In other words

I really don't know life at all ...

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催事先行入場等メリットありながらも百貨店のカードを作らない理由。

昔から百貨店で開催されている催事によく足を運んでいるのだけれど、最近はよほど欲しいお目当てのものがない限りは意図して足を踏み入れないようにしている。

別に百貨店に行かなくなったわけではない。
今もお洋服や靴、バッグなど雑貨、もちろんデパ地下ではお惣菜をと、変わらず足を運んではお買い物を楽しんでいる。
とにかく面倒くさがり屋の私にとって、なんでも揃っている百貨店という場所は、一気にお買い物を済ませることができる便利な場所なのだ。
ただ、百貨店で開催される催事へ行くことを控えているというだけのこと。

理由はいくつかある。

まず昨今の百貨店はとにかくひっきりなしに食に関する催事を開催している。
例えば9月から10月に渡り北海道、京都などの物産、またイギリスやフランス展など立て続けに開催されていた。
これに限らず、それこそ毎週毎週と言ってもいいくらい、なんらかの催事が開催されている。
モノのみならず、地方からまた海外から作り手その人を招き、大々的に宣伝をして集客する。
もはや職人もアイドルのような扱いで、サインを求めたり、一緒に写真を撮ったりしている光景も見かけるほどだ。

そんな催事フィーバーで開店前からたくさんのお客さんが押し寄せて、連日行列なんてことも日常茶飯事の状況なのである。



9月か10月頃だったろうか、普段なかなか行くことのできない地方から好きなお菓子屋さんが出店していたので、私も珍しくそんな催事に足を運んだのだけれど、とにかく並ぶのだ。
1時間も並ばなければお菓子ひとつも買えないことに、ふと冷静になれば「そんなにしてまで?」と自問することになる。
「時は金なり」といつも言っているのに、ただ無意な時間を過ごしているような自己嫌悪に襲われたりして、あまり気分はよくない。

それでも食べたいものがあれば、待っている間にスマホでブログなど書きながら、少しは無駄な時間ではないと納得させているのだけれど、実際そんなところで立って書かずともいいではないかとも思っている。

そんな時間問題も大きな問題なのだけれど、催事にばかり足を運んでいると、もう一つ食べ切れない問題にも直面することになる。

せっかくきたのだからと、美味しいそうだなと思ったもの、珍しいものを目にすると、片っ端からお買い物をしてしまう。
自分の財布の紐が緩すぎるのがいけないのだけれど、お菓子ともなるとついつい理性が崩壊してしまうのだ。

一つのお店で一万、二万と買い物をするから、これが数店舗回ればどうなるか。。。
宝飾品を買うわけでない。たかがお菓子に数万円のお買い物をしたら、それこそ両手一杯のショップバッグを抱えて帰ることになる。

食べ物には消費期限というものがあるから、持ち帰ったら今度はそれを消費するのに忙しくなる。
お菓子ばかり食べて、きちんとした食生活ができなくなるほどだ。

幸いお菓子が大好きで大量に食べることのできる夫、少しだけれど甘いものが好きな子供達もいるため、ひとりですべて食べるのでなく、一つのお菓子をみんなでたべるので、買ったお菓子はしっかり食べ切っている。

それでもひっきりなしにお菓子食べ放題状態というのもどんなものか。。。

そんなことを考えて、少し買い控えようと思うものの、実際に催事へ足を運ぶと「これは普段食べられない」などと欲張ってしまい、理性を保つことが難しくなるのである。

一番いいのは、行かないこと見ないことだ。
行かなければ見ることもない。見なければ食べたくもならないのだから、それが一番手っ取り早い。
自分でお買い物ブレーキがらかけられないのなら、乗らないのが一番ということだ。



時間問題、食べ切れない問題、散財問題

これらを考えても、私のような人間には美味しいお菓子を食べるというメリット以上のデメリットがあるのだ。

しかしこれが理由の全てではなく、もう一つ百貨店カード問題というのがある。

最近よく直面するのが、百貨店系カードの◯◯カードを持っている方限定。
◯◯カードを持っている方は先行入場などといったその百貨店の発行するカードホルダーに対する優遇制度。

