In other words

I really don't know life at all ...

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若い頃、懸命に勉強した英語が夫婦喧嘩でしか通用しなくなった現実と英語なんて話せなくてもいいという結論。


30年以上前に使用していた辞書。もう開くことはないかもしれない。


東京に緊急事態宣言が出てから、外出自粛要請に応えるべく、我が家の面々も大人しくそれに従っている。普段はいつも通り仕事へ行く夫も週末は在宅しているので、ここ2ヶ月ばかりは家族全員が顔を揃えなんともにぎやかだ。

週末はもちろん、平日の夜でも社交生活忙しく、どこぞへふらふらがお決まりの夫と長女が家にいるので、なんだか変な感じがする。
特に夫が長いこと在宅していると、家の中の雰囲気が微妙に変わる。

夫がいても特に都合の悪いことはないのだけれど、どうも調子が狂うのだ。これはなんなのだろう?と考えると、思い当たるのが言語の問題ではないかと思い当たった。
我が家の公用語が日本語から英語に変わるからだ。

夫も日本語を話すことができるけれど、やはり同じ日本人のようにはいかない。少し難しい単語を使えば、「は?」となり、それに対しての説明をしなければならず、子供達はそれを面倒くさがり、最初から英語で話すようにしているらしい。

ここで不利になるのが私だ。
英語が話せるとはいえ、かれこれ30年以上も前に学んだ言語だ。
夫が日本語を理解するようになってからは、ほとんど使わなくなった。

どんなことにも言えることだけれど、使わないものは錆びつく。錆びると思うように動かず、役に立たなくなる。

それでも、外国人の夫と長年連れ添ってきたことで、まったく英語と無縁で暮らしてきたわけではない。

まったく英語を話せない人からすれば、私程度の英語でも「話せる人」となるようだ。
しかし、それで安心してはいられない。家での扱いはといえば、それはそれは酷いものだからだ。





子供達が時折、「おもしろいよ」とYouTube動画などを観せてくることがあるのだけれど、最近ではネイティブのまくし立てるような英語が完全に聴き取れなくなってきている。とりわけアメリカンなアクセントは苦手だし、若者の使うスラングなどが頻繁に出てくると、もうお手上げ。。。

家族で食卓を囲んでいる時、夫と子供達との会話が理解できないなんて時もある。
子供達が幼い頃は問題なかったものが、さすがに大学生と高校生ともなると、大人と同じようなボキャブラリーを有している。

私はそれに気づかずに過ごしてきたようだ。少しずつ少しずつ変わってきたせいで、その変化に気づいたときは、語学力の力関係がいつの間にか逆転していたのだった。。。

発音に関しては、最初から諦めている。産まれた時から、いやお腹にいる時から英語に触れていた子供達と、二十歳を過ぎてから本格的に勉強を始めた人間とでは、そもそもスタート地点は違う。

その辺を差し置いても、もはや自分の英語が錆びつき、なんの役にも立たないようなものに成り下がってしまったと思わされる。

極めつけは海外に点在する夫のファミリー達とのSkype
アメリカやヨーロッパをはじめ、多くに国がロックダウンという状態だったため、暇を持てあましてか、とにかく入れ替わり立ち替わりファミリーがSkypeをしてくる。

夫だけが相手をしていればいいものを、そんな時は必ず家族参加なのだ。
そこで私の錆び付いた英語力が曝け出されることになる。

ゲラゲラと笑いながら、早口で話されると時折ついていけないことがある。
しかし、夫はもちろん子供達は当然のように一緒にゲラゲラと笑っている。
これはヒヤリングの問題だけでなく、ボキャブラリーも関係しているようだ。
スラングはもとより、idiom(イディオム)といわれる2つ以上の単語を組み合わせた熟語、慣用語句に関しても、苦心している。このidiomは単語を組み合われることで、本来の意味とは全く想像のつかないものに変わるため、とにかくそのまま覚えるしかない。
つまり、きちんとお勉強しなければそのボキャブラリーは増えないのだ。

何十年も取り立てて勉強をしていなかった私は、新しい語彙を得ることもなく、更には昔覚えたものまで忘れてしまっているというお粗末さ。。。





「昔はこうじゃなかったのに」

そう悲観する私に同情をしてくれる家族はいない。

「そう思うなら、この自粛の時こそ、勉強しなおしたらいいじゃないか」

夫はそう言う。

「それもそうね」と思う反面、「なんのために?」とも思う。

今更50を過ぎたおばさんが英語を勉強してなんになるの?
これから英語を使って仕事をしようとか、必要に迫られてならわかるけれど、もう働く気もない。

将来、海外で生活する可能性もゼロではないけれど、普通に生活したりするくらいなら困らない程度の英語力はキープしているつもりだ。
第一、実際に海外で暮らすことになれば、必然的に英語力は戻ってくるだろうから、問題なしだ。

