりあえず2ヶ月分もあれば十分ではないか?

一度はそう思い、この日は2ヶ月分だけ持ち帰ろうと決め、そう言い伝えた。

ところが次の瞬間、送料をケチったばかりに、またなくなったら足を運ばなければならないのが途端に面倒に感じてきた。
だからこそこれまでは全て郵送にしてもらっていたではないか。。。

やはり送料がかかっても、いつも通り半年分まとめて送ってもらう方がいい!

「すみません、やはり半年分を郵送に変えていただけますか?」

手間をかけている申し訳なさから、とてもすまなさそうに言ってみた。
担当の若い女の子は嫌な顔ひとつせずに「もちろんですよ!」と快く応じてくれた。
(こんな時、心の声が聞けたらどんなにいいかと思う。。。)



これで終わりではない、今度は次女の分だ。私と同じ半年分と決めたものの、よくよく考えたら次女にとっては初めて常用するコンタクトレンズである。
もしも不具合が生じた場合、交換などまた面倒なことになるのではないか?
それなら、まず初めは持ち帰りの2ヶ月分の方がいいかもしれない。。。

次女に決定権はない。この件に関しての権限はすべてお金を払う人間にあるのだ。

「あの、やはりこちらは2ヶ月分で結構です」

そう言った後、聞かれてもいないのに、「あとでやっぱり合わないわとなっても困るので」などと言い訳めいたことを言ったのはまだ迷いがあるからか?

しかし、ここで思い出した。未開封のものならいつでも交換できることを。
次女もまた2ヶ月後にくるのは面倒だから、まとめて欲しいと言う。

「ダメなら自分で交換しにくるから!」

つまり、私が骨を折る必要はないということだ。
それならはやはり半年分か⁉︎
間違いない!その方が手間がかからずいいはずだ。

「何度もすみません、やはりこちらも半年分で。。。」

こう何度も変更を申し出るのは、さすがに恥ずかしいし、申し訳なくなる。

なんと優柔不断なことか。。。
メリット、デメリットを考慮し、どの方法が最善かという判断が瞬時にできないことの証だ。
私はいつからこんな簡単な選択すらできなくなったのだろう?

思えば最近はこんなことの繰り返しだ。
今回のように他人様(眼科の女の子)を巻き込むことはあまりないのだけれど、とにかく物事をスパッと決断できない。
迷ってばかりいるのだ。



人は何かを選択するたびに多少なりともストレスを感じるらしい。

最近めっきり判断力が落ちた私にとっては、なかなか興味深いお話だ。

ただの二者択一でさえもこんなに迷うのだから、選択肢がいくつもある場合はどうなってしまうのだろうか?

今は仕事もしていない、子育ても終わった身の上だから、それほど複雑な生活をしているわけではない。きっと選択の機会は一般の人よりもずっと少ないはずだ。
本来ならば機会がなければストレスを受ける頻度もそれに比例すると考えていいだろう。

以前のようにパッと頭に閃き即決!となれば、それだけストレスは少ないはずだけれど、選択の機会が少ないにも関わらず、私は迷ってばかりいるのだ。これは想像以上にストレスがかかっているに違いない。

なぜこうも迷うのか、決断ができないのか、何かといえば更年期のせいにしていたけれど、なんとなくそれだけではないような気もするので、ちょっとばかり冷静に振り返り考えてみた。
そこで分かったことがある。

人生を左右するような一大事においては、ほとんど迷うことなく「こちら!」と決めることができているのだ。
一方、日々の生活の中で頻繁に起こる瑣末なことに対しての決断力は無に等しい。

これはさらに考えると、すなわち「欲」ということがわかった。
どちらを選んだら自分にとって得になるか?そんな損得勘定をするから迷うのだ。

即決できる時というのは、損得などはあまり考えない気がする。
数ある情報の中で、切り捨てるものは切り捨て、最終的に自分が一番に求めることだけにフォーカスし、なにを選択すれば、その一番求める形への近道になるのか、物事をかなりシンプルに捉えている。

