In other words

I really don't know life at all ...

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断捨離の前に立ちはだかるプラスの美学。外国人と暮らすということ。

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新型コロナによる自粛期間中に断捨離をした人は多いという。
私もその一人で、普段から定期的に断捨離をしているものの、この時期はとりわけ力が入ったものだ。

そして、それは今も続いていて、暇ができると不要と思えるものを処分している。

最近ではリビングの大きなクッションも小さなもの新調しようかと処分することにし、ついでに邪魔なだけのオットマンも粗大ゴミへ。

FAX付きの電話機も子機だけのコンパクトなものに買い替えようと断捨離、古くなったドライヤーも2台処分し買い換えた。
これだけでかなりスッキリだ。


いかに「無」の空間を美しく見せるか⁉︎

これはマイナスの美学を持つ日本人的な美へのこだわりだそうだ。

それとは逆に、様々なものを組み合わせることによって美しさを表現する「プラスの美学」を持つ外国人。

この相異なる人間同士が一つの空間に身を置くのはなかなか難しい。

当然のことながら、日本人である私のシンプル路線は外国人である夫の好みとは合わない。
夫は私が断捨離をするたびになにやら渋い顔をしているけれど、お構いなしでガンガン断捨離を進めている。

しかし、その一方でせっせと物持ち込んでくる夫。。。





私が「断捨離しているの」と言うと、「また?」と、友人たちから驚かれる。

それほどに、私は定期的に大がかりな断捨離をする。

私がたびたび断捨離をするのは、決してミニマリストだからではない。持たない暮らしよりは、欲しいものは持っている暮らしの方が、どう考えても満たされた気持ちになる。

最小限とは文字通りミニマムだ。そこには遊びも余裕も微塵もない。
どうでもいい物を全て排除するほど、私の心は豊かではないのだろう。

時には何の役にも立たない、ただきれいなだけの置物が欲しかったり、ただダラダラしたい時に足を乗せるためだけにあるクッションを必要だと思うこともある。

ただ、それにも限度がある。

プラスの美学に従う夫が作り出す空間は主婦にとっては不都合だらけで、時に耐え難い。
少しでも油断して監視の目を緩めようものなら、途端に写真縦や置物にその空間を埋められてしまうのだ。

これが何を意味しているか?
それは掃除のたびに、そのいくつもある写真縦や置物を避けて拭き掃除をし、また元ある場所に戻すという、大層面倒な作業を日々することになる。
これは何の罰ゲームだ?というくらい、私にとっては面倒なことなのだ。

ダイニングのカウンターやリビングテーブルには、いまでもそんな邪魔な物たちが鎮座している。

断捨離してしまいたいけれど、これが写真などだとそうもいかない。

過去に執着しない生き方をしている者にとって、昔の写真に対する思い入れなど全くない。学生時代の卒業アルバム、子供の頃の写真さえ、私の手元にあればすべて断捨離対象で、とうの昔に処分してしまっている。
しかし、時折遠くを見ながら昔を懐かしむメランコリック男(夫)にとって、それはとても大切な物であるようだ。
今でも後生大事にそんなものを抱えているから、数少ない収納スペースの一画は、夫の思い出に占領されている。

それをすべて処分できたら、どんなにスッキリするだろう⁉︎と思っているけれど、さすがに治外法権であると諦めている。

しかし夫の所有するのは思い出だけではない。興味を持ったものはすかさず「趣味」となり、それに関連するものを次々と買い集め、また物を増やす。

私は夫がそれに飽きて見向きもしなくなった頃を見計らい、断捨離に踏み切るのだ。





そんなことをもう何年続けているだろう。
結婚して20年以上になるから、おそらくそれと同じくらいの年月、私たちはいたちごっこを繰り返していることになる。

せめて自分の部屋だけでも、そう思うところだけれど、生憎我が家は3LDという間取りだ。子供2人と夫はそれぞれ自室を持っている。
いや、正確に言えば、夫の部屋は元々夫婦2人の部屋だった。しかし、プラスの美学に敗北した私は自らその部屋を出たのだった。
以来、夫は自室に好きなように物を置き、飾り、プラスの美学を極めている。