「今更、真面目に英語なんて勉強してどうなるのさ!」

そう言う私を夫は嘲笑う。

「そもそも、自分だけが英語力が低いと言い出したのはそっちだろ?」

「嘆いてなんかいないわよ!そもそもって言うなら、そもそもここは日本なのよ!なんで英語なんか喋らなきゃいけないのよ⁉︎」

「英語を話せて損はないよ」

「損はしなくても、普通の日本人家庭なら得することもないわよ!」

などと、いつ間にか口論に発展するだ。

こんな時、女の方が強い。
何故だかわからないけれど、こんな時は錆び切っていた英語にまるでCRE550でも差したんじゃないか?というくらいに、淀みなく言葉が口から溢れ出す。

そういえば昔からそうだった。
夫との喧嘩のみならず、海外生活で理不尽な目に遭ったときなど、いつもそうだった。

怒りが私の言語を司る脳の一部を激しく刺激しているのだろうか?
意識せずとも言葉が次から次へと出てくるのだ。
なんとも、不思議な現象。。。

夫や子供達も「なんでこういう時だけ流暢になっちゃうわけ?」と、まるでおかしい人を見るような目でみる。。。

しかし、よくよく考えてみれば、口論で使用する言葉など限られている。いわば使い慣れた言葉をリピートしているだけ。鸚鵡のようなものだ。

この先、きっと英語が必要な場面は、夫婦喧嘩か海外旅行の時に嫌な目に遭わないため、それくらいしかないだろう。

鸚鵡でいられれば十分ではないか!
鳴かない鳥にさえならなければ、なんとなくどこでも生きていける。

人生は真面目に考えなければいけないけれど、複雑に考える必要はない。
どんな失敗をしたって、命まで取られるようなことは稀だ。

色々と思うことはあるけれど、なんとかなるよね。。。と、シンプルでいることが幸せに近づくことなんじゃないかと思う。

英語が話せなくなったところで、それは本当に些細なことなのだ。




「マスクありますよ」と声かけされた夜のスーパー。モノがモノを呼ぶ「類は友を呼ぶ」現象と物を大切にするということ。


小さなアベノマスク。大切にいたします。


数日前、夜のウォーキングついでにスーパーへ行った。時間は9時を過ぎていて、店内には買い物をするカップルが3組ほどいるだけで、とても静かだった。

あまり外には出ないので、どんな状況がわからなかったけれど、夜は案外狙い目なのかもと思った。

翌日の営業に備えてか、生鮮食品以外の物はちょうど品出しをしている時間だったのか、いつもは切れている商品も沢山並んでいた。

それでも最近品切れが騒がれている小麦粉は一つもなくて、「本当にないんだな」と少し驚いた。

それにしても何故に小麦粉か?

どうやら長引く自粛にお家でベーキングする人が増えているせいらしい。

確かに小麦粉を練り練りするのは楽しい。小さな子供なら粘土遊びのようで、親子で楽しめるだろう。

小麦粉だけでなくドライイースといったものまで不足しているので、お菓子作りのみならずパン作りをする人も増えているだろう。

普段から小麦粉いじりが大好きで、パンを焼いたり、クッキーやケーキを作ったりもする家庭なので、これらの品物は我が家にはなくてはならないものだ。
本来ならこの状況に焦りを覚えるところだけれど、幸いにして緊急事態宣言が発令されるずっと前に、ある程度の買い置きをしておいた。

あれは、そろそろ自粛が始まろうかというころだったか、我が家では恒例の「山を張る」ということをした。

なにか「普通ではない事態」という空気が漂うと、決まって今後何が不足するか「山を張る」のだ。

「山を張る」とは、リスクのある賭けをする。
山は鉱山のことであり、どの山に金鉱が隠れているかを予想して、そこに投資するという山師の所業だ。

それはただ感に頼っての予想ではない。山の周りで起こっていることなど、その周辺の様子を探りながら張る対象を選ばねばならない。

食材や雑貨を備蓄することは、本来の意味のように大きなリスクがあるわけではないけれど、外れれば相応の備蓄を抱えることになるから、我が家ではあえて「山を張る」などという言い方をしている。

今回の新型コロナでは張った山がことごとく的中した。
水やトイレットペーパーなどは普段から十分に備蓄しているものだけれど、マスクや小麦粉は備蓄してあると言っても消耗品だ。ある程度の量を確保していても、使用してしまえば確実になくなっていく。

