In other words

I really don't know life at all ...

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東京脱出やコロナ疎開に思う。東京の人間に逃げる場所はない。結局戻ってくるのなら、ここにいたいと思う。

なんだか毎日「コロナ、コロナ」とコロナ関連のことばかり書いていてちょっと嫌なのだけれど、このブログは日記という位置づけで作ったセカンドブログなので、コロナの話題一色の今はどうしてもコロナの方に気持ちが引っ張られる。

そもそも、ずっと引きこもっているから、他にたいしたトピックもないし。。。

そんな中でようやく緊急事態宣言となり、またしても頭の中はコロナ。考えることといえば、「これから先、どうなるのかなコロナ。。。」なんてことばかりだ。

この緊急事態宣言が囁かれ始めた頃だろうか、コロナ関連のニュースを見ていて、「コロナ疎開」というすごいワードを目にした。
なんでも都会からコロナ感染者のいない、もしくは少ない地方に避難する人が多くいるという。

さらにはTwitterのトレンドに「東京脱出」というワードも登場。。。

まるで9年前のようだなと思った。






東日本大震災の直後、放射能から逃れるために、多くの人が東京を脱出した。

私の身の回りでも、まず先陣を切ったのはお金持ちの友人達だった。みんな海外に所有する別荘へ避難したのだ。
同じ頃、国際結婚組も日本脱出を開始。すると、その後はまるで集団ヒステリーのような状態で、いくあてのない人までもが東京を出て、大阪あたりのホテルに大移動。当然のことながら地方出身者は東北地方以外の人は、みんな郷里へ避難した。

いつも多くの人が行き交っていた都心の街は、見事なまでにすっからかん。まるでゴーストタウンにでもなったかのように、暗く静まりかえっていたのを思い出す。

我が家でも東京を出ようかという話はあった。夫が外国人なので、親戚や友人知人はあらゆる国で暮らしていて、ニュースを観ていたのか、みんな「早く東京を脱出せよ」と連日連絡を入れてしてきたものだ。

しかし、私は東京を離れる気はなかった。
理由は簡単だ。東京は私が生まれ育った場所であり、たとえ一時どこかへ避難しようとも、結局自分の帰る場所は東京しかないと思っていたからだ。

放射能の危険はもちろんわかっていた。だからこそ、一度それから逃れようとしたら、もう二度と東京には戻らないということになる。そうでなければ避難する意味はない。

こう考えているのは、私だけではなかった。同じように「どうせすぐに戻ってくるくらいなら、ここにいるのが一番」そう言って、東京にとどまった友人も沢山いた。
生まれ育った場所は違えど、みんな東京の人間だった。

結局、東京から脱出した人達も、放射能の不安が依然として消えない状況にも関わらず、またすぐに東京へ戻ってきた。

今回のコロナでも同じだ。
さすがに世界中が危険ともなれば、どんな富裕層も海外へ避難とはいかないけれど、地方出身者の多くは、また東京から脱出した。

思いもよらなかったのは、そんな行為が地元の人達によって激しくバッシングされたことだ。
確かに、この厄介なウィルスを持ち込まれたら、いくら郷里の人間といえども勘弁してほしいと思うだろう。

さらにはその土地にまるで関係のない人間が「コロナ疎開」などと言って、押し寄せてきたら、ただでさえ小規模な医療体制が崩壊する可能性もある。当然のことながらモヤモヤとした気持ちになるのは想像に難くない。

自分たちの街を変えられる、悪くいえば荒らさせるとなれば、それは面白くないだろう。
普段は「田舎、田舎」と言っていた人間が、こんな時ばかり都合よく「疎開」だなんて。。。

この心理は何となくわかる気がする。

この「コロナ疎開」には、お年を召した方が多いと聞く。
本来ならお年寄りこそ東京にいるべきだ。感染した際、重篤化する確率が高いと言われているのだから、地方よりも医療制度の整った東京にいる方がどれだけ安心か。。。
病床の数も桁違いだし、東横インだってアパホテルだってついているのだ!