一方の私は、夫の部屋のクローゼットの一角を借り、洋服と鞄を収納している程度で、あとはキッチンの片隅やリビングなどでひっそりと生息している。
元々それほど物を持たないし、あっても置くところがないとなれば、何かしらを処分してスペースを作る。

自室を持たない私はまるでジプシーのように、リビング、ダイニング、キッチンを彷徨い暮らしているのだ。

ごくごくたまに、自室を持っていたなら。。。と思うこともあるけれど、普段は取り立てて不便を感じることはない。
きっと場所に対する執着もないのだろう。

暮らす場所も正直どこでもいい。できることなら生まれ育った東京が一番楽だけれど、他の場所ではダメというわけでもない。

それに、この家庭内ジプシーのような生活は、子供達が結婚でもして家を出れば終わりを迎えるのだ。

何事も移り変わっていくのが世の常。

プラスの美学には一生勝てそうにないけれど、いずれはマイナスの美学を楽しむ少しの空間くらいは持てそうだ。

その時を楽しみに、いたちごっこをしていく覚悟だ。

「育てる」ことの難しさ。子供にしても花にしても。。。

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何年か前からベランダで花を育てている。園芸などには全く興味がなかったのだけれど、なぜか去年あたりから本格的にベランダを花だらけにしてやろうなどと、本格的に手入れをするようになった。

最初はなかなかいい調子だった。撒いた種が芽吹き、元気な葉を茂らせ、やがて蕾が出来上がり、少しずつ花を咲かせ始めた。

そんな成長を日々見守るのが楽しくて、毎朝暗いうちからベランダにしゃがみ込んでは、間引きをしたり萎れた葉をとったり手入れをしながら、じっと咲いた花を眺めていた。

異変を感じたのは7月。例年よりも雨量の多い梅雨に、花の勢いが衰え、成長が芳しくなくなった。
それでもまだ新しく蕾をつけ、花が咲く様子を見ることができた。

本格的な危機が訪れたのは8月の半ば頃だった。梅雨が明けたかと思ったら、今度は連日の猛暑だ。
ただでさえ通気性の悪い狭いベランダに、強い日差しだけが一日中燦々と降り注ぎ、葉は皺皺に萎れてしまう。

早朝に水やりをしても、あっという間に気温はあがり、もはや土の中は蒸し蒸しのサウナ状態であることが想像できた。

いくつかの花は根腐れしたのだろう、見事に枯れてしまった。

一番ショックだったのは、花ではなく「金の成る木」が枯れてしまったことだ。
もう何年もとりたてて手入れをすることも必要とせず、その肉厚な葉は常に青々と生い茂り、次々と新芽をだしていく。それほど強い植物が、だんだんと元気を失ってきた。
鮮やかなグリーンだった葉が茶色に変色し、次から次へと枯れ始めたのだ。
枯れてしまった枝を剪定していたら、「金の成る木は」見事に丸坊主になってしまった。

この木は元々、お金持ちの知人が数年前にプレゼントしてくれたものだった。
増えすぎたのでもらってねと、美しい漆黒の鉢と共にいただいたのだ。

元気に葉を増やし、生い茂っていく様子を見ていると、まるで自分の懐まで潤ってくるような気がして嬉しくなるので、私はなんとなくこの鉢を大切にしていた。

それが夏の暑さにやられてしまったのだ。

園芸などが得意な義母とSkypeで話したとき、その様子を見せると、

「手をかけすぎたんじゃない?」

そう指摘された。
「金の成る木」に水のあげすぎは厳禁。生命力の強い植物だから放置するくらいでちょうどいいという。

確かに水をあげすぎたのは痛恨のミスであった。自分でもそれが原因ではないかと薄々気づいていた。しかし気づいた時には時すでに遅しで、もはや「金の成る木」は瀕死状態だ。
なんとか生きてはいるけれど、どんなに頑張っても回復には相当の時間がかかるか、このまま朽ちてなくなるか。。。





