In other words

I really don't know life at all ...

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作り手の人間性は重要?美味しければいいのか、清廉潔白を求めるか問題。


※写真は本文とはまったく関係のない自作フランナチュールです。

少し前のこと、Xをつらつらと見ていたら、某お菓子屋さんの話題が、炎上とは程遠い程度にとても遠慮がちに話題になっていた。

そのお店のオーナー(作り手)の私生活に関することで、糟糠の妻を裏切り若い女性に走ったとかいう、とてもよくあるお話しだったのだけれど、それに対して客側の声として多かったのが、「いくらお菓子が美味しくても、買いたくないよね」といった否定的なご意見であった。

私ならどう思うのだろう?
やはり作り手の人間性が気に入らなければ、その人の作ったものまでも否定するのか。。。

これは食いしん坊にとっては、考えれば考えるほど難しい問題であると思った。

正直言えば、美味しいものを作りお客に対しても誠実に向き合ってくれているのなら、プライベートがどうであろうとこちらには関係ないと思える。
一方でやはり身近な人間に対して不義理を働く人など信用できるわけがないと、あまりよい印象は持てないものだ。

私のごく身近でも昔似たようなことがあった。
ご主人はちょっと名の知れた方なのだけれど、知名度と自身の評価が上がってきたと思ったら、若くて可愛い女の子と浮気し、家に帰らなくなった末、糟糠の妻に離婚を求めてきた。
小さな子供3人を抱える奥さんから直接相談を受け、なんだかとても気の毒な話だなと思ったものだ。

相談されたものの、他人様のことにあれこれアドバイスできるわけもない。私にはそのような経験もないし、安易なアドバイスをして余計に事が拗れてしまっても責任は持てないからだ。
しかし、同情を全面に押し出した慰めの言葉で濁してしまうのも違うだろうと思い、どうしたものだろうかと思った。



結局、「もし私があなたの立場だったら」ということで、アドバイスというよりは身勝手なアイデアだけを提供することにした。
それは「離婚に応じずに意地悪をする。ただしこちらの要求する金額だけ慰謝料を現金払いしてくれるなら、お金と交換に離婚届をプレゼントしてあげよう!」
そんな事だったと記憶している。

幼子を3人も抱え、今後20年かけて育てていくのだ。なによりも先立つものはお金だ。お金が全てではないけれど、問題のほとんどはお金で解決する事ができるものだ。ないよりもあったほうがいいに決まっている。

気持ちの離れた夫、しかも糟糠の妻と可愛い我が子を捨てていくような人間に縋りつくのは時間の無駄だ。
さっさとお別れして、新たな暮らしを作っていく方がよほど明るい未来が見える気がする。なんといっても子供が3人もいるのだ。
私も2人の娘がいるけれど、成人した今は本当に強い味方で頼りになるものだ。
今は小さくて無力でも、懸命に育てているうちに子は成長する。その時は素晴らしいバディまた援軍になってくれるはずなのだ。
そんな未来のバディ達との明るい未来に目を向けた方が、人生はきっと明るいものとなるだろう。

しかし明るい未来にはお金が必要なのである。妻という立場を明け渡せというのなら、退去費用の負担は当然の義務であると思っている。

離婚の慰謝料とはいかほどなのだろうか。その人の所得なども関係してくると思うけれど、それほどの額ではないと聞く。
不義理をされた挙句、雀の涙ほどの慰謝料では割が合わない。

とは言え、ないものからは取れないので、そんな時はどうするか。
私なら離婚せず、とりあえずは現状維持とする。
しかし何もしないわけではない。
嫌われついでにとことん嫌われてやろうと、「子供3人育てなきゃいけないのよ!お金ちょーだい」と夫のみならず、お相手の女性の元へも鬱陶しいくらいに足を運び続け、夫には養育費を、お相手には夫のレンタル代として、ちょこちょこと生活費を集金にいくだろう。
それでもダメなら、夫とそのお相手の家族や友人知人のところまで集金に行く。
まるでタチの悪い街金のようだけれど、自分の行いに責任を持つというのは、大人としては当たり前のことだ。義務を果たさず、都合のよいことばかりするのなら、こちらも相応の事をお返ししてあげようではないかということだ。