きっと、自分は感染しない、していないという前提での行動なのだろう。

物事を客観視できないのは、お年のせいか?いずれにしても恐ろしい。。。







人は自分の生まれ育ったところで暮らすのが一番だと私は思う。誰にも文句を言われる筋合いはないのだもの。。。

たとえコロナ感染のリスクが高かろうが、これまで私は東京からたくさんの恩恵を受けて育ってきたのだ。
万が一のことがあったとしても、それは東京で生まれた者の宿命とまで思う。

大袈裟に言ってしまえば、それはその土地で生まれ育った者の覚悟ともいえる。
コロナウィルスがどれだけ蔓延しようとも、東京を捨てる気にはなれないのだ。

東京に限らず、そんな思いで故郷にしがみついている人もたくさんいるのではないだろうか。

どんな土地でもいいところも悪いところもあるものだ。東京だっていいことばかりではない。
いつだって人は多いし、家賃も物価も高いし、人並み以上の生活をしようと思えば、それなりにハードな生活をしなければならない。
それでも、私は東京が好きだ。

若い頃、東京以外の街で暮らしたこともある。海外だけれど田舎町で暮らした経験もある。
それなりに楽しかったけれど、やはりそこが自分の終の住処になるとは想像できなかった。
10年近く落ち着かずにいたけれど、結局は東京に戻ってきた。もう20年以上も前のことだ。

地方出身者が故郷を大切に思うのと同じように、私もまた東京が大切だ。

今回の新型コロナウィルスの問題が終息した後も、また何が起きるかはわからない。それでも、私はギリギリまでこの東京にしがみついていようと思っている。

目に見えないウィルスも怖いけれど、場合によったらやっぱり生きた人間も同じくらい怖い。

明日、ようやく緊急事態宣言が発令されることになった。最低でも1ヶ月間は、この東京も本格的な自粛生活となる。

一足先に引きこもり生活をしているので、あまり外の様子はわからないのだけれど、近所のスーパーでは少し前から入場制限していると聞いた。物資を買い集める人で殺伐とした雰囲気らしい。

そんな様子を想像すると少し怖くなる。。。







子供のころ、幽霊を怖がる私に今は亡き父が言った。

「生きている人間の方がずっと怖い」

その時はまだ幼かったから、どうして人間が怖いのだろうと思っていたけれど、今ではその言葉に大きく頷くことができる。

大勢の人が申し合わせたように、同じ心理で乱暴に動くこともそうだし、誰かから悪意を向けられて酷い仕打ちを受けたりするのもそう。

さらにはこんなこともあった。20代の頃、ものすごく治安の悪い国で短期間暮らしたことがあった。その時、初めて心底人間が怖いと思った。

東京などで夜間歩いているときは、人がいないことの方が怖かったけれど、その国ではまるで違っていた。
街には犯罪者が溢れていて、いつどこで何があってもおかしくない状況だった。
そんな中では、周りに人がいるだけで恐ろしくて、一人になると妙な安心感を覚えたものだった。

まさに、「生きている人間が一番怖い」
そう思って生きてきたけれど、今回の新型コロナウィルスでは、目に見えないものの恐怖というものを感じることになった。

このウィルスはなんだか嫌な感じ。。。
写真を見れば毒々しい真っ赤なきのこみたいなものがぶつぶつくっついていて、ものすごく性悪な顔つきだ。

目に見えさえするなら、どんなに小さくても一つ一つ除菌スプレーなどを噴射して退治してやろう!と思うけれど、見えないとなるとそれも難しい。

世界中が危機的な状況になっているいま、まさに目に見えない得体の知れないものにまとわりつかれ、私達は恐怖に怯えている。

インフルエンザどころか普通の風邪ですら、ほとんど無縁な私だけれど、決して頑強な身体を持っているわけではない。

生まれつき気管が細くて弱いのに加え、過去には消化器系の病気で手術をしたり、それよりもさらに重篤な病気になり、人生で2度目の手術と入院も経験した。
幸いなことに、今は運良く普通の生活が送れているけれど、いつ何時また病に伏せるかと心の隅ではいつも不安なのだ。
だからこそ、風邪などひかぬようにと注意して暮らしている。

