In other words

I really don't know life at all ...

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サブブログの更新が滞る問題。更新頻度や継続よりも、まず改善すべきこと。

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前回の投稿から、気づけば1ヶ月も経過していた。桜の花もすでに満開の時期を迎えている。

今年こそは少なくとも週一ペースで、何かしら更新できたらと思っていたのだけれど、その誓いもあっさりと忘れられ、せっせと他の2つのブログを書いていた。

なぜ更新できなかったのか?

書くことがなかった訳ではない。ボヤくことなら片手で足りないどころか、両手両足使っても足りないくらいで、書きたいと思っているネタには事欠かない。

書けなかった訳でもない。
「誰が読んでいるのか、どれだけの人が読んでいるのかわからない」そんなブログなら、小難しく考えて書くほどのものではなく、思うようにボヤけばいいだけだ。

忙しかったということもない。
仕事もしていない主婦という身の上ゆえ、どんなに忙しくても、ブログを書く時間なら作ることは出来る。

ブログを継続できないという、一般的な理由には当てはまらないということだ。





更新できなかった理由は一つ。単に「忘れていたから」。

このブログの存在がすっかり頭から抜け落ちていた。

3つもブログを持っていれば、どうしてもメインブログが最優先となる。
そしてもう一つは毎日更新の「日記ブログ」なので、必然的に毎日開き、日記をつけるように更新することになる。

つまりは、なにかしらの縛りがあることで、定期更新できているのだ。

メインは「長年続けてきた」ことと「メイン」であることの縛り。
日記ブログは「毎日書くのが日記」という縛り。
この「縛り」によって、継続してきたゆえ、それがいつの間にか習慣になった。

毎朝起きて顔を洗い、歯を磨き、着替えをして、食事を摂る。それをしないと気持ちが悪いとか、なんとなく怠惰な自分が許せないとか、そんな気持ちになる。
気持ちよく過ごすために、習慣とは守るべきものなのだ。

しかし、このブログに関しては、書きたい時に、書きたいことを書けばいい。そんなお気楽なもので、「縛り」というものが一切ない。
あまりストイックな決め事をしても、かえってそれがストレスになり、ブログの継続には逆効果という思いもあり、メインブログに関しても時折お休みすることもある。

このブログも然りで、気楽にやっていた方が続けられそうだと思っていた。
ところが、実際にやってみると、ある種の縛り、決め事は必要だったようだ。
少なくとも、私には。。。





暇な主婦だからといって、一日中ブログを書いていられる訳ではない。
家事もあれば、お友達とのお付き合いもある。家にいても、最近再開したパン作りや、多肉植物の育成に関するお勉強、amazon楽天を巡ってのネットショッピング、極め付けの韓流ドラマ鑑賞と、やりたいことは山ほどある。

「暇である」ことと「時間がある」ことは違う。
暇があるからこそ、忙しくなる。それが今の生活だ。

もしも私が働く主婦であったら、きっとブログなど始めていなかっただろう。

たまに朝から一日中外出することがある。そんな日は、帰宅後に家事諸々済ませた後にブログを書くのだけれど、それがものすごく面倒に感じることがある。
前述した「縛り」によって、なんとかブログを更新するものの、これが毎日であったらもうできる気がしない。
働いていたら、そんな状態が毎日続くのだ。。。

多くのブロガーの方々は、お仕事をしながら、とても立派なブログを更新し続けている。本当にすごいと心から思う。
私なら絶対に無理だ。

40代で大病を経験して以来、自分に対してとても甘くなった。ストレスと呼べるものは片っ端から排除していく生活を実践している。
もちろん心煩うようなことがまったくない訳ではない。人間生きていれば、思い通りにならないこともあれば、不快な思いをすることもある。多少のストレスは誰しもが持っているものとして、受け入れてはいる。

受け入れるけれども、それは最小限だ。見ないふりをして通り過ぎることのできる程度のストレスだけで、終始心を縛るようなストレスに関しては、どんなことをしてでも、排除する。