そんなの無理だというご意見もあろうかと思うけれど、私はそう思わない。
何事においても、一人の人間が命懸けでなりふり構わずに成し遂げようとするれば、必ず事は動くと信じている。
本気でその人間を破滅させてやろうと狙いを定め、何年何十年でも攻撃し続ければ、雨垂れだって硬い岩に穴をあけられるはずだ。

そうは言っても、私はとても面倒くさがり屋なので、もしも払うお金がないのなら、せいぜいその夫とお相手女性に借金のお膳立てをして、お金を借りてまでも支払い、離婚届と交換してもらおうとするくらいだろう。

去る者を追っても仕方ないので、とにかく納得する額の慰謝料さえ払ってくれれば、綺麗さっぱり別れるが一番だ。
きっと世の中の多くの人は同じだと思う。



これまた知人の話になるのだけれど、夫の友人は離婚する際に自分の私財全て妻に渡して別れたという。
離婚理由は浮気などではなく、ただ性格の不一致。正確には妻の後ろにいる親類縁者との付き合い(お金の無心)に根を上げたからだったという。それでも自分が別れたいのだからと、お金で解決したのだそうだ。
妻の方も一生暮らせるほどのお金を貰ったせいか、おとなしく離婚に応じてくれたという。
一方の男性は、そのせいで一文無しになってしまったけれど、自分はその分また稼げばいいと、猛烈に仕事に励みまた資産を積み上げていっている。

この話を聞いた時、なんと男気のある人かと思ったものだけれど、これくらい潔い人だからこそ、仕事でも成功するのだろうなと思った。

相変わらず話が脇道へ逸れまくっているけれど、件の浮気した洋菓子店の店主にしろ、知人の夫にしろ、結局のところ夫婦の問題なのだ。

人は自分に都合のいいことしか語りたがらない。きっと夫婦の関係においても他人が預かり知らぬ事も多々あるのだと思う。
きっと他人が知っているのは30%ほどしかないのかも知れない。残りの70%が夫婦にしかわからない事であるなら、他人が表向きの言動だけで判断するには無理がある。
結局はのところ、こうした問題は他人がとやかく関知することではないのだ。

さすがにそれが知り合いのお菓子屋さんなどであったら、「美味しいから関係ないわ!」といそいそお買い物に行く気にはなれないけれど、どこの誰だか知らない、メディアでしか見聞きしたことのないような他人であれば、私は好きなお菓子を求めてお買い物へ行くだろう。

「やってる事を考えると、美味しく食べられない」などという意見もあるようだけれど、私は美味しく食べられる。

それにしても、SNSというのは面白いものだ。本来であるなら隠されていた心の声がそのまま文字として表に出てくるのだから。
そのせいでとても不愉快になる事もあるけれど、物事はなんでも受け止め方次第だ。
我が家の次女は、たとえネットで間接的にだとしても汚い感情に触れるのは嫌だとSNSはやらないという。
一方、長女はと言えば、「おもしろいじゃん」と楽観的に受け止めている。

心の声とはいっても、そこに書かれていることの全ては真実ではないだろうし、鵜呑みにする必要はない。他人様の離婚問題同様、そこにある真実は30%くらいかなと思って客観的に見ているのが一番なのだろうと思う。

何はともあれ職人さんにはプラベートがどうであれ、美味しいお菓子を提供し続けてくれればそれでよし!と思うのであった。。。


電子レンジのない生活。不便ではあるけれどなければないで平気だった話。

最近、家具や電化製品などの大かがりな断捨離をした。
そのうちの一つが、毎日の生活に欠かせないものの一つと思っていた電子レンジ。
かなり大型、機能も充実していたその電子レンジ。買ったのはいつだったか?
海外生活から戻ったのが今から約20年前で、その間は実家に預けておき、帰国してから再度使い始めた。
買い替えすればいいものを、まだ新しく結構なお値段だったせいか、処分するのはもったいないと思ったのだろう。
つまり20年以上前に購入したものということになる。
実際、使用していない期間はあるにしても、優に15年は使用し続けてきたはずだ。

