In other words

I really don't know life at all ...

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『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』アニメーション映画の面白さに思わず開眼した。

今週のお題「最近見た映画」 

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公式ホームページよりお借りしました。

映画を観るのは必ず映画館で。
若い頃から、いつもそうだった。
友達や家族と行ったこともあるにはあるけれど、やはり映画はひとりで行くのが好きだ。

しかし、最近はなかなか腰が重く、時間もあり近隣に映画館があるというのに、しばらくご無沙汰していた。

そんな時、娘から「とてもいい作品で、映像も綺麗だから」と誘われ、ちょうど時間もあったので、お付き合いのつもりで観に行ったのがこの映画だった。

『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』。

内容は自動手記人形「ドール」と呼ばれる代筆屋の少女、ヴァイオレットが、依頼人や彼女を取り巻く人々との関わりで、心の成長を遂げていくという物語。

この映画は元々小説であり、それを原作としてアニメーション化されたものだという。
私は小説を読んだこともなければ、アニメーション作品すら知らず、ただ娘からこれを観よ!と、
「5分でわかるヴァイオレット・エヴァーガーデン
という動画で、簡単な予習をしただけの状態で鑑賞したのだった。

しかし、たった5分の予習動画でも、主人公ヴァイオレットのバックグラウンドや、その心の核となるものがわかっていたせいだろうか、内容は問題なく理解することもできたし、人並みに感動したりもした。

多くを語ろうと思うと、それこそ内容を事細かく解説しなければならないので、その辺は割愛するとして、私自身がなによりも心に響いたのは、人との関わりを持つことで、人間が成長していく姿だった。

ヴァイオレットがさまざまな人の心にある感情や想いに触れるうち、次第に自分の人間としての感情も知らず知らずのうちに成長させていく。そんな姿が切なくもあり、嬉しくも感じた。

それは小さな子供がやがて大人になるのを見る喜びとどこか共通している。

人でなくても動物でも植物でも同じだ。

蒔いた花の種が芽吹き、やがて花を咲かせる。。。そんな成長の過程を見ることに喜びを感じるのは、私が産む性を持つ女性だからだろうか。。。

男性になったことはないので、よくわからないけれど。。。


アニメはもはやオタクだけのものではなくなったのだ。
昨今では多くのアニメーション映画が大ヒットを連発している。
それだけ内容も映像も素晴らしい作品が多いということなのだろう。

小難しい映画よりも、大人から子供まで、すべての人の心に訴えかけてくる映画がいい。
そして、そんな映画はアニメーション映画に多く見つけることができるのだと、最近分かってきた。。。

ひとりで映画を観に行くという行為は、よほど観たい映画でも出てこない限り、足が遠くなるものだ。

今回、京都アニメーションの制作した美しい映像をあの大画面で楽しみ、またひとり映画を楽しんでみたくなってきた。

50を過ぎた女が一人でアニメーション映画を観にいくのは、少し抵抗はあるけれど、面白そうな作品があれば、きっと行ってまうだろう。


先日たまたま映画を観たので、久しぶりに「今週のお題」について書いてみたのでした。。。

判断力、処理能力の低下は書くことで補える。50代はお肌のみならず脳のケアも必要。

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早いものでもう11月。。。
つい最近までジャケットなしでも気持ちよく歩けたのに、今日は部屋の中にいても床暖房のお世話になるくらいの寒さだった。

いくら寒くても、なるべくなら外出をして身体を動かした方がいいとわかっているのだけれど、こんな日は家にいたいもの。

「エンジンがかからない」という言葉をよく聞くけれど、まさにそんな感じの一日。

なんとかやるべき事は済ませたものの、探し物は見つからないし、家事もサクサクいかずで、もう頭と身体が別々の動きをしているように感じた。

こんな時、自分の判断力、そして処理能力の衰えをつくづく実感してしまう。
それらの低下に関しては、ここ1年くらいの間に時折意識することはあった気がするけれど、それほど深刻には捉えていなかった。
それが、最近はなんだかグタグタで危機感すら覚えるほどになっている。。。

これは何故なのか?
ネットでちょっとググってみたところ、「鬱」「認知症」などといった言葉がそこかしこから目に入ってくるではないか⁉︎
いやいや、まだそこまではいってないわよ!と、思わずスクリーンを閉じた。





原因が加齢によるものであることは否定しない。しかしまだ50代!
そこに書いてあるようなことは該当するとは、どうしても思えない。

では、その判断力や処理能力低下の原因とは?

