In other words

I really don't know life at all ...

Sponsored Link

国際結婚には当たり前の選択的夫婦別姓。それでも同姓を選ぶ人が多い事実。

f:id:frankie17:20201118113955j:plain

時々Twitterを見る。正直言えばあまり好きではないのだけれど、どんなことが起こっているか、話題になっているかなど、TVのニュースを見るより早い。

自分のTwitterに関しては、メインブログの「ブログアップしました」という告知メインで、ほとんど余計な呟きはしないので、フォローもフォロワーも極端に少ない。
それでもトピックによってはTwitter経由で多少アクセスアップに貢献してくれるので、消極的ながらも続けている。


今朝もTwitterをつらつらと見ていると、「選択的夫婦別姓」という話題がトレンドに上がっていた。

Twitter上の意見がすべてではないけれど、夫婦別姓を望む人の声の大きさにちょっと驚いた。

夫婦別姓を望む人の多さにではなく、そこまで自分の姓にこだわりを持つ人の多さにだ。

夫婦で姓が違うのはそれほど問題なのだろうか?

また夫婦で姓を同じくすることに、それほど大きな意味があるのだろうか?

私にとってはどちらも大きな問題ではない。





私は国際結婚しているのだけれど、元々国際結婚に関しては、夫婦別姓を選択することができる。

パートナーが外国籍であれば、日本における「戸籍」そのものがない。それでも、求めれば夫となる人の横文字姓に変えることができるのだ。

結論から言えば私は夫婦別姓を選択した。
いや、選択したというのではなく、ただ面倒で手続きをしたくなかったため、そのまま旧姓のままでの婚姻となっただけだった。

姓が変われば銀行の口座からパスポートから、何から何まで変更の届出を出さなければならない。
それを考えたら、そのままで済むのならそれに越したことはないと考えたのだ。

そして、もう一つの理由が外国姓を名乗る自分が想像できなかったからというのもある。

ブログ上では「Frankie(フランキー)」などという名をつけている私だけれど、リアルでは違う。

日本で生まれ育った生粋のジャパニーズである「山田花子」さんが、いきなり「ベーカー花子」とか「トンプソン雪子」などという姓に変わることを想像して欲しい。

それを自分に当てはめると、笑いが出てくるほどだ。まるでフリルのドレスを着て、下駄を履いているような気持ちになる。

誰も人の名前など頓着しないだろうから、ちょっと自意識過剰かとも思うけれど、若い頃の私は本気でそう思っていたのだ。

そんなこともあって、旧姓のままでいることにしたのだけれど、それで不自由を感じたことは一度もないので、正解だったと言ってもいいだろう。

ところが、選択できるにも関わらず、あえて面倒な手続きを踏み、夫の姓を名乗る女性が多いのも国際結婚の不思議なところだ。

特に統計を取ったわけではないから、これはあくまでも私や夫界隈での印象だけれど、圧倒的に同姓を選択する女性が多い。

私の周りの国際結婚している女性は10人いればそのうちの8割以上といってもいい女性が夫の姓を名乗っているのだ。

これはなぜだろうか?
不思議に思っても、根掘り葉掘り聞くのも失礼かと、あえて理由を尋ねたことはないけれど、なんとなく感じるのは「結婚したら夫の姓を名乗る」ことが当然であるという、既成概念によってそのような選択をしているように思えた。

私は自分の権利に関しては貪欲な方なので、選べるなら自分で選ばせて!とばかりに、煩雑な手続きを避けるため、喜んで別姓にしたけれど、それは人生の一大イベントである「結婚」に対しては、非常に安易な考えであると思われていたようだ。

みんな、真面目なのだ。。。





別姓選択制の反対意見として、「結婚に対する覚悟が薄れる」「離婚を前提としている」という意見が見られるけれど、特に私の年代、つまり20年以上前の結婚では、そんな風潮が今よりも色濃くあったのかもしれないとも感じる。

国際結婚においては、結婚に対する覚悟など、苗字以前の問題であり、どんな名を使おうがそれなりの覚悟なくしてはできるものではない。つねに面倒な問題に付きまとわれていくのだから、当然覚悟くらいはあった。

