In other words

I really don't know life at all ...

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判断力、処理能力の低下は書くことで補える。50代はお肌のみならず脳のケアも必要。

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早いものでもう11月。。。
つい最近までジャケットなしでも気持ちよく歩けたのに、今日は部屋の中にいても床暖房のお世話になるくらいの寒さだった。

いくら寒くても、なるべくなら外出をして身体を動かした方がいいとわかっているのだけれど、こんな日は家にいたいもの。

「エンジンがかからない」という言葉をよく聞くけれど、まさにそんな感じの一日。

なんとかやるべき事は済ませたものの、探し物は見つからないし、家事もサクサクいかずで、もう頭と身体が別々の動きをしているように感じた。

こんな時、自分の判断力、そして処理能力の衰えをつくづく実感してしまう。
それらの低下に関しては、ここ1年くらいの間に時折意識することはあった気がするけれど、それほど深刻には捉えていなかった。
それが、最近はなんだかグタグタで危機感すら覚えるほどになっている。。。

これは何故なのか?
ネットでちょっとググってみたところ、「鬱」「認知症」などといった言葉がそこかしこから目に入ってくるではないか⁉︎
いやいや、まだそこまではいってないわよ!と、思わずスクリーンを閉じた。





原因が加齢によるものであることは否定しない。しかしまだ50代!
そこに書いてあるようなことは該当するとは、どうしても思えない。

では、その判断力や処理能力低下の原因とは?

それは得た情報を頭の中で瞬時に「整理」する力が減退しているためではないかと思いあたった。

物事を判断するとき、頭の中にある知識や経験、その時のフィーリングなどを総動員し、それらをきちんと整理してから判断するものだけれど、これがうまくまとまらない。

その証拠に、頭の中で考えるのではなく、実際に紙にその情報を書き出しながら整理してみると、すんなりと判断を下すことができたりすることが多い。

別にメモなどとらなくとも、これはそれほど難しいことではない。
いや、なかったはずだ。。。

たとえば、最近も旅行へ行きたいのだけど、どこへ行こうかなかなか判断が下せないでいた。

自分の行きたい場所、時間、アクセス、予算、目的など、様々な情報を頭に思い浮かべ、さてどこにしましょう?となるのだけれど、その一つ一つが散り散りになり、なかなか一つにまとめることができない。

行きたいと思っている場所が例えば5箇所あるとしたら、単純に地図を頭の中に思い浮かべ、ここであればどこをどう回り、このくらいの日数でこの目的を遂げられる。

若い頃はそんな風にできたものが、今はその地図を実際手にとって見ながらでないと計画が立てられなくなっている。

また、普段自分が食べるものでも、単純に食べたいものを食べられるときはいいのだけれど、ここにダイエットなどの要素が加わり、さらには家族の誰と誰が食べるかなど、複合的に考えなければいけない場合、なかなか判断が下せなくなっている。

自分の食べたいもの
ダイエットに適したもの
家族の誰が食べるものか
その家族に必要な食べ物
食材調達の難易度

このように書き出してみると、すんなりと頭の中で整理ができる。しかし、それぞれの情報を頭の中だけで一気に処理しようとすると、またまた情報がてんでんバラバラになり、判断することが難しくなる。。。





これは本当にここ一年くらいだろうか?
もしかしたら、もっと前からかも知れないけれど、顕著に自覚症状を覚えるようになったのは、最近のことだと思う。

それさえ、定かではないけれど。。。

この現実にちょっと傷ついて、お友達にも聞いたところ、、、

「そんなの当たり前じゃない!」

「のんびり主婦なんてやってたら、考える力が低下するのは当然!」

そんな答えが返ってきた。。。

確かに昔に比べて「脳を使ってる!」という実感を持つことはほとんどない。

何も考えていないわけではないけれど、複雑なことを考える機会は皆無と言ってもいい生活だ。
言ってしまえば、わかり切ったことを繰り返す日々。
目をつぶっていてもすんなりと出来ることの連続が、すなわち生活となっているのだ。

これはある意味、とても平和で幸せなことだろうと思う。
しかし、同時に危機感も覚えるのだ。

こんなふにゃふにゃの脳で、万が一不測の事態に至った際に、きちんと行動することができるのだろうか?

これはいけない!
「歳なんだから当たり前!」などと思わずに、なんとかしなければ!