ブログがストレスなら、排除は簡単だ。ただdeleteボタンを押すだけなのだから。

幸いなことに、家事育児全般を引き受けることで、働かずに暮らすことができているので、ブログの方も継続できているといっていい。





それでも忘れてしまうサブブログの更新。
これを改善するには、やはりある程度の決め事や縛りを課すしかないのかもしれない。

「毎週何曜日に更新」といった具合にするのが一番簡単な気がする。

ただ、自信がない。。。

覚えている自信も、決め事を守る自信もない。

できそうにないことには手を出さない主義だ。
一度決めたこと、始めたことは、何がなんでもやり通したい。それが自分にとっての基本的な「縛り」だからだ。

この歳になるまで、これといった趣味がなかったのも、そんな縛りに起因している。
少しばかり面白そうだな、やってみたいなと思っても、「継続できるか?」と問い、自信がなければ手を出さなかった。

このサブブログも当然継続し続ける自信があったからこそ始めてみたのだけれど、継続はできていても、この更新頻度では「ブログやってます」というには、あまりにもお粗末だ。

さて、どうしたものか。。。

理想としては週に一度や二度は更新したい。しかしこれまでそれが実践できなかったのだ。その問題を解決するにはそこに縛りを作るか?
それもストレスになりそうだ。

「好きな時に好きなことを書く」というスタンスから外れたくはないとすると、今のように月一度の更新でよしとするか。。。

やりたいことと、できることは違う。
ブログに限らず、どんなことでも好きと適正は必ずしも同じではない。そこは無視できない点ではある。
これが仕事であったら、人様にご迷惑をおかけするようなことになるからだ。

ただ、個人ブログなら誰の迷惑にもならない。これほど多くの人が、ブログを楽しんでいるのも、そんな気楽さゆえなのかと思う。





ブログの更新頻度について、ネットなどでリサーチをしてみたところ、沢山の記事が出てきた。
検索上位に君臨するだけあり、かなり本気でブログに取り組んでいるのがわかる。
しかし、私の抱える更新が滞る問題とは、少し違った考察で、あまり参考にはならなかった。
なんと言っても、原因は「ブログの存在すら忘れる」という、どうしようもないものなのだから。

強いて言うのなら、結局はここでも例の決め事や縛りありき。
そもそも「更新頻度」を考えること自体が、決め事を作るということで、それはもはや真面目なブロガーにとってはお約束のようなものだ。

ブログの存在を忘れる問題に関して触れられている記事は見つからなかったのだけれど、ブログに本気で取り組む姿勢というものを見せて頂いた。
やはり皆さん、すごい。。。

そこで少し考えたのが、アナログ法式。
毎日スマホで『はてなブログ』を開いているにもかかわらず、その存在を忘れてしまうのなら、付箋に「サブブログを忘れるな」とでも書いて、キッチンのどこかに貼っておくのが効果的ではないだろうか。
昭和の人間にはうってつけに思える。

更新頻度や継続を気にするより、私の場合はまず忘れないことを目標にすること。
忘れなければ、ある程度の縛りを作り、このブログも育てて行けそうな気がするのだ。

無駄な早起きばかりしている人間には、今日のように、日曜の早朝は狙い目かもしない。
「やる」と断言はできないけれど、努力はしてみようと思う。

気持ちを整えるために始めた早起き生活が自己満足に変わった今、もう少し立派な理由が欲しくなった。

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早起き生活を始めてもう15年以上になる。
当時、まだ子供は幼く、自分だけのひとり時間を持つことが難しかった。そこで考えたのが、朝型生活だった。
朝4時に起き、家族が起きてくる7時までの間なら、静かに過ごせるかも知れないと思ったのだ。

その思惑は予想通りで、わずか3時間だったけれど、誰にも邪魔されることなく「わたし時間」を楽しむことができた。

早朝、まだ暗いうちに起きて、コポコポとコーヒーを淹れ、パソコンの前に座り、メールの返信をしたり、調べものをしたり、本を読んだり、、、とにかく私は自由だった。

「マミー!マミー!」と代わる代わるやってくる子供達も、いつも傍で喋りまくっている夫も、愚痴ばかりこぼす実母も、みんなぐっすり眠っていて、私の邪魔をする人は誰もいない。