中国武漢がコロナでワサワサし始めた頃「次は日本か?」と当然思った。
チャイニーズニューイヤーを前に、国内へのコロナ流入は予想できたことで、これはちょっと大変なことになるかもねと、夫と話していた。

武漢でマスクだらけの様子を見て、まずマスクを買った。私は季節に関係なく日常的にマスクを使用しているので、なくなっては困ると思ったのだ。
その頃は50枚入り¥500程度の品が山積みされていた頃だったので、数箱買っておいた。

その次に買ったものの一つが小麦粉だった。自粛生活中のお菓子作りが目的ではない。
地震などの災害時も視野に入れてのことで、いよいよ食べるものがなくなったら、自分でパンを焼いたりピザやうどんなど、小麦粉さえあればなんでも作れると思ったからだ。

さすがに小麦粉の品切れがここまで来るとは予想もしなかったし、我が家の子供達までがまさかのお菓子作りフィーバーするとは想定外だった。
今となってはもっと買っておけばよかったという結論になったのだけれど、スーパーの棚はすっからかんだ。

「まぁ、仕方ない。小麦粉がなくなっても生きていけるし」と、執着することなく小麦粉のことは忘れることにした。

しかし、買い物へ行ったついでに寄ったコンビニにたまたま小麦粉が大量に並んでいたのを見つけたのだ。どこのスーパーにもないのに、偶然にもあったという運のよいお話だ。
毎日どんどん減っていく小麦粉に危機感があったため、この時は一つだけ買ってかえった。

これはとても運がよかった。しかしコロナに関する品不足に関して運がいいのは小麦粉だけでない。マスクに関しても同じく運があるようだ。





件のスーパーへ行ったときのこと。
タイミングなのだろうけれど、そこに普段はないトイレットペーパーやマスクが適正価格で普通に並んでいた。

どちらの品物も我が家には十分な備蓄があるので、野菜や肉など生鮮食品だけを持ってレジへ行った。

夜にもかかわらずとても元気な店員さんが、「マスクは大丈夫ですか?今ならありますよ。消耗品なのでもし必要ならどうぞ」
そうご親切に声をかけていただいた。

とてもありがたいことだったけれど、我が家にはまだまだたくさんあるのでご遠慮させていただいた。

さて、こんな声かけをされたのは、これが初めてではない。これまで過去に3回、ドラッグストアやコンビニでも「今ならありますよ!」と声をかけて頂いたことがある。
声かけをされる前に、マスクが販売されているところに遭遇したことも何度かあった。
しかも、どれも7枚で¥260程度の良心的なお値段のものだった。

今は少し普及しているようなのでそんなこともあるだろうけれど、マスク争奪戦が激しかった3月、4月頃の話だから、マスクは遭遇率はかなり高かったと言えよう。

ニュースでは連日開店前からドラッグストアに行列ができているとかなり騒がれていたので、なんだか皮肉なものだなと思った。

雨の日に早朝から並ぶほどマスクを必要としている人の元にはなかなか来ないのに、私のように備蓄があり買う必要のない人間は、求めずとも出会えるという不思議。

ここで思い出したのが、以前富豪の友人が言っていた言葉だ。

「お金はね、お金が大好きなの。だから、よりお友達の沢山いるところに集まるのよ。類は友を呼ぶと同じに」

「確かに、そうかもしれない。だからあなたはところは、いつも有り余るほどあるのね〜」

などとふざけて言っていたものだけれど、これはお金だけに当てはまることではないのかもしれない。

どんな「物」でも、お友達と集いたいといった同質のものを引き寄せる原理といったものがあるのではないだろうか。

自分が好きにならなければ、相手も好きになってはくれないとも言える。
誰だって自分のことが好きで必要としてくれる人に心が傾いていくものだ。

それは人だけでなく「物」にも言えることなのかもしれない。
マスクも小麦粉も私にとってはなくてはならない物で、普段から頼りにしていたり、楽しませてもらったり、常にそばにあって欲しいものなのだ。

だからこそ、出会う運が巡ってくるのかもしれない。
もしも「物」に心があるのだとしたら、お友達がたくさんいて、それを大切に思ってくれる人のもとへ行きたいと願っているのだろう。

昔から「ものは大切に」と言われ育った。それにはこんな意味もあったのかと、なんとなく思った。。。




病院の様子。これまであったものがなくなり、なかったものがあった。

今朝、TVでニュース番組を観ていたら、お世話になっている主治医の先生がチラリとでていた。
つい先日会ったばかりだったので、その時とのギャップにとても驚いた。

ゴールデンウィークに突入する直前、定期的に受診している病院へ行ってきた。
新型コロナウィルスの感染も心配される最中、さすがに病院へ行くことは躊躇われたけれど、病気はコロナだけではない。

