In other words

I really don't know life at all ...

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もうハイヒールは卒業した。。。

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先日、手持ちのハイヒールを黒とベージュ各一足ずつを残し、それ以外はすべて断捨離した。

若い頃からハイヒールが好きで、踵のない靴は靴ではない!などといっていたくらいだったのだけど、スニーカーの快適さを知ってしまったら、踵のある靴は靴ではない!とさえ思うようになった。

スニーカーを履くようになったのは、数年前。ウォーキングを始めてからだ。
足に合う靴を探し、さらにクッション性の高い中敷を入れてもらったおかげで、それはそれは快適で、10キロくらいなら歩けてしまうほど。

こんなに楽でいいものか⁉︎
まさにスニーカーへのイメージが変わった。

しかし、よさを体感した後でも、ウォーキングをする時以外は履くことはなかった。ハイヒールを履かないときでも、スニーカーを履いて外出するという選択肢は私の中にはなかった。


それが、最近は買い物へ行くのも、お友達と遊びに行くのも、迷わずスニーカーを選ぶようになった。

これには理由がある。

それは「歩く生活」に変えたから。

40半ば過ぎた頃、立て続けに病気をしたせいで、健康に留意するようになった。加えて歳のせいか脂肪の蓄積スピードが加速、糖尿病などになってしまってはたまらないと、ウォーキングを始めたのだ。

普段の生活の中でも、出来る限り交通機関に頼らず歩こうと決めた。
幸いなことに、都心で暮らしているため、どこへ行くのもほとんどのところは徒歩で行けてしまう。
これはさすがにハイヒールを履いていてはできないことだ。

そもそもハイヒールとは、歩かない前提で作られているのではないだろうか。
あのように不安定な状態で歩くという行為は理にかなわない。

7センチ以上のヒールを履いている人は、私の周りでは車移動する人に限られている。
私もハイヒールを履いている時は、タクシー移動ばかりだった。

しかし、今ではよほど天気が荒れているとか、荷物が多過ぎて歩けないという時以外は決してタクシーに手をあげることはない。
スニーカーのおかげだ。





先日、夫と買い物へ行った際、荷物を持ってもらえる気楽さから、スニーカーを3足新調した。

これまで履いていた2足のスニーカーがくたびれてきたので、ウォーキング用に1足、お出かけ用に2足、買い足したのだ。

ウォーキング用にはもう1足くらい欲しいところだけれど、スニーカーというのもなかなか高価だ。

デザインや履き心地、自分の足型との相性などを考慮して選ぶと、最低でも1万円以上するものがほとんど。さらに上を見たらキリがない。

それでも、ハイヒールを買うよりはずっと安い。

足に合った靴を履くということ、そして歩くという行為は、健康と密接な関係がある。
あまりケチケチしては、後で医療費の方が高くつくなどということも考えられる。

健康に対する投資と考えれば、靴にはお金をかけても元は取れるだろう。

もうパーティーなどにも参加することはないだろうし、子供達の学校関係も、卒業式くらいのもの。

それさえ終われば、いよいよ私もハイヒールを履くことを完全に終わりにできる。

履くと足も実際よりは長く綺麗に見えるし、歩くときの姿勢にも気遣うなど、女性を美しく見せるために必要不可欠と思われたハイヒールだけれど、私もそれを必要としない年齢にきたのだ。

まだ多少の未練はありつつも、そうこうするうちに、ハイヒールが命の危険をもたらす物となる日が来るのだ。

格好良く歩いているつもりでも、足腰にガタがきているせいで、コケて骨折、歩けなくなったことで、急に弱ってしまう。
そんな想像もできる。

ハイヒールを履いているおばあちゃんなど、見たことがないのはきっとそのせいなのだ。危険を回避するためには、足に優しい靴でなければいけない。

見た目よりも実用性。それは自分の若さを完全に否定し、老いを受け入れることになるけれど、それも致し方ない。

実際に歳をとったのだから。。。





昔、北海道富良野を舞台とした人気ドラマ『北の国から』で主人公の一人である純の言った言葉。

「もう東京は卒業した。。。」

東京での生活に疲れ、郷里に戻る純が呟いた一言だ。

なんとなく、東京をハイヒールに置き換えてみると、その心情がわかる気がする。

私ももうハイヒールに疲れたのだ。
見栄えもよくそこそこ満足しているけれど、常に気持ちをピンと張り続けなければいけないことよりも、自分が素のままでいられる快適さを選んだということなのかもしれない。

「もうハイヒールは卒業した。。。」

夢の中で行ったことのある場所。

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早いもので、すでにお節の注文が始まっている。
ここ2年くらいはフレンチを基調としたお節を用意していたのだけれど、来年のお正月は和洋折衷でいこうか?などと、百貨店でもらったカタログなどを見ながら、考えていた。

全国の有名料亭やレストランなどのお節がずらりと並ぶカタログを見ている時、ある店の写真が目に止まった。

この店、行ったことがある。。。

それは京都の古い町屋風佇まいの料亭だった。
京都の料亭など、この年になっても敷居が高すぎて、そうそう行けるものではない。

知り合いに連れて行ってもらった覚えもない。

それなのに、確かにそこへ行った記憶だけはあり、その内部の様子までしっかりと覚えていた。

忘れているだけで、若い頃に行ったことがあるとか?