迷うのは、求めることを一つに絞らずに、多方向から見ているからなのだ。

前述したコンタクトレンズの件を例とるればよくわかる。
例えば、
•すぐに使いたい
•荷物になるのは嫌
•何度も足を運びたくない

求めるものが3つもある。。。

すぐに使いたいなら持ち帰り、しかし荷物になるのが嫌なら郵送、そして何度も足を運びたくないという場合、まとめて郵送だけれど、もし不具合があったときにはどのみち交換に足を運ぶことになるからどちらを選んでも手間は同じ。。。

こんなふうに求める事柄がいくつかあると、途端にどれを選択すれば一番得になるか、まるでわからなくなるのだ。

コンタクトレンズに限らず、一時が万事で欲を出してあれもこれも得ようとするから物事が複雑になるのがわかる。



普段は子供達にも「足るを知る」と口癖のように言い、自分もそんな心持ちで生きていきたいと思っているのに、実際は一つでは飽き足らずあれもこれもと欲をかき、挙句に迷い優柔不断の渦に飲み込まれている。

若い頃から物事はその時の直感で決めることがほとんどだった。その結果、うまいこと生きてこられたと思っている。
きっとそれほど欲はなかったのだろう。若さという何物にも変え難い特権を持っていた驕りからか、自分の決断には微塵の迷いもなく、すべては上手くいくという自信があったから欲が顔を出すまでもなかったのだろう。

それから数十年、人生の半分以上を経て、自分の老いと共にかつてあった自信は失われている。
あれもこれもと迷うのは、そんな自信のなさの表れであり、足掻きと言ってもいいのかもしれない。

もっとシンプルに潔く生きていきたいのに、気づけば瑣末なことにまで欲をかき、なんともみみっちく生きていることか。。。

きっと今の私は暇なのだ。有り余る時間の中で、損だの得だのと小さなことを考える時間的余裕があり過ぎるのが問題なのだ。

仕事もしていない、子育ても終わったとなると、自分に課せられる責任はほぼなくなる。
毎日「今日のおやつはなににしようか?」「今日のごはんの献立はどうしよう」と、言ってみれば食べることしか考えていないお気楽な毎日なのだ。
つまりはそれだけストレスもなく生きているということになる。
ストレスというのは完全なる悪ではなく、人は多少の負荷も必要らしくストレスも少しくらいはあった方がいいと聞いたことがある。

普段ストレスのない生活をしているのだから、選択によるストレスくらいはあった方が心の健康にはいいのだろうか?

そもそも人様に迷惑のかからない優柔不断なら、別に気に病むようなことではない。勝手に自分で迷っていれば済む話なのだから(笑)
ただコンタクトレンズの時のように、人様を巻き込むのは問題だ。

もう少しシャキッと生きていきたいとも思う。


夏の暑さに胸元から滴る汗は更年期ゆえか?それを内心喜ぶ心情とは!


読んでいて暑苦しくなるような呟きなので涼しげな葛切りのお写真を。京都「鍵善良房」さんのものです。

運動のためになるべく歩くようにしている。
都心暮らしゆえほとんどの用事は徒歩圏内で済む。バスや電車を使うこともあるけれど、一駅二駅程度なら歩いて移動することも珍しくない。
但し、それは暑くなる前のお話で、連日気温30度をゆうに超える今、そんなに歩いていたら命の危険すらあるので、もちろんそのような無謀なことは控えている。

夏の間は20分歩くのを限度とし、それ以上かかりそうな距離の場合は、時間がある時ならば近くにあるカフェなどで休憩をとりながら歩く。そんな時間のない時はタクシーやバス、電車などを使うことにしようと決めている。

先日もいつものように徒歩で美容院へ行った。片道25分弱の道のりで、20分ルールからは少しオーバーするけれど、これくらいならばと歩いて行くことにした。

肌が冷んやりするという日焼け止めをしっかり塗り、サンバリア100の日傘をさし、なるべく日陰を選んで歩いた。
8月に比べると、朝夕は時折涼しく感じるような風も吹いたりと、それほど苦にならなかった。

ようやく美容院に辿り着き、冷房のきいた涼しい室内に座りほっと一息と思ったのだけれど、暑さは一向に引かない。
私にとって夏の3種の神器の一つである扇子を出してパタパタと冷たい風を顔面に送ると、涼しさで生き返るようだ。
しかし、首筋からいく筋もの汗が胸許へ流れていく。