ただ、持病はあっても、それに苦しんでいるという状態でもない。これは不要不急に当たるのか?
少しだけ迷った。

以前、東日本大震災の後、予定していた手術が延期されたことがあった。その時は主治医から電話をいただき、人手不足により延期してもらえないかとの相談があったから、もしかしたら今回も連絡があるかもしれないと思っていた。
しかし、病院からの連絡はなかった。

定期的に通っている病院で、もう何ヶ月も前から検査の予約が入っていた。その検査の結果次第では治療の方針が変わったり、薬を飲んだりしなければならないので、やはり行った方がいいのだろうか。

寸前まで迷いながら、結局はいくことにしたのだった。

いつも大勢の人でザワザワとしているロビーは人影もまばらで閑散とした雰囲気だった。

いつものように受付の機械に診察券を通すと、呼び出し機がでてきた。本来ならこの呼び出し機をホルダーに入れるのだけれど、今回はホルダーが撤去されていた。
確かに消毒するのも大変な作業だから、なくていいものは省いてしまおうということなのだろう。

他にも受診票のようなものを収めるファイルもなかった。ウィルスの付着するチャンスを最小限に留めようとする工夫が見られた。

いつもあるものがなくなった一方で、これまでなかったものが登場していた。

まずは検温。それぞれのエリアへ入る手前でおでこにピッとかざして検温してもらう。
徒歩で病院へ行ったものだから、ちょっと暑かった。体温が上がっているかも?と、言っておいたので、結果を見て「低っ!」と看護師さんが笑った。
36度にも程遠い、相変わらず低い体温。

そのまま検査へ。いつもは少し待たされるのだけれど、この日はすぐに名前を呼ばれた。
本当に必要な人以外は検査の予約を入れないという。
私はコロナ流行以前の予約で、定期的に行われている検査なので省かれなかったらしい。

もう一つ、これまでなかったものを目にした。マスクの自販機だ。
お値段は¥100。確認できなかったのだけれど、多分1枚の値段だと思う。予想通り「売り切れ」の表示が出ていた。





待合室はいつもの3分の1くらいの人しかいなかった。みんなベンチに適度の距離を空けて座っても余裕があった。これまではなかったことだ。
どこの総合病院もそうだろうけれど、いつも座る場所を確保するのさえ大変なほどの混雑なのだ。

検査の結果は良好だった。これまでで一番よくて、先生もご機嫌そうだ。

「とくに変わったことした?」

そう尋ねられたので、何も特別なことはしていない。ただ、自粛で引きこもっているだけと答えた。

「あなたはいつも忙しく動いてばかりいるから、静養したことでよくなったのかもね」

そう言って気楽そうに笑っていた。

あの、のんびり笑っていた先生と、今朝TVで観た先生はまるで別人みたいだった。
新型コロナという未知のウィルスを前に、医療現場の最前線に立っている医師の姿は、これまで見てきた気のいい優しいおじさんの姿ではなかった。

そんな切羽詰まった状況でさえ、私たち患者の前では、いつも通りの笑顔で安心感を与えてくれる。

医者という仕事は、半端な気持ちではできないのだろう。確固とした志がなければできない仕事だろう。ずっとそう思っていたけれど、今回は改めてそう感じた。

先生だけでなく、看護師さんをはじめ受付の方など、いつもよりも笑顔が多かったのが意外だった。

こんな時だから、余計に患者である私たちに不安を与えないためか、医療従事者としての士気を上げるためか。
いずれにしても、そこで見た笑顔には心を明るくさせてもらった。

少し距離をとりながらも、「お気をつけて」と、お互いに笑顔で交わし合う一言に、どれだけ救われた気持ちになるか。
こんな時だからこそ身に染みた。






家に帰ると、ポストの中にマスクが入っていた。

あの「アベノマスク」だ。
私と入れ違いに到着したらしい。

その小さなマスクはどれだけの人を救えるのだろうか。どれだけの医療従事者の役に立てるのだろうか。

色々と思うところはあるけれど、貴重なマスクだ。4人家族の家庭にたった2枚しか届かない数量限定品。

まだまだコロナの脅威は続くだろう。いよいよ手持ちのマスクがなくなった。。。という時のために、大切にとっておこう。

どんなに小さな給食当番が使うようなマスクだって、ないよりはずっといい。

今はただ自分が、家族が、感染者とならないよう、徹底して自粛をすることが、自分のため、そして社会のためになると信じている。

緊急事態宣言も1ヶ月の延長が決定した。
それでも世の中には自粛したくてもできない人が沢山いる。病院で働く人達、それ以外にも仕事をしなければいけない人は少なくない。

私にできることは、家にこもり、感染者の一人にならないことだと思っている。