In other words

I really don't know life at all ...

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50代以上に特化した美容院が欲しい。ナチュラルではいられない中年女性の憂鬱。

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また美容院に頭を悩ませている。
同じサロンに通い続け、自分の髪のことを把握している美容師さんがいる人は幸せだなと、つくづく思う。

もし美容院運の悪い人がいるとしたら、それは私だ。。。

ようやく見つけたサロンが移転してしまった。その前に何年も通い続けていたサロンも同じだった。

またか。。。私ってつくづく美容院に縁がないのね。

そう思っていたけれど、周りの友人達の話を聞いていると、運だけではなさそうだ。

まず、私は「家から近い美容院」にこだわっている。
美容院はカットにカラー、トリートメントなどで優に2時間は必要となる。遠ければ移動時間も含め、美容院に費やす時間はそれだけ長くなる。
暇な身の上ではあるけれど、時間に関してはケチなので、徒歩で気軽に行ける場所にこだわってきた。

もう一つは、早くから予約を入れておかなくても、思い立ったら当日、もしくは翌々日くらいまでには施術してもらえること。
とても勝手なのだけれど、思い立ったら吉日という性格なのだ。

まだある。それは「感性」が合うこと。これは確実にあって、「好み」とも言える。
同じような傾向のスタイルが好きか否かで、こちらが希望のスタイルを伝えた時の理解度は格段に違う。

あとはカットの技術だ。これは一度カットして貰えばわかる。
今は美容院によっては、トップスタイリストのような肩書きがある人は、他の人よりも高い施術料が設定されているケースがあるけれど、そこまでは求めていない。

確かにカットの上手な美容師さんとそうでない人の差は小さくない。細かいことを言えば、ロングヘアーが得意な人、ショートが得意な人などもいて、その辺は気に留める必要はあるけれど、私は普通にカットできる技術があれば十分だと思っている。





最近わたしが頭を悩ませているのは、美容院というのは、概して若い人向けのところが多いということだ。

今はスマホなどで地域の美容院を探すことは簡単にできる。しかもそこから予約までできてしまう。

選ぶのに困るほどの数だ。
それなのに、自分が行きたいと思うようなサロンが見つからない。

娘から美容院(美容師さん)を選ぶ際は、インスタやサロンのホームページで、作品として出されている写真を見ることだと教えてもらった。
それが素敵だと思えば、一度その美容師さんのところへ行けばいいと。
いわゆる「感性」や「好み」の確認だ。

問題はそこからなのだ。
たくさんの写真の中には、「こんな髪型にしたいわ」といった、気に入ったスタイルを見つけることは容易にできる。
ところが、困ったことにそのモデルさんは、みんな自分の娘くらいの年齢の人ばかりなのだ。

いくらスタイルが素敵でも、さすがにそれだけ年齢のギャップがあると参考にはならない。

私の探し方が悪いのか、いわゆる「おばさん」をモデルにしたような写真が見つからないのだ。

本人は「目指すは奇跡の50歳、石田ゆり子!」などと意気込んで行ったものの、帰りは「どこのお笑い女芸人か。。。」と落胆して帰ってくることになるのだ。

美容師さんが悪いのではない。年齢ギャップのせいだ。
そう言い切りたいところだけれど、私という土台も問題なのは承知している。

50代でも素敵なヘアースタイルをしている人はたまに見かけるけれど、ほとんどがお綺麗な人だ。

元がよければ、なんでも似合うというのは、服でもヘアースタイルでも同じということだ。





最近「イエベブルベ診断」なるものがあり、ファッションやメイクを選ぶ際に、自分の肌色に合った、似合う色を知るという診断なのだけれど、あれも結局は美人さんがやればなんでも似合って見えるものだ。
当てにはならい。。。そう思っている。

ヘアースタイルも然りか?と言えば、そんなことはない。

50も過ぎれば当然髪の質も変わる。かつてあったツヤやハリは勢いをなくし、なんとなく水分量が足りないバサバサ感を感じることが増えた。
マメに美容院へ通い、トリートメントなどでケアをしないと、ツヤツヤ髪は保てなくなってきた。