生き物を育てるのは、本当に難しい。
ビギナーベラダガーデナーは、いまそれを痛感している。

思えば「育てる」ことが難しいのは、植物だけではない。人間もまた然り。。。

私にも子供が2人いる。もう来年には2人とも大学生という年齢の大きな子供だ。
この子たちを見ていると、自分が「こんな大人になって欲しい」と掲げた理想とは、ずいぶんとかけ離れている。

この20年以上、自分のことはさておき、何事も子供を中心に考え暮らしてきた。

下世話なことを言えば、自分の貯金も湯水のように注ぎ込んできた。
学校もお稽古事も、本人が「やってみたい」ということは全てやらせたし、行ってみたいところがあると言えば、それが地球の反対側でも連れて行って、様々な経験をさせることに努力を厭わなかった。

経験はプライスレスであると考えていたから、自分の力で実現させられることは、喜んでやらせてきた。

20年近くそうしてきて、どうなったか?

どうにもなっていない。。。

長女は流行に敏感で、物事に着目するのが早く行動力もある。しかし長続きしない。次々と新しいものに目を奪われ、あちこちに手を出して、一体何がしたい?と、見ていてイライラする。

次女は正反対。一つのことだけをやり続け、他のことには全く目もくれない。
頑ななまでに一つのことに固執する、いわゆるオタク気質で、自分の作り上げた世界の中だけで完結している。

同じように育てたつもりなのに、この違いは一体どうしたことか。

手をかけ過ぎたつもりもなければ、放置したことも皆無だ。
その塩梅が違っていたのか?
いまだもってわからない。。。

新型コロナによる自粛で、在宅が増えた子供たちを見ていると、「確かに難しい。。。」そうため息が漏れる。

ひょっとしたら、人間も花や木もまた同じということなのかもしれないと思う。

オギャーと産まれた子供が大人になるまで約20年。大学を卒業して自立となると22年だ。

子育ての時期はあっという間だったような気もするけれど、自分が辿ってきた道を振り返れば十分に長い。。。

その証は顔のたるみや白髪に見てとれる。

その長い年月の間、それこそ様々なことがあったはずだ。よほど大きな事件でもなければ忘れてしまうのだけれど、確かに悩み苦しんだ日々はあったはずだ。

長い人生いい時ばかりではない。逆風が吹くことは誰の人生にも起こることだ。

そのときの対処法を誤ると、失敗する。
まさにこの猛暑でミスをしたために、大切な花を枯らしてしまったことのように。

しかし正しく対処したからといってうまくいくとも限らない。これが「生き物」を育てる上での難しい点だ。

その個体によって強さや成長の度合いは違う。
生物は生まれながらに持って生まれた生命力というものがあるという。
どんな過酷な環境であろうと、それに立ち向かう強さを持ったものもいれば、少しな刺激にへたり込むものもいる。

同じ日に、同じように撒いた種が全て芽吹くわけでなく、たとえ芽が出てもヒョロヒョロと伸び、いつしか枯れてしまうものがある一方で、太い茎を持ち、力強く育っていくものもある。

人間も同じなのかもしれない。。。

子供達が悩んでいるとき、「こうすればいいのよ!」と老婆心からアドバイスをするのだけれど、そのたびに子供達は諦め顔になる。

「みんなマミーみたいに強いわけじゃない。嫌なことでも一晩寝れば忘れちゃうような人ばかりじゃないんだよ」

もう何百回言われたか記憶できないほど、何度も聞かされた言葉だ。

最初は「最近の若い子は弱い。弱すぎる。反骨精神はないの⁉︎」

などと思っていたものだけれど、最近は少し違う。
子供達の言う通り、生まれながらに繊細な人もいれば、優しく気の弱い人もいる。
反対に無神経であったり、打たれ強い人も。。。