電子レンジに限らず、我が家の電化製品は長持ちし過ぎる傾向にある。
今回電子レンジと一緒に断捨離したストッカー(冷凍庫)も同じくらい古い。
掃除機や洗濯機は結婚した時に購入したものを、これまた20年以上使い続けた。さすがにそれらは買い替えたけれど、冷蔵庫はいまだ現役だ。

冷蔵庫の寿命とはどれほどかと調べてみると約10年だそうだけれど、我が家のものはその倍以上使い続けている。
この冷蔵庫、とにかく大きい。若い頃は私も夫もとにかくよく食べた。子供ができたらさらに大きなものが必要かと、それなりに収納できるものを選んだのだけれど、賃貸マンションのキッチンには大き過ぎたようだった。。。本来冷蔵庫が収まる場所に入らず、少しばかり不便だけれどキッチンの外に置いている。

実際、毎日調理する身として、その導線の悪さが面倒なため、もう少し小さなものに買い替えたいのだけれど、夫の反対でいまだに実現していない。
「まだ十分に使えるものを何故処分する必要がある?」
そう言って寿命が尽きるまで使うべきだと首を縦に振ってくれないのだ。

今は昔ほど食べなくなったので、キッチンに入りきらないような大きな冷蔵庫は必要ない。おまけに古い電化製品は電力消費の点でもよろしくない。

夫は只今長期出張中で留守のため、鬼の居ぬ間に買い替えてしまおうと思っていたのだけれど、ここに来て事情が変わった。
冷蔵庫事情についてはまたの機会に語るとして、話を電子レンジに戻そう。



古い電子レンジをようやく断捨離しての数日間、実際に電子レンジのない生活をしてみた。
私が小さな頃は、まだ電子レンジは普及していなかったのだから、別になくても生活はできるだろうと思っていた。

結果、不便ではあったけれど、なくても問題はなかった。

我が家の場合、電子レンジの使用用途は冷凍しておいたごはんの解凍と残り物のおかずを温めるのが主なところなのだけれど、たったそれだけでもなければないで、それなりに不便を感じることはあるだろうと最初は思っていた。

しかしいざとなると、電子レンジで温めずとも、他にも熱を入れる方法はある。
例えば冷凍ごはんなら蒸篭で蒸せばいいし、おかずも炒め直すかオーブンやトースターを使えば問題なく温めることができる。
調理に関しても元々電子レンジは使用しないことにしている。
昨今では電子レンジを使った調理法など、短時間で簡単にできるようだけれど、私は時短にこだわるほど忙しくもなく、家事が「お仕事」という専業主婦だ。時短調理する必要はない。
それ以前に、昭和の古い人間のため直火調理へのこだわりのほうが強い。

次女がホットドリンクなどを作るとき、「電子レンジないとやっぱり不便ね」とこぼしたけれど、「昔々はそんなものがなくても生活していたでしょ?昔の人ができることが出来ないの⁉︎」と、言ったところ、「それもそうだ」とミルクパンを使い温めるようになった。

今はなんでも時短、便利な生活に慣れている。こんな経験も若い娘には少しだけお勉強になるだろうと思った。

つい先日、冷蔵庫にあった残り物のハンバーグを温める際、フライパンに乗せてから蓋をして、しばらく弱火で温めたのだけれど、意外なことに次女が味の違いを感じたという。

「レンジよりもこうして温めたほうがずっと美味しい」

そう言っていたのだ。

私は食していないので、実際どう違うのか説明できないのだけれど、とにかく直火で温めた方が余計な水分が飛ばず、旨みが残り美味しいらしい。

家族の意見も電子レンジがない生活は多少不便だけれど、なければないで問題なしとのことだった。




私としてはキッチンにあまり物を置きたくないので、電子レンジはなくてもいいかなと思っていたけれど、この生活は期間限定であった。
断捨離したものの、数日後には比較的新しい電子レンジが我が家に運び込まれた。