女性が中年期に差し掛かると、途端にロングヘアーの人が激減するのも、それが原因だろう。

私もギリギリまでロングヘアーに拘ってきたけれど、昨年胸の下まであった髪を、ようやくバッサリと肩までカットした。

長いことお気に入りの美容院が見つからず、美容院ジプシーをしていたのだけれど、ようやく気に入ったところを見つけ、思い切って短くしてもらったのだ。

移転してしまったのは、その数ヶ月後のことだった。。。

1月中は原因不明の腰痛でほとんど外出できない状態だった上、コロナによる緊急事態宣言もあったりで、美容院に行けなかったので問題はなかったのだけれど、「そろそろカットしてこなくちゃ」そう思った時、行き場がないことに気づいたのだ。





またしても美容院ジプシーか。。。

とりあえずはと、娘が通っている美容院を紹介してもらい行ってみた。

悪くない。というか、かなり上手。30代のとても感じのよい美容師さんで、とても気に入った。
ちょっとお高いサロンなのが難点だし、近所ではない距離感が気になるところではあるけれど、間に合わせにしては上々だ。

このまま、そこのリピーターになろうと、通うことにした。
しかし、施術してもらうたびに思うのは、感性が若すぎる。。。ということ。

「自然に」というナチュラル路線は、何事においても主流の昨今だけれど、中年期の女性にはとても危険なことだ。

自然にすればするほど、劣化を露出させることになる。
メイクでも若い頃ならBBクリームのようなものを塗った上に、軽くルーセントパウダーをはたいただけで美肌ができあがる。
しかし、50代ともなれば、それだと肌のシミやくすみを隠すことはできない。

服にしてもそうだ。飾り気のない服装はだらしなく見えてしまう確率の方が遥かに高い。

ヘアーも然り、極端な話、自然になどしていたら、バサバサの白髪頭になってしまう。

最近は、40代でもグレーヘアーにしている人が多くいるというけれど、個人的にはグレーヘアーになるのは70歳過ぎてからが一番しっくりくると思っている。

つまりは、ナチュラルが主流の若い感性に、50代のヘアーは適応できないということが問題なのだ。

自然の髪の流れを生かして。。。

そんなスタイルにすると、なんとなく今の自分とミスマッチ感を覚える。

まるでハリの衰えた肌をあらわに、中年期の女性がノースリーブやミニスカートを履いているのを見た時の感じと似ている。





50代の求める理想のヘアースタイルとは、流行を追い求めるものではなく、いかに年齢にマッチした上品さと清潔感を出すことができるかに尽きる。
それを自然路線で処理しようとするからおかしくなるのだ。

一番いいのは、同じような悩みを身をもって理解してしている美容師さんを探すことだ。
しかし、それが極めて難しい。

私が暮らす都心部には、とにかくたくさんの美容院があり、若い娘達にとっては、選り取り見取りであり、なぜ私がここまで美容院選びに苦労しているのかがわからないという。

当然だ。。。自然乾燥した髪にすっぴんでいても綺麗な若い娘達にはわかるまい。
(しかし、いつかは同じ道を行くのだから、今の母の姿をよく見ておくのだ!)

そんな多くの美容院があっても、そのほとんどが若い人をターゲットとしているように思えるのだ。
先程言及したように、サンプルのモデルがそれを物語っている。

地域に密着した古くからある美容院で、それなりに歳を重ねた年配の美容師さんが、リピーターを獲得し長く商いを続けている。そんなサロンは少ない。

いくら数があったところで、自分の求めているような店がないのでは意味がない。

「R50」という、中年期女性を美しくすることに特化した美容院はないものだろうか。
そんなコンセプトを強く打ち出している美容院があれば、さぞかし繁盛するのではなかろうかと思うのだけれど。。。

花の盛りを過ぎた中年でも、美しくありたいと思うのは、男でも女でも同じだ。

たかがヘアースタイル、されどヘアースタイル。。。
なんとかならないものかと、美容院のことを考えると、しばし憂鬱になる。

なんだかいつも同じようなことをボヤいている気がするけれど、女の50代、悩み多きお年頃なのである。

東日本大震災から10年目。その日、その後の出来事から、これからくる災害に備える。

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東日本大震災から今日で10年。
月日が経つのは本当に早いものだと思う。

