In other words

I really don't know life at all ...

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ポリ袋ハンター。高級スーパーで見た、無料ポリ袋を大量に持ち帰る主婦。

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レジ袋が有料化となり、すでに3ヶ月近く。エコバッグ等持参は浸透している割に、多くの人が順応仕切れないといった空気もあり、いまだ様々な問題点が指摘されたりしている。

私もエコバッグを使用するのはいいとして、どうもレジで支払いをし、お釣りをもらうのと同時進行で品物を詰めることに慣れず、少なからずストレスを感じたりもしている。

そういったことも含め、あらゆる問題が明るみに出ているレジ袋有料化。
最近話題になっているのが、スーパーでの無料ポリ袋の持ち帰り問題だ。

スーパーのサッカー台などに備え付けてある、あのロール状になったポリ袋を必要以上に持ち帰る人が、以前に比べて格段に増えているという。

そして、そんな人達のことを、「ポリ袋ハンター」と呼ぶらしい。

レジ袋と無料ポリ袋。。。

この2つの袋は同じ役割を担ってきたわけではない。それなのに、何故レジ袋が有料化されたらポリ袋の大量持ち去りが発生するのだろう?

アメリカがくしゃみをすれば、日本が風邪をひく」原理と同じようなものか?

レジ袋がくしゃみをすれば、ポリ袋が風邪をひく。。。

いや、それよりももっとかけ離れているような関係に思えるのだけど。。。よくわからなくなってきた。





ともかく、私は主婦なので近隣にある幾つかのスーパーには、週に何度も足を運んでいる。しかし、これまで「ポリ袋ハンター」と呼ばれるような人を見たことがなかった。
その話題を知ったときには、本当にそんな人いるの?と、にわかに信じられなかったくらいだ。

もしかしたら、私が周りに注意を払っていないせいで、見えていなかっただけとも言えるけれど。。。

それが、先日とうとうそんな人がいることを、しかとこの目で確認してしまった。
しかも目の前で!

そのスーパーは近隣にあるマンションなど、かなりの富裕層が暮らしているため、買い物に訪れる人もそれなりの身なりをしている人が多い。
また、都心のため近くの商業施設を訪れた人なんかが、お買い物というよりはぶらぶらと商品を見て回っていることも多い。

私など、ぶらりと部屋着のまま行ったりして、ちょっと浮いてしまうこともあるほどだ。

そんなスーパーでポリ袋ハンターが出没したのだから驚いた。

目の前のその女性、ざっと想像するに40代前半。くるぶしまであるグレーのマキシ丈ワンピースを着て、売り出した途端に売り切れるという、某舶来ショップのエコバッグを持っていた、「ちょっとお洒落には気を遣ってますの」といった感じのおそらくは主婦。

そう言えば、なんとなくどんな感じの女性か想像がつくだろう。

その女性はカゴの中にある買い物をした商品を、レアもののエコバッグに詰め終わると、おもむろにポリ袋ロールに手を伸ばし、ガラガラ、ガラガラ、ガラガラと、おそらく3メートル近くは巻とっただろうか。それを手でグチャっとまとめると、例のエコバッグにグイッと押し込み、そのまま涼しい顔で去っていった。

その一部始終を手を止めたまま、目の前で凝視している私のことなど、まったく目に入っていないかのように、それはそれは鮮やかな手つきで一連の作業をやってのけたのだ。

あの慣れた手つき。おそらくはいつもやっていることなのだろう。

それにしても、あのような大量のポリ袋を一体何に使うのだろうか?

ポリ袋と言えば、料理に衣をつけたり、タレを揉み込み寝かせる時などにも使える。小さな子供のいるご家庭なら使用済みオムツを捨てる際にも必要だ。

しかし、あのスーパーの無料ポリ袋は、それらには適していない。あの、いつ破れてもおかしくないような薄いポリ袋など、買い物の際の一時的な汁漏れや臭い漏れ防止以外には役立つとは思えない。

機能性を考えれば、¥100 SHOPなどでもっと丈夫で使い勝手の良いポリ袋が安価で簡単に手に入る。

にもかかわらず、人目もははからずにガラガラやるのは、やはりどうしてもそれが欲しいということなのだろうか?

まったく解せない。。。





例えば、経済的な問題で余計なものには鐚一文出せない。タダでもらえるものなら、たとえペラペラのポリ袋であっても、背に腹は変えられない。
そんな理由なら、わからなくもない。
私でも、ポリ袋に¥100 も遣えないと思えば、ガラガラやるかもしれない。

いや。。。

私にはできない。。。

たとえどんなに経済が困窮しようとも無理だろう。

変なところで見栄っ張り、プライドが顔を出す。

まさに「ボロは着てても心は錦」

若い頃、今は亡き父によく言われていたことだ。
それは決して褒め言葉ではなく、つまらないことにこだわり、プライドを捨てられない私を揶揄したものだった。

そんな気質は今も変わらない。
時折街で行われる商品や食べ物の無料配布なども、決してその列に加わることができないのだ。
「ちょっと欲しい。。。」
内心ではそう思っていても、絶対に手を出す事ができない。

我ながら損な性分である。

そんな風だから、そこそこの身なりの女性が、高級スーパーで、ガラガラと無料ポリ袋を持ち去る姿を見ると、不思議になるのだ。

その身なりや買い物カゴの中身を見れば、経済的には割と豊かに暮らしているのがわかる。
霜降りの肉は買えても、ポリ袋は買いたくない?

