In other words

I really don't know life at all ...

Sponsored Link

デジタルデトックス。たとえスマホを忘れても、腕時計と財布があればそれでいい。

f:id:frankie17:20200929163603j:plain


たまにスマホを忘れて外出してしまうことがある。途中で忘れたことに気づいても、急を要する連絡を待っている時でもない限りは取りに戻らない。
社会にとって私はそれほど重要な人間ではないと自認しているし、常に確認を要するアプリなども一切ないので問題はない。


元々、昭和生まれのアナログ世代だ。スマホのない時代を経験してきた者は、何かあったとしても、なければないでどうにでも術を見つけることはできるという自負がある。

それならば、普段からスマホを持たずに出かければいい。

そう思うところだけれど、言うが易しで、実際にはそれをしようと思うと勇気がいる。
そこに便利なものがあれば、それを使いたくなるのは人の常。。。

実際にその恩恵に預かることが当たり前になると、切り離すのは容易なことではない。


様々な場面を想像すればわかる。

仕事をしている人なら、スマホがあることで、連絡が容易になる。

家族のいる人なら、家族に不測の事態が生じた時、すぐに連絡がつく。

友達付き合いを大切にする人なら、突然の美味しいお誘いをすぐに受けることができる。

得たい情報がある時はその場で調べることができる。

ちょっと思い浮かべただけで、あるに越したことはないとわかる。


スマホがあることで、一番便利に感じるのは、時間の浪費を防ぐことに、大いに貢献してくれるということだ。

様々なことが、指一本で完結できるのは、スマホの普及していなかった時代では考えられないことだった。

こんな便利なものに慣れてしまうと、なくても困らないけれど、あればあったで便利だし。。。と思うようになる。





私が十代の頃はスマホなど存在しなかった。
子供達に話すと、「どうやって友達と遊んでいたの?待ち合わせとかは?」と、まるでそれが不可能であるかのように驚かれる。

どうしていたのだろう?

友達と会う前は家の固定電話で連絡を取り合い、待ち合わせの時間や場所を決めていた。

「もし、なにかあって行けなくなった時や遅刻するときは?連絡取れないじゃん」

そんな時のために、私はいつも喫茶店などで待ち合わせをしていた。

茶店ならその店に電話をすれば、客に取りついでくれるからだ。
今はどうなのだろう?
チェーン系のカフェが乱立する今と違い、個人店が多かったからこそ出来たことかも知れない。

駅で待ち合わせをしている人も多かったけれど、そんな人は駅にある「伝言板」という黒板にメッセージを残したりしていた。

ほら、なければないで、どうにかなるものなのだ。

そう言いたいところだけれど、スマホであれば直接的にメッセージを送ることができる。まさに時間の短縮だ。


他にものすごく単純なところなのだけれど、スマホの機能で重宝しているものがある。

それが「時計」だ。
常にデジタル表示されているので、パッと確認するのに便利だ。

街中には時計などそこら中にあるように思えるけれど、いざ必要なときに見つからないということはよくある。

どんな気楽な身分でも、少なからず時間には縛られている。我々に与えられた時間が1日24時間と決まっている限りは。

「時は金なり」などと格好のいいことを言いながら、少しの時間も無駄にしたくないと、あちこち飛び回るような生活をしてきたけれど、50も過ぎれば、ただ忙しなく非効率に動いていただけでは?と思わないでもない。

それならば、腕時計でもしていれば事足りるのではとも思うところだけれど、腕時計ではまかなえないこともある。

スマホは日本のみならず、世界中の時刻を正確に知ることができる。
我が家の夫は外国人なので、親類縁者、友人など多くの人が日本以外の場所で暮らしている。そんな人達と連絡を取る必要がある時は、スマホの時計がなくてはならない。

腕時計では無理なのだ。。。





いまやスマホはパソコンと同じだと、私は思っている。
むしろ、コンパクトな分、パソコンよりも使い勝手がいい。

人によってはもっと高度なスペックが必要だという人もいるだろうけれど、私のような主婦が使う場合、電話、メール(LINEなど含む)、ネットショッピング、検索、写真、そしてブログやSNSなどの利用が主なところ。

これらはスマホさえあれば事足りる。

私はこのブログも、全てスマホで書いている。掲載する写真も全てスマホで撮影したものだ。

パソコンも使用するけれど、なければないで、スマホだけでどうにかなってしまう。

ブログなどを書き始めると、何時間でもスマホの画面にかじりついていることができる。

子供達などはTwitterやインスタなどで、興味のあることをつらつらといつまでも見ていたりする。

夫はといえば、ベッドにゴロリと横になり、映画などを延々と観ていたり。。。

誰もがスマホありきで生活している。


時に思う。これは「好奇心」を奪い去るものにはならないだろうか?