いや、それはない。このような料亭に行った経験を忘れるわけがない。


しばらく考えてみて、ようやく思い出した。
それは夢の中で訪れた店だったのだ。

その夢のストーリーは忘れてしまったけれど、誰と一緒にその店へ行ったか、店内の雰囲気などがわりと細かく思い出された。

なんだか不思議な感じがした。

夢の中で行った場所が実存しているだなんて。。。

京都の料亭など縁もゆかりもない私は、その店の存在すら知らなかった。それなのに、その店の門構えを見て、すぐに訪れたことのある場所だとわかったのだ。

これは記憶違いか、思い違いでないかとも思う。実際、そんなことはあり得ないから。

もしかしたら、店構えこそとても似ているけれど、内部はまったく違うかもしれない。。。
実際に確かめに行こうなどとは思わないから、その辺りは一生謎のままだろう。

他人が聞いたら、おそらく「似ているだけ」「勘違い」というだろう。

ただ、自分の中では何故か、実在するその店と、夢の中で訪れた店が同一であるという確信めいた思いがある。

まったく不思議なことなのだけれど、このようなことはこれが初めではない。

今回とはまた逆のケースで、実際に夢に出てきた場所に降り立ち、「ああ、ここはあの場所だ」と思ったことが何度かある。






デジャブか?

それは既視感という曖昧なものではない。
デジャブの感覚はわかる。それを感じた時、「デジャブだ)と判別がつく。

よく旅行へ行く人や、よく夢の内容を覚えている人ほどデジャブ現象を体験しやすいという。
若い頃はよく旅をしていたけれど、夢の内容は覚えていない。というより夢そのものをあまり見ない。


あまりそのようなことを口にすると、おかしい人と思われるので黙っているのだけれど、自分でも説明がつかない現象に、誰か答えを与えてはくれないものだろうか。

ちょっと本気でネットで調べたりしてみた。ただ、思ったような答えは得られない。

やはり「デジャブ」が最有力候補。しかし、それもしっくりこない。
さらにあれこれ見ていると、結局のところスピリチュアルな分野に行き着いてしまう。

ここで調べるのをやめた。あまり深くは考えない方がよさそうだ。

スピリチュアルを否定するわけではないけれど、それにとらわれてしまうと、どんなこともスピリチュアル的な解釈で解決してしまう。それが嫌なのだ。


不思議なことは往々にしてあるもの。説明のつかないことの一つや二つくらい、この歳になれば誰もが経験したことがあるだろう。

ん〜。。。でも、やっぱり気になる。

曖昧なままにしておくのも、気持ちが悪い。いっそのこと、確かめに行くという手もあるなと思う。

東京も来月からGO TOキャンペーンの対象となる。京都のお菓子屋さん巡りついでに、行ってみたい気もする。

しかし、料亭にお一人様というのも、ちょっと都合がよくない。さりとて、誰かと旅をしたいとも思わない。

若い頃から旅は一人で気ままにと決めている。

やはり、これはただの夢。思い違い。

そういうことにしておいた方がよさそうだ。

ポリ袋ハンター。高級スーパーで見た、無料ポリ袋を大量に持ち帰る主婦。

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レジ袋が有料化となり、すでに3ヶ月近く。エコバッグ等持参は浸透している割に、多くの人が順応仕切れないといった空気もあり、いまだ様々な問題点が指摘されたりしている。

私もエコバッグを使用するのはいいとして、どうもレジで支払いをし、お釣りをもらうのと同時進行で品物を詰めることに慣れず、少なからずストレスを感じたりもしている。

そういったことも含め、あらゆる問題が明るみに出ているレジ袋有料化。
最近話題になっているのが、スーパーでの無料ポリ袋の持ち帰り問題だ。

スーパーのサッカー台などに備え付けてある、あのロール状になったポリ袋を必要以上に持ち帰る人が、以前に比べて格段に増えているという。

そして、そんな人達のことを、「ポリ袋ハンター」と呼ぶらしい。

レジ袋と無料ポリ袋。。。

この2つの袋は同じ役割を担ってきたわけではない。それなのに、何故レジ袋が有料化されたらポリ袋の大量持ち去りが発生するのだろう?