新型コロナウィルスにしても、もし感染でもしたら、きっとそれほど軽くは済まないだろうなどとも思う。
私が早々に引きこもり生活に突入したのはそのせいだ。

目に見えないウィルスはどこに実態があるのかわからない。
そういったことを考えれば、目に見える人間の方がよほど安全ではないかと思える。

この人間は要注意だと信号がピコピコしたら、近寄らなければいいのだから。目に見える危険を避けながら暮らすことは、少なくとも目に見えないものを相手にするよりはマシだと思える。







一方で、連日マスクやトイレットペーパーを求めてドラッグストアの前に列を成す人々や、スーパーで山ほどの商品をカートに積み上げ、長い行列に並んでいる様子を見ると、それもまた怖いと思う。

もしも物資がなくなったら?
そんな不安を覚えるのはよく理解できる。私も同じだ。
それでもあの行列に身を置こうとは思わない。

マスクの取り合いで小競り合いが起きたり、お店の店員さんが悪態をつかれたりなんてこともあるらしい。
人は自分の身を守るためなら、他人をも容易く傷つける生き物なのだ。

自分の身が可愛いのは誰もが同じ。しかし、それほど可愛い我が身なら、何故に普段から備えておかないのだろうとも思う。

脅威は新型コロナウィルスだけではない。依然として日本は大地震のリスクも抱えていることを忘れてはいけない。

地震はなんの前触れもなく起こる。その後にどうなるかは過去の大地震でよくわかっているはずなのに。。。

それでも、自粛要請や緊急事態宣言が出るとなると、大慌てで皆んな同じ場所に殺到するのだ。

あれほど多くの人が同じ心理で同じ行動をとることがとても怖いし、加えてそこに蔓延するだろうウィルスを想像すると、さらに恐怖が増す。

もう生きてる人間も、目に見えないウィルスも、どちらも強烈に怖い。。。

それにしても、みんなどれほどの備蓄をしようとしているのだろう?
まさか何ヶ月も流通が滞るなんてことはないでしょうとのんびりと構えている私は、楽観し過ぎなのだろうか?

いくら備えはしているとはいえ、大きな蔵を持っているわけではない。数週間なら問題ないけれど、これが長引けばやがて備蓄は尽きる。

まぁ、来週あたりになれば少しは落ちつくと思うから、それから考えればいいかしらね。。。

明日は緊急事態宣言だけでなく、スーパームーンが見られる日。
空を見上げると、すでに美しく大きなお月様が見える。こんな時だからこそ、ちょっと空を見上げてみよう!



stay at home 自粛生活で自分なりの息抜きと癒しを見つけてみた。

この週末も東京では先週に引き続き、ゆるく自粛要請がでていたので、当たり前のようにおこもり続行中。

#Stay at home and stay safe

Twitterなどでは、そんなハッシュタグ付きのワードを見かけたりもするので、多くの人が自粛生活をしているのだろう。

普段はあまりTVは観ないのだけれど、おこもり生活をするようになってから新型コロナ関連の番組は観るようになった。

毎日同じような内容ばかりで、別に観なくても差し支えはないのだろうけれど、1日の感染者数や街の様子などを知るだけで、それはそれで全く役に立たないわけでもない。

今後、どう行動すべきか想像する上での一つの小さな材料にはなりそうだ。

多くの人が自粛している中でも、遊びに出かけている人も当然のことながらいる。想像力の欠如か情報弱者かわからないけれど、いつの世もそんな輩はいるものだ。
それでも自分が引きこもっているのなら、そんな無自覚な人間と触れ合うこともない。
ただ、そうした行為は感染を増幅させることにはなるだろうし、そのせいで社会が機能しなくなることもある。それはかなり問題だけれど、強制力があるわけでもないからどうしょうもない。
せめて、自分の力の及ぶ範囲で、自粛を促すくらいのことしかできないだろう。







家にいることの方が罪に思えるほどの季節に、こんな生活がいつまで続くのかしら。。。と、ちょっと気持ちの方が暗くなってくることもあるけれど、私は子供達にも完全引きこもり令を出している。
夫に関しては仕事へ行く以外は、まっすぐ帰宅するように言っている。