常々言っていることだけれど、人間には誰しもパーソナルタイム、パーソナルスペースというものが必要だ。

自分だけの時間を持つことができないと、気持ちを整えることができない。

結婚願望のなかった私が結婚し、子供嫌いだった私が二人の子供の母となり、仕事を辞めるつもりもなかった私が専業主婦になった。

まるで想定していなかった人生だけれど、別に後悔はしていない。それはそれで別の経験を得て、楽しむこともできたから。

ただ、ひとりで生きていきたいと思っていたのは、極端な話し、誰の人生に対しても責任を負うことなく、自分勝手に暮らしたいという思いに他ならなかった。私はそんな人間だったのだ。

私の時間は私のもの。
私のお金も私のもの。
私の人生、全て私のもの。

そんな人生を想定していたのに、気づけば「私の」が「家族の」にすり替わった人生を歩いていた。





家族を持った者の責任として、夫のことも、子供のことも、できる限りのことはしようと思っていた。それは今も変わらない。

夫は当時、ろくに日本語も理解できない、全く稼ぎのない外国人だったので、日本人である私が世帯主であり、戸籍の筆頭主だった。

今では日本語も話せるようになり、家族4人不自由なく暮らせる程度の収入を得てと成長した夫だけれど、今でもやっぱりよその日本人の旦那様より大変なことも多い。
何十年日本で暮らしていようが、外国人は外国人なのだ。

そんな夫と幼かった子供達、同居していた実母に囲まれ、私は正直とても窮屈な思いをしていた。

ひとりでゆっくりできる時間は、ほとんどなかった。
夫がお休みの日に子供達の面倒を見てもらい、一人で美容院へ行ったり、お茶を飲みに行ったり、本屋さんをぶらぶらしたりはあったけれど、それ以外はいつも私の傍には誰かしらがいた。

そんな生活を何年も続けるうち、ちょっと危機感を覚えたのだ。
とにかく「私だけの時間」というものが必要だ。しかし、家族に対する責任も放棄できない。。。

そこで考えたのが、家族が寝ているうちに、自分の時間を作ることだった。

子供は夜8時には寝てしまう。しかし、夫は夜遅く帰宅することも多く、何時だろうが私が起きている限りは、話しをしたがった。

夜が無理なら、朝はどうか?

家族が起きてくるのは7時頃だから、狙うのはその前の時間しかない。

ひとり時間は長ければ長いほどいいと思ったのだけれど、あまり早すぎると夜だか朝だか区別がつかなくなりそうだったので、4時に起きることにした。
3時間もあれば、いろいろなことができる。

そうして始まった早起き生活だった。





最初は子供達と一緒に8時に寝るところから始めた。早く寝れば早く起きられる。

しかし、狂いに狂っていた夜型の体内時計を整えるのは、なかなか大変だった。
それまでは、朝4時近くに寝るような生活をしていたものだから、睡眠時間も不定、寝たり寝なかったり、まだ若かったおかげでナポレオン並みの睡眠時間でも問題なかった。
今あの頃と同じことをしたら、一日で倒れる。間違いない。

もう15年以上も前のことなので、正確には覚えていないのだけれど、しばらく続けているうちに、体内時計も早起きモードに置き換わり、朝4時に起きることが苦でなくなったどころか、スッキリと気持ちよく目覚めるようになっていた。

人はその気になれば、変われるものなのだ。

早起き生活の一番のメリットは、寝坊をする心配がなくなったことだ。
朝4時に起きるのが習慣になっていれば、たとえ寝過ごしたとしても、5時や6時には目覚める。
私のおかげで、夫や子供達も寝坊知らずだ。
少しでもいつもの時間に起きてこないと、何度でも大声で「起きろ!起きろ!」と騒ぐものだから寝坊のしようもない。

他にもメリットはたくさんある。
朝は夜よりもずっと頭が冴えている。私の場合はブログを集中して書くのは朝が多い。
一気に書き頑丈な屋台骨を作ったものを、あとから推敲する。

私はブログを書くときに音が聞こえると気が散るのだ。音楽を聴きながらだと捗るという話も聞くけれど、人の話し声も、家族が観ているテレビの音も、好きな音楽も、すべて邪魔になる。
そんな私にとって、静けさだけがある早朝は最適な時間なのだ。





私の知人に、夜中の3時に起きて勉強するという人がいた。やはり誰にも邪魔されず、静かで集中できるからという理由だそうだ。
会社へ行く前に朝から勉強しているとは、すごいものだと思う。それだけのことができる人だから、結果も当然それに見合っていて、私などが見上げても見えないくらいのところまで出世した。