アメリカがくしゃみをすれば、日本が風邪をひく」原理と同じようなものか?

レジ袋がくしゃみをすれば、ポリ袋が風邪をひく。。。

いや、それよりももっとかけ離れているような関係に思えるのだけど。。。よくわからなくなってきた。





ともかく、私は主婦なので近隣にある幾つかのスーパーには、週に何度も足を運んでいる。しかし、これまで「ポリ袋ハンター」と呼ばれるような人を見たことがなかった。
その話題を知ったときには、本当にそんな人いるの?と、にわかに信じられなかったくらいだ。

もしかしたら、私が周りに注意を払っていないせいで、見えていなかっただけとも言えるけれど。。。

それが、先日とうとうそんな人がいることを、しかとこの目で確認してしまった。
しかも目の前で!

そのスーパーは近隣にあるマンションなど、かなりの富裕層が暮らしているため、買い物に訪れる人もそれなりの身なりをしている人が多い。
また、都心のため近くの商業施設を訪れた人なんかが、お買い物というよりはぶらぶらと商品を見て回っていることも多い。

私など、ぶらりと部屋着のまま行ったりして、ちょっと浮いてしまうこともあるほどだ。

そんなスーパーでポリ袋ハンターが出没したのだから驚いた。

目の前のその女性、ざっと想像するに40代前半。くるぶしまであるグレーのマキシ丈ワンピースを着て、売り出した途端に売り切れるという、某舶来ショップのエコバッグを持っていた、「ちょっとお洒落には気を遣ってますの」といった感じのおそらくは主婦。

そう言えば、なんとなくどんな感じの女性か想像がつくだろう。

その女性はカゴの中にある買い物をした商品を、レアもののエコバッグに詰め終わると、おもむろにポリ袋ロールに手を伸ばし、ガラガラ、ガラガラ、ガラガラと、おそらく3メートル近くは巻とっただろうか。それを手でグチャっとまとめると、例のエコバッグにグイッと押し込み、そのまま涼しい顔で去っていった。

その一部始終を手を止めたまま、目の前で凝視している私のことなど、まったく目に入っていないかのように、それはそれは鮮やかな手つきで一連の作業をやってのけたのだ。

あの慣れた手つき。おそらくはいつもやっていることなのだろう。

それにしても、あのような大量のポリ袋を一体何に使うのだろうか?

ポリ袋と言えば、料理に衣をつけたり、タレを揉み込み寝かせる時などにも使える。小さな子供のいるご家庭なら使用済みオムツを捨てる際にも必要だ。

しかし、あのスーパーの無料ポリ袋は、それらには適していない。あの、いつ破れてもおかしくないような薄いポリ袋など、買い物の際の一時的な汁漏れや臭い漏れ防止以外には役立つとは思えない。

機能性を考えれば、¥100 SHOPなどでもっと丈夫で使い勝手の良いポリ袋が安価で簡単に手に入る。

にもかかわらず、人目もははからずにガラガラやるのは、やはりどうしてもそれが欲しいということなのだろうか?

まったく解せない。。。





例えば、経済的な問題で余計なものには鐚一文出せない。タダでもらえるものなら、たとえペラペラのポリ袋であっても、背に腹は変えられない。
そんな理由なら、わからなくもない。
私でも、ポリ袋に¥100 も遣えないと思えば、ガラガラやるかもしれない。

いや。。。

私にはできない。。。

たとえどんなに経済が困窮しようとも無理だろう。

変なところで見栄っ張り、プライドが顔を出す。

まさに「ボロは着てても心は錦」

若い頃、今は亡き父によく言われていたことだ。
それは決して褒め言葉ではなく、つまらないことにこだわり、プライドを捨てられない私を揶揄したものだった。

そんな気質は今も変わらない。
時折街で行われる商品や食べ物の無料配布なども、決してその列に加わることができないのだ。
「ちょっと欲しい。。。」
内心ではそう思っていても、絶対に手を出す事ができない。

我ながら損な性分である。

そんな風だから、そこそこの身なりの女性が、高級スーパーで、ガラガラと無料ポリ袋を持ち去る姿を見ると、不思議になるのだ。

その身なりや買い物カゴの中身を見れば、経済的には割と豊かに暮らしているのがわかる。
霜降りの肉は買えても、ポリ袋は買いたくない?

そのメンタリティーとはいかがなものなのか?

そこが解せないところだ。

私のようになんの役にも立たないプライドや見栄で損をするのも馬鹿みたいだけれど、その女性のように節操なくスーパーのポリ袋を持ち去るのも、あまり素敵なこととは言えない。

何事も常識の範囲でというのが大切なのだと、ときに常識外れる私でも思うのだった。。。