そして、離婚前提に関しても、あるデータによると、国際結婚の離婚率は50%以上というのだから、合理的に考えても、その辺を念頭に置いて選択することは間違っていない。それの何が悪いのかと思う。

とは言え、離婚ありきで結婚する人などはいない。国際結婚であろうが、日本人同士の結婚であろうが、誰もが生涯連れ添う覚悟でするものだ。

それをあえて「離婚を前提」などというのは、ちょっと失礼な話でもある。


私はこの国際結婚が初めてであり、なぜかいまだに婚姻関係を継続しているため、日本人同士の結婚による姓の選択に関してはよくわからない。

どちらかの姓を選択しなければいけないということくらいは知っているけれど、それがどれだけ大きな問題なのだろうかと、ピンとこないのだ。

いまは働く女性も多いので、いきなり結婚によって姓が変わるのは都合がよくないという人もいるのだろう。
それはなんとなくわかる気がする。職場では旧姓を名乗り、戸籍上は夫の姓という人は昔からいたものだ。

夫婦別姓を選択したい理由が便宜上というならわかるけれど、昨今はちょっと違う意見もあったりする。

女性の権利とか、男尊女卑とか、自分の姓を大切にしたいとか、なんだか飛躍してる感が否めないのだけれど、それも別姓を望む理由の一つとしてあるようだ。

ここまでくると、私はもうついていけない。。。





反対派の意見として子供についての問題がある。子供にとってはどちらかの親と姓が異なるのはよくないといった意見だ。

我が家の子供達は、現在父親とは違う姓を名乗っている。
海外で暮らしていた頃は夫の姓を名乗り、日本では私の姓(日本の苗字)を使うといった具合にその時々で選択しているのだけれど、いずれにしても父親または母親と姓が異なることになる。
しかし、それでなにか都合の悪い事態が生じたことは20年以上皆無だ。

「なぜ、お父さん(お母さん)と違う苗字なの?」

そもそもそのような偏見があること自体が問題だし、そんなことをあえて言ってくるデリカシーのない人などほとんどいない。

「家族の絆」というのも別姓反対派の意見の一つとなっているようだけれど、たかが名乗る姓が違うくらいで絆が綻ぶのなら、とうに別の理由でその家庭は崩壊しているだろう。

「戸籍制度」「家制度」という日本の独特の考え方からすれば、それとはほとんど無縁な国際結婚は比較にならないのかもしれないけれど、結局のところ誰もが「選択できる自由」があるのはよいことだと思う。

夫の姓を名乗りたいという女性も少なくないだろうし、逆に自分の姓を変えたくないという人もいる。

今回の論争は夫婦別姓にしなければいけないという強制ではなく、別姓を選択する自由が得られるということだから、それの何が問題なのかよくわからない。。。

同姓を選ぶことも、別姓を選ぶことも可能になるということなら、それが一番いいことだと私は思っている。

結婚によって姓が変わり、不便になったという人もいれば、知り合いで自分の姓が嫌いだったけれど、結婚をして夫の格好いい姓に変えられてハッピーだと言っていた人もいた。





人はそれぞれ事情を抱えて生きているものだ。
そう考えると、各々が自分の考えや生活に則した姓を選択できれば、それに越したことはないと思う。たとえそれで家庭が崩壊しても、離婚にあいなったとしても、それは自己責任。自由に責任はつきものなのだから。。。


そんなことを言いながらも、私は別にこの「選択的夫婦別姓」に賛成しているわけでも、反対しているわけでもない。
つまり、それほど大きな問題ではないと思っている。

名前など所詮はただの固有名詞だ。
姓がどうであろうが、「自分」という人間に変わりはない。
便宜上とか、日本人だから横文字姓より漢字姓といった好みで別姓を選択した身としては、正直なところ、苗字などそれほど真剣に考えてもいなかったし、その程度のことだった。

もしも、夫婦同姓にしなければいけなかったとしても、面倒くさいなとか、自分が外国の名前を名乗るなんて笑えるわ。。。などと、ブチブチ言いながらも、当たり前のように夫婦同姓としたことだろう。
私にとってはその程度のことなのだ。