あまりにも便利すぎて、それさえあれば百人力と錯覚し、他のことに興味が向かなくなる、そこまで行かずとも、知らず知らずのうちに時間を浪費している。
そんなことにもなりかねないぞと。。。

時間の無駄を防ぐことに役立つものも、双刃の剣になりかねないのだ。

そんな風に考えると、たまにはスマホと離れてみるものだとも思う。
意識的にそれをするのは、前記の通りちょっと難しく感じるから、せめて忘れてしまった時くらいは、スマホをとりに戻ることなく、一日を過ごしてみるのだ。

忘れたことを落胆するのではなく、それをデジタルデトックスの機会として、喜んでみるのもいいかもしれない。

とりあえず、私なら財布と腕時計さえあればOKだ。

もうハイヒールは卒業した。。。

f:id:frankie17:20200926210947j:plain

先日、手持ちのハイヒールを黒とベージュ各一足ずつを残し、それ以外はすべて断捨離した。

若い頃からハイヒールが好きで、踵のない靴は靴ではない!などといっていたくらいだったのだけど、スニーカーの快適さを知ってしまったら、踵のある靴は靴ではない!とさえ思うようになった。

スニーカーを履くようになったのは、数年前。ウォーキングを始めてからだ。
足に合う靴を探し、さらにクッション性の高い中敷を入れてもらったおかげで、それはそれは快適で、10キロくらいなら歩けてしまうほど。

こんなに楽でいいものか⁉︎
まさにスニーカーへのイメージが変わった。

しかし、よさを体感した後でも、ウォーキングをする時以外は履くことはなかった。ハイヒールを履かないときでも、スニーカーを履いて外出するという選択肢は私の中にはなかった。


それが、最近は買い物へ行くのも、お友達と遊びに行くのも、迷わずスニーカーを選ぶようになった。

これには理由がある。

それは「歩く生活」に変えたから。

40半ば過ぎた頃、立て続けに病気をしたせいで、健康に留意するようになった。加えて歳のせいか脂肪の蓄積スピードが加速、糖尿病などになってしまってはたまらないと、ウォーキングを始めたのだ。

普段の生活の中でも、出来る限り交通機関に頼らず歩こうと決めた。
幸いなことに、都心で暮らしているため、どこへ行くのもほとんどのところは徒歩で行けてしまう。
これはさすがにハイヒールを履いていてはできないことだ。

そもそもハイヒールとは、歩かない前提で作られているのではないだろうか。
あのように不安定な状態で歩くという行為は理にかなわない。

7センチ以上のヒールを履いている人は、私の周りでは車移動する人に限られている。
私もハイヒールを履いている時は、タクシー移動ばかりだった。

しかし、今ではよほど天気が荒れているとか、荷物が多過ぎて歩けないという時以外は決してタクシーに手をあげることはない。
スニーカーのおかげだ。





先日、夫と買い物へ行った際、荷物を持ってもらえる気楽さから、スニーカーを3足新調した。

これまで履いていた2足のスニーカーがくたびれてきたので、ウォーキング用に1足、お出かけ用に2足、買い足したのだ。

ウォーキング用にはもう1足くらい欲しいところだけれど、スニーカーというのもなかなか高価だ。

デザインや履き心地、自分の足型との相性などを考慮して選ぶと、最低でも1万円以上するものがほとんど。さらに上を見たらキリがない。

それでも、ハイヒールを買うよりはずっと安い。

足に合った靴を履くということ、そして歩くという行為は、健康と密接な関係がある。
あまりケチケチしては、後で医療費の方が高くつくなどということも考えられる。

健康に対する投資と考えれば、靴にはお金をかけても元は取れるだろう。

もうパーティーなどにも参加することはないだろうし、子供達の学校関係も、卒業式くらいのもの。

それさえ終われば、いよいよ私もハイヒールを履くことを完全に終わりにできる。

履くと足も実際よりは長く綺麗に見えるし、歩くときの姿勢にも気遣うなど、女性を美しく見せるために必要不可欠と思われたハイヒールだけれど、私もそれを必要としない年齢にきたのだ。