店頭に並んでいるというのに、カードを持たぬ者は、場合によってはお買い物もできないという事態になっているのだ。

そんな特典を利用したければ、素直に百貨店の戦略にのってカードを作ればいいだけ。それで問題解決なのだけれど、天邪鬼ゆえそう簡単に屈することもできない(笑)

そして、お得に釣られてカードばかり増やしても。。。という思いがあるのだ。

私には長きに渡り使用しているクレジットカードがあり、光熱費からスマホまで全ての支払いをそのカードに一本化している。
そして一年に一度ポイントを百貨店で使用できる商品券に変えるのだ。
ポイント還元率のよいカードのため、使用するカードを分散させずにポイントを稼ごうというわけだ。
かれこれ20年ほど、そのカードと念のための予備カード2枚しか持ち歩かない。
もう一枚、以前少し仕事をした際に強制的に作らされた銀行系のカードがあるのだけれど、そちらはただ持っているだけ。使用したことはない。

昭和のバブル期、長財布にズラリとカードを並べている人もよくお見かけしたものだけれど、今はそんな人を見ることもなくなった。
スマホにアプリを仕込んで電子決済が当たり前となったいま、それも当然だ。

そんな時代に新たにカードを作ろうという気にもなれない。

とりあえず作っておいて、必要な時だけ使えばとも思うところだけれど、使う時と言えば百貨店催事くらいのものだ。

今は以前に比べて、百貨店の催事にも行かなくなった。
いや、行ってはいるけれど、以前ほどはという意味で、それこそ一昔前までは催事場を飛び回っていたものだ。

昔はとにかく足を運び、あれもこれもとお買い物して喜んでいたものだけれど、いまは逆に百貨店離れし、なるべく個人店でお買い物をしたいなとも思いはじめているくらいなので、わざわざカードを作るメリットは今の私にはそれほどないかなと、面倒くささも手伝っていまだ持っていないのだ(笑)

現金派の私でも一年間で使用するカードの額は馬鹿にならないので、数十万とはいかないけれど、そこそこまとまった額の商品券を手にできる。
まとめて洋服やアクセサリー、小物などに使うこともあれば、特に欲しいものがない時はすべて百貨店でのお菓子購入に使用している。

結局のところクレジットカードは増やしたくない、百貨店の戦略にのりたくはないという天邪鬼、それだけなのである(笑)


更新滞るもまだ健在の第3ブログ。近況などをとりあえず。


京都『亀末廣』京のよすが

2ヶ月近く放置してしまったので、もはやこのアカウントもフェイドアウトしていくのか?と、始めたはいいけれど続かないというブログあるあると思われているかもしれないけれど、つらつらと独り言を延々と呟く場所は必要なので、たまにこうして戻ってきては、細々と存続させている。

近況としては変わらない。
人生山あり谷あり、色々憂鬱になるようなこと多々あれど、それは誰しも皆同じ。
いい時もあれば悪い時もあるで、悪い時というのは割と不可抗力なことが多いので、何をどう足掻いても無駄なため、じっと耐え起死回生のチャンスを待つ。

座右の銘として「諸行無常」を掲げているくらいなので、物事は常に移り変わり苦しい状況もやがて変わるだろう、いつもそう思って過ごしている。
それは悪い時だけではなく、いい時間もやがては終わることを意味しているのだけれど、だからこそいい時がやってきたら、それを存分に楽しむ。
そんな暮らしの繰り返しなのである。

とりあえず「足るを知る」で、毎日ごはんとおやつが食べられて、屋根のあるところで眠ることができ、清潔な衣を纏い、ついでに健康さえ維持できていれば幸せだと思っている。
昨今ではそれすらも贅沢になったと思えるくらいに日本という国は衰退しているけれど、とりあえずはまだそんな暮らしがある。