しかし、ここまで問題になるということは、もしかしたら、なにか私の知らない、気づかぬ思惑が、この「選択的夫婦別姓論」に隠れているかもしれない。。。

頭のいい官僚達が、この制度を利用して、我々から更なる税金を巻き上げるカラクリを作ろうとしているのではないか⁉︎

なにか裏に黒い陰謀でも隠されているのではないか⁉︎

暇に任せてそんなことを思ったり(笑)

なにはともあれ、複雑だと思っていた国際結婚だけれど、夫婦別姓論を見ていると、日本人同士の結婚の方が大変そうである。。。

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』アニメーション映画の面白さに思わず開眼した。

今週のお題「最近見た映画」 

f:id:frankie17:20201107200033j:plain
公式ホームページよりお借りしました。

映画を観るのは必ず映画館で。
若い頃から、いつもそうだった。
友達や家族と行ったこともあるにはあるけれど、やはり映画はひとりで行くのが好きだ。

しかし、最近はなかなか腰が重く、時間もあり近隣に映画館があるというのに、しばらくご無沙汰していた。

そんな時、娘から「とてもいい作品で、映像も綺麗だから」と誘われ、ちょうど時間もあったので、お付き合いのつもりで観に行ったのがこの映画だった。

『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』。

内容は自動手記人形「ドール」と呼ばれる代筆屋の少女、ヴァイオレットが、依頼人や彼女を取り巻く人々との関わりで、心の成長を遂げていくという物語。

この映画は元々小説であり、それを原作としてアニメーション化されたものだという。
私は小説を読んだこともなければ、アニメーション作品すら知らず、ただ娘からこれを観よ!と、
「5分でわかるヴァイオレット・エヴァーガーデン
という動画で、簡単な予習をしただけの状態で鑑賞したのだった。

しかし、たった5分の予習動画でも、主人公ヴァイオレットのバックグラウンドや、その心の核となるものがわかっていたせいだろうか、内容は問題なく理解することもできたし、人並みに感動したりもした。

多くを語ろうと思うと、それこそ内容を事細かく解説しなければならないので、その辺は割愛するとして、私自身がなによりも心に響いたのは、人との関わりを持つことで、人間が成長していく姿だった。

ヴァイオレットがさまざまな人の心にある感情や想いに触れるうち、次第に自分の人間としての感情も知らず知らずのうちに成長させていく。そんな姿が切なくもあり、嬉しくも感じた。

それは小さな子供がやがて大人になるのを見る喜びとどこか共通している。

人でなくても動物でも植物でも同じだ。

蒔いた花の種が芽吹き、やがて花を咲かせる。。。そんな成長の過程を見ることに喜びを感じるのは、私が産む性を持つ女性だからだろうか。。。

男性になったことはないので、よくわからないけれど。。。


アニメはもはやオタクだけのものではなくなったのだ。
昨今では多くのアニメーション映画が大ヒットを連発している。
それだけ内容も映像も素晴らしい作品が多いということなのだろう。

小難しい映画よりも、大人から子供まで、すべての人の心に訴えかけてくる映画がいい。
そして、そんな映画はアニメーション映画に多く見つけることができるのだと、最近分かってきた。。。

ひとりで映画を観に行くという行為は、よほど観たい映画でも出てこない限り、足が遠くなるものだ。

今回、京都アニメーションの制作した美しい映像をあの大画面で楽しみ、またひとり映画を楽しんでみたくなってきた。

50を過ぎた女が一人でアニメーション映画を観にいくのは、少し抵抗はあるけれど、面白そうな作品があれば、きっと行ってまうだろう。


先日たまたま映画を観たので、久しぶりに「今週のお題」について書いてみたのでした。。。

判断力、処理能力の低下は書くことで補える。50代はお肌のみならず脳のケアも必要。

f:id:frankie17:20201101175213j:plain

早いものでもう11月。。。
つい最近までジャケットなしでも気持ちよく歩けたのに、今日は部屋の中にいても床暖房のお世話になるくらいの寒さだった。

いくら寒くても、なるべくなら外出をして身体を動かした方がいいとわかっているのだけれど、こんな日は家にいたいもの。

「エンジンがかからない」という言葉をよく聞くけれど、まさにそんな感じの一日。

なんとかやるべき事は済ませたものの、探し物は見つからないし、家事もサクサクいかずで、もう頭と身体が別々の動きをしているように感じた。

こんな時、自分の判断力、そして処理能力の衰えをつくづく実感してしまう。
それらの低下に関しては、ここ1年くらいの間に時折意識することはあった気がするけれど、それほど深刻には捉えていなかった。
それが、最近はなんだかグタグタで危機感すら覚えるほどになっている。。。