私もまるで手紙のように長いメールの返信や、ネットでの美味しいもの探し、自分にはまったく役に立たない、ただ興味があるだけの本などを読んでいないで、勉強をしていたら、今頃違った人生だったかもしれない。

15年はあっという間だったけれど、決して短い時間ではない。何かをやり遂げるに十分な時間だったかもしれないのだ。
その膨大な時間を、ひょっとして私は無駄にしたのではないかと思わないでもない。
時間の無駄遣い。。。

ただ、私の目的は勉強をして出世することではなかった。
自分だけの時間を確保し、心を整えることが目的だったのだ。

そう考えれば、私は目的を達成したことになる。つまりは件の知人と同じように、結果を出したことになるのだ。
そう思うことにしよう(笑)

今でも早起き生活は続けている。意図したものではなく、習慣になっているため、アラームが鳴る前に自然と目覚めてしまうのだ。


更年期になると、周りの友人達からは睡眠についての悩みを多く聞くようになった。

夜中に何度も目覚める。
早く目覚めてしまう。
寝入りが悪い。

睡眠の質が悪いと体調にも影響が出て、更年期症状も相まって、かなり辛いという話だ。

早起き生活のせいかどうかはわからないけれど、私には睡眠に関する問題は今のところない。

布団に入った途端に寝息が聞こえてくると、家族が驚くほどの寝入りの速さ。
夜中に目覚めることもなく、朝までぐっすり眠り、いつもの時間に自然と目覚めるのだ。

昨年だったか、一度眠れないという時期があったけれど、それも数日で解決し、今はまた元に戻った。

早くに目覚めてしまうので、若干寝不足気味なのは否めないのだけれど、それは3食昼寝付きの専業主婦なので昼寝でまかなえる。

今はもう早起きをする必要はなくなった。わざわざひとりの時間を作ろうと思わなくても、ひとりでいる時間の方が多いくらいの生活になったから。





それでもやはり早起きはいいと思う。
同じことを午後にしても、効率がまったく違う。

なによりも気分がいい。
ただの自己満足だけれど、早く起きると、さも自分がしっかりと生活しているように思えるからだ。
若い頃なら昼頃まで寝ていたとしても、なんとも思わなかった。しかし、50も過ぎた大人になると、怠惰な生活に自己嫌悪を覚えるようになるのだ。
同じ人間なのに。。。

普段からまったく大したことをしていないので、これで自堕落な生活などしようものなら、自己肯定感のカケラも持てなくなるのは想像できる。

毎朝早く起きて、何かしらすることで、所謂充実感というものを味わっているのだと思う。

夫や子供達からは、一体いつ寝てる?もっと寝た方がいいと、毎日のように言われているけれど、私は「きちんとした生活をしています」という自己満足を手放したくはない。

雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも、寝不足にも、負けずに、私は早起きをする。

「自分ひとりで過ごす時間によって、心を整えること」そんな目的を持って始まった早起き生活。今は自分がきちんとした暮らしをしているという自己満足のためのものになっている。

歳をとると、早起きになるという話をよく聞くけれど、30代のうちから早起きしている私は、今後どれだけ早く起きるのだろうか。

その辺りの帳尻を合わせるためにも、少しずつ起床時間を遅らせてみてもいいかもしれない。

極端な夜型から朝方に変えられたのだから、きっと起きる時間を遅くすることもできるだろう。

ただ、もう人生の半分以上を生きてきた。それでもまだまだやりたいことはたくさんある。つまり、寝ている場合ではないのだ。

自己満足のためだけの早起きではなく、これからはもっと早起きにきちんとした理由をつけられるようになりたいと思う。

ベートーヴェンの『運命』で心が不安になった朝。音楽とは、これほどまでに人のメンタルを左右する効果があるのだ。

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音楽のもたらす効果というのは絶大だ。

少し前のこと。朝、駅を抜けるためだけに通過する商業施設の中で、突然ベートーヴェンの『運命』が耳に飛び込んできた。
それもかなりの大音響で響いたものだから、私の心にも「ジャシャジャジャーン!」と、何か起こるのではないかという不安が瞬時に広がった。