昭和の時代に生まれ育った多くの女性同様に、私も子を持ってからは専業主婦として暮らしているので今も無職だ。そしてこれからも食べるに困るような事態にでもならない限りは生涯無職であろうと思う。

仕事がしたくないわけではない。どちらかと言えば仕事大好き人間であった。しかし四捨五入するとすでに還暦という年齢だ。しかも長年専業主婦しかやっていない中年女を雇用してくれるようなところはない。
どんなに人手不足でも、年寄りよりは例え片言の日本語しか話せなくても若い外国人の方が雇用の機会はある。

選り好みしているからだという声もあろう。確かにしている。この歳になってわざわざ人が避けるような仕事を自ら進んでやるほどボランティア精神に溢れている人間ではないので、仕事をするなら自分の好きな仕事をしたい。
もちろんそんな事を言っていられない状況になれば別だけれど、今は幸にして毎日ごはんが食べられるのだから、わざわざしたくない事をする必要はないと思っている。

今の日本社会では、働いても働いても税金の取り立てが厳しく、なんのためにお金を稼いでいるのかわからない状況なので、天邪鬼の私は「老若男女みんな働くべき!自立すべき」という声が上がるたび、余計にそっぽを向きたくなるのだ。

そんな感じで無職なので、時間はたっぷりとある。
一応は主婦として家まわりのことは一手に請け負っているものの、子供達も成人し学校やお稽古事関係のあれこれなどから完全開放されている。



毎日どう過ごしているかと言えば、掃除、洗濯、食事の支度など主婦として最低限のこと、たまに友人とランチやお茶へ行ったり、娘のお買い物に付き合ったり、一人でふらふらと百貨店巡りをしては美味しいものを見たり買ったりを楽しんだり。。。
あとはブログという、唯一の趣味。

最近は2つのブログに加えてX(旧Twitter)も毎日ツイートしていたりと、ブログをXに紐付けしようと試みていたりする。
実際は紐付けよりもXそのものを楽しんでしまっているものだから、当初の目的とはかなり外れているのだけれど。。。

まあ、老後の保険として、ブログで長文書くのが辛くなったら、Xだけ楽しんでもいいかなと、とりあえず同時進行している。

「書く」という行為は脳トレにも役立つかもしれないので、ブログはよほど面倒にでもならない限りは続けていくつもりだ。
どんなに歳をとったとしても、スマホやPCさえある程度使えれば、なんとか書くことはできそうだ。
使いこなさずとも、簡単な作業で事足りるのだから。

近況として「相変わらず」というところ。
強いて言えば、年齢と共に健康への不安はあるけれど、それは歳を取れば誰しも同じだろうと思っている。
ただ、私の場合はとにかくたくさん食べる上、おやつ習慣をこの上なく楽しみにしているので、お菓子を食べる量も人並み以上だ。
それは当然健康にも影響を与えていて、少しずつ健康診断の数値も怪しくなっている。

今月は年に一度の大掛かりな検診が控えている。そのタイミングで胃の調子が悪くなったので、ここ数日はお菓子を控え粗食を心がけているものだから、体重もかなり減ってきた。
この分では検診でなかなか良い数値が出そうだと、複雑な思いでいる。
いいのだか、悪いのだか。。。
胃の不調は食べ過ぎによるものだから、そのまま快調であったら、きっと検診時には内臓に脂肪がしっかりとつき、また主治医から苦言を呈されることになるだろう。

あと2週間ばかり、頑張って粗食とお菓子控えめで頑張るつもりだ。

とにかく健康第一!それはフィジカルだけでなくメンタルも含めて、とにかくいつも明るく元気で過ごせるよう努力したい。

しばらく放置してしまったけれど、まだこの第3のブログも健在。
せめて「月に数回は更新」を目標にしていこうと思っている。


選択とストレス。優柔不断により生まれるストレスについての考察。


不思議と食べ物に関しては迷うことはない。食べたいものを食べたい時に食べる。

先日のこと、次女がコンタクトレンズを買いたいというので、私が普段使っている眼科へ連れていくことにした。
ちょうど私も手持ちのコンタクトレンズが切れる頃だったので、一緒に購入しようと思い二人で出かけたのだ。