花のように枯れたら新しい花を植えようと諦めのつくものはいいけれど、子供ともなればそうもいかない。

枯れないまでも、茎や枝がヒョロヒョロと弱かったり、歪に曲がったりしてしまったら、もう容易には修正はきかない。

「育てる」という行為は難しい。
手をかけすぎてもダメだし、放っておいてもいけない。

日々きちんと観察すること、心配な点があれば、なにが問題かを探し出していち早く対処すること。
ある程度は個体の生命力を信じて、自身で伸びていくことを見守る。

今年の猛暑はそんなことを考えながら過ごした。

Googleのアップデートと読書熱の再燃〈後編〉本を読むに必要な情熱と体力。

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前記事を書いていた際に、3000文字を超えてきたあたりで、これは長すぎはしないか?と思い始めたのだけれど、まだまだ終わりそうにない。。。

トピックとしては、Googleのアップデートにより、思うような検索結果が出ずにつまらない。もうGoogleに見放されたので、読書に活路を見いだそうと読書熱が再燃したお話というただそれだけ。

それなのに、まだまだ続きそうなのだ。

饒舌なアラフィフにとっては、これでもかなり省略という作業を重ねているつもりなのだけれど、言いたいことを全て吐き出そうと思うと、そうそう簡潔には済まない。

そんなわけで、誰にともなく「長すぎて申し訳ない」という気持ちが湧いてきたので、それらしく〈前編〉〈後編〉などという小賢しいことをしてみた。

つまり、この前記事の正真正銘の「続き」である。


diary.hw-frankie.com






ネットから見放されたことが原因となり、最近再燃したのが読書だ。

若い頃はスマホなどという便利なものがなかったから、とにかく本をよく読んだものだ。
今の子がスマホを片時も離さず手にしているように、私が若い頃には文庫本をいつでも手にしていたような人が多くいた。

今は雑誌や書籍が売れないという話をよく耳にするけれど、ネットが普及すればそれも当然のことと想像できる。
しかし、ネットにそっぽを向かれた身としては、もはや頼みの綱は「読書」だけだ。

そこで、早速本屋さんへ行ってみた。
数年前までは週に何度も顔を出していた、駅前の本屋さんだ。

いつも無愛想な店員が、ニコリともせずにウロウロとしていて、あまり気分はよくないけれど、本屋というのは概してそんなものだ。
接客の素晴らしい本屋さんなど、これまでお目にかかったことがない。

まぁ、それはいいとして、書店へ行かなくなった理由は、面白そうだと思える本がなかったせいもある。

しかし、久しぶりに行ってみると、興味深い本が何冊か見つかり、「ああ、やっぱり本だわ!」と思った。

ところがお会計をしてビックリした。。。

雑誌1冊、新書3冊、文庫2冊。これでゆうに¥5,000を超えたのだ。

昭和感覚で言えば、本は高いものではなかった。
30年くらい前であれば、文庫本などは¥300程度。消費税なんてものもなかった時代だから、¥1,000あれば文庫が3冊は買えた。だからこそ、当時の若者は本をたくさん読んだのだろう。

経済は冷え切っているのに、こんなに物価が上がっているとなれば、よほどの本好きか、専門書を求めるでもない限り、わざわざ本を買おうと思わないだろう。

スマホなら定額の通信量だけで、あらゆることができ、本で得られるのと同じように知識を得ることも大方はできてしまう。

しかし、〈前編〉でも述べたように、Googleさまから見放された者にとって、本は救世主なのだ。
昔と比較すれば高いけれど、そこに盛り込まれた情報はそれだけの価値がある。
もしも自分の足で本の中にある知識や学びを自身の経験から得て、それを書籍としてまとめようと思ったら、それこそどれだけの時間とお金がかかるかわからない。