当時小学生だった子供達も大人になった。

あの日、ちょうどPTAの会合があり、私も子供達も学校にいた。会合は終わっていたけれど、子供達といっしょに帰ろうと、何人かのメンバーと校内に残って待っていたのだった。

その時に、あの地震が起きた。

これまで経験したことない揺れと恐怖に、低学年用の小さな机の下に潜り込み、揺れがおさまるのを待った。

あの時の恐怖はよく覚えているけれど、私が思い出すのはその後のことだ。

校庭に全校生徒が避難したあと、私達も外に出たのだけれど、その時ものすごいスピードで空の色が変わりだした。空の青さが失われ、グレーになり、やがて黒い曇が押し寄せてきた。その不気味な光景は今でも鮮明に思い出せる。
それを見たとき、何かとんでもないことが起こっていると、改めて感じた。

その直後、たまたま被災地に出張していたという、ある保護者の配偶者から、震源地がどこであるか、どれだけの被害が予想されるかなど、少しの情報がもたらされたのだった。

東京でもこれまでにないような大きな地震が起きたのだ。もしかしたら、明日から普通の生活はできないかもしれない。。。

そう思い、解散となったあと、2人の子供を連れてまっすぐ一番近いコンビニへ行った。

その時まだ店内の棚にはいつもように商品がたくさん置いてあったので、3人で持てるだけの食料や雑貨を買って帰宅した。

家の中はいつもと変わりはなかった。水槽の水が床を濡らしていたけれど、それ以外は家具の倒壊などもなく、これといって地震の影響は見られなかった。

小さなマンションだけれど、大家さんが「地震にだけは強く作ってあるから安心してね」と、日頃から言っていたのは本当だったのだ。

そのマンションに引っ越してきたのは前年の夏だった。当時13階建てマンションの最上階に住んでいたのだけれど、小さな地震が起きるたびに不安な気持ちになっていた。
ちょうど更新時期だったので、今度は低層の小さなマンションで暮らしたいと、そんな物件を探したのだった。

特にお洒落とか設備が整っているというわけではなかったけれど、地盤のしっかりとした地域で、「地震に強い」という大家さんの言葉で入居を決めたのだった。

その約半年後に起きた地震だった。

友人の家ではピアノが倒れた、食器棚が倒れたなど、そんな声もきこえてきた。

動物の感というものだろうか、予知能力など当然ないけれど、不安を感じたことを無視しなかったことが功を奏したと言える。

地震発生後、連絡のとれなかった夫も私達より30分ほど遅れて帰宅した。

東京では帰宅困難者が溢れていたけれど、幸い都心暮らしで夫の職場も徒歩圏だったので、そうした問題はなかった。

この時、やはり夫もコンビニに寄ってきたと、雑貨や食料品をたくさん抱えて帰ってきたのだ。
外国人である夫は地震の経験などなかったけれど、不便だったり治安の悪いところで生活してきた経験から、危機管理能力は私より遥かに高い。

余談だけれど、この地震が起きる前日、夫は仕事に出かける時に玄関先で空を見上げ、「地震でも起きそうだなぁ」と言ったのだった。
感情で生きている人なので、第六感が働いたのかもしれない。。。

とにかく、夫婦とは似るものなのか、考えることは同じだった。

乾電池やトイレットペーパー、牛乳やパン、インスタント麺など、当面は困らないだろうと思ったけれど、二人で話をするうち、「あれもあった方がよくないか?なら、あれは?」と、用意しておきたいものがいくつか出てきたので、再び子供達を連れ、今度は家族4人でコンビニへ向かった。