それぞれ別の担当につき検眼やコンタクトの度数を測ったりとしたのち、ようやく購入の段にきた。

持ち帰れるのは2ヶ月分まで。それ以上は在庫の関係で後ほど郵送するというシステム。
嵩張るコンタクトレンズを何箱も抱えて帰るのは荷物になるため望ましくないし、私の場合は面倒くさがりなので最低でも半年分ほどは欲しい。
いつも郵送にしてもらっているのだけれど、今回は次女の分もある。
同じメーカーのものを選べばいいものを、次女が選んだのは別メーカーのコンタクトレンズだった。
発送元が違えば送料も2倍だ。
ここで、その送料を払うのがもったいような気になった。

少なくなったとはいえ、私のコンタクトレンズはまだ家にストックがある。ここで無理して半年分も買わずとも困りはしない。
持ち帰りなら余計な送料は必要ないのだ。とりあえず2ヶ月分もあれば十分ではないか?

一度はそう思い、この日は2ヶ月分だけ持ち帰ろうと決め、そう言い伝えた。

ところが次の瞬間、送料をケチったばかりに、またなくなったら足を運ばなければならないのが途端に面倒に感じてきた。
だからこそこれまでは全て郵送にしてもらっていたではないか。。。

やはり送料がかかっても、いつも通り半年分まとめて送ってもらう方がいい!

「すみません、やはり半年分を郵送に変えていただけますか?」

手間をかけている申し訳なさから、とてもすまなさそうに言ってみた。
担当の若い女の子は嫌な顔ひとつせずに「もちろんですよ!」と快く応じてくれた。
(こんな時、心の声が聞けたらどんなにいいかと思う。。。)



これで終わりではない、今度は次女の分だ。私と同じ半年分と決めたものの、よくよく考えたら次女にとっては初めて常用するコンタクトレンズである。
もしも不具合が生じた場合、交換などまた面倒なことになるのではないか?
それなら、まず初めは持ち帰りの2ヶ月分の方がいいかもしれない。。。

次女に決定権はない。この件に関しての権限はすべてお金を払う人間にあるのだ。

「あの、やはりこちらは2ヶ月分で結構です」

そう言った後、聞かれてもいないのに、「あとでやっぱり合わないわとなっても困るので」などと言い訳めいたことを言ったのはまだ迷いがあるからか?

しかし、ここで思い出した。未開封のものならいつでも交換できることを。
次女もまた2ヶ月後にくるのは面倒だから、まとめて欲しいと言う。

「ダメなら自分で交換しにくるから!」

つまり、私が骨を折る必要はないということだ。
それならはやはり半年分か⁉︎
間違いない!その方が手間がかからずいいはずだ。

「何度もすみません、やはりこちらも半年分で。。。」

こう何度も変更を申し出るのは、さすがに恥ずかしいし、申し訳なくなる。

なんと優柔不断なことか。。。
メリット、デメリットを考慮し、どの方法が最善かという判断が瞬時にできないことの証だ。
私はいつからこんな簡単な選択すらできなくなったのだろう?

思えば最近はこんなことの繰り返しだ。
今回のように他人様(眼科の女の子)を巻き込むことはあまりないのだけれど、とにかく物事をスパッと決断できない。
迷ってばかりいるのだ。



人は何かを選択するたびに多少なりともストレスを感じるらしい。

最近めっきり判断力が落ちた私にとっては、なかなか興味深いお話だ。

ただの二者択一でさえもこんなに迷うのだから、選択肢がいくつもある場合はどうなってしまうのだろうか?