自分達ばかりが自粛したところで仕方がないなどと言っている人もいるけれど、結局のところ、一人一人の意識の問題なのだ。その意識の結集が感染拡大を抑止する大きな力になると私は思っている。

さりとて、何日も何日も一歩も外に出ないでいるのは、さすがに閉塞感を覚えてくる。

そんなときは、運動がてら、早朝まだ人のいない時間に近所をぶらりと歩いたりする。
夫は逆に夜遅く誰もいない公園などで運動したりしている。

そんな風にちょっとばかり息抜きをしながら、家で楽しめることをする。

私が最近よくするのは、ベランダに出て鉢植えの花を眺めることだ。

水を与えお日様の光と暖かさに、面白いように応えてくれる植物を見ることは、思った以上に大きな癒しとなっている。

ガーデニングなどというのは、田舎に住む主婦の趣味にしかならないなどと長いこと思っていたのだけれど、私も歳をとったのだろうか、ベランダに大きな鉢植えを並べて花を咲かせることが楽しくて仕方ない。

種を植え、それが芽を出し、成長していく。それを見て「おお!すごい育っている!」と感動する。

次の段階では、新芽の間から花の蕾が顔を出す。
「うわ!蕾ができた!」
我が子の成長を見るよりも即効性があり、変化を見ることが楽しくなってくる。

寒いとその蕾はかたく閉じたままなのだけれど、暖かい日が続くとやがて蕾が開き、綺麗な花を咲かせる。
ここでまた「おお!花が咲いたぞ!」と歓喜する。

しかし、そこで終わりではない。まさに今の時期、冬の寒さが去り春になると、次から次へと新しい蕾が生まれ、ものすごいスピードで花を咲かせていく、そして気づくと鉢植えが小さなお花畑のようになる。

そうなると、今度はその花の色を考えながら、鉢植えの中でのデザイン性などにもこだわりが出てくる。
ここは白とオレンジ、ここはピンクと黄色。。。色々な色を組み合わせたくて、植え替えなんてことまでしてしまう。

それが鉢植えの中だけに留まらず、最終段階ではベランダの中で、どこにどんな鉢植えをレイアウトしたらいいかなどと、猫の額のようなベランダが乱痴気騒ぎのような状態になるまでいじりまくる。

もう自粛で退屈だなどと言っている暇はない。

これは命の息吹を日々感じられることと、自分でクリエイトしていく楽しさ、その両方を味わうことが出来る。

昨今では多肉植物などが人気のようだけれど、私はやはりそのシーズンだけパッと花を咲かせ、やがては消えていく一年草の方が育てがいを感じる。
その花の季節が終わったら、また次は違う花を植えるのだ。

こうして、最近は朝起きてベランダにしゃがみ込み、花を眺めている。

若い人にはまだまだ必要がないのかもしれない。わざわざ花の成長など見なくても、日々自身の成長を感じながら生きていくことができるから。
しかし、50も過ぎれば成長よりも枯れていく速度の方がダントツに早い。
そんなメランコリックな気持ちを追いやるには、枯れていく自分を忘れさせてくれるほどのスピードで、「生きている」ということを見せつけてくれるものが必要だ。

とりわけ花は美しく、気持ちも明るくしてくれる。もしかしたら、野菜なんかを育てるのもいいかもしれない。
毎朝鈴なりに成るチェリートマトなんかを採取して、朝ごはんのサラダに加えたりしたら、楽しいんじゃないかなどと想像する。

まだガーデニングといえるほどハマっているわけでないから、家庭菜園など手を出す気はないけれど、想像するだけなら面倒はない。







料理もよい気晴らしになる。主婦にとっては自粛だなんだの関係なく、普段から当たり前のようにしていることだけれど、料理することを義務とせずに趣味のように考えてすると、また違ったものになる。

学校が休校となり、日々子供の食事の支度に疲れ切っているなどという声が上がるけれど、どうせ作らねばならないのなら、自分が「これが食べたい!」と思うもの、「美味しい!」と嬉しくなるようなものを作りたい。