ツー

ツー

ツー

ハンカチで胸許に流れ落ちてくる汗を拭いながら、何故こんなに汗が噴き出てくるのか?己の身体ながら心配になった。



若かりし頃はサウナに入っても汗が出ないくらい、まったく汗をかかない体質だった。ただ単に代謝が悪かっただけなのかもしれないけれど、とにかく真夏でも化粧崩れとは無縁でいつでも涼しげな顔をしていられるのが、密かな自慢ですらあったのだ。

それが今はどうしたことだろう。。。
周りが涼しい顔をしていても、一人でヒーヒーと流れる汗を拭っている有様だ。

このような現象が顕著に現れるようになったのは、確か一年前?いや2年前だったか、もう記憶は定かではない。気づけば汗を流すようになっていた。

しかし今年はこれまでで最高の流水量を誇っている。
とにかく冷房の効いた部屋の中にいても汗が出てくることさえあるのだ。

私は趣味と実益を兼ねて、終日家にいる日は必ずパンを焼くのだけれど、250℃までに熱したガスオーブンがボンボンと加熱するのと同じく、自分がオーブンに入っているわけでもないのに、私の身体も熱せられていく。
そしてまたポタポタと胸元に汗が落ちてくるのだ。

側から見たら、かなり見苦しいに違いない。
若い人であれば多少の爽快感も感じられるだろうけれど、中年の女が一人でヒーヒーと汗を流している様は、爽快どころか人様の暑さを呼び寄せるほどに鬱陶しい光景だろうと想像する。

しかし、本人は意外なことに密かな爽快感を感じているのだからおかしなものだ。
嫌だ嫌だと思いながらも、なぜか汗がタラタラと流れるのが嬉しくもある。

これは「もしかして代謝がよくなった?」という根拠のない理由によるもので、発汗のメカニズムなどよくわからないものの、なんとなく身体が機能しているように思えるからなのだ。

実際のところはわからない。主治医に何気なく相談してみたものの、「代謝がよくなったというよりも、更年期だからね」と笑って済まされてしまうのだ。
しかし私は医者の言うことを100%信用する人間ではない。人それぞれ体質も異なるのだから、私の身体が他の患者さんと同じとは限らないし、医学書に書かれた通りだとも思えないのだ。



自分の身体は自分が一番知っている。
もちろん主治医には全幅の信頼を持っているし、足を向けて眠れないほどありがたく尊敬もしている。
それでも、やはり私の身体を一番よく知るのは、日々身体からの声を聞いている自分自身だと信じているのだ。

すべては「更年期」で済まされてしまうお年頃で、実際にその通りなのだけれど、この日々滝のように流れる汗は、どう考えても「よい汗」ではないかと思っている。

更年期をネガティブに捉えれば、よろしくない状態なのかもしれないのだけれど、発汗だけでなく最近の私は体温も上昇しているのだ。
昔から低体温気味で、平均すると35.7℃程度と36℃を超えることはなかった。体温が低いのはあまりよくないと、生姜を食べたり温かいスープを飲んだり、湯船に浸かったりとあらゆることをしてみたけれど、まったく変わらなかった。
それが更年期になった途端に、一気に平均36.6℃まで上昇したのだ。
これには私も歓喜した。
一説によると更年期による自立神経の乱れから発熱するケースもあると言われているけれど、そんなことはどうでもいい。とにかく日常的に体温36℃超えをキープできているのだ。これが身体に悪いわけはないと自分では思っている。

いつ終わるとも知れない更年期。安定しない体調に少しばかりイラついたりもあるけれど、悪いことばかりだとは思いたくない。
これは自然に訪れる変化だ。誰もが通る道であり、老いを迎える前の必要なプロセスなのかも知れない。

流れ落ちる汗は美しくないけれど、人体の神秘がもたらした現象かもしれぬ⁉︎と、何やら素敵なことのように思うことにしよう。

自立神経の乱れか、ここのところあまり調子はよくないのだけれど、「更年期?どうぞどうぞお好きにしてください。いつかはどうせ去るんでしょ?」と、それくらいの心持ちで日々過ごすことにしよう。