もはや、顔のたるみやシワよりも深刻な問題ではないかと、受け止めている。

まずは、脳トレでもして、錆び切ってギーギーした思考をスムーズに動くようにしなければ。。。

修正不可能な部分は、書くことで補えるだけ、まだ救いはある。ここは何がなんでも死守すべきだろう。

もしも、友達の言うように、この状態が加齢によるものなら、これ以上悪化しないようにすることも大切だ。

肌のたるみだシワだと、身体的な衰えに心奪われている間に、別の部分が危うくなっていたことに気づかなかったとは、不覚であった。。。

どちらもしっかりとケアしなければと思った次第。。。

輝かなくてもいい人生。キラキラなど求めずに、地味に我が道を行くもまた幸せなり。

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私の生活はとても地味なものだとつくづく思う。

1ヶ月くらい前に、このサブブログとは別に、もう一つ日記代わりになるような第二のサブブログを作ったのだけれど、それを読み返していると、特別なことが起こることもない、同じような日々の繰り返しであることがわかる。

仕事もしていない、子育ても終了間近、ただ家事と自分なりの楽しみを細々としているだけの毎日。。。
きっと側から見たら、ものすごくつまらなそうな生活だろうと思う。

それでも、今の生活は割と気に入っているし、かなり満足度の高い毎日を送っていると自分では納得している。

いや、むしろこの生活は上々だろうと。





女性が輝く社会。。。

よく聞く言葉だけれど、

同時に「女性が生きづらい世の中」

そんな声も聞こえてくる。

しかし、50代となった私にとっては、どちらもまるで響かない。

「年齢なんて関係ない!」

「いくつになっても輝いていたい!」

そんな声があちこちから聞こえてくるけれど、老も若きもなぜみんなそんなにキラキラしたいのだろう。

だからこそ、「生きづらい」のではないのか?

そもそも「輝く」とはどんなことを言うのか?あまりに漠然としている。

お仕事をバリバリやって、社会と濃密に接している生活か?

やり甲斐のある仕事、理解のある夫、可愛い子供、余裕ある生活、全部得ることか?

ブランド物をまとい、港区あたりの素敵なレストランでステイタスのある男性と過ごすことか?


そもそも光を放つのはエネルギーが必要だ。人よりも輝きたければ、それだけ消耗することになる。
一見、輝いているように見えても、バックステージではまったく違う姿を見せていることも珍しくない。

水面を優雅に進む水鳥が、水面下では必死に足を動かしているように。。。

この歳になってまで、まだそんなエネルギーを放出し続けねばならないなど、考えただけで疲れてしまう。

私は別に輝いた人生ではなくてもいいと思っている。
外で花よ蝶よ!ともてはやされるよりも、自分の好きなこと、やりたいことだけに目を向けている方が幸せだ。

私はあまり家に引きこもっているのは好きではないけれど、仮に家でテレビやゲーム三昧することが何よりも楽しい!と思えるのなら、きっと毎日思う存分に引きこもってそうしていることだろう。