今回の大掛かりな断捨離は、一人暮らしをしていた長女が帰ってくるというのがきっかけだった。
そこで現在長女宅で使用している家具や電化製品などはどうする?となった時、それならば家にある古い物を処分して長女のために購入した新しい物を使えばいいと考えたのだ。

電子レンジの他に大きなソファーや洗濯機なども長女宅にあったものを使用することになり、我が家にある物を処分したのだった。

タイミングよく、引越しの日に入れ替えられればよかったのだけれど、処分にあまりお金をかけたくなかったので、区の粗大ゴミ回収や民間の業者なども利用したため、そう都合よくはいかなかった。

区の粗大ゴミなどは回収の日が決められていて予約制になっているので、こちらの都合通りにはいかない。
家にものが溢れるよりは、ない生活の方がいいと、引越し日よりも約1週間早めに断捨離したのだった。

おかげで部屋はスッキリ。キッチンにはトースターのみが残った。
炊飯器は確か2年ほど前に断捨離し、今は食べる時に土鍋で炊き、余った分は冷凍しておくようにしている。

別に丁寧な暮らしをしようと思っているわけでは決してない。
めんどくさがり屋なので、手間がかからないのなら、それに越したことはないと思っているのだけれど、なによりもキッチンに物を置きたくないのだ。

炊飯器はかなり存在感ある。しまっておくほどの収納は我が家にはない。その点、小さな土鍋なら他の鍋と同じように収納しておける。

炊飯器はなくて不便だと思ったことは一度もなく、断捨離してよかったと心底思っている。
我が家は夫が外国人なので、これまではずっと欧米型の食生活をしてきた。
ここ数年は私の胃腸を考えて、私だけは和食にしているけれど、普通の日本人家庭と比較すると、お米の消費量はかなり少ないはずだ。
3日に一度くらい2合炊いておけばいいくらいなので、大きな炊飯器は必要ないのである。



炊飯器は必要ないけれど、前述したように電子レンジはあった方が便利だ。
今回は長女の一人暮らしに際して購入したものなので、我が家で使用していたものよりも新しいけれど、機能は最小限で小さめである。
ちょっとした物を温めるだけならそれで事足りる。
なによりも新しいのがいい。

今回電子レンジを使わない生活を経験し、今後はより使用頻度が減るだろうと考えている。
電子レンジはお手軽で便利だけれど、やはり直火を使った方が、美味しくできる気がするのだ。

いずれ、電子レンジも必要なし!と完全断捨離する日がくるかもしれない。
そうなると、キッチンがよりスッキリとし、さぞかしよい気分になるだろうと想像する。

昨年、この日記にも「来年は暮らしのダウンサイジングをしたい」と書いたことがあったけれど、今回長女の引越しに際しては、ついでにとかなりの物を処分したので、より身軽になり気分的にもスッキリとしている。

世の中、「あれば便利だけれどなければないで困らない」そんな物がたくさんある。
私はミニマリストではないので、持たない暮らしをしたいわけではないけれど、歳を重ねるごとに、あまり物を所有したくないと思うようになった。

実際に今回の断捨離で自分がどんな物を所有しているのか、それは必要か不必要か、そんなことを考えながら選別していたのだけれど、趣味もないので持っているのは服、靴、バッグ、本くらいのもので、あとは家庭で使用するものばかりだった。

定期的に断捨離しているので自分のものは少ないけれど、コレクション癖のある夫や子供達の物が、まだたくさん収納に眠っている。
これをどうにかしたい(処分)と常々思っているのだけれど、本人たちからしたら「お宝」らしいので手をつけるわけにはいかない。

しかし、子供達もいずれは家を出ていくだろう。すべてこの家から持ち去って頂くつもりだ。夫に関しては、「もう若くはないのだから」と、根気強く暮らしのダウンサイジングを促していくつもりだ。

そんな話を長女にしたところ、「物を減らせと言うより、新しい物を買おう!と言って、まずは処分させれば?」と提案された。
なるほど。。。
お買い物が好きな夫にはその方が効果がありそうだ。
処分させた後に、「スッキリ暮らしましょうよ!」とやればいい。
騙し討ちのようだけれど、そうでもしないと夫の物は増え続けるだろう。