何故、朝っぱらから『運命』なのだろう。
その場所は、普段からBGMはある。ただ、聴き逃せる程度のもので、それは通りを走る車のクラクションと同じ程度、そこまで気に留めることはなかった。


『運命』は人を不安な気持ちにさせる。
一粒万倍日という縁起のいい朝に、悪天候をものともせず、意気揚々と歩いているときに、いきなり『運命』をぶつけられ、私のポジティブは空気の抜けた風船のように、萎んでしまった。

萎んだだけでなく、さらには頭上に暗い雲が垂れ込めてくるようなイメージさえ心に広がり、ちょっと驚いたと同時に、ものすごく不安な気持ちになった。
なにが不安なのかはわからないのだけれど、とにかくポジティブがネガティヴに変わってしまった。

さすが、歴史に名を残すだけの人物が作曲した名曲だ。
今なお、市井の人々の感情を揺さぶるとは、ベートーヴェンはやはり凄い人なのだ。





音楽の果たす役割は大きい。

映画やドラマ、CMなども、音楽がなければ、福神漬けのないカレーライスのような、味気なさを感じることだろう。

今や、ゲームやYouTubeなどの動画でさえ、そんな音楽は不可欠と言っていい。
音楽というよりも効果音といった方がいいのかもしれないけれど、大雑把に括れば音楽は音楽だ。

あの朝の『運命』は私を不安な気持ちにしたけれど、時に音楽で心癒されることもある。

昔々、海外で暮らしていた頃のこと。人生はあまり上手くいっていなかった。それでも、そこで勝つことにこだわって心身共にクタクタになっていた。

そんな時、唯一心を癒やしてくれたのが、イタリア映画音楽の巨匠である、エンニオ・モリコーネの楽曲を、世界的チェリストであるヨーヨー・マが弾いたCDだった。

真夜中に大音量で美しい音楽を流しながら車を走らせていると、何故かガチガチになった気持ちが少しずつほどけていくのを感じた。

ポリスにストップされることもあったけれど、そんな時もこの音楽が助けてくれた。
嫌なことがあって辛いから、癒されているとわかると、その曲の美しさはポリスの心も動かすほどだった。
とはいえ、違反はしていない。ただの挙動不審による職質。

あの頃、どれだけあの音楽に助けられただろうか。。。
今でも、そのCDは大切に持っている。

どんな音楽でもいいのだと思う。自分がその音楽によって癒されたり、心を強く持てたり、慰められたり。。。

もしかしたら、ベートーヴェンの『運命』だって、誰かにとっては、ポジティブに向かうための音楽かもしれない。

音楽とは、人によって作用が違うと言えるのだろう。





若い頃に比べると、音楽を楽しむ時間は激減した。子供達などは、どこへ行くにもイヤフォンをしていくけれど、私はそれが苦手だ。

家から一歩外に出たら、なるべく五感をフル稼働しておきたいので、時にイヤフォンから流れる音楽が邪魔になる。

最近は、ウォーキングの際、片耳だけイヤフォンで音楽を聴き、もう片方の耳に聴覚アンテナを立てるようにして歩いている。

好きな音楽を聴きながらのウォーキングは楽しい。今日はどんな音楽を聴きながら歩こうかと考えることも楽しい。

昭和の女なので、どうしても古い音楽に偏りがちになる。もう時が止まったかと思うほど、若い頃に聴いていた洋楽ばかりだったのだけれど、数年前から少しは新規開拓するようにもなった。

エミネムを聴きながら歩くのは好き。
ブルーノ・マーズも聴く。
これが私の「新しい」の精一杯。

そして、最近は日本の若いシンガーの歌も聴くようになった。

ウォーキングに最適なのはテンポのいいyoasobi 、あいみょんだって聴く。
King Gnuや髭弾も。

そこに共通するのは「希望」だ。

私は希望のある曲が好きだ。
たとえ辛い内容でも、そこに一筋の光を見出すことのできるメロディーや言葉があると、救われた気持ちになる。

音楽によるメンタルへの影響は、ポジティブな部分にだけしか作用しないと思っていたけれど、ベートーヴェンのおかげで、その逆もまたありと知った。

街で流れるBGMからは逃れられないけれど、せめて自分で選ぶ音楽はポジティブに作用するものにしたい。

ベートーヴェンのような重厚さはなくても、希望があればそれでいい。