たまたま出歩くのが好き、食べることが好き、人と会うことが好きだからこそ、そんな毎日を楽しんでいるだけ。
そこには「輝きたい」などという思いは微塵もない。

人から見て輝いていたって、その芯が真っ黒に炭化していたら意味がない。

たとえ人からはくすんだような人生を生きていたとしても、自分のしていることが好きならいいじゃないのと思う。





日本というのは個人に対して相対的な評価を下させることが多い。
人と比べて、自分の位置はどこなのか?
学校の成績も受験も、仕事においても常に数字がつきまとう。

数字から解放されたとしても、今度は所有するマテリアルによってさらなる相対評価を受けることになる。

社会から半ば切り離されたような生活をしていても、その呪縛から逃れられない人は多い。

人と違うことで被る強い風を避けようと、自分の意思とは無関係に、安泰を求めようと人と同じ列に並ぶ。。。

挙句、安泰を求めたつもりが、余計な競争に巻き込まれたりで、さらに過酷な状況に自分をおいこむことになるというのに。

「女性も輝く社会」も同じようなものだと思う。

人と同じように「輝く社会」の一員になることを望んだがために、さらに強風吹き荒ぶ中を歩かねばならない状況になることもあるのだ。

ただ、本当に輝きたいと望むなら、それも一つの生き方だ。

どれだけ過酷であろうとも、自身がそれを望み、努力することは意味のあることだと私も思っている。

一番無意味なのは、世間の言うままに「輝かなくちゃ」と無理矢理にでも、自分というものを合わせようとすることだろう。

だからこそ「女性の生きづらい社会」などという声が出てくるのだと思う。

女性だろうが男性だろうが関係はない。
自分の意思に反した生き方をしていたら、誰もがつらいはずだ。

逆に、どんな険しい道であろうが、本当に行きたい場所があれば、苦しみながらもそのプロセスで学びながら、充実感を持って進んでいけるはずだ。





私はもう険しい道を歩いてまで辿り着きたい場所はない。
ただ、あらゆる苦悩から遠ざかり、心穏やかな毎日を送ることを望んでいる。

若い人たちは、自分が輝くために試行錯誤する時間がまだたっぷりと残されているのだから、いろいろな道を歩いてみるのもいいと思う。
その経験がやがて将来なんらかの役に立つこともある。
成功も失敗もどんなことも未来の糧になることだろう。

しかし、50も過ぎればそうも言っていられなくなる。この年齢の失敗は命取りだ。
起死回生する時間、体力、気力、それらが残り少ないのだから。

キラキラと輝くことよりも、絶対評価として自分自身が満点をつけられる暮らしを目指したい。

病院や医者を選ぶ基準は名医か否かではなく、相性も大切だったというお話。

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先日、某大学病院へ行った。
子供が少し前から不具合を抱えていて、近所のクリニックで診ていただいていたのだけれど、どうも改善の兆しが見えない。

特に大きな病気というわけではなかったので、それほど深刻には考えていなかった。
ただ、出された薬やこちらがした質問の答えにいささか不安を感じたため、病院を変えることにした。

いくら深刻な病ではないとはいえ、少しでも問題があるならきれいさっぱり片付けてしまった方がいいということで、詳しい検査をするため大学病院に紹介状を書いてもらった。

こんなことはなんの自慢にもならないのだけれど、私は病院や医者選びにはちょっとうるさい。
過去に大病をしたおかげで、どんな病院、どんな医者がいいのか、頭の中でしっかりとしたイメージが出来上がっている。

かつて、自分が病気を疑ったとき、訪れた病院で、何度も聞いた言葉。

「多分、なんでもないでしょう」

「様子を見て、また何かあったらきたら?」

そんなとき、自分の頭の中に「?」が浮かんだことがたびたびあった。

そんな時は、必ず「もっと詳しく検査できる病院に紹介状を書いてください」と、言うようにしてきた。

その結果、最終的に重篤な病が早期発見され、命拾いをしたという経験があるからだ。

自分の「感」をあなどってはいけない。
そう、つくづく感じた。

今回もそうだった。

やはりその医者と話す中、「?」が浮かんだ。そして、大学病院を紹介してもらった。案の定ここでこれまでわからなかった症状について、原因解明となった。





ほとんどの場合、自分で「このお医者さまがいい」と指定できるわけではない。
ある意味、どんな医者に診てもらえるかは、運によるところも多いと思っている。

これは名医か否か?は関係がない。

病気というのは難解なもので、同じ病でもその人によって症状が違っていたり、痛みひとつとってみても、個人によってその度合いも異なる。
つまり、医学書に書いてある通りにはいかないということだろう。