そのメンタリティーとはいかがなものなのか?

そこが解せないところだ。

私のようになんの役にも立たないプライドや見栄で損をするのも馬鹿みたいだけれど、その女性のように節操なくスーパーのポリ袋を持ち去るのも、あまり素敵なこととは言えない。

何事も常識の範囲でというのが大切なのだと、ときに常識外れる私でも思うのだった。。。

組閣に思う。70歳はまだ若いのか?若さとステーキの関係。

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政治の話はしないのが信条なので、これは政治ではなく年齢とお肉のお話です。

安倍晋三元総理が辞任し、菅新総裁が誕生した。同時に注目を集めたのが、組閣の顔ぶれだろう。

見覚えのある初老男性が並んでいる図は想定内といえるのだけれど、自民党新四役の平均年齢が70歳を超えているというのは、さすがに「へっ?」となった。

70歳といえば、普通の感覚で言えば、現役を引退。たとえ仕事を続けていたとしても、大企業のお偉いさんでもない限りは、パートタイマー程度の扱いだ。

70年以上も経てば、時代も変わる。当然社会のあり方、常識も変化する。
50代の私でさえも、昭和の感覚を拭きれず、やるせない気持ちになることが度々あるくらいだ。

70歳以上ともなれば、さらに景色は違ったものになるだろう。

なによりも、人間としてのフィジカル、メンタル面での老いは問題だ。普通で考えれば、年齢に比例して、すこぶる性能が悪くなるものだ。

私など、50を超えてからは、肉体の衰えはもちろん、メンタルの衰えすら否めない。





若い頃と比較すると、体力は低下、老眼や五十肩など、あらゆるところにガタがくる。加えて頭の方も理解力、情報処理能力など、自分でも呆れるほど衰えている。

しかし政治の世界では違うようだ。

国を動かすであろう重責を担った人たちが、衰えているとあっては、危なくて仕方ない。

もしかしたら、政治家という人種は、我々一般市民とは違った資質を持っているではないかとさえ思う。

昔、知人である政治記者から聞いた話に、安倍元総理の祖父であり、第56、57代内閣総理大臣を務めた岸信介氏などは、お年を召してからも、朝からステーキをもりもりと食べるほど、お元気だったという。

私など、そんなことを連日していたら、途端に胃が荒れて苦しむことになる。

そのとき、政治家とは頑強な肉体と精神という、特別な資質が必要なのではないかと思ったものだ。

この新四役の方々も同じなのだろうか。
四人揃ってカメラの前に立ち、内心の喜びを隠せないのか、ほくそ笑む姿を見ていると、きっと朝食はステーキに違いない!などと思ってしまう。

70歳はもうお爺ちゃん、お婆ちゃんと呼ばれる年齢であると思っていたけれど、この新四役を見ていると、ひょっとして「人生まだこれから!」などと希望を持ってもいいような気になる。

あの麻生さんだって、もう80代。にも関わらず、世間をたびたび炎上させるくらいにお元気なのだ。

時折報道される会合というお食事会では、フレンチのフルコースなどもいただいているようだ。ステーキに負けず劣らず胃腸にガツンとくるフレンチを年がら年中食べている70代、80代。。。

恐るべし。。。





食が生の源であると考えるなら、ステーキだフレンチだと、そんなものを常食としていることが、元気でいられる一因とも考えられる。

そういえば、数年前に南青山のバーで偶然出会った某企業の社長さんが、「肉を食べろ!」と言っていた。

活力をもっていい仕事をバリバリしたければ、野菜や魚ではダメだ!肉だ!

そんなことを言っていたものだ。

実際にその社長さんは、70歳を過ぎていたけれど、現役バリバリの仕事人であった。

やはりステーキ(肉)は老人に活力を与えるものなのかもしれない。。。

私も「もう50過ぎたし〜」などと弱気発言を繰り返していないで、嘘でも「朝からもりもりステーキ食べてます!」くらいのことを言った方がいいのかもしれない。。。

100まで生きるつもりなら、人生まだ半ば。あと50年近くあるとなれば、弱気になどなってはいられない。

あの新四役の方々のように、我が意を得たりとばかりに、ほくそ笑むくらいになりたいと思う。

よし、明日はステーキだ!