長女の引っ越しで、ようやくスッキリとした部屋にまた荷物が運び込まれてきた。
それを見ていると、さらなる断捨離をと意欲が湧いてくる。
まだまだ快適に暮らすためにできることはありそうだ。


たかがお菓子されどお菓子。令和のバレンタイン商戦についての呟き。

今年もバレンタインデーのかなり前から、百貨店などではチョコレート催事が花盛りであった。
とりわけインポートもののチョコレートに至っては、ヨーロッパから遠路遥々ショコラティエが来日しては、更に市場を賑わせている。

百貨店へ行けば、開店と同時に猛烈ダッシュで駆け出し、チョコレート売場へ爆走していく女子達を目にし、たいそう驚いたものだった。

「運動場じゃあるまいし。。。」と、見ていてあまり美しい光景とはいえないけれど、なりふり構わぬその姿から、チョコレートへの執念が伺われる。

最近はとにかくお菓子マニアが増えた。これはSNSの影響で、そんなマニアが表舞台に浮上してきたせいなのかもしれないけれど、やたらと目につくようになった。

私もお菓子をテーマにしたメインブログを書いていて、日々美味しそうなお菓子を見つけては楽しんでいるけれど、決して「お菓子マニア」ではない。
幼い頃からのおやつ習慣を充実させるためにお菓子を買っているだけなので、百貨店で爆走せずに済んでいる。

昔は話題のお菓子など、どんなものか味わってみたいと、行列に並んだりオンラインでも頑張ってポチポチ争奪戦に加えわったりしていたこともあったけれど、たかがおやつのために時間を無駄にしていると気づきそれもやめた。

「お菓子マニア」としてあらゆる人気のお菓子を収集するという目的ならわかるけれど、私はただ毎日美味しいおやつが食べたいだけなのだ。
レアなお菓子も食べきれないほどのお菓子も必要ない。

焼き菓子やパンなどもよく大量に購入し、冷凍しておくというお話も聞くけれど、私はそれもしない。
持論として家庭用冷凍庫では美味しさキープは不可能であると思っているからだ。
食べ切れるだけ買い、なるべくその日のうちに、その日が無理なら賞味期限内に食べ切れるだけの量しか買わないようにしている。
「どれだけ買うか」ではなく、どれだけ「美味しく食べるか」に重きを置くと、胃袋にも限界があるので当然そういうことになる。

とにかく、そんなただのおやつ習慣を楽しむ生活を何十年と続けてきたわけだけれど、やはり50代ともなるとあちらこちらその影響が現れ始めてきた。
昨年は健康診断の数値に初めてケチがついた。
主治医からも「お菓子もほどほどにね」とお叱りを受けた。私は40代で大病を経験しているので、主治医もなにか変化があると、とても厳しいことを言って予防に全力投球するように促してくる。
加えて成人病にでもなってしまったら、おやつが食べられなくなる。これは人生の楽しみの半分は奪われるようなものなので、なんとか回避したいと最近はお菓子もかなり控え、これまでの10分の1程度に減らしているのだ。

バレンタインデー前には、限定のお菓子など、その時期にしか登場しないお菓子もあるので、普通なら連日百貨店へ通うところなのだけれど、見ると理性が崩壊するので、なるべくそのような場所には足を運ばないよう努力はしている。

それでも、しばらく大人しくしているとウズウズしてくるのだ。
お菓子以外の買い物がある時、よく百貨店へ行くのだけれど、一度足を踏み入れるとどうしても催事やデパ地下をのぞきたくなってしまう。

先日もそんな感じで比較的空いていそうな日の午前中を狙い、ぶらりと百貨店へ行き、ついでに催事場もチラリと一回りしてきたのだった。



昨今では作り手と客との距離が非常に近くなっているなとの印象を持っている。

普段のおやつはわりと店舗で買うことが多いのだけれど、催事などではさまざまなお店が一堂に会することから、おやつハンティングにはもってこいと、足を運んでみる。
すると、和菓子でも洋菓子でもその作り手にサインを求めたり、一緒に写真撮影をしたりしている光景を目にする。
これも今で言うところの、「推し活」というものなのだろうか。。。