百貨店のイタリアンで出会った老後を楽しく生きるご婦人との一期一会。

少し前に長女の付き合いで日本橋の百貨店へお買い物へ行った時のこと。
ランチは行きたいイタリアンがあったのだけれど、陽射しも強く暑かったため、その店へ行くまでの気力がなかった。
面倒だからと百貨店の中のイタリアンレストランで済ませることにした。

百貨店の中にある飲食店はまずハズレがないので、その点はよほど期待値を高くしない限りは十分満足できる。

ランチのピーク時間を過ぎていたせいか、週末にも関わらずその日、店内は空席が目立った。

案内されたテーブルに着き、私は魚介を使った本日のパスタセット、長女はトリュフを使ったキノコリゾットをチョイス。

さほど待つことなくお料理が運ばれてきたのと同じくして、すぐお隣に初老と思しき女性が一人案内されてきた。

長女とのお喋りに夢中になり気付かずにいたのだけれど、いつの間にか空いていた店内のほとんどの席は埋まっていた。

なぜかそんなことがよくある。空いていて静かだからと選んで入った店も、気づけば満席になっているということが。
お店でお買い物をしていても、誰のいなかったのに、後ろに行列ができていたり、とにかく人を吸い寄せる磁石のような特性を持っているらしい(笑)
これは昔からなので、割と身近な人間の間ではよく知られていて、知人が飲食店をオープンする際も、無料で食事を提供するからとにかく毎日座っていてくれないか?とお願いされたりしたこともあった。
暇な私は美味しいお料理に釣られて、遊び半分毎日その店に顔を出し、遺憾無く人寄せパンダ能力を発揮したものだった。
さすがにいつもご馳走になるのは気が引けてきて、繁盛店になったところでお暇を頂いた。そんなこともあった。

とにかく、その日も静かだったレストランに少しだけ騒めきが加わったのけれど、客層が割と高めのカップルなどだったので、うるさいということはなかった。



さて、お隣に案内されたご婦人、注文したのは私と同じ本日のパスタ。そしてシャルドネのグラスを注文した。

一人で百貨店のイタリアンに来て、昼間からワインとは、なんと粋なことだろう。。。
どんなご婦人かチラリと盗み観ると、年齢は70代くらいか、華美ではないけれど、シンプルな質の良さそうなラフな服装、アンティークらしい腕時計にジュエリーを身につけていた。

とても素敵だなと思った。私ももう少し歳をとったらあんなふうになれたらいいなと、私には珍しく興味を惹かれた。

そんな気持ちが伝わったのか、私がパスタを食べ終わるのを見たご婦人が声をかけてきた。

「このパスタ、量が多くありません?よく食べましたね」

確かに普通よりは若干量が多かったかもしれない。しかし人一倍食べる私には簡単に完食できる量だ。
パスタに加えサラダにパン、そして長女が食べ切れないと残したリゾットまで平らげたのだ。

しかし、雰囲気的に「こんなのお茶の子さいさい」などとは言えない。

「そうですね。結構多かったですよね。私もやっと食べました」

かなりよそゆきの返答をしてみた(笑)

そこから「歳とともに食べられなくなるのよね」などと会話が始まったのだけれど、なんとそのご婦人は80歳を過ぎているという。
年齢よりもかなり若く見えるのには、私も長女もたいそう驚いたものだ。

聞けば80代となった今でも一人で海外旅行へ行くという。しかもヨーロッパへ2週間滞在などかなりしっかりと旅行されている。

「趣味がワインなので、動けるうちに世界のワイナリーに足を運んでいるの」

そんなことを言う。

フランスのブルゴーニュはもちろん、イタリアのトスカーナ、今年はスペインへも行く予定だと言う。

これには正直、目から鱗がポロリと落ちたような気持ちになった。

私は若くて体力のあるうちにヨーロッパなど遠方へ、歳をとったら近場のアジアを旅しようと若い頃から考えていたからだ。

幾つになっても元気でありさえすれば、どんな遠方の海外にでも行けるのだ。もちろん若い頃とは体力も違う、しかし気力さえあれば旅の形は変わろうとも、旅をすることはできるものなのだなと。

そこで必要なのは「動機」というものなのかもしれない。
件の女性も「ワイン」という自分の好きなもの、趣味に突き動かされて旅をしているのだ。
しっかりと目指すものが見えているからこそ、そこへ向かうための気力や行動力が生まれる。