しかし、そこで目にしたのは、空っぽの棚だった。お菓子からパン、お弁当、ドリンク類、生活雑貨まで、ほとんどの棚に商品は全く残っていなかった。

顔見知りの店員さんが、「奥さんが帰った後くらいから、ドッとお客さんが来て、あっという間になくなっちゃいました」と言っていた。

とりあえず、困らない程度には用意できているのだから、なんとかなる。あとは万が一のときでも工夫してなんとかやっていこうということで帰宅した。

それからが大変だった。
被災地で避難所生活をしている人からしたら、なんと恵まれているのだろうとは思うけれど、その時の生活は現在の新型コロナ以上の恐怖があった。

地震が起きた時よりも、その後の生活の方が覚えているというのはそういうことだ。

TVでは凄惨な東北の状況が次々に映し出され、福島の原発でもメルトダウンの恐怖が語られていた。

そんな中、TVに映し出された福島原発爆発の映像。。。
今でもあの映像を観ると、涙が出そうになるくらいなのだから、当時は本当に「これからどうなるのだろう?」とショックを受けた。

東京でも放射能の話でもちきり。以降、多くの人が東京を脱出し始めた。

元々地方出身者の多い東京だ。西の方から上京してきた人たちは、みんな子供を連れて郷里へ避難した。
富裕層の友人達は、海外にある別荘やホテルへ避難。
大手外資系企業などでは、会社によっては大阪あたりにホテルを用意し、避難を促していたため、大阪へ避難した友人知人もいた。
なんのツテもないまま、とにかく東京にはいられないと、自主避難した人も多く、周りからあっという間に人がいなくなった。。。

子供達の学校は自由登校となっていて、欠席扱いにはならないということだったので、そんな状況も東京脱出に拍車をかけたのだろうと思う。

大きな商業施設を有し、あらゆる企業がオフィスを構えるエリアのため、いつも多くの人が行き交っていたのに、街はまるでゴーストタウンのようになった。
加えて計画停電のため、街灯の灯らない真っ暗な街を見て、どれほどの人が東京から出て行ったのかがわかるようだった。

我が家でもどうするべきか、家族で話し合った。
夫の両親をはじめ、親類縁者、アメリカからヨーロッパ、オセアニアからアフリカまで、あらゆるところに散らばっている。

そんな親戚達から「こちらに避難してきなさい!」という、ありがたいオファーが毎日きていたのだ。
まさに、あの原発爆発の映像を観たせいだ。

夫は仕事上、責任もあるので東京を離れる気はないけれど、せめて私と子供達だけでも避難したらどうか?と言った。

しかし、私もまた東京を離れるつもりはなかった。
避難したとしても、いずれはここに帰ってくることがわかっていたからだ。
たかが2、3ヶ月避難したところで、何が変わるというのか?そう思っていた。

どうせすぐ帰ってくるのなら、わざわざ遠くまで行く必要はない。とりあえず子供達は学校を休ませて、情報を集めながら、気をつけて生活してみようということになった。

今でもその時の決断は正しかったと思っている。
関西方面に避難した友人達は2週間ほどで東京に戻ってきた。
かりそめの生活は長くは続かなかったという。

自主避難した人の中で、お里帰り組はまだいいとして、ホテルなどへ自主避難した人達の中には、経済的な問題に晒され、やむなく東京へ戻って来た人もいた。
経済的な問題がない人でも、子供を連れてのホテル暮らしの不便さに耐えきれず、結局自宅に戻った人もいた。

いずれ帰ってくるのなら、少しの間避難したところで、何も変わらない。
子供達の同級生の中には、避難生活を経て、沖縄にそのまま永住してしまった人もいるけれど、私にはそこまでの覚悟がなかった。

まだ子供達も小学生だったので、確かに原発事故の影響は心配していた。それでも、やっぱり生まれ育った東京を捨てることができなかった、というのが正直な気持ちだ。

東京に残るか、東京を捨てて戻らないか、その二択しかないと思っていたのだ。

あの時、家族の4人で東京に残ってよかったと、今でも思っている。

ちなみに、自己所有の別荘に避難した富裕層のお友達たちは、経済的な問題もなく、不便さも感じない海外暮らしだったせいか、長いこと帰ってこなかった。
安全はお金で買えるものの一つなのだ。
残念ながら、私にはそんな別荘などなかった(笑)


そうして始まった東京おこもり生活は、毎日TVで、被害状況を確認するだけに終始していた。
放射能の影響も無視できないので、念のため窓もシャッターも閉め切り、なるべく外気を入れないように気をつけた。