それは得た情報を頭の中で瞬時に「整理」する力が減退しているためではないかと思いあたった。

物事を判断するとき、頭の中にある知識や経験、その時のフィーリングなどを総動員し、それらをきちんと整理してから判断するものだけれど、これがうまくまとまらない。

その証拠に、頭の中で考えるのではなく、実際に紙にその情報を書き出しながら整理してみると、すんなりと判断を下すことができたりすることが多い。

別にメモなどとらなくとも、これはそれほど難しいことではない。
いや、なかったはずだ。。。

たとえば、最近も旅行へ行きたいのだけど、どこへ行こうかなかなか判断が下せないでいた。

自分の行きたい場所、時間、アクセス、予算、目的など、様々な情報を頭に思い浮かべ、さてどこにしましょう?となるのだけれど、その一つ一つが散り散りになり、なかなか一つにまとめることができない。

行きたいと思っている場所が例えば5箇所あるとしたら、単純に地図を頭の中に思い浮かべ、ここであればどこをどう回り、このくらいの日数でこの目的を遂げられる。

若い頃はそんな風にできたものが、今はその地図を実際手にとって見ながらでないと計画が立てられなくなっている。

また、普段自分が食べるものでも、単純に食べたいものを食べられるときはいいのだけれど、ここにダイエットなどの要素が加わり、さらには家族の誰と誰が食べるかなど、複合的に考えなければいけない場合、なかなか判断が下せなくなっている。

自分の食べたいもの
ダイエットに適したもの
家族の誰が食べるものか
その家族に必要な食べ物
食材調達の難易度

このように書き出してみると、すんなりと頭の中で整理ができる。しかし、それぞれの情報を頭の中だけで一気に処理しようとすると、またまた情報がてんでんバラバラになり、判断することが難しくなる。。。





これは本当にここ一年くらいだろうか?
もしかしたら、もっと前からかも知れないけれど、顕著に自覚症状を覚えるようになったのは、最近のことだと思う。

それさえ、定かではないけれど。。。

この現実にちょっと傷ついて、お友達にも聞いたところ、、、

「そんなの当たり前じゃない!」

「のんびり主婦なんてやってたら、考える力が低下するのは当然!」

そんな答えが返ってきた。。。

確かに昔に比べて「脳を使ってる!」という実感を持つことはほとんどない。

何も考えていないわけではないけれど、複雑なことを考える機会は皆無と言ってもいい生活だ。
言ってしまえば、わかり切ったことを繰り返す日々。
目をつぶっていてもすんなりと出来ることの連続が、すなわち生活となっているのだ。

これはある意味、とても平和で幸せなことだろうと思う。
しかし、同時に危機感も覚えるのだ。

こんなふにゃふにゃの脳で、万が一不測の事態に至った際に、きちんと行動することができるのだろうか?

これはいけない!
「歳なんだから当たり前!」などと思わずに、なんとかしなければ!

もはや、顔のたるみやシワよりも深刻な問題ではないかと、受け止めている。

まずは、脳トレでもして、錆び切ってギーギーした思考をスムーズに動くようにしなければ。。。

修正不可能な部分は、書くことで補えるだけ、まだ救いはある。ここは何がなんでも死守すべきだろう。

もしも、友達の言うように、この状態が加齢によるものなら、これ以上悪化しないようにすることも大切だ。

肌のたるみだシワだと、身体的な衰えに心奪われている間に、別の部分が危うくなっていたことに気づかなかったとは、不覚であった。。。

どちらもしっかりとケアしなければと思った次第。。。

輝かなくてもいい人生。キラキラなど求めずに、地味に我が道を行くもまた幸せなり。

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私の生活はとても地味なものだとつくづく思う。

1ヶ月くらい前に、このサブブログとは別に、もう一つ日記代わりになるような第二のサブブログを作ったのだけれど、それを読み返していると、特別なことが起こることもない、同じような日々の繰り返しであることがわかる。

仕事もしていない、子育ても終了間近、ただ家事と自分なりの楽しみを細々としているだけの毎日。。。
きっと側から見たら、ものすごくつまらなそうな生活だろうと思う。

それでも、今の生活は割と気に入っているし、かなり満足度の高い毎日を送っていると自分では納得している。

いや、むしろこの生活は上々だろうと。





女性が輝く社会。。。

よく聞く言葉だけれど、

同時に「女性が生きづらい世の中」

そんな声も聞こえてくる。

しかし、50代となった私にとっては、どちらもまるで響かない。

「年齢なんて関係ない!」

「いくつになっても輝いていたい!」

そんな声があちこちから聞こえてくるけれど、老も若きもなぜみんなそんなにキラキラしたいのだろう。

だからこそ、「生きづらい」のではないのか?