今は仕事もしていない、子育ても終わった身の上だから、それほど複雑な生活をしているわけではない。きっと選択の機会は一般の人よりもずっと少ないはずだ。
本来ならば機会がなければストレスを受ける頻度もそれに比例すると考えていいだろう。

以前のようにパッと頭に閃き即決!となれば、それだけストレスは少ないはずだけれど、選択の機会が少ないにも関わらず、私は迷ってばかりいるのだ。これは想像以上にストレスがかかっているに違いない。

なぜこうも迷うのか、決断ができないのか、何かといえば更年期のせいにしていたけれど、なんとなくそれだけではないような気もするので、ちょっとばかり冷静に振り返り考えてみた。
そこで分かったことがある。

人生を左右するような一大事においては、ほとんど迷うことなく「こちら!」と決めることができているのだ。
一方、日々の生活の中で頻繁に起こる瑣末なことに対しての決断力は無に等しい。

これはさらに考えると、すなわち「欲」ということがわかった。
どちらを選んだら自分にとって得になるか?そんな損得勘定をするから迷うのだ。

即決できる時というのは、損得などはあまり考えない気がする。
数ある情報の中で、切り捨てるものは切り捨て、最終的に自分が一番に求めることだけにフォーカスし、なにを選択すれば、その一番求める形への近道になるのか、物事をかなりシンプルに捉えている。

迷うのは、求めることを一つに絞らずに、多方向から見ているからなのだ。

前述したコンタクトレンズの件を例とるればよくわかる。
例えば、
•すぐに使いたい
•荷物になるのは嫌
•何度も足を運びたくない

求めるものが3つもある。。。

すぐに使いたいなら持ち帰り、しかし荷物になるのが嫌なら郵送、そして何度も足を運びたくないという場合、まとめて郵送だけれど、もし不具合があったときにはどのみち交換に足を運ぶことになるからどちらを選んでも手間は同じ。。。

こんなふうに求める事柄がいくつかあると、途端にどれを選択すれば一番得になるか、まるでわからなくなるのだ。

コンタクトレンズに限らず、一時が万事で欲を出してあれもこれも得ようとするから物事が複雑になるのがわかる。



普段は子供達にも「足るを知る」と口癖のように言い、自分もそんな心持ちで生きていきたいと思っているのに、実際は一つでは飽き足らずあれもこれもと欲をかき、挙句に迷い優柔不断の渦に飲み込まれている。

若い頃から物事はその時の直感で決めることがほとんどだった。その結果、うまいこと生きてこられたと思っている。
きっとそれほど欲はなかったのだろう。若さという何物にも変え難い特権を持っていた驕りからか、自分の決断には微塵の迷いもなく、すべては上手くいくという自信があったから欲が顔を出すまでもなかったのだろう。

それから数十年、人生の半分以上を経て、自分の老いと共にかつてあった自信は失われている。
あれもこれもと迷うのは、そんな自信のなさの表れであり、足掻きと言ってもいいのかもしれない。

もっとシンプルに潔く生きていきたいのに、気づけば瑣末なことにまで欲をかき、なんともみみっちく生きていることか。。。

きっと今の私は暇なのだ。有り余る時間の中で、損だの得だのと小さなことを考える時間的余裕があり過ぎるのが問題なのだ。

仕事もしていない、子育ても終わったとなると、自分に課せられる責任はほぼなくなる。
毎日「今日のおやつはなににしようか?」「今日のごはんの献立はどうしよう」と、言ってみれば食べることしか考えていないお気楽な毎日なのだ。
つまりはそれだけストレスもなく生きているということになる。
ストレスというのは完全なる悪ではなく、人は多少の負荷も必要らしくストレスも少しくらいはあった方がいいと聞いたことがある。

普段ストレスのない生活をしているのだから、選択によるストレスくらいはあった方が心の健康にはいいのだろうか?

そもそも人様に迷惑のかからない優柔不断なら、別に気に病むようなことではない。勝手に自分で迷っていれば済む話なのだから(笑)
ただコンタクトレンズの時のように、人様を巻き込むのは問題だ。

もう少しシャキッと生きていきたいとも思う。