この週末も東京では先週に引き続き、ゆるく自粛要請がでていたので、当たり前のようにおこもり続行中。
#Stay at home and stay safe
Twitterなどでは、そんなハッシュタグ付きのワードを見かけたりもするので、多くの人が自粛生活をしているのだろう。
普段はあまりTVは観ないのだけれど、おこもり生活をするようになってから新型コロナ関連の番組は観るようになった。
毎日同じような内容ばかりで、別に観なくても差し支えはないのだろうけれど、1日の感染者数や街の様子などを知るだけで、それはそれで全く役に立たないわけでもない。
今後、どう行動すべきか想像する上での一つの小さな材料にはなりそうだ。
多くの人が自粛している中でも、遊びに出かけている人も当然のことながらいる。想像力の欠如か情報弱者かわからないけれど、いつの世もそんな輩はいるものだ。
それでも自分が引きこもっているのなら、そんな無自覚な人間と触れ合うこともない。
ただ、そうした行為は感染を増幅させることにはなるだろうし、そのせいで社会が機能しなくなることもある。それはかなり問題だけれど、強制力があるわけでもないからどうしょうもない。
せめて、自分の力の及ぶ範囲で、自粛を促すくらいのことしかできないだろう。
家にいることの方が罪に思えるほどの季節に、こんな生活がいつまで続くのかしら。。。と、ちょっと気持ちの方が暗くなってくることもあるけれど、私は子供達にも完全引きこもり令を出している。
夫に関しては仕事へ行く以外は、まっすぐ帰宅するように言っている。
自分達ばかりが自粛したところで仕方がないなどと言っている人もいるけれど、結局のところ、一人一人の意識の問題なのだ。その意識の結集が感染拡大を抑止する大きな力になると私は思っている。
さりとて、何日も何日も一歩も外に出ないでいるのは、さすがに閉塞感を覚えてくる。
そんなときは、運動がてら、早朝まだ人のいない時間に近所をぶらりと歩いたりする。
夫は逆に夜遅く誰もいない公園などで運動したりしている。
そんな風にちょっとばかり息抜きをしながら、家で楽しめることをする。
私が最近よくするのは、ベランダに出て鉢植えの花を眺めることだ。
水を与えお日様の光と暖かさに、面白いように応えてくれる植物を見ることは、思った以上に大きな癒しとなっている。
ガーデニングなどというのは、田舎に住む主婦の趣味にしかならないなどと長いこと思っていたのだけれど、私も歳をとったのだろうか、ベランダに大きな鉢植えを並べて花を咲かせることが楽しくて仕方ない。
種を植え、それが芽を出し、成長していく。それを見て「おお!すごい育っている!」と感動する。
次の段階では、新芽の間から花の蕾が顔を出す。
「うわ!蕾ができた!」
我が子の成長を見るよりも即効性があり、変化を見ることが楽しくなってくる。
寒いとその蕾はかたく閉じたままなのだけれど、暖かい日が続くとやがて蕾が開き、綺麗な花を咲かせる。
ここでまた「おお!花が咲いたぞ!」と歓喜する。
しかし、そこで終わりではない。まさに今の時期、冬の寒さが去り春になると、次から次へと新しい蕾が生まれ、ものすごいスピードで花を咲かせていく、そして気づくと鉢植えが小さなお花畑のようになる。
そうなると、今度はその花の色を考えながら、鉢植えの中でのデザイン性などにもこだわりが出てくる。
ここは白とオレンジ、ここはピンクと黄色。。。色々な色を組み合わせたくて、植え替えなんてことまでしてしまう。
それが鉢植えの中だけに留まらず、最終段階ではベランダの中で、どこにどんな鉢植えをレイアウトしたらいいかなどと、猫の額のようなベランダが乱痴気騒ぎのような状態になるまでいじりまくる。
もう自粛で退屈だなどと言っている暇はない。
これは命の息吹を日々感じられることと、自分でクリエイトしていく楽しさ、その両方を味わうことが出来る。
昨今では多肉植物などが人気のようだけれど、私はやはりそのシーズンだけパッと花を咲かせ、やがては消えていく一年草の方が育てがいを感じる。
その花の季節が終わったら、また次は違う花を植えるのだ。
こうして、最近は朝起きてベランダにしゃがみ込み、花を眺めている。
若い人にはまだまだ必要がないのかもしれない。わざわざ花の成長など見なくても、日々自身の成長を感じながら生きていくことができるから。
しかし、50も過ぎれば成長よりも枯れていく速度の方がダントツに早い。
そんなメランコリックな気持ちを追いやるには、枯れていく自分を忘れさせてくれるほどのスピードで、「生きている」ということを見せつけてくれるものが必要だ。
とりわけ花は美しく、気持ちも明るくしてくれる。もしかしたら、野菜なんかを育てるのもいいかもしれない。