それは海の向こうからやってきた洋菓子職人さんのみならず、和菓子の世界でも見られるようになってきた。
もちろんこうした現象には必ず仕掛け人となる人がいると思うのだけれど、もはや百貨店のお菓子催事は一大イベント、お祭のようになってきている。

かつて知人の外国人投資家のおじさんが言っていたことを思い出す。
「いわゆる職人とされるような方々が、まるでスターのようにもてはやされるのは、あまり良い現象ではない」と。
どんな意味かと尋ねると、それは国の経済の衰退による現象の一つであるというようなことを言っていた。

国際経済を語れるほど英語力のない私は傍で「ふ〜ん」と聞いていたのだけれど、なんとなく言わんとしているようなことはわかる気がした。

私がその会話を正確に理解したかどうかはいささか怪しいのだけれど、要約すると、職人が作ることの他にファンサービスのようなことまでするのはなぜか?ということらしい。
職人であれば、芸術家のように作ることに専念したいはずである(多分)。しかしそれ以外の販促までしなければいけない理由とは?
つまりはより高い利益が得るためと思われると。。。

人によっては、自分の作るお菓子をご贔屓にしてくれ、喜んでいるお客様の顔が見たいという職人さんもいるだろうけれど、何よりも商いを続けるために利益は最重要だ。

昨今ではそんな職人に会うことをお目当てに、数々の催事に足を運ぶ人も多いようだから、職人さんの露出によっては利益が期待できるということもあるのだろうと思う。
あの猛烈ダッシュの光景を見れば、よくわかる。

そこで何万円、多い人は何十万円もお金を遣ってくれるのだ。結局のところ、双方の利益が一致したwin-winという構図ができあがる。

私などは単純に「経済が回っていいじゃないの!」と思うところだけれど、投資家の見方はそれが経済危機であるとの懸念になっているようだった。

私にとっては、たとえそれが芸術品のように美しいお菓子であっても、作り手がスターのような方であっても、所詮はお菓子。美味しく食べてナンボの世界だと思っている。
作り手のことはもちろんリスペクトしているけれど、お菓子にお金を出す理由は、口にした時の口福感に尽きる。
お菓子に関してはいささかマニアックなところもあるけれど、私がマニアとは言えないのは、そこなのだ。
とにかく食べることだけしか考えていないのである(笑)

まさに経済危機とは程遠い意識しか持っていない、ただのおやつ好きおばさんだ。。。
難しいことはさておき、昨今の価格高騰でインポートもののお菓子はとんでもない価格で並んでいる。私にとってはその方が危機である(笑)



私はかれこれ10年以上は行列ができるような催事に積極的に参加しなくなったので、先日たまたまのぞいた催事で並んでいる商品の値段を見てたいそう驚いた。

普通サイズのタブレットチョコレートが¥5,000もするのだ。
ガーナミルクチョコレートが一体何枚買える⁉︎と、下世話ながら頭の中で計算してしまった。。。

「この値段で買う人などいるのかしら?」と思っていたら、そんな高級チョコレートが飛ぶように売れるのだから驚く。
日本は本当に不景気なのかしら?と思う。
しかし、よくよく考えてみれば、宝石やバッグや靴、さらには車などを買うと思えば安いものではある。
そのような贅沢品を買おうと思えば、どんなにチョコレートを買っても、せいぜいその10分の1程度のものだ。

かつてバブル期を過ごしてきた世代から考えれば、食べ物に遣うお金などたかが知れている。

とはいえ、それは社会にお金が有り余り、人々の意識がとにかくお金を遣わなければ!と動いていた時のお話だ。
今のように労働賃金は上がらず、物価ばかりが年々上昇している状況では、その価値も異なる。

私のようにすでに守りに入った人間にとっては、お金を作り出すことよりも守ることが最優先だ。
個人的に今後はお国による年貢の取り立ては更に厳しくなり、少子化により老人福祉も期待できない未来が予想される。
日本経済はさらに悪化すると思っているので、余計に守備を固めなければという思いだ。
10年後、20年後、人生100年と考えればそれ以上の年月、今と同じように安穏と暮らすためには、お菓子で散財している場合ではないのだ。