よほど料理が嫌いで苦痛だという人は、もう仕方がないけれど、食べることが好きな人ならば、ちょっと気持ちを切り替えれば、料理も案外楽しいものだ。

普段作らないような、何時間もかかる煮込み料理を作ってみたり、本来ならお店で買ってくるような面倒なものを手作りしてみたり、レシピ本を参考に新しいメニューを作るのも楽しい。
「とりあえず何か食べさせなくちゃ」と作るのではなく、まるでセブンイレブンの新メニュー開発チームの一員にでもなったような気分でキッチンに立つのだ。

食欲も満たされ、なおかつ時間を有効活用できているという満足感が得られる。

最後にもう一つ、ブログや日記を書くのもおすすめだ。
未曾有の事態をどう過ごしたか、たいして役に立ちそうなことでなくても、その時にしていたこと、どんな気持ちでいたかなどを記しておけば、暇な老人になったときに読み返す楽しみができる。
そして、その「書く」ということが習慣となり、ブログなんかを趣味にできれば、朝から買い占めのためにドラッグストアに並ぶような老人になることもないだろう。

特に「自粛生活で鬱になりそう。。。」なんて言っている人は書くべきだ。
書くことは自分の気持ちを反芻し、整理することに役立つ。人は誰でも自分に興味があるものだ。自分の中にある感情を客観視するのはなかなか面白いことだし、少しは冷静になることができる。

また「書く」ということは、なによりの癒しになる。これをどう説明していいのか難しいのだけれど、一度自分で何かしら書いてみればわかるだろう。

別に上手に書く必要はない。プロのライターというわけではないのだ。
悪態をつかせていただけば、今はネット上に自称ライターが溢れ、およそプロフェッショナルとは思えないような稚拙な文章を平気で晒している。
そんな中で個人のブログでどんな文章を公開しようが、誰も文句は言わないはずだ。







結局のところ、自分はいま確かに生きているという実感を、目に見える形で作り出すことが大切なのだ。

人間というのは、何もできない無力さに打ちのめされる。だからこそ行動するべきなのだ。たとえ歯が立たないと分かっていても、自分が何かしら行動しているという事実は大きな励みにもなるし、わずかな望みによって苦しさを緩和してくれるものだ。

自分は何もできることがない。そう思うのなら、書けばいい。自己満足でも書くのだ。

三日坊主でもいいではないかと思う。私は一度自分が始めたことは、決して投げ出したくはないと思う方だけれど、最近はそれもどうなのかと思うようになった。
自分で勝手に足枷をはめて、縛りつける必要はない。

ブログを始めてみたけれど、結局は半年も続きませんでした。。。
それでもいいのだ。続かなかったということは、楽しめなかった、自分には合わなかったということだ。そんなことを無理に続けていても仕方ない。それならば、スパッとやめてしまって、また新しいことに目を向ければいい。

何事もやってみて初めてわかるということがある。

ただ、この退屈な自粛生活の中で、モヤモヤ、悶々としているならば、公開ブログでもプライベートな日記でも、何かしら書いてみることをお勧めしたい。

今は、一人一人が自分にとって息抜きとなるようなことや、癒しとなることを見つけるのが大切だ。

感情もまた感染するものだという。

家庭の中においても、誰かがささくれだった気持ちでいれば、それは感染して家庭全体がどんよりとしてくる。

こんな時こそ家族を思いやって、助け合って!

そんな声もあるだろう。それが正しいことなのかもしれないけれど、私はあえてそれぞれが勝手に過ごすのも一案だと思っている。

お互いに干渉することなく、狭い家の中に揃っていても、あえて距離を持って生活する。

子供が幼かったりする人は無理だろうけれど、せめて夫婦の間では勝手に過ごしましょう!でいいのではないだろうか。

各々が自分なりの息抜きをし、癒されながら穏やかな気持ちでいれば、それもまた伝染するのだ。

ハッピーが伝染すれば、免疫力もアップして、厄介な新型コロナを遠去ける一助となるかもしれない。

そう願いたい。。。