「頑張って」という言葉を安易に口にできない社会を生きる息苦しさ。

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「頑張って」という言葉、わりと気軽に意味なく口にしてしまう言葉で、自分でも言ったこと、言われたこと、それこそ何百万回ある⁉︎というほど、もはや挨拶のような言葉になっている。

「これからご飯の支度しなくちゃ」

「あら、頑張って」

「これから暑い中、子供達のお迎えよ」

「大変ね。頑張って」

「あー、明日からまた仕事だわ」

「頑張ってね」

例をあげたらきりがない。

たいして意味のない愚痴やボヤキに対し、どう答えていいかわからない時、私たちはなんとなく「頑張って」という言葉を投げかけたりする。

心から「頑張れ」と思うこともあるけれど、ほとんどの場合はあまり考えずに、軽く「頑張って」を使う。
まさに「励ましもどき」の乱用だ。

ただ、私はこの言葉を言われることが好きだ。

頑張ってね!

頑張れ!

そう挨拶のように軽く言われる言葉さえ、清々しく感じる。

もっと深刻な場面で、使われる「頑張って」に至っては、援軍得たりとばかりに「よーし!」とやる気が出てくる。

以前、生死に関わる病に罹患し手術することになった際、友人達が決起集会を開いてくれた。

彼女達が何度も口にする「頑張って!」に、どれだけ心強くしたことだろう。
「頑張って」という言葉そのものが、まるで呪文のように、私の生命力というもの増大させていくように思えた。

「頑張って」という一言は、私にとっては、力強くも清々しい、ポジティブワードなのだ。





しかし、昨今ではこの「頑張れ」は、あまり歓迎されていないともいう。

「頑張れ」とは言わないで欲しいという人も多くいるそうだ。

自分がポジティブワードだと思っていたことが、実は人によってはNGワードになり得るということもあるのだ。

言って欲しくない理由が、

「こんなに頑張っているのに、これ以上頑張らないといけないの?」

「これ以上、どう頑張れというの?」

そんな気持ちにさせられるからだという。

言われて不快に思う人は、ほとんどが全力で頑張っている人だろう。
そんなギリギリの叫びが、「頑張って」という言葉の意味を変異させているのかもしれない。

頑張っても、頑張っても、どうにもならない事態を悲観しているときに、「頑張って」とお気楽に声をかけられればカチンともくるだろう。

また、「頑張って」という言葉は、高みの見物を思わせるところもある。

大変な状況の中、共に戦うのではなく、「それはあなたの問題だから、頑張って」と、トンと突き放すように背中を押されているととらえられないこともない。

そうなると、「他人事だと思って。。。」「少しは手を貸してくれてもいいんじゃない?」と、いじけたくなったりもするだろう。

そのイライラを相手にぶつけるか、そっと自分の中に飲み込んで、さらにストレスを溜めこむか。。。

そんなことをあれこれ想像していると、まるで挨拶をするように、安易に「頑張って」というのは、思慮に欠けるような気もする。

自分が言われて嬉しい言葉だからと言って、誰もが同じように喜ぶわけではない。

「自分がされて嫌なことは人にするのはやめましょう。」

幼い頃、親や幼稚園の先生から教えられたことだ。

これはよい教えであったと今でも思うし、よき人間関係を築く上では役に立っているといえる。

では、逆はどうだろうか。

「自分がされて嬉しいことは、人にもして差し上げましょう。」

こんな教えは聞いたことがない。

これがまさに「頑張れ」の類なのだろう。

自分が言われて嬉しくても、人によっては不快に思う人もいるのだから、余計なお節介となり得る事はやめましょう。と、そんなところなのだろう。





子供達にもよく言われることなのだけれど、なんでも気合で乗り切ろうとするのは、昭和世代の悪い癖なのだそうだ。

もはや精神論で苦難を乗り切れるほど簡単な社会ではなくなっているのは承知している。

やればやった以上の成果が得られた昔に比べ、わずかな成果しか得られないのなら、気合云々の問題ではない。

ただ、気持ちが内側に向かってしまっては、落ちる一方だ。
気合ではどうにもならないのを承知の上で、ポジティブな気持ちで物心に挑むのは悪いことではない。
というか、それしか術が分からないともいえるけれど。。。

だからこそ、私は「頑張って!」と言われるのが好きなのかもしれない。

そんな背中をドンっと押されるような言葉を投げつけられると、やる気が出てくるのだ。戦う前にいたっては、どんな敵にも勝てそうな気すらしてくる。

「頑張って」という言葉を口にすることが憚れる社会とは、どれだけ疲弊しているのだろうと思う。
そんな社会を生きていくのは息が詰まるようだ。

お互いに「頑張れ」、「あなたも、頑張って」と素直に言えて、素直にその言葉を受け入れることのできる社会はもう戻ってこないのだろうか。