それでもシャッターを締め切った部屋に一日中こもっているのは、逆に健康的ではない。
そんな時は夫が頼りだった。
夫は自分の人脈を駆使して、さまざまな関係各所から情報を入手し、「今日は風向きからして安全」「今日は強く影響がありそうだ」などと、その都度私に伝えてきた。

夫からもたらされる情報に従って、買い物がてら子供達を連れて近所のスーパーへいくこともあった。
しかし、外に出る時は、肌の露出を避け、マスクをしてというように、コロナ禍以上に気を遣ったものだ。

食べる物にしても、さまざまな憶測が語られ、「それは危険」「それは風評被害」など、なにを信じていいのかわからない状態だった。

結局、そこでも自分たちで情報を集めながら、都度判断するしかないと、ただただ流れてくる情報を鵜呑みにしないことに神経をつかっていた。

今振り返れば、子供達も小さかったせいもあり、コロナ禍以上にストレスフルだった気がする。。。

しかし、東日本大震災では、その後の災害に備えるための、多くの学びがあった。

震災はいつ起こるかわからない。一度大きな災害に見舞われたからといって、それで終わりというわけではないのだから。

できる限りの備えはしておくべきと、この10年は常に頭の隅に置いておく努力をしてきた。

・水や食料など、避難所へは行かない前提で、必要とも思われるものを備蓄した。
決して余分なスペースのある大きな住居ではないので、何ヶ月分もの備蓄とはいかないけれど、とりあえず2週間くらいなら家族4人、なんとかなる程度にはと思い、用意している。

・震災以前から背の高い家具は置かないようにしていたのだけれど、阪神淡路大震災を経験した友人に聞いたところ、TVやローチェストすら危ないと聞いたので、就寝中に物が飛んでこないように、家具の配置を変えたりした。

・他にも食器が割れるのを防ぐため、収納場所を重い食器は下、軽いものは上の収納へと、全て移し替えた。

東日本大震災では、職場にいた夫とまったく電話が繋がらなかった。
私はSNSなどもしていなかったので、連絡の手段は完全に断たれていたのだけれど、FacebookTwitterをしていた友人は、それが役に立ったと言っていた。

夫からも緊急事態の連絡手段の一つとして、何かしらSNSのアカウントを用意するようにと言われた。

・家族がその日、どこで誰と何をしているのか、家族で情報共有をしている。
万が一の時に、夫が救助に向かうからだそう。

・そして現金。今はキャッシュレスの時代だけれど、インフラが全てストップしてしまえば、クレジットカードもただのプラスティックの板と変わらない。
万が一、必要なものが出てきたとき、キャッシュを持っている方が強い。
大金はいらないけれど、安心できるくらいの用意は必要だと思っている。


あまり考え過ぎても、運に左右されるのが人生というもの。どんなに準備万端整えていても、ダメな時はダメなのだと思う。
それを承知で、できることはしておこうということだ。

思いつく限り、あの日のこと、そしてそれ以降どう過ごして来たかを書いてみたけれど、きっと忘れていることもあるだろうと思う。

10年一昔。短いようで長い10年の間に、記憶はどんどん薄れていくのは当然のことなのかもしれない。

それでも、ほんの少し心に留めておくことができれば、その後に起こることに対処することもできる。

昨年から広がりはじめた新型コロナという、新たな危機に際し、少なからず10年前の教訓は役立った。

昨年はマスクやトイレットペーパー、食料品を買い求める人で、スーパーやドラッグストアには長い行列がてきた。そんな時でも、十分な備蓄があったおかげで、感染リスクを負って行列に並ぶ必要がなかった。

マスクでさえ震災以降は常に100枚以上のストックがあった。

地震とコロナウィルスは全く別だけれど、生きる上での備えは同じだということもわかった。

「10年の節目」ということが言われるけれど、日本にいる限り大地震のリスクとは無縁ではいられない。まだまだ終わりではないのだ。

それを忘れないように、「喉元過ぎれば、熱さ忘れる」とならぬように、改めて万が一に備えていこうと思った一日だった。

かつての港区女子が選んだ人生。人は変わることで幸せになるのか、幸せになったから変わったのか。

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先日、近所で買い物をしているとき、すれ違った女性から突然呼び止められた。