まだ多少の未練はありつつも、そうこうするうちに、ハイヒールが命の危険をもたらす物となる日が来るのだ。

格好良く歩いているつもりでも、足腰にガタがきているせいで、コケて骨折、歩けなくなったことで、急に弱ってしまう。
そんな想像もできる。

ハイヒールを履いているおばあちゃんなど、見たことがないのはきっとそのせいなのだ。危険を回避するためには、足に優しい靴でなければいけない。

見た目よりも実用性。それは自分の若さを完全に否定し、老いを受け入れることになるけれど、それも致し方ない。

実際に歳をとったのだから。。。





昔、北海道富良野を舞台とした人気ドラマ『北の国から』で主人公の一人である純の言った言葉。

「もう東京は卒業した。。。」

東京での生活に疲れ、郷里に戻る純が呟いた一言だ。

なんとなく、東京をハイヒールに置き換えてみると、その心情がわかる気がする。

私ももうハイヒールに疲れたのだ。
見栄えもよくそこそこ満足しているけれど、常に気持ちをピンと張り続けなければいけないことよりも、自分が素のままでいられる快適さを選んだということなのかもしれない。

「もうハイヒールは卒業した。。。」

夢の中で行ったことのある場所。

f:id:frankie17:20200920003950j:plain

早いもので、すでにお節の注文が始まっている。
ここ2年くらいはフレンチを基調としたお節を用意していたのだけれど、来年のお正月は和洋折衷でいこうか?などと、百貨店でもらったカタログなどを見ながら、考えていた。

全国の有名料亭やレストランなどのお節がずらりと並ぶカタログを見ている時、ある店の写真が目に止まった。

この店、行ったことがある。。。

それは京都の古い町屋風佇まいの料亭だった。
京都の料亭など、この年になっても敷居が高すぎて、そうそう行けるものではない。

知り合いに連れて行ってもらった覚えもない。

それなのに、確かにそこへ行った記憶だけはあり、その内部の様子までしっかりと覚えていた。

忘れているだけで、若い頃に行ったことがあるとか?

いや、それはない。このような料亭に行った経験を忘れるわけがない。


しばらく考えてみて、ようやく思い出した。
それは夢の中で訪れた店だったのだ。

その夢のストーリーは忘れてしまったけれど、誰と一緒にその店へ行ったか、店内の雰囲気などがわりと細かく思い出された。

なんだか不思議な感じがした。

夢の中で行った場所が実存しているだなんて。。。

京都の料亭など縁もゆかりもない私は、その店の存在すら知らなかった。それなのに、その店の門構えを見て、すぐに訪れたことのある場所だとわかったのだ。

これは記憶違いか、思い違いでないかとも思う。実際、そんなことはあり得ないから。

もしかしたら、店構えこそとても似ているけれど、内部はまったく違うかもしれない。。。
実際に確かめに行こうなどとは思わないから、その辺りは一生謎のままだろう。

他人が聞いたら、おそらく「似ているだけ」「勘違い」というだろう。

ただ、自分の中では何故か、実在するその店と、夢の中で訪れた店が同一であるという確信めいた思いがある。

まったく不思議なことなのだけれど、このようなことはこれが初めではない。

今回とはまた逆のケースで、実際に夢に出てきた場所に降り立ち、「ああ、ここはあの場所だ」と思ったことが何度かある。






デジャブか?

それは既視感という曖昧なものではない。
デジャブの感覚はわかる。それを感じた時、「デジャブだ)と判別がつく。

よく旅行へ行く人や、よく夢の内容を覚えている人ほどデジャブ現象を体験しやすいという。
若い頃はよく旅をしていたけれど、夢の内容は覚えていない。というより夢そのものをあまり見ない。


あまりそのようなことを口にすると、おかしい人と思われるので黙っているのだけれど、自分でも説明がつかない現象に、誰か答えを与えてはくれないものだろうか。

ちょっと本気でネットで調べたりしてみた。ただ、思ったような答えは得られない。

やはり「デジャブ」が最有力候補。しかし、それもしっくりこない。
さらにあれこれ見ていると、結局のところスピリチュアルな分野に行き着いてしまう。

ここで調べるのをやめた。あまり深くは考えない方がよさそうだ。

スピリチュアルを否定するわけではないけれど、それにとらわれてしまうと、どんなこともスピリチュアル的な解釈で解決してしまう。それが嫌なのだ。


不思議なことは往々にしてあるもの。説明のつかないことの一つや二つくらい、この歳になれば誰もが経験したことがあるだろう。

ん〜。。。でも、やっぱり気になる。

曖昧なままにしておくのも、気持ちが悪い。いっそのこと、確かめに行くという手もあるなと思う。

東京も来月からGO TOキャンペーンの対象となる。京都のお菓子屋さん巡りついでに、行ってみたい気もする。

しかし、料亭にお一人様というのも、ちょっと都合がよくない。さりとて、誰かと旅をしたいとも思わない。

若い頃から旅は一人で気ままにと決めている。

やはり、これはただの夢。思い違い。

そういうことにしておいた方がよさそうだ。