ブログを書くくらいしか趣味のない中年、しかもネットにも見放された者にとっては、本代に¥5,000支払うことは安いくらいだと思わねばならない。





さあ、これからはゆっくりと、読書漬けの日々を過ごすわよ!といい気分で帰宅し、買ってきた本をリビングの小さなテーブルの上に満足げに並べる。

そして、その中の一冊を手に取った。

背筋を伸ばして正しい姿勢で読みたいところだけれど、それではリラックスできないと、ソファーに深く腰掛けて読み始める。

そのうち、さらにリラックスした私は、ゴロッとソファーに横たわって続きを読み始める。

なんだか、スマホの画面やパソコンをのぞいている時よりも、集中できる気がする。。。

しかし、そう思ったのも開始30分程度だった。身体を横たえたのが大きな間違いだったようで、私はまるで何かの発作かと言えるくらいの早さで落ちた。。。

爆睡中。。。

2時間後に目覚めてみると、手にしていた本はそのままお腹の上に乗ったままだ。かなり寝相がいいところをみると、よほど深く眠ってしまうのだろう。

かれこれ15年ほどは続けている無駄な早起き生活で、朝の4時〜5時には起きるようにしている。たとえ前の晩何時に寝ようが、起きる時間は変わらない。そのせいで、多少寝不足気味ではあるのだけれど、それにしても真昼間に2時間も爆睡とは、ちょっと度が過ぎている。

目覚めてすぐにまた本を手に取る。しかし、どこまで読んだのだかわからない。
うとうとしながらページをめくっていたのだろう。読み進めてはいるけれど、内容が頭に入っていないというパターンだ。

そこで、「ここは読んだ」と記憶の鮮明な部分までページを戻すことなる。

読書を再開して以来、毎日こんな感じだ。

これを日々繰り返すというのは、まさに「一歩進んで、二歩下がる」という行為に等しい。

当然のことながら、読書スピードが恐ろしく遅い。。。

別に早く読む必要もないのだけれど、本というのは「旬」のものだ。
小説の類でさえ、時期を逃すと面白くても新鮮さを失ってしまったりする。

実用書やビジネス本、エッセイなどに至っては、まさにすぐに読んでこそ役立つというものばかりだ。

子供達が買ってきた本を置き去りにし、いつまでも読んでいる形跡がない時、

「本は読む時期を逃すと、旨味も逃すわよ!」

などと、偉そうに言っているけれど、その言葉はそっくり自分に返したい。。。と、そんな状況なのだ。





文庫や新書なら、一日あればちょこちょこと読んでいれば読み終えることは難しくない。私にはそれだけの時間がある。

しかし、たった一冊の文庫が3日あっても読み終わらないのだ。

寝落ちだけが原因ではない、加齢による視力の衰え、そして乾燥が、小さな文字を追いかけることに疲れてしまい、持久力を失ってしまう。
眼精疲労というものだろうか。。。

眼を休めようと眼を閉じようものなら、今度はまた別の敵「睡魔」に襲われることになる。

どんなに寝ても寝ても眠れないということがない「睡眠ウェルカム」な体質が恨めしい。

本を読むにも体力が必要というわけだ。

この歳になれば仕方ないと、睡魔と眼精疲労をなだめながら読書を続けている。

そして、前回買った本がまだ読み終わらないうちに、新しい本を持ち帰ってくる。

歩みは亀の如しだけれど、本を読むのはやはり楽しい。そして、本屋さんへ行き、「読みたい」と思える本が見つかることも嬉しい。

体力がなくても、本に対する期待と情熱さえあれば、もうGoogleさんに頼らなくても楽しく暮らせそうだわと思った。

はじめてパソコンを買ったのは、かれこれ25年前だ。以来、ずっとネットのお世話にはなってきた。そして、iPhoneが登場してからは、さらにデジタルに依存するようになった。

しかし、アナログな生活もいいものだ。ちょっとしたデジタルデトックスのつもりで、この読書熱をさらに再燃させるため、どんどんガソリンを注ぎ込もうと思っている。

未読の本は既に、10冊近くも積み重なっている。
ブログも韓国ドラマもほどほどにして、早く読んでしまおう。
旬を逃す前に。。。