これは何故なのか?
ネットでちょっとググってみたところ、「鬱」「認知症」などといった言葉がそこかしこから目に入ってくるではないか⁉︎
いやいや、まだそこまではいってないわよ!と、思わずスクリーンを閉じた。





原因が加齢によるものであることは否定しない。しかしまだ50代!
そこに書いてあるようなことは該当するとは、どうしても思えない。

では、その判断力や処理能力低下の原因とは?

それは得た情報を頭の中で瞬時に「整理」する力が減退しているためではないかと思いあたった。

物事を判断するとき、頭の中にある知識や経験、その時のフィーリングなどを総動員し、それらをきちんと整理してから判断するものだけれど、これがうまくまとまらない。

その証拠に、頭の中で考えるのではなく、実際に紙にその情報を書き出しながら整理してみると、すんなりと判断を下すことができたりすることが多い。

別にメモなどとらなくとも、これはそれほど難しいことではない。
いや、なかったはずだ。。。

たとえば、最近も旅行へ行きたいのだけど、どこへ行こうかなかなか判断が下せないでいた。

自分の行きたい場所、時間、アクセス、予算、目的など、様々な情報を頭に思い浮かべ、さてどこにしましょう?となるのだけれど、その一つ一つが散り散りになり、なかなか一つにまとめることができない。

行きたいと思っている場所が例えば5箇所あるとしたら、単純に地図を頭の中に思い浮かべ、ここであればどこをどう回り、このくらいの日数でこの目的を遂げられる。

若い頃はそんな風にできたものが、今はその地図を実際手にとって見ながらでないと計画が立てられなくなっている。

また、普段自分が食べるものでも、単純に食べたいものを食べられるときはいいのだけれど、ここにダイエットなどの要素が加わり、さらには家族の誰と誰が食べるかなど、複合的に考えなければいけない場合、なかなか判断が下せなくなっている。

自分の食べたいもの
ダイエットに適したもの
家族の誰が食べるものか
その家族に必要な食べ物
食材調達の難易度

このように書き出してみると、すんなりと頭の中で整理ができる。しかし、それぞれの情報を頭の中だけで一気に処理しようとすると、またまた情報がてんでんバラバラになり、判断することが難しくなる。。。





これは本当にここ一年くらいだろうか?
もしかしたら、もっと前からかも知れないけれど、顕著に自覚症状を覚えるようになったのは、最近のことだと思う。

それさえ、定かではないけれど。。。

この現実にちょっと傷ついて、お友達にも聞いたところ、、、

「そんなの当たり前じゃない!」

「のんびり主婦なんてやってたら、考える力が低下するのは当然!」

そんな答えが返ってきた。。。

確かに昔に比べて「脳を使ってる!」という実感を持つことはほとんどない。

何も考えていないわけではないけれど、複雑なことを考える機会は皆無と言ってもいい生活だ。
言ってしまえば、わかり切ったことを繰り返す日々。
目をつぶっていてもすんなりと出来ることの連続が、すなわち生活となっているのだ。

これはある意味、とても平和で幸せなことだろうと思う。
しかし、同時に危機感も覚えるのだ。

こんなふにゃふにゃの脳で、万が一不測の事態に至った際に、きちんと行動することができるのだろうか?

これはいけない!
「歳なんだから当たり前!」などと思わずに、なんとかしなければ!

もはや、顔のたるみやシワよりも深刻な問題ではないかと、受け止めている。

まずは、脳トレでもして、錆び切ってギーギーした思考をスムーズに動くようにしなければ。。。

修正不可能な部分は、書くことで補えるだけ、まだ救いはある。ここは何がなんでも死守すべきだろう。

もしも、友達の言うように、この状態が加齢によるものなら、これ以上悪化しないようにすることも大切だ。

肌のたるみだシワだと、身体的な衰えに心奪われている間に、別の部分が危うくなっていたことに気づかなかったとは、不覚であった。。。

どちらもしっかりとケアしなければと思った次第。。。