そんな中、¥5,000のチョコレートには、「高い!」という印象しか持てず、とてもじゃないが手が出ない。

そんな話をしていると、20代の娘二人からは「いまだに昭和だな」と苦笑される。
彼女達にとっては、このとんでもない価格は当たり前と映っているのだ。

時代は変わった。。。
自分の意識も変えていくべきである。
そう思いながらも、そんな時代の変化についていけない。

チョコレートのみならず、お菓子全般の価格はかなり高騰している。
幸いなことにまだ和菓子は普段のおやつに対応できる価格なので助かっている。

健康上の理由からも洋菓子よりは和菓子の方がいいので、最近のお菓子は和菓子が中心になっているけれど、たまには洋菓子も欲しくなる。

そこで最近は食べたければ自分で作ればいいと思うようになった。
子供達が幼い頃は、毎日のようにクッキーやケーキを焼いていたので道具もレシピも揃っている。

子供達が成長してからは、買った方が手間がかからないと、市販のお菓子を買うようになったけれど、ここまで値段が高騰すると、ケチンボな私は自分で作れば同じ値段でどれだけたくさんのお菓子が食べられるか⁉︎と、算盤をはじいてしまうのだ。

安価なだけではない。自分で作れば、自分の好みに合ったお菓子を楽しむこともできる。
買ったお菓子が口に合わず、残念な思いをしたことは数知れない。
美味しい、不味いという話ではなく、単に好みに合わないということだ。
これは値段だけの問題ではない。もちろんそこそこお金を出して口に合わないとなるとがっかりするのだけれど、それと同じくらいに楽しめないお菓子で余計なカロリーを摂取してしまうことが嫌なのだ。

その点、自分で作ればそんな失敗はないに等しい。自分の好みは自分が一番わかっているのだから。



ここまで思うままに書いてみたけれど、その心中は結局のところ嫉妬と諦めなのかも知れないと気づいた。。。

そのお菓子へ向かう情熱と、それを支える胃腸の強さに対しての嫉妬。
すなわち若さに対する渇望と諦めだ。

もはや何時間も行列に並んでお目当てのお菓子をゲットしようという情熱もなくなった。石のように固まったネットの前で粘った末「完売」の文字を見て落胆するのにも疲れた。気力の減退だ。
それと同時に本来の天邪鬼が顔を出し、「みんなが競うように手を出すお菓子はいらない!」となった。

何よりも加齢による身体の変化。摂取したカロリーをエネルギーに変える力は弱まり、更年期になったころからは、まるで瞬間接着剤かのように食べたそばから脂肪を蓄積するようになった。
少しでもヘビーなものを口にすると、途端に胃もたれし、数日は胃腸の不調に悩まされる。

たった数年前までは、お菓子など食べたうちには入らぬというくらい、いくらでもスルスルと入り、すっきりと消化していた。
今では大福など餅菓子でも食べ過ぎようものなら、半日は胃がスッキリせずに晩御飯を抜くことも珍しくない。

もはや私はお菓子の一線からは退く時期がきたと、自ら白旗を上げざるを得ない。
「老兵はただ去るのみ」そんな心境なのだ。

かつてのように、美味しそうなお菓子のためにはどんな苦労も厭わないという情熱、そして頑強な胃腸が失われた私にとっては、その二つを持つ者に嫉妬をおぼえるのだろう。

嫉妬心ほど愚かなものはないと日頃から思っているため、さまざまなエクスキューズを並べ、それを否定するしようとしているのだ。

しかし、「たかがお菓子」という気持ちに嘘はない。
スター然とした職人にも正直言って興味はないし、百貨店の中を走るようなことも絶対にしたくない。

ただ「されどお菓子」だ。人生は短い。生きているうちにできる限りの美味しいお菓子に出会い、おやつ時間を充実させたいとも思っている。

何はともあれ「健康第一」だ。
お菓子に対する熱狂は「お菓子マニア」にお任せし、自分の身体と暮らしに合ったおやつライフを楽しんでいければと思っている。