ちょっと話は変わるのだけれど、最近興味深い話を聞いた。
そう遠くない将来、仕事をする必要のない社会になるだろうという予測があるらしい。
すべての仕事はAIロボットに任され、仕事のみならず日常の家事などもすべて人間が手をくださずとも、AIロボットが肩代わりしてくれるというのだ。
にわかに信じがたい話だったけれど、私達がまだワープロをカチャカチャやりながら、調べ物でもあれば本を見たり、然るべきところに電話できいたりしていたものだけれど、20年もしないうちにすべては手に収まる小さなコンピューター(スマホ)によって誰もが手軽にできるようになった。
当時はそんな未来を微塵も想像していなかった。
そんな進化を思うと、AIロボットのお話もあながち空想とは言えないのではないかとも思う。

もしもそうなった時、人はなんのために生きるのか?自分の存在理由に行き当たるのではないだろうか。。。

そうなった時、自分の趣味なり好きなことがない人は、どう人生を充実させていけばいいのかと。

趣味のない私のような人間はいくらでもいる。
家族からすると、私の趣味は「お菓子」だというけれど、自分的にはそれは趣味というよりも、日常生活におけるただのおやつ習慣なのだけれど。。。

毎日どんなものを「今日のおやつ」にするか?
日々そんなことを真剣に考えているのは、少し度が過ぎているとも思わないでもないが(笑)

最近は旅に出ても、そんなおやつ探しが中心になっている。
先日の京都旅も朝から晩まで好きな和菓子屋さんを渡り歩き、美味しい和菓子を堪能したものだ。

自分では趣味であるとは思っていないけれど、自分の「好き」を追いかけるという点では同じような意味を持つのかもしれない。



話を戻すと、もしも自分の存在理由を問うことを余儀なくされる未来が来たとき、今と同じようにお菓子探しをしているかといえば、それはわからない。

元来の面倒くさがり屋だ。それでもその土地に行かなければ手に入らないお菓子があれば、食の欲求に突き動かされて足を運ぶ。しかしAIが代わりに美味しいおやつを探しできてくれれば、私は動くことなく、家でそれを味わうだけになるだろう。

旅に出て街の景色に目を奪われながら、テクテクと歩き、非日常を楽しむこともなくなるのだろうか。
なんとも味気ないものだ。。。

遠くない未来が一体いつなのかはわからない。確かなのは、20年後には今の社会もガラリと変わっているだろうということだ。

しかしその変化、進化がどれほどのものになるか、私にはまだ想像がつかない。
はっきりと見えない未来に気を揉んでいるほど人生は長くないのだから、やはり余計な心配などせずに、これまでのように今楽しいと思えることを追いかけるのが一番なのかなと思う。

子供達二人も成人した。これからの人生は二巡目だ。若い頃のように、家族の生活よりも自分の好きを最優先させたところで誰も文句を言う人はいない。

まだ一線で働いている夫のサポートはしなければいけないと思っているけれど、夫自身が「これまで頑張ってきたのだから、これからは好きなことをしてね」と言ってくれている。
「旅行も好きなように行けばいいし、好きなお菓子も健康に気をつけて好きなだけ楽しんだらいい」
そう言って、むしろ背中を押してくれているくらいだ。

夫自身もお友達と遊びに行ったり、北海道から九州まで、友人を訪ねて遠出をしたり、それなりに楽しんでいる。
旅などは二人一緒に楽しむご夫婦も多いそうだけれど、私は一人旅派なので必然的に夫もそうなってしまったようだ。

いずれにしても愛だ恋という時期はとうに過ぎた中年夫婦。お互いに健康にだけは注意して自分の好きなことをしながら、人生を楽しめばいい。
そして何か困難があった時は、二人で手を取り合い、窮地を脱するべく助け合い、よりよい人生を送ろうではないかという、戦友のような関係でいいと思う。

いいことばかりではないのが人生であると承知しているけれど、どんなことがあっても前向きに努力をしていれば、多少厄介なことがあっても、なんとかしのいでいけるものだ。

人の一生は長いようで短い。だからこそ、年齢にとらわれずに、件のご婦人のように好きを追い求め、この人生に悔いなし!と思える生き方をしたいと思ったのであった。