毎朝鈴なりに成るチェリートマトなんかを採取して、朝ごはんのサラダに加えたりしたら、楽しいんじゃないかなどと想像する。
まだガーデニングといえるほどハマっているわけでないから、家庭菜園など手を出す気はないけれど、想像するだけなら面倒はない。
料理もよい気晴らしになる。主婦にとっては自粛だなんだの関係なく、普段から当たり前のようにしていることだけれど、料理することを義務とせずに趣味のように考えてすると、また違ったものになる。
学校が休校となり、日々子供の食事の支度に疲れ切っているなどという声が上がるけれど、どうせ作らねばならないのなら、自分が「これが食べたい!」と思うもの、「美味しい!」と嬉しくなるようなものを作りたい。
よほど料理が嫌いで苦痛だという人は、もう仕方がないけれど、食べることが好きな人ならば、ちょっと気持ちを切り替えれば、料理も案外楽しいものだ。
普段作らないような、何時間もかかる煮込み料理を作ってみたり、本来ならお店で買ってくるような面倒なものを手作りしてみたり、レシピ本を参考に新しいメニューを作るのも楽しい。
「とりあえず何か食べさせなくちゃ」と作るのではなく、まるでセブンイレブンの新メニュー開発チームの一員にでもなったような気分でキッチンに立つのだ。
食欲も満たされ、なおかつ時間を有効活用できているという満足感が得られる。
最後にもう一つ、ブログや日記を書くのもおすすめだ。
未曾有の事態をどう過ごしたか、たいして役に立ちそうなことでなくても、その時にしていたこと、どんな気持ちでいたかなどを記しておけば、暇な老人になったときに読み返す楽しみができる。
そして、その「書く」ということが習慣となり、ブログなんかを趣味にできれば、朝から買い占めのためにドラッグストアに並ぶような老人になることもないだろう。
特に「自粛生活で鬱になりそう。。。」なんて言っている人は書くべきだ。
書くことは自分の気持ちを反芻し、整理することに役立つ。人は誰でも自分に興味があるものだ。自分の中にある感情を客観視するのはなかなか面白いことだし、少しは冷静になることができる。
また「書く」ということは、なによりの癒しになる。これをどう説明していいのか難しいのだけれど、一度自分で何かしら書いてみればわかるだろう。
別に上手に書く必要はない。プロのライターというわけではないのだ。
悪態をつかせていただけば、今はネット上に自称ライターが溢れ、およそプロフェッショナルとは思えないような稚拙な文章を平気で晒している。
そんな中で個人のブログでどんな文章を公開しようが、誰も文句は言わないはずだ。
結局のところ、自分はいま確かに生きているという実感を、目に見える形で作り出すことが大切なのだ。
人間というのは、何もできない無力さに打ちのめされる。だからこそ行動するべきなのだ。たとえ歯が立たないと分かっていても、自分が何かしら行動しているという事実は大きな励みにもなるし、わずかな望みによって苦しさを緩和してくれるものだ。
自分は何もできることがない。そう思うのなら、書けばいい。自己満足でも書くのだ。
三日坊主でもいいではないかと思う。私は一度自分が始めたことは、決して投げ出したくはないと思う方だけれど、最近はそれもどうなのかと思うようになった。
自分で勝手に足枷をはめて、縛りつける必要はない。
ブログを始めてみたけれど、結局は半年も続きませんでした。。。
それでもいいのだ。続かなかったということは、楽しめなかった、自分には合わなかったということだ。そんなことを無理に続けていても仕方ない。それならば、スパッとやめてしまって、また新しいことに目を向ければいい。
何事もやってみて初めてわかるということがある。
ただ、この退屈な自粛生活の中で、モヤモヤ、悶々としているならば、公開ブログでもプライベートな日記でも、何かしら書いてみることをお勧めしたい。
今は、一人一人が自分にとって息抜きとなるようなことや、癒しとなることを見つけるのが大切だ。
感情もまた感染するものだという。
家庭の中においても、誰かがささくれだった気持ちでいれば、それは感染して家庭全体がどんよりとしてくる。
こんな時こそ家族を思いやって、助け合って!
そんな声もあるだろう。それが正しいことなのかもしれないけれど、私はあえてそれぞれが勝手に過ごすのも一案だと思っている。
お互いに干渉することなく、狭い家の中に揃っていても、あえて距離を持って生活する。
子供が幼かったりする人は無理だろうけれど、せめて夫婦の間では勝手に過ごしましょう!でいいのではないだろうか。
各々が自分なりの息抜きをし、癒されながら穏やかな気持ちでいれば、それもまた伝染するのだ。
ハッピーが伝染すれば、免疫力もアップして、厄介な新型コロナを遠去ける一助となるかもしれない。
そう願いたい。。。