今回発見したのは、医者との相性ということ。

娘の主治医となったのは、私と同年代の女医さんだった。
診察中の話で、娘と同じ年頃の子を持つ母親だということがわかった。

娘の話を一通り聞き、診察をした女医さんは、これまで原因不明と言われてきたものを、いとも簡単に解決してしまった。

「いつも、こんな習慣がある?」

「こんな時、症状がひどくならない?」

言われることがいちいち的を得ていて少し驚いた。

ひょっとして、エスパーか⁉︎

違った。

「私も同じ年頃の子供がいるので」

その一言で、ようやく納得した。


娘に出ていた症状の原因は一つではなかった。あらゆることが重なった結果に出てきたもので、だからこそ普通の症例とは異なり、原因解明できなかったようだ。


子供の行動パターンがわかっているからこそ、病の根本を推測できたのだ。

もちろん年齢や大学病院という環境から、多くの臨床経験があるのだろうけれど、それだけではここまで深く推察することはできなかっただろうと思う。

病院で勤務医として働きながら、子育ても必死にやってきた人なのだろう。
話していてそれがよくわかった。

まったく頭が下がる。。。

どんな経験も無駄にならないものだと思った。

医者の仕事と子育てなど、どう考えても結びつかないと思っていたけれど、子供を育てるという経験が、医者としての知識を後押ししているのだ。

これは患者と医者の相性がよかったのだ。
たまたま同じ年頃の娘をもつお母さん医師に診ていただけたことが、解決に繋がったと言える。

これまで処方されていた薬は逆効果であり、それら全てをやめ、女医さんのアドバイスに従い、ほんの少し習慣を変えただけで、症状はどんどん改善されてきた。

やはり相性のよい医者と巡り合えるか否かは、運も大きく左右されのだろう。





ちなみに、私が医者に求めるのは、「安心感」だ。

診察に訪れ、そのドアを出るときに安心感が得られれば、その人は自分にとって「いい医者」だと思っている。
いわば、それが医者を選ぶ一番の基準になっている。

「安心感」はどんな医者から得られるのか?

思いつく項目を考えてみた。


・明るい雰囲気の医者
柔和な笑顔があるということは、冷静で前向きである証だ。

暗い顔をして診察されると、もうそれだけで不安になってしまう。

前向きに病気と向き合うためにも、明るい人柄の医者が安心できるものだ。

・話を濁さない医者
病院へ行って、これという原因がないとき、「んん〜」と首を傾げるだけの医者がたまにいたりする。
こちらが、思いつく限りの原因などを、尋ねても、「それもどうかな〜」「ん〜、違う気がするしな〜」と、煮え切らない。

原因が分からないなら、はっきり言えないのもわかるけれど、そんな時は必ず「とりあえず、様子みて」だけで終わるのだ。

様子を見ていられないから来たのに。。。と、こちらは悶々としてしまうのだ。


・行動してくれる医者
原因が分からないと、「様子を見て」とか「とりあえず」と薬を出されることが多いのだけれど、よい医者はなにかしら行動してくれることが多い。

「こんな病気も考えられるので、この検査をしましょう」など、具体的なら行動を示してくれる。

人は何もしないで手をこまねいている状態でいると悶々とするけれど、行動を起こすことでそんなモヤモヤが払拭されるものだ。

自分が病気に対して、できることをしているという実感が持てると、たとえそれが小さな検査だとしても安心できるものなのだ。

・話をよく聞いてくれる医者
私の現在の主治医とは、もう8年以上の付き合いになるだろうか。

今ではしっかり完治しているのだけれど、当時患った病がかなりたちの悪いものだったため、今でも半年に一度は通って健康診断がわりに診てもらっている。

この主治医は最初に訪れた時から今に至るまで、とにかくよく話を聞いてくれるのだ。自分が不安に思っていること、苦痛に思っていることなど、また治療中はその方針に対するどんな質問にも答えてくれていた。

これは患者にとってはもっとも安心できることだ。その医師を100%信頼できるというのは、病気と向き合う上で、大きな心の支えとなる。


このようなことを基準に、私はお世話になる病院や医者を選んできた。
そして、それによって悪い結果になったことはこれまでない。





医者というのは激務だ。私がお世話になっている病院の主治医を見ていても、とにかく大勢の患者さんを抱え、その上多くの初診の患者さんが常に待っている状態だ。

入院中に目にしたのは、そんな外来患者を多数抱えていながらも、早朝、また夜まで入院患者の様子を見て回っている姿だった。

「先生、いつ寝てるんですか?」

「ちゃんと寝てますか?」

会うたびに、こちらがそう言ってしまうほどだった。

そんな様子を目にしていると、「患者の話はじっくり聞いてください」というのも、気がひける。。。
一人の患者にさける時間には限りがあるからだ。

それでも、患者の一人としては、しっかり話を聞いてもらえると安心する。

その病が重篤であればあるほど、それが励みになることは、自分自身の経験からよくわかるのだ。

人の命を預かるという、医者の仕事は誰にでもできるものではない。ストレスも一般の人の比ではないだろうと想像できる。

医者だから偉い。

そんなことではなく、私は自分の命を救ってくれた主治医や、いつも一生懸命にお世話してくれた看護師の方々には、本当に感謝している。

そして、そんな相性のよい医者や看護師の方々と巡り合えたのは、非常に運がよかったことだとも思う。

ただ、それは自分が手を伸ばしたからこそとも言える。
自分に合った病院や医師に巡りあえるまで、諦めなかった結果だったのだ。

今回、娘の件で改めてそんなことを思ったのだった。。。


※このブログは始めた当初からポツポツ更新ですが、メインブログともう一つの日記ブログはほぼ毎日更新です(メインブログはたまにサボりますが)。

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