そもそも「輝く」とはどんなことを言うのか?あまりに漠然としている。

お仕事をバリバリやって、社会と濃密に接している生活か?

やり甲斐のある仕事、理解のある夫、可愛い子供、余裕ある生活、全部得ることか?

ブランド物をまとい、港区あたりの素敵なレストランでステイタスのある男性と過ごすことか?


そもそも光を放つのはエネルギーが必要だ。人よりも輝きたければ、それだけ消耗することになる。
一見、輝いているように見えても、バックステージではまったく違う姿を見せていることも珍しくない。

水面を優雅に進む水鳥が、水面下では必死に足を動かしているように。。。

この歳になってまで、まだそんなエネルギーを放出し続けねばならないなど、考えただけで疲れてしまう。

私は別に輝いた人生ではなくてもいいと思っている。
外で花よ蝶よ!ともてはやされるよりも、自分の好きなこと、やりたいことだけに目を向けている方が幸せだ。

私はあまり家に引きこもっているのは好きではないけれど、仮に家でテレビやゲーム三昧することが何よりも楽しい!と思えるのなら、きっと毎日思う存分に引きこもってそうしていることだろう。

たまたま出歩くのが好き、食べることが好き、人と会うことが好きだからこそ、そんな毎日を楽しんでいるだけ。
そこには「輝きたい」などという思いは微塵もない。

人から見て輝いていたって、その芯が真っ黒に炭化していたら意味がない。

たとえ人からはくすんだような人生を生きていたとしても、自分のしていることが好きならいいじゃないのと思う。





日本というのは個人に対して相対的な評価を下させることが多い。
人と比べて、自分の位置はどこなのか?
学校の成績も受験も、仕事においても常に数字がつきまとう。

数字から解放されたとしても、今度は所有するマテリアルによってさらなる相対評価を受けることになる。

社会から半ば切り離されたような生活をしていても、その呪縛から逃れられない人は多い。

人と違うことで被る強い風を避けようと、自分の意思とは無関係に、安泰を求めようと人と同じ列に並ぶ。。。

挙句、安泰を求めたつもりが、余計な競争に巻き込まれたりで、さらに過酷な状況に自分をおいこむことになるというのに。

「女性も輝く社会」も同じようなものだと思う。

人と同じように「輝く社会」の一員になることを望んだがために、さらに強風吹き荒ぶ中を歩かねばならない状況になることもあるのだ。

ただ、本当に輝きたいと望むなら、それも一つの生き方だ。

どれだけ過酷であろうとも、自身がそれを望み、努力することは意味のあることだと私も思っている。

一番無意味なのは、世間の言うままに「輝かなくちゃ」と無理矢理にでも、自分というものを合わせようとすることだろう。

だからこそ「女性の生きづらい社会」などという声が出てくるのだと思う。

女性だろうが男性だろうが関係はない。
自分の意思に反した生き方をしていたら、誰もがつらいはずだ。

逆に、どんな険しい道であろうが、本当に行きたい場所があれば、苦しみながらもそのプロセスで学びながら、充実感を持って進んでいけるはずだ。





私はもう険しい道を歩いてまで辿り着きたい場所はない。
ただ、あらゆる苦悩から遠ざかり、心穏やかな毎日を送ることを望んでいる。

若い人たちは、自分が輝くために試行錯誤する時間がまだたっぷりと残されているのだから、いろいろな道を歩いてみるのもいいと思う。
その経験がやがて将来なんらかの役に立つこともある。
成功も失敗もどんなことも未来の糧になることだろう。

しかし、50も過ぎればそうも言っていられなくなる。この年齢の失敗は命取りだ。
起死回生する時間、体力、気力、それらが残り少ないのだから。

キラキラと輝くことよりも、絶対評価として自分自身が満点をつけられる暮らしを目指したい。