私よりも10歳は若い女性だった。化粧っ気のないすっぴん、肩までの髪を無理やり後ろで縛ったような、無造作なヘアースタイル、薄手の赤いコートを羽織り、隣にはごくごく平凡な30代くらいの外国人男性が小さな子供の手を引いて立っていた。

誰だろうか?なんとなく見た覚えはあるし、私の名を呼んだのだから、知り合いには違いなかったのだけれど、まったく思い出すことができなかった。

外国人男性といるのなら、ひょっとして夫の知り合い?
それにしても思い出せないと、必死で記憶の中からそのファミリーを探そうとしていた。

そんな私を見て「◯◯です。ご無沙汰しています」と、その女性が名乗ったところで、ようやく思い出した。

昔々、六本木や麻布、青山界隈で夜にだけ会ったことのある女性だった。

かつての彼女は今とはまるで別人だった。
当時はハイエンドの高級ブランドに身を包み、完璧なメークをほどし、長いまつ毛をまるで蝶が飛び立つように瞬かせていた。
そして、決まって傍には見るからにお金持ちそうな男性を伴っていたものだ。

今で言うところの典型的な『港区女子』である。





今ではすっかり夜の外出をしなくなった私だけれど、15年くらい前までは、時折友人知人達と連れ立って夜の街へ繰り出すこともあった。

彼女とはその頃に出会ったのだった。
たまたま私の知り合いが、彼女の連れと友人関係にあり、遊び場が同じだったこともあって、一緒に食事をしたことが何度もあったのだ。

身なりは豪華なシャンデリアなようであったけれど、自分よりも歳上の私に対して、彼女はいつも礼儀正しく、気遣いを忘れなかった。

そのせいか、お金やステイタスによって付き合う男性を選んでいたような女性だったけれど、私は彼女に対しては好感しかなかった。

港区女子』を体現していたような彼女がまるで別人のようになってしまったのを見て、ちょっと感慨深い気持ちになった。

ああ、人は変わるのだなと。。。

今の彼女はどう見ても、「お母さん」だ。
かつていつも彼女の小さな足にフィットしていた10センチヒールはスニーカーにとって代わり、ついでと言ってはなんだけれど、傍にいるのは以前のようなお金持ちタイプの男性ではなかった。

「いつの間にママに?気づくわけないじゃないのよ」

変わってしまったと思ったことは口に出さず冗談めかして言った。

「私、変わったでしょ?仕事と子供を追いかけ回すのに忙しくて、自分のことは二の次」

彼女も笑っていた。





それから彼女は生活が大変なこと、子供の世話に疲れ切っていること、コロナによる収入減で食べていくのがやっとなこと、、、と、そんな近況報告をケラケラと笑いながらしてくれた。

そんな生活に満足できる女性だとは、失礼ながらあの頃は考えられなかった。

きっと、本命とされていた起業家の男性と適当なところで結婚し、裕福な奥様として貧しさとは無縁の人生を送るのだろうと疑いもしなかった。

人の心も人生もわからないものだ。。。

「あまりに意外なチョイスに正直驚いた」

経済力のない男性をパートナーに選んだことも、子供を産み育てていることも、煌びやかな世界を捨てたことも、全て私にとっては意外だったので、正直に口に出してみた。

「でしょう⁉︎ 自分でもビックリ!子供まで産んじゃうなんて!」

彼女はそう言って隣の旦那さんを笑いながら見上げた。

なにが彼女を変えたのかはわからないけれど、その「意外な選択」が意外にも幸せそうだったこと。

結婚なんてものは、何十年連れ添ってもダメになる時はダメになるし、自分も含めて未来永劫幸せなどとは言えない。

ただ、自分の選択を一度でも正しかった、幸せだと思えるのなら、それはその時の正解なのだと思う。

後悔なんて結果論でしかない。
どんな目が出るかわからないからこそ、人生は面白いと言えるのかもしれない。

しかし、ふと思った。

彼女が自ら変わったことで、今の幸せを手にしたのか?

幸せな暮らしが彼女を変えたのか?

そこまでは不躾に尋ねることもできないから、本当のところはわからないけれど、確かなのは